2009年9月25日 (金)

Bizan ザ 眉山

万葉の歌人にも、眉のように見える阿波の山と詠われ、尾根の形が眉のように見えることから、その名がついたという眉山。稜線はなだらかで、夕景の中に浮かぶこの山の姿は、確かにその名に相応しい。

眉山。これを全国区にしてくれたのは、やはり「眉山」という映画ではなかったでしょうか。「眉山」はさだまさし原作の小説で、2007年に松嶋菜々子・宮本信子の主演で映画化されました。勿論、舞台は徳島。末期ガンの母親を看病するために帰郷した娘が、母親に残された時間を一緒に過ごすうちに、いろいろなことに気づいていく。自分の知らない内に母親が献体を申し込んでいたこと。母親の秘められた恋。死んだと教えられた父のこと。そして、自分にとっての母が、母にとって自分がかけがえのない存在であったこと。いろいろなものが織り交ざりながら、物語は佳境へと進んでいきます。

圧巻は阿波踊りのシーン。最後に一目でも・・・と願うようになった娘は、熱狂の阿波踊りの渦のなかに母を連れ出し、東京から呼び寄せた父との再会を果たしてもらおうとする。その舞台となったのが、演舞場での総踊り。その迫力、熱気はお見事というしかありません。このクライマックスシーンは、実際の阿波踊りを撮ったのではなく、この映画のために行われたロケ。14200人もの市民がエキストラとなって協力したそうです。徳島市も、阿波踊りが終っても演舞場を解体せずに残すなど、全面的にバックップしています。こうして徳島の街全体が応援団となって、映画「眉山」を盛り上げたといいます。

■徳島空港に到着

9月16日~17日と24日~25日の2回にわたり、徳島に行ってきました。2005年の11月に47都道府県中45番目の訪問先として「福井県」を訪れて以来、約4年ぶりに、やっとというかついにというか、46番目の訪問先として徳島の地を踏みました。私にとっては、生涯を通じて初徳島ということになります。これによって、全国踏破の野望(?)にも、リーチがかかかったというわけです。

徳島は徳島でも、メインの訪問先はもう少し南の阿南市というところでした。ただ、諸般の事情もあり、いずれの日程においても、泊まりは徳島市内にてチョイスしました。今回の仕事もどちらかと言えば、ハードな部類に入るものなので、仕事以外の時間は殆ど取れそうにありませんでした。何せ、初徳島ですからいろいろと訪ねてみたいという気持ちは勿論ありましたが、それはちょっと難しそうで、「まぁ、行けても眉山くらいかなぁ」というのがせいぜいのところでした。

行けても眉山くらい・・・と思っていたところ、なんとその眉山で泊まることが出来たのです。事の成り行きはこうです。前半の日程の帰路に、せめてロープウェイで眉山くらいには登りたいと思ってはいたものの、予定の時間をかなり押してしまい、眉山もキャンセルかという事態になってしまいました。ただ、仕事だけで帰るのも癪だし、何か方法はないものかと知恵を絞ったところ、車で駆け上がればなんとか予定の時間までに空港へ戻れそうだという結論に達し、大急ぎで眉山に向かったのです。

■眉山からは徳島の市街が一望できる

その眉山の山道を登坂中、優美な曲線に覆われた建物に遭遇しました。何の建物かと思いきや、そこに行ってみたら、かんぽの宿(徳島)でした。前日に行った徳島駅近くの居酒屋に少しゲンナリしていたこともあり、とにかく周りには何もないが、「たまには、こういうところもいいじゃん」とジョイントした同僚ともすぐに話がまとまりました。直接、フロントに行って問い合わせてみたところ、予算内で十分賄えることが判明。勿論、一人一部屋で夕食もある。この好条件を逃す手もなかろうということになったのです。

