鉄道アルバム

2009年3月15日 (日)

「富士」「はやぶさ」長い旅路を終えて

富士・はやぶさ1

3月14日のダイヤ改正で、東京駅をターミナルとする九州行きブルートレインは全て姿を消してしまいました。半世紀に渡って、九州各地と東京を結んできたブルートレイン。廃止が決まったのは、昨年12月のことでした。

「はやぶさ」は、「あさかぜ」「さくら」に続く第三の九州ブルートレインとして、昭和35年(1960)に登場しました。登場当時の「はやぶさ」は、電源車も含めて20系客車14両編成で東京駅と西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)を結びました。当時、「はやぶさ」は日本最長距離を走る列車であり、その走行距離は1493㎞にも及びました。

しかし、「はやぶさ」の全ての編成が西鹿児島まで行っていたかといえばそうではなく、昭和43年(1968)9月30日までは、編成の半分は博多止まりでしたし、昭和43年10月1日以降、50年(1975)3月9日までは、長崎行きの編成と併結運転をしていました。昭和50年3月10日からは、再び、行き先が西鹿児島になりましたが、編成の半分は熊本止まりというものでした。

さくら・はやぶさ

■ありし日の「さくら」「はやぶさ」(2005年2月23日撮影)

その後、利用客の減少に伴って運転区間が短縮され、平成9年(1997)11月29日からは全ての編成が熊本発着に変更されました。平成11年までは、単独の編成として運転されていた「はやぶさ」も利用者減に伴う運転系統整理により、12月4日より鳥栖駅まで「さくら」との併結運転されることになります。併結運転に伴い、それまで最低でも13両を連結していた「はやぶさ」は、24系客車9両の短編成になりました。

その後も、「はやぶさ」の流転は続きます。平成17年(2005)3月1日のダイヤ改正で、併結相手の「さくら」が廃止され、最後のランデブーの相手に「富士」が選ばれることになります。「富士」との併結運転に伴い、「はやぶさ」の編成は6両とさらに短くなり、使用車両も24系25形客車から、14系客車へと変更されました。

富士5

■深夜の岡山駅に到着した「富士」」(2004年8月16日撮影)

「富士」は、日本を象徴する伝統の列車愛称であるがゆえに、もっと早くネーミングされていても良さそうですが、いろいろな思惑から温存され、東京発九州行きブルートレインとしては、最後発の列車の愛称となりました。「富士」は、昭和38年(1963)に運転が開始された「みずほ」の大分行きの編成を引き継ぎ、昭和39年(1964)に日豊本線経由の寝台特急として登場します。発足当時の「富士」は、電源車も含めて20系客車14両編成で東京駅と大分駅を結びました。発足当時の「富士」の大分駅乗り入れ編成は従来の「みずほ」と同じく8両で、残りの6両は下関止まりでした。

その翌年の昭和40年(1965)10月1日のダイヤ改正で、「富士」の運行区間は、日豊本線経由で西鹿児島駅まで延長されます。これにより「富士」は「はやぶさ」を抜き、1574.2㎞を24時間以上かけて走る日本最長運転のブルートレインになりました。因みに、この記録は当時、同区間を運転されていた急行「高千穂」とならび、定期旅客列車の最長運転の日本記録になるそうで、昭和55年(1980)10月1日に「富士」が宮崎駅まで運転を短縮して以来も、破られていません。

先程、「富士」の運行区間は西鹿児島駅までといいましたが、全ての編成が西鹿児島駅まで行っていた訳ではありません。やはり、「はやぶさ」と同様に編成の半分は大分駅止まりとなっていました。平成2年(1990)3月に、ターミナル駅が宮崎駅から南宮崎駅へと一駅だけですが延長されます。しかし、運行区間の延長はそれが最後で、平成9年(1997)11月29日には、全ての編成が大分発着に短縮されました。

しかし、この年に「さくら」と併結運転となり、短編成化された「はやぶさ」とは異なり、「富士」はその後も電源車を加えて10両以上の堂々たる編成で運転が継続されました。「富士」は登場も最後でしたが、単独運行の九州ブルートレインとして、最後まで気を吐きつづけます。しかし、先程、「はやぶさ」のところでもふれたように、平成17年(2005)3月1日の「富士」「はやぶさ」の併結運転開始にともない、「富士」の編成も6両と短くされ、「はやぶさ」と同様に使用車両も24系25形客車から、14系客車へと変更されました。