その後、山頂近くの眉山公園に車を止めて、展望所に上ってみました。眉山の山頂からは徳島市街がほぼ一望できる。徳島市は吉野川とその支流が作った三角州に発達した街で、街中を縦横に河川が走っているのがよく見えます。街並みの向こうには、紀伊水道の青い海が広がり、天気さえよければその向こうに淡路島や紀伊山地も望むことができるようです。

■眉山から見る徳島の夜景

日が高い内の眺望もなかなかのものですが、ここ眉山は夜景の名所でもあります。無論、函館の夜景や六甲山から見下ろす神戸の夜景のように「いや~、これは!」と絶句する程ではありませんが、眉山から見る徳島の夜景もそれなりになかなかです。余り、有名ではないためか、夜景を見に来る人も少ないため(たぶん)、ゆっくりと、じっくりと夜景を楽しむことができます。

かんぽの宿(徳島)は、眉山の山頂近くにあって、周りに遮るものは何もないので、部屋から夜景がとても綺麗に見えます。部屋からベランダに椅子とテーブルを持ち出して、たまには夜景の海の中に浸ってみるのも一興でしょう。夜風にあたりながら、ディジェスティフのグラスを傾ける。見上げれば満天の星。そして、眼下に広がるさながら悠久の銀河を独り占め・・・。この宿は、少しだけそんな気分にしてくれます。ただし、天気のいい時に限りますがね。

(写真先頭は、吉野川大橋から望む眉山の夕景)

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2009年8月22日 (土)

風のガーデン

「山裾でよく風が吹くので秋口になると草の穂がなびいて風の通り道がよく見えるんです。もともとは、おじいちゃんとおばあちゃんが始めたものを母が引き継いだ・・・」ドラマ「風のガーデン」の中で、主人公白鳥貞美の娘ルイがこう語る風のガーデン。フジテレビの2008年10月クールで放送されたドラマ「風のガーデン」のロケが行われたこのブリティッシュガーデンは、富良野市の北の峰にあります。

風のガーデンがどこにあって、公開されているかどうかなどということを知ったのは、今年の5月のこと。仕事で富良野を訪れることなど滅多にないのですが、たまたま富良野にお住まいの方のところを訪れる機会があって、その後、次の行き先に向かう途中、レンタカー店でもらったドライブマップを見ていた同僚が、「風のガーデンは、ここにあるんですね」と教えてくれた。

同僚は、ドラマ「風のガーデン」を見て、いたく感動したらしいのですが、何分、こちらはドラマを見ていないので、「どうしても・・・」という気持ちはありませんでした。ただ、なんとなく惹かれるものを感じ、行ってみようかということになったのです。しかし、ガイドマップを見ると、ガーデンのオープンは5月30日からということで、まだ10日ばかり早かった。このため、この時は、残念ながら(勿論、同僚にとってですが)、風のガーデン行きは諦めました。

時は3ヶ月ほど流れ、再び富良野を訪れました。そもそもは、帯広での仕事をこなして東京に戻るというだけのスケジュールでしたが、仕事を終えた後に、いつもの如く札幌に出向いて旧友と一献酌み交わすか・・・ということを企んでいた時に、「折角だから、数日は北海道で過ごそうか・・・という衝動(?)に駆られた」というのがその理由です。ずっと札幌にいても芸がないので、それならば、富良野にでも行ってみようかと思ったわけです。

このブログを始めた頃にも、そのようなことを一度やったことがあるのですが、そのときは、朝札幌を出て、富良野・美瑛を車で往復しただけ、と言ってもいいくらいのゆとりのないツアーでしたから、今度は、あくせくするのは止して、富良野に一泊してゆっくりしようと思っていました。ただ、泊まるところを確保するのは、ちょっと大変でした。シーズンを少し過ぎようとしていた頃ではありましたが・・・。

富良野での2日目、風のガーデンに行ってみることにしました。この段階でも、まだドラマのことは知らず、どうしても行きたいという気持ちがあったわけではなく、観光スポットの一つに行くというくらいの感じで出かけました。