富士・はやぶさ2

■長い編成を率いて東京駅に到着した「富士」「はやぶさ」

「富士」「はやぶさ」を牽いたのは、高速貨物機として製造されたEF66形で、東京~下関間の直流区間を担当しました。このEF66形がブルートレイン牽引機になったのは、昭和60(1985)年からで、どちらかと言えば、寝台特急の黄金期を過ぎた頃からでした。これに比して、ピーク時にその先頭に立っていたのは、EF65形500番台でした。

EF65形500番台は20系客車を牽引するために必要な装置・機器を搭載して、本来、貨物用として作られたEF65形を旅客用にしたものです。旅客用のEF65形は、初代のP形、重連総括制御用機器・装置を搭載したF形、F形を基本に貫通扉を付け耐雪耐寒装備を強化するなどの改良を加えた1000番台(PF形)が作られました。その他、直流区間以外では、関門トンネル専用機のEF81形が先頭に立ち、鹿児島本線や日豊本線ではED76形などの交流機が牽きました。

はやぶさ1

■熊本駅で発車を待つ「はやぶさ」(2008年2月22日撮影)

富士1

■東京駅で発車を待つ「富士」

ブルートレインの歴史は、昭和33年(1958)、東京と博多を結んだ「あさかぜ」に始まります。国鉄初の冷暖房完備の車両、豪華な食堂車が用意され「動くホテル」と呼ばれました。最盛期には、一晩に合わせて上下50本近い列車が、全国を行き交いました。集団就職にも使われ、日本の高度成長の一翼を担ってきたブルートレイン。進学、就職、結婚、ブルートレインは、人生の岐路に立った人たちを乗せて走り続けてきたのです。

しかし、時代の流れには抗うことは難しく、新幹線や飛行機、あるいは運賃の安い高速バスなどに押され、乗客の数は減り続けてきました。東京と九州各地を結んだブルートレインも、平成6年(1994)には、九州行きブルートレインの中でも名脇役的存在だった「みずほ」が廃止され、平成17年(2005)には、ブルートレインの代名詞ともいえる「あさかぜ」と「さくら」が廃止されました。こうして平成21年(2009)には「富士」「はやぶさ」も廃止され、東京駅を発着するブルートレインはついに姿を消してしまいました。

この3月のダイヤ改正後、全国に残る客車寝台特急は全部で6種類6編成になりました。それを列挙すると、日本海(大阪―青森)、トワイライトエキスプレス(大阪―札幌)、北陸(上野~金沢)、北斗星(上野―札幌)、あけぼの(上野―青森)、カシオペア(上野―札幌)ですが、残る列車たちの存在も磐石とは言えず、去就が注目されます。

(写真先頭は、長い旅路を終えて東京駅に着いた「ふじ」「はやぶさ」

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2009年3月11日 (水)

さらば九州ブルートレイン

富士・はやぶさ3

博多発7時56分発、「ひかり446号」に乗って小倉まで行き、そこから8時12分発の鹿児島本線準快速で門司に向かう。しかし、改めて思うに新幹線は速い。博多と小倉の間を僅か17分で結ぶのだから。同一区間の在来線を走る特急ソニックの最速列車で40分、ブルートレインに至っては、1時間以上もかかる。旅の意味にスピードを求めるなら、新幹線を選択するのは至極当然のこと。そんなことをつい思ってしまう。

今日は平日だからか、門司駅で「富士」「はやぶさ」を待つギャラリーはそれほど多くない。到着まで30分余りの門司駅4番線ホームには、約20名くらいの人たちが、思い々々のポジションに佇み、列車の到着を待っていた。人数もさほどでもなし。東京駅で待つファンの殺気に満ちたオーラに比べれば、至ってのん気なもの。最初はそんな具合だった。

しかし、列車到着の時間が迫ってくるにつれて、だんだんとギャラリーの数が増える、それに伴って、人々の動きも活発になる。少しでもいい撮影ポイントを求めるためだ。こうしている内に、8時46分が近づく。「間もなく列車が到着します。危ないですから、白線の内側まで下がってお待ちください」というアナウンスがホームに流れ出すと、それまでの空気とは一変し、それなりの緊張感に包まれた。

しばらくすると、関門トンネルの方角からローズピンクの機関車がまるでせり上がってくるように、近づくのが見えた。関門トンネル専用機のEF81だ。寝台特急であることを示すヘッドマークは掲げられていない。下関-門司の短区間においては、昭和59年2月から約2年間、やはり関門トンネルの特殊区間専用機であったEF30が、一時、ヘッドマークを掲げていたようだが、それ以来はないのである。