風のガーデンは、新富良野プリンスホテルの前にあります。前とはいえ、ホテルから風のガーデンまではかなりの距離があります。 ホテル前の駐車場から坂道を少し歩いて下ると、受付をする小屋があります。ここで、入園料(500円)を支払うと、送迎車でガーデンの入口まで運んでくれます。

受付小屋からガーデンまで、送迎車はゴルフ場のカート道のような細い道を辿って行きます。窓から見える風景も、「まるでゴルフ場だな。これは」と思っていたら、まさにその通り。風のガーデンは、平成18年(2006)にクローズしたゴルフ場に造られたそうで、人間の手が加えられて造られたものを自然に還す活動の一環なんだと、送迎車の運転手氏が説明してくれました。

風のガーデンに着き、早速中に入ってみました。最初に見たままの印象は、「なんか、手入れの悪い庭みたいだな・・・」と、申し訳ないですがそんなものでした。私の思い画くガーデン像というのは、バラをはじめ、色とりどりの花々が競うように咲き乱れ、雑草のようなものなどありえず・・・といったものだったからです。

しかし、周りにいた人たちは、いたく感激しているようで、やれガブリエルがどうだとか、岳っくんがどうしていたところだとか、どうのこうのという話題で盛り上がっていました。しかし、ドラマを知らないこちらには、意味がさっぱり分からず、ついて行けません。この時が最初でした。このガーデンがドラマでどんな意味を持っているのだろうとか、ふつふつとそんな気持ちが湧いてきたのは。(この原稿をアップする時点では、ドラマの内容もバッチリです)

ドラマ「風のガーデン」の撮影のために造られたこのブリティッシュガーデンは、もともとのゴルフ場の敷地から2000m2の芝を剥ぎ、600トンの土を入れ替えたうえで、2006年6月頃から造成が始められました。同年の7月には花植えの区画を整えて、8月上旬頃から花を区画毎に植えていったといいます。365種の花が季節ごとに咲き、見る人に癒しの風景を与えています。ドラマでは、主人公の父・白鳥貞三が孫のルイ、岳とともに妻が残したこのブリティッシュガーデンを育てているという設定になっています。

ガーデンの突き当たりに、平屋の家があります。その家は、グリーンハウスと呼ばれ、ドラマの中でも重要な役割をもっています。中には、アンティークな調度品が集められ、壁には貞三の妻が残した水彩画が飾られています。ドラマの中では、主人公の白鳥貞美の回想の舞台となったり、息子の岳との触れ合いの場となったり、ガーデンの中でもシンボル的な位置を占めています。

風のガーデンに行った後、携帯で写メールを送りました。相手は、この5月に一緒に富良野に行った同僚です。「今、ここにいるんだけど、どこか分かるかな?」と。しばらくして、同僚から返事が来ました。「風のガーデンですか?再放送も見たので、行きたかった」ととても残念そうでした。うむ、やっぱりドラマを見るしかないか・・・、となったわけで、「よし、旅から戻ったら速攻でレンタルショップに行くぞ」と、あぁ、すっかり大天使ガブリエルの罠に嵌まったようです。

(写真は全て、風のガーデン)

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2009年5月12日 (火)

山よし、川よし、人も吉

人吉3

日中は30度近くにもなったというのに、朝は少し肌寒い。涼やかな空気とサラサラと流れる水の音で目覚めた。時間は朝の5時半。移動疲れと晩酌の球磨焼酎が効いて、昨晩は9時過ぎには前後不覚に陥ったようだ。電気もテレビも全部つけっ放し。おまけに酔っ払って暑かったせいか、ご丁寧に浴衣も脱ぎ捨てていた。勿論、くしゃくしゃ。そうしてみると、記憶を無くすくらい呑んでも、脱いだ衣類はキチンと畳んでいたという草なぎ剛はエライ。