富士・はやぶさ4

■ホームの先端で行われる機関車の切離し作業を見ようと集まった人、人

4番線ホームの関門トンネル側で、EF81の到着を出迎えた後、小走りで前方に移動する。急いで前方に行くのは、ホームにいる人たちだけかと思ったら、全然違った。車両のドアが開くと、老若男女が入り乱れて、一斉に駆けてゆく。とにかく凄い人。それに迫力。こちらが、機関車のところに到着した頃には、もう人だかりで、機関車の切り離し作業など見られるような状況ではなかった。

そのうえ、機関車は、ホームの先端近くに設置されている金属製の柵の前方に停まるため、前面が見えないということが分かった。これでは、単独のヘッドマークが拝めないと考えて、向い側の5番線ホームから撮影をすることに決めた。向い側の5番線ホームは、4番線ホームから徐々に乖離してゆくようにカーブを描いているので、被写体は少しばかり小さくなるかも知れない。ただ、5番線ホームにはギャラリーが少なく、今、移動すればお好みのアングルで取れるかなと思った。

実際に、5番線に行ってみて、ギャラリーが少ない理由が分かった。信号機と大きな木が思いっきり邪魔をして、機関車の真ん中をぶった切ってくれたからである。「あちゃ~」とは思った。しかし、これから4番線ホームにリターンしても、良好なポジションを確保するなど、無理のまた無理。そんなことは、向い側のホームから見ていれば一目瞭然だった。

はやぶさ0

■熊本までの牽引機がしずしずと近づく

そうこうしている内に、前後両面にヘッドマークを掲げたED76が操車係に導かれて、しずしずと青い客車に接近し連結された。「これが、最後のはやぶさのショットかぁ・・・」。デジカメのディスプレイで確認した画像は、赤い電気機関車と青い客車が連結され、ヘッドマークは何とか見える。ただ、機関車の真ん中を信号機とでかい木で見事にちょん切られ、なんとも情けない出来栄えだった。しかし、どうしようもない時間は無情にも流れ、8時59分。寝台特急「はやぶさ」は熊本に向けてゆっくりと出て行った。

富士2

■「はやぶさ」を見送った後、発車を待つ6両編成の「富士」

「はやぶさ」が発車した後の、4番線ホームには6両の「富士」が取り残されていた。編成が半分になったので、撮影環境も多少改善するかと思ったが、相変わらず、結構な人数が待ち構えていたので、引き続き5番線ホームから「富士」を狙うことにした。

富士3

■大分までの牽引機が連結された「富士」。単独のヘッドマークが誇らしい

9時ちょっと過ぎに、ここから大分まで「富士」を牽くED76が、誘導されて14系15形の青い車体に近づく。「富士」の牽引機の連結は、4番線ホームのだいたい真ん中くらいで行われるので、撮影するポジションとしては、何の問題もなかった。ここで、数枚ほど「富士」をカメラに収めてから、ダメ元で4番線ホームに戻ってみた。「富士」については、機関車が連結されてから、発車まで少し余裕があることと、乗客として乗ってきたギャラリーを「はやぶさ」が半数くらい運んでくれたせいであろうか、発車間近の4番線ホームの込み具合は、全く機関車に近づけないというほどではなく、なんとかED76に近づいて、その姿をカメラに収めることが出来た。

9時10分、少し長めのホイッスルを鳴らし、大分に向けて「富士」は発車していった。こうして、自分にとって見納めになるであろう「富士」を見送った。しばらくすると、ブルートレインが発車するまでの喧騒はどこへやら、発車から5分も経つといつもの門司駅に戻っていた。

出張帰りを利用した「富士」「はやぶさ」見納めツアーは、そもそもこれで終るはずだった。というのも、博多~門司間の旅費は自腹につき、門司から博多までの帰路は普通列車を利用して、旅費の節約を図るつもりだった。だが、「はやぶさ」の撮影がうまくいかなかったこともあり、帰路に利用する予定だった9時17分発鳥栖行きの普通電車の中で「はやぶさ」の博多着の時間を探ってみた。「はやぶさ」の博多着は10時10分だった。

はやぶさ3

■博多駅2番線ホームに進入する「はやぶさ」

そこで、しばし考えた。新幹線を使えば、博多でひょっとして間に合うかも知れない・・・。再び路線探索サイトで検索したところ、小倉9時40分発の「こだま」で追いかけても、余裕で先回りできると分かった。であるなら、「まぁ、最後だから」と特急券代をケチるのはやめにして、「はやぶさ」を追っかけることにした。こうして、博多駅の2番線ホームに進入する「はやぶさ」をなんとか捉えることが出来た。そのうえ、博多駅の2番線ホームの前方にも回りこんで、ギャラリーでごった返す中、停車中の「はやぶさ」の面をなんとかカメラに収めることもできた。

さて、昨年の同じ時期、「なは」「あかつき」の見納めツアーを敢行した。そのときに比べて、時期が押詰っていたせいか、それとも、いよいよ九州でのブルートレインの見納めだからなのか、ギャラリーの数はその時の比ではなく、かなりのものだった。今後残るブルートレインは、北斗星(上野-札幌)をはじめ4編成のみ。ますます希少化するブルートレイン。そうすると、ギリギリになっての見納めツアーはこのあたりで終わラストせざるをえないかも・・・。

(写真先頭は、門司駅に侵入するEF81牽引の「富士」「はやぶさ」)

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2009年3月10日 (火)

さよなら『はやぶさ』

はやぶさ2

熊本駅

昨年の12月19日だったか?JRグループの3月ダイヤ改正に併せて、ブルートレイン「富士」「はやぶさ」が本当に廃止されるらしいというニュースを耳にしてガク然としたのは。時代の流れといえばそれまではあるが、昨年の「なは」「あかつき」に続き、こうも早く九州ブルートレインが姿を消してしまうのは寂しい限りだ。

これだけ旅に出ていれば、3月までには一度くらい九州に行く機会もあるだろうと思っていたら、あっと言う間に3月になった。廃止されるまでに、なんとか「富士」「はやぶさ」に乗り込むチャンスはないものかともがいてみたが、流石にそれは実現できなかった。

だったら、せめて最後の勇姿を見ておきたいと思い、3月10日の午後から急遽、熊本に飛ぶことにした。しかし、この週のスケジュールはタイトだった。9日の月曜日は丸1日錦糸町での仕事、12日の木曜日はオフィスで外せない会議。13日の金曜日は多分、横浜で丸1日拘束される・・・ハズ・・・だから、ここに日程をこじ入れるしか手がなかった。そんな窮屈な日程にも拘わらず熊本に来たのである。ちょっとばかり、先方に無理を聞いてもらうことにはなった・・・みたいだが。

午後8時半過ぎ、豊肥本線の2両編成の電車で熊本駅に着いた。新幹線工事の関係だろうか、改札などのレイアウトが以前より、ずいぶん変っているように感じられた。そして、コンコースに数多く吊るされた、さよなら『はやぶさ』のペナントがいやおうなしに目に入る。いよいよ九州最後の寝台特急にとっての、ラストウイークが来たことを告げるように。

寝台特急「富士」(大分―東京)とともに「はやぶさ」(熊本―東京)が、3月14日のダイヤ改正で半世紀近い歴史に幕を下ろす。今週は、九州ブルートレインの最後に寄せて、いくつか投稿しようと思う。

(写真上は、さよなら『はやぶさ』のペナント)

(写真下は、熊本駅コンコースに吊るされた数多くのペナント)

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2008年11月30日 (日)

さらば夢の超特急

こだま1

はじめて出会ったのは、小学生の時だった。今でこそ「丸い鼻をもつ愛嬌のある姿の・・・」と形容される0系新幹線だが、登場時にはブルーと白のスマートな色使いや、航空機を思わせる流線型のフォルムがとても印象的だった。

最も乗っていたのは、学生の時だったろうか。長い休みの前と後、故郷と東京を結んでくれたのは0系新幹線だった。汽車の旅にはなんとなく駅弁が似合うが、新幹線だからということにして、貧乏学生のくせによく食堂車を使った。その食堂車で、必ずといっていいほど注文したのがビーフカレー。レストラン仕立てのカレーの辛さと、これも欠かさずオーダーしたトマトジュースの何ともいえない酸っぱさが今でも忘れられない。

現在走っているどの新幹線車両に乗っても、膝が窮屈に感じることはないだろう。だが、いくら自分の足が短いとはいえ、その頃の0系新幹線の座席は、窮屈そのものだった。新幹線に乗り始めた頃は、過ぎてゆく景色も珍しく、眠ることなど余りなかったが、そのうち、転寝などをするにつけ、膝頭やら腰やらが痛くなって目覚めるということもしばしばだったように思う。