清流の音に誘われて、つかの間の散策に・・・というのなら、少しは「大人だねぇ」と褒めてもらえそうだが、昨日の食べ過ぎを少しでも何とかしておこうというのが実のところ。しかし、旅館の夕食というのは、どうしてあんなにボリュームがあるのかな?今回お世話になった「人吉旅館」さんも例外ではなかった。だったら、そんなに食べなければ?と言われそうだが、普段、食べつけないものを眼前に並べられると、やっぱりねぇ・・・。そんな後だから、一夜明けての腹ごなしなんて無意味だろうとは思いながら、運動も兼ねて散歩に出ることにした。

人吉旅館から歩いて1~2分のところに、青井阿蘇神社という神社があった。やたらと「国宝」云々という幟が立っている。国宝だとすると有料かな?と思って近づいてみたが、チケット売り場らしきものは見当たらなかった。国宝がどうのこうのというのは、一体なんだと思い、境内で掃除をしていた人に尋ねてみたら、この青井阿蘇神社が昨年(平成20年)に国宝に指定されたそうで、それも熊本県では初めてのことだそうだ。

人吉市で配られているパンフレットによると、青井阿蘇神社は、大同元年(806)阿蘇三神を祭神に創建された。現存する建物は、江戸時代に再建されたものだという。中世人吉球磨地方の独自性の強い建築様式の中に、彫刻や彩色などにおいては華麗な桃山期の装飾性を入れているが特徴だそうだ。今回、国宝指定を受けたのは、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物五棟などである。

特に「桃山ぶりのエッセンス」が凝縮されたと言われる楼門はなかなか趣がある。急勾配の茅葺屋根に華麗な装飾。このように洗練された建物が、都から遠く離れた山深い里に残っていること自体興味深いものがある。また、境内には樹齢数百年にもなると言われる楠の大木が並び立ち、1円玉にデザインされている「招霊木(おがたまのき)」などがある。

人吉5

■駅前にある人吉城をイメージした「からくり時計」

それから、人吉駅の方に向かってみる。昨日、人吉駅に降り立って、最初に何だろうと思ったもののところに行ってみた。それは、駅前に立つ「お城のモニュメント」か何かと思いきや、からくり時計だった。写真にも小さく写っているが、からくり時計の脇に案内板があったので、それを紹介しておく。

人吉城をイメージした「からくり時計」。殿様、庄屋どん、相良乙女、臼太鼓踊りの一団など、計十七体の人形達が民謡「球磨の六調子」をアレンジしたメロディにのって登場します。作動時間3分10秒。

因みに、このからくり時計は、午前9時から18時まで正時毎にメロディーに載せて時を報せてくれるそうだ。

人吉9

■人吉駅構内にある「人吉駅石造車庫」

人吉駅の近くには、登録文化財・近代化産業遺産・九州遺産、近現代遺産編101・Bランク近代土木遺産など数々に指定された鉄道遺産がある。人吉駅石造車庫がそれである。歴史のテイストを醸し出すというか、なんとも懐かしい雰囲気のあるこの建造物について、傍らに立てられていた案内板から拝借して、少し紹介しておきたい。

肥薩線を行き交う列車たちを整備するための車庫。国内唯一の石造鉄道車庫とされ、現役である。球磨地方には地元産の石材を活かし、肥後の石工技術を駆使した石造建造物や石蔵がたくさん残されている。石造車庫はそれらの中で最も大きく、最も古い建物とされている。

建物の特徴としては、

・妻壁に開けられた3つのアーチが建物のシンボル
・柱形(はしらがた)と連続する窓が建物に威厳を与えている。
・火山性の石(凝灰岩)が建物を頑丈にし、重厚感を与えている。
・頑強な石造りの壁に軽い屋根をのせた西洋建築の手法である。
・SLの時代を思わせる煙抜きの「こし屋根」が頂部に見える。
・建物の輪郭や窓の上下に「蛇腹」と呼ばれる段飾りがある。