座席のせいという訳ではないが、大学生活も後半になると、特に冬休みの帰省には、よくグリーン車を利用させてもらった。先程、「貧乏学生のくせに」と言っていたではないかと叱られそうなので、少しばかり補足をしておくと、今でこそ飛行機やら車やらいろいろな交通手段が選べるが、当時、帰省のための交通機関と言えば、やはり鉄道が主流だった。特に、年末年始の時期の切符を予約するのはなかなか大変だった。

普通車の切符が取れないので、やむを得ずグリーン車ででも帰るかぁという感じだった。別にやけっぱちということではない。もちろん当時も、グリーン車など庶民感覚からすると贅沢この上ないものであったが、なにせ自分の父親が国鉄職員だったせいで、「割引証」なるものを使うと、一般料金の3割で切符を購入することができた。このおかげで、グリーン車を使ったとしても、一般の方が普通車の切符を購入するよりも安く済んだのである。こうして、学生時代の冬の帰省は、たとえ自由席に、席のない乗客が溢れていたとしても、そんなことなどお構いなしで悠々としていられた。振り返ってみれば、なんとも贅沢な帰省であったことかと懐かしくも、また、申し訳なくもある。

こだま2

■新倉敷駅にすべり込む0系「こだま」638号。開業当時のボディカラーが懐かしい

昭和39年(1964)10月、東海道新幹線に登場した0系「ひかり」は、途中停車駅を名古屋と京都のみとして、東京-新大阪間を3時間10分で結んだ。この0系「ひかり」が登場するまでは、当時最速といわれた日本初の電車特急151系「こだま」でも6時間50分を要していた。そう思えば、この0系新幹線が「夢の超特急」と呼ばれたのもうなずける。

今でこそ、700系新幹線が時速285㎞/hで走るとか、500系新幹線の最高速度が、300㎞/hなどと普通に言われているが、当時の鉄道技術からすると時速200㎞の壁を超えることは、まさに画期的だった。開業当初(1964年)の営業最高速度は200㎞/h、翌年の路盤の安定を待って210㎞/h運転を開始した0系新幹線は、フランスのTGVが260㎞/hで営業運転を開始する1981年まで、世界最高速を誇った。

0系新幹線が製造されたのは1964年。東海道新幹線開業時には、12両編成30本が用意された。それ以来23年に亘って改良に改良を加え、老朽化した0系を0系で置き換えるという方法を取りながらも、延べ3216両も製造され続けた。これだけ長きに亘って活躍できたのは、当時の技術の粋を集めた堅実な設計あってのものだが、それ以外のネガティブな理由もあるとはいえ、やはり0系新幹線への信頼性の高さを物語るものと言えよう。

こだま3

■山陽路を走る0系「こだま」639号(新倉敷-福山間)

しかし、永く君臨した0系新幹線にも世代交代の時が訪れる。車両の老朽化と換気設備など機能面における陳腐化、そして何よりもコスト面での弱点が露になったことから、新しい車両に転換されることになる。この新車両が、かつて「ニュー新幹線」と呼ばれ、新幹線では初めて2階建て車両を組み込んで運用された100系新幹線である。(1986年10月運用開始)

昭和62年(1987年)に国鉄が民営化され、JR東海に1339両、JR西日本に715両の0系新幹線が移管された。しかし、特に東海道新幹線では、1992年に登場する300系元祖のぞみ型新幹線や、1997年に登場の300㎞/hマシン・500系新幹線、そして、1999年に登場する現在のスタンダード700系新幹線に比べて、足の遅い0系新幹線は高速ダイヤ上のお荷物と化していった。こうした事情から0系新幹線の廃車に拍車がかかるようになり、1999年9月には故郷でもあり主戦場でもあった東海道路から姿を消すことになった。

その後、生き残った新幹線は、活躍の場を山陽路に移す。山陽新幹線の0系は、2×2シートに改造するなど、室内のリニューアルが行われたり、4両・6両などの短編成化が進められた。こうして、山陽新幹線では、1998年から2000年まで、ウエストひかりとして高速運用されていたが、それ以降は、こまめに全駅をつなぐ「こだま」として余生を過ごすことになった。

2008年11月30日は、初代0系新幹線の引退の日となった。電車であり、それも新幹線ではないか・・・と、ずっと思っていたのだが、引退という響きを耳にするとやはり寂しい。お疲れ様0系新幹線。ありがとう夢の超特急。同じ時代を生きた者として、僕たちはきっと忘れない。

(写真先頭は、岡山駅でカメラの放列をうける「こだま」638号)

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2008年3月15日 (土)

さらば関西ブルートレイン

なは・あかつき6

東京のメディアでは、この3月15日のダイヤ改正で半世紀余りの歴史を閉じた寝台急行「銀河」のほうが大きく報じられていましたが、時を同じくして姿を消した関西発、九州行きのブルートレインがあります。

そのひとつが、寝台特急「あかつき」です。最終世代の「あかつき」は、京都・長崎間を12時間余りで結んでいました。寝台特急としての「あかつき」は、昭和40(1965)年10月のダイヤ改正で、その前年に開業した東海道新幹線のターミナル駅である新大阪と九州の西鹿児島・長崎を結ぶ列車として登場しました。

当時の「あかつき」は、ブルートレイン史上で一世を風靡した20系客車を14両連ねて、それに電源車を1両加えた15両編成でした。このブルーに白いストライプの入った固定編成を、直流区間で牽いたのが、当時ブルートレイン専用機として新たに製造されたEF65形500番台でした。因みに、直流区間以外では、関門トンネルを専用機のEF30形が担当し、鹿児島本線はED73形の交流機が牽いていました。(非電化区間はディーゼル機のDD51が担当)

なは・あかつき1

■肥前鹿島駅に進入する寝台特急「あかつき」 2001年9月18日撮影

昭和40年に、新大阪と九州間を一往復体制でスタートした「あかつき」は、昭和43年10月には、西鹿児島(現在の鹿児島中央駅)・佐世保行きを新たに加えて、2往復体制に増強されました。その後、昭和47年3月には、3往復体制と、だんだん運転本数が増加しました。昭和49年の最盛期には7往復体制となり、鹿児島本線鳥栖駅での分割併合運転をする3往復の他に、西鹿児島行き2往復と長崎・佐世保・熊本行き各1往復が直通で運転されました。

こうして、昭和49年には、最盛期を迎えた関西夜行特急の時代も、昭和50年の山陽新幹線博多延伸により終焉を迎えることになります。「あかつき」も例外ではなく、昭和50年3月には3往復体制に減便され、始発駅も新大阪駅ばかりではなく、大阪駅が新たにターミナルに加えられました。この後、昭和53年10月には2往復体制となり、昭和61年11月にはついに1往復体制になりました。

平成12年3月には佐世保編成が廃止されて、すでに平成17年10月に廃止されている「彗星」と2愛称併結運転となりました。ちなみに、この「彗星」との併結運転は、この時が始めてではなく、昭和48年10月から昭和50年3月までの間、佐世保編成の「あかつき」とのランデブーがあるのです。(この時のヘッドマークは、主編成の「あかつき」のものを掲げていた)

なは

■鹿児島本線時代の出水駅で出発を待つ寝台特急「なは」 2003年11月11日撮影

もうひとつの寝台特急は「なは」です。「なは」は昭和43年10月のダイヤ改正時に生まれた昼行気動車特急で、新大阪駅と西鹿児島駅を結んでいました。運行開始時は、「なは」単独ではなく、日豊本線経由で宮崎まで運行されていた「日向」を小倉まで併結していました。

「なは」という名称の由来は、当時米軍統治下にあった沖縄の本土復帰を願う沖縄県民の声を受けて、地元の琉球新報が愛称を公募したということによりますが、その時に提出された5つの候補の中の一つで、その中から旧国鉄が選定したものです。

こうしてデビューした「なは」ですが、山陽新幹線の岡山開通後の昭和48年10月には、485系電車による単独運行に変更され、昭和50年の山陽新幹線博多開業時には、運転区間を新大阪―西鹿児島間に変更のうえ、581系電車による夜行特急になりました。

なは・あかつき2

■寝台特急「なは」の編成は、24系25形が充当されていた

昭和53年、運転区間を京都―西鹿児島間に変更し、その後、昭和55年には新大阪―西鹿児島間の運転となり、昭和59年から「ブルートレイン」になりました。九州新幹線が開通した平成16年には、平行在来線が肥薩おれんじ鉄道に移管されたため、運転区間が新大阪―熊本間に短縮され、平成17年には京都―熊本間となって今日を迎えました。