人吉6

■復元された隅櫓や多聞櫓など

人吉駅から市街を抜け、球磨川に架かる「人吉橋」に。橋上で暫し佇んでみた。川面を渡る風が心地よい。遠くにかすむ山並み。ただ、眺めているだけで癒されるという感じだ。ただ、人吉橋は歩道の幅が細すぎるせいか、人が佇むと邪魔なのである。こちらが通行妨害をしているのに、自転車で通りかかる人たちはみんな「ごめんなさ~い」と声をかけてくれる。人吉の人はなんていい人達なんだろうとそんなことでさえ感心してしまう。余り、お邪魔となっても申し訳ないので、さっさと渡り終えて、そこから左に折れて川沿いを進むことにした。少しばかり行くと、何やらお城のようなものが見えてきた。

現在は、人吉市役所となっているあたりが、人吉城の大手門があったあたり。その大手門脇から多聞櫓とそれに続く長塀と隅櫓が復元されている。隅櫓は胸川が球磨川と合流する人吉城北西隅の要所に立てられた一層の櫓で、江戸時代後期には漆の貯蔵庫として使われていたそうだ。

胸川が球磨川と合流するポイントから仰ぎ見る人吉城は、復元とはいえ長塀の白い壁と石垣や櫓の黒い壁のコントラストが鮮やかだ。少し急な階段を上り下りしなければならないが、河原まで下りて眺められることをお勧めしたい。

人吉7

■人吉城跡「水の手門」付近の石垣

そこから、人吉市役所、人吉城歴史館の脇を抜けて5分ほど歩くと、人吉城跡に着く。そもそも、人吉に来るまで、「人吉にお城なんてあったんだ・・・」というくらいで、知っていることなど皆無。だから、学習かたがた人吉城のプロフィールを人吉城跡に設置されていた案内版から抜粋して、ここで紹介しておくことにする。

人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江(とうとうみ)国相良(さがら)の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城(せんげつじょう)と言います。

室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて葦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡地方のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。

球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸と天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。

城内の建造物は、廃藩置県の後に取り壊されて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。

前回と今回で終了~と思っていたのに、もう十二分に原稿が長くなってしまったようだ。よって、人吉シリーズはもう1回延長としたい。では、次回。

(写真先頭は、青井阿蘇神社の楼門)

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2009年5月11日 (月)

球磨川沿いを旅する

人吉1

久しぶりに列車で旅をした。行き先は人吉。九州山地に囲まれた清流と温泉の町である。人吉までどうやって行こうか、と考えてみた。熊本県だろう。だから、熊本空港で降りて、そこからバスで熊本に出て、JRに乗って・・・というのが普通のルートかなと思った。

鹿児島空港から高速バスでというルートもあるなと思った。地図でみる限りでは、熊本空港より鹿児島空港の方が人吉に近いのではないかと思う。だが、紙のうえと現実は違うようである。鹿児島方面からの鉄道ルートはビジネスユースには全く適さない。必然的に肥薩線と平行するように山間を縫う、九州道の方に目がいく。これを使えば楽勝かと思った。がしかし、高速バスの停留所である人吉ICから人吉市内までのアクセスが余りにも悪く、これも「使えねぇ」ときた。

人吉インターから人吉駅までは、歩けないような距離でもなさそうだったが(勿論、そんなつもりは毛頭なかったが)やはり、列車で行くことにした。久しぶりに車窓でも眺めながら、ゆっくり旅しようかなという気分になった。だから、ということではないが、起点を熊本にせず、福岡空港経由で博多から出発することにした。

博多発13時30分のリレーつばめ47号は、熊本駅に14時51分の到着。つばめとの接続を僅か4分でとって、真っ赤なボディの九州横断特急3号が人吉に向けて出発する。4分間のインターバルで済むのは、つばめの着く1番線ホームの八代寄りに切り込み式ホーム0番線(A・B)があり、九州横断特急は、ここで待機しているからだ。博多でチケットを買った時、「つばめを降りて4分で大丈