この「あかつき」「なは」の他にも、平成20年3月で大阪―青森を結ぶ「日本海」と札幌―上野を走る「北斗星」も1日2往復体制から1往復の運行に変更されました。さらに、平成21年春のダイヤ改正では、東京―大分を走る「富士」と東京―熊本を結ぶ「はやぶさ」も廃止の方向のようです。そうなると、ブルートレイン発祥の地である九州では、その姿を見られなくなってしまいます。

この3月のダイヤ改正後、全国に残るブルートレインは全部で8種類8編成になりました。それを列挙すると、はやぶさ(東京―熊本)、富士(東京―大分)、日本海(大阪―青森)、トワイライトエキスプレス(大阪―札幌)、北陸(上野~金沢)、北斗星(上野―札幌)、あけぼの(上野―青森)、カシオペア(上野―札幌)ですが、いよいよ減少の一途を辿っているということは、誰の目にも明らかです。

新幹線や飛行機、あるいは運賃の安い高速バスなどに押され、九州に乗り入れるブルートレインの乗車率は極めて落ち込んでおり、2007年の「なは」の1日の平均乗客は上りと下りで合わせて70人程度だったようです。こうした利用率の低さが廃止の最大要因ではありますが、その他にも車両の老朽化や夜間の乗務員の確保が難しいなどの事情も絡んでいるようです。

なは・あかつき8

■「あかつき」の編成は、14系14形・15形が充当されていた

なは・あかつき5

■「なは」の最後部 カニ24

なは・あかつき3

■「あかつき」に連結されていた、独立3列の指定席レガートシート

話は変わりますが、関西始発の下りブルートレインは深夜に、また、東京始発のそれは早朝に通過してしまう(上りはその逆)私の故郷倉敷においては、上り「あかつき」だけは、唯一、朝の通学時間帯に見ることのできたブルートレインなのです。そのような縁もあって、「あかつき」が姿を消してしまうというニュースは、何とも残念でなりませんでした。

私の方と言えば、2月の初旬までずっとオフィスワークに忙殺されていたものの、やっと、それにも目処がたったということもあり、休日を移動に使い乍らではありますが、2月中旬からは、やっと外に出かけられる状況になりました。このチャンスを利用して、最後の「あかつき」「なは」をできるだけ見ておきたいと思い立ち、2月11日(建国記念の日)からの舞鶴出張の前泊地を京都にするなどして行動を開始しました。

2月11日の夜、京都駅に行ってみましたが、この頃は、まだ鉄道ファンと思しき人もそれほど多くなかったようです。ただ、機関車が京都駅のホームからはみ出して止まるため、思ったようには、うまく写真が撮れなかった。そのあたりは、翌日(2月12日)の朝にでも、改めて京都駅に出向けばクリアできるだろうと思っていたのですが、なんと、12日の朝は、鹿児島本線内で人身事故が発生したということで、「なは」「あかつき」の到着が3時間半くらいも遅れるということから、残念ながら断念することにした。

なは・あかつき4

■姫路駅で発車を待つ「なは」「あかつき」の牽引機EF66

余り出張のない人なら、折角のチャンスが流れてしまって・・・ということになるのでしょうが、流石に(まぁ、自分で言うのもナニですが・・・)仕事場は日本全国と言っても過言ではない小生にとっては、次の機会を作るのは造作もないこと(まぁ、手をつける仕事の順番を少々組み替えたということです)ということもあり、2月21日の姫路出張と22日の熊本出張を組み合わせ、姫路では、22日の朝早起きして、上りの「なは」「あかつき」を狙い、その足で熊本に飛んで午後からの熊本での仕事をこなして、その夜は佐賀県の鳥栖まで戻って泊まることにしました。鳥栖を選んだのは、「なは」と「あかつき」の分割併合が見られるからということと、その作業が行われる関係で列車の停車時間が20~30分くらいとかなり長いからというのがその理由です。

なは・あかつき7

■鳥栖駅を出発する「なは」の短編成

22日の夜、鳥栖駅のホームに列車到着の15分くらい前に出向きました。夜の9時半ごろでもあり、一部の通勤客を除いては鉄道ファンらしい姿はそれほど見られなかったのですが、それからしばらくして、あっという間にカメラや三脚を持った一目でそれとわかるような人たちが集まってきて、大盛況になりました。特に「なは」と「あかつき」の連結の瞬間は、まるで記者会見場のようにカメラのフラッシュの光で溢れていました。列車の停車時間が長いということもあり、大勢のファンがいたものの、それぞれ譲り合いながら、大きな混乱はなかったようでした。しかし、いい写真を撮ろうとする余り、ホームにあった乗客の荷物をフレーム枠外に出そうと手を出したファンにその荷物の主が気色ばむといった光景がみられたり、いいアングルで撮りたいがために、ホームから線路内に降りて写真を撮ろうとしていた、一部のマナーの悪いファンもみられました。

なは・あかつき9

■鳥栖駅では多くのファンが名残を惜しんでいた

23日の朝も、6時過ぎから鳥栖駅に行きましたが、休日だったせいか22日の夜よりもさらにファンの数が多かったように思えました。この日は鳥栖駅で列車を待っていた人に加えて、列車に乗っていた人たちも起きてきて撮影に加わったことから、すごい人の数でした。ひたすら列車に向けてシャッターと切る人、列車を前に記念撮影をする乗客など、消えゆくブルートレインへの思いは皆さまざまのようでした。

消えゆくものを惜しんで一時的にブームになるのも、それはそれとして、これだけ人気があるのですから、ビジネスや日常生活向けとしてではなくても、観光資源のような活用方法、これには運行方法や設備、イベントなど、いろいろな付加価値を付けていく必要はあるにしても、日本国内からブルートレインが全廃されるという無残な結果を招かないように、JR各社さんも知恵を絞っていただきたいものです。

(写真先頭は、鳥栖駅を出る「なは」「あかつき」のテールライト)

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2007年8月29日 (水)

出張先の鉄道アルバム 1

はまかぜ1

■姫路駅で出発を待つ特急「はまかぜ4号」(2004年4月9日 姫路駅にて)

日本全国を旅していると、鉄道のお世話になることは多いものです。レールファンならずとも、自分を運んで来てくれた列車を「記念に1枚・・・」なんて人も多いのではないでしょうか。

こうして、旅先で「とりあえず・・・」という感じで撮り貯めた写真もかなり多くなりました。改めて、見直してみると、その中には今ではもう見られなくなった車両や、その土地に行かないとお目にかかれないような列車たちの姿もありましたが、撮っても撮りっぱなしで放ったらかしにしていました。

こうして撮り貯めた写真を使って、アルバムでも整理するような感じで、夏休み特集(?)というか、そんな意味合いでいくつか原稿を作ってみることにしました。しかし、大半が出張先で、列車待ちをしている時に偶然見かけたものをホームで1枚だとか、そんな写真ばかりで、鉄道写真としてはそれほど価値があるとも思えないし、私としても、鉄道にそれほど詳しい訳でもなく、たいしたものが書けるとも思えませんが・・・。まぁ、そのあたりは大目に見ていただいて、ご覧いただければと思います。

題して「出張先の鉄道アルバム」

第1回目は、今では見られなくなった旧国鉄色のキハ181系特急を取り上げてみました。

はまかぜ2

■旧国鉄色の特急「はまかぜ」(2004年4月9日 姫路駅にて)

非電化区間の特急として、全国に配置されていたキハ80系のパワーアップと急勾配区間のスピードアップを目的として開発されたキハ181系気動車。1968年に登場した特急用気動車も経年し陳腐化したために、定期運用されているのは、播但線を経由して大阪と山陰線の鳥取を結ぶ「はまかぜ」だけになった。

現在、旧国鉄色で塗装されているキハ181系車両はなく、先頭の写真のように、全車両がJR西日本色に塗装されている。写真は、2004年に姫路駅で撮影したものだが、当時は、6両編成のうち大阪寄りの3両が旧国鉄色、鳥取寄りの3両がJR西日本色の混成となっていた。

いなば

■智頭急行線経由で鳥取まで走っていた特急「いなば」(2002年8月12日 岡山駅にて)

1994年12月に開業した第三セクター鉄道の智頭急行は、山陽本線の上郡駅と因美線の智頭駅でJR線と接続する陰陽連絡のバイパス線である。この第三セクター線に乗り入れて、岡山と鳥取を結んでいた特急「いなば」にも3両編成の181系が投入されていた。

特急「いなば」の181系による運用は2003年9月30日で終了し、10月1日からは、車種を187系気動車に置き換え、名称は「スーパーいなば」に変更されている。

2005年3月1日、山陰本線の下関と益田間で運用されていた「いそかぜ」が廃止されたことによって、現役で活躍する181系気動車は、JR西日本の京都総合運転所に所属する26両のみとなっている。気動車特急として全国で活躍したキハ181系の姿が見えなくなる日も、そう遠いことではないのだろう。

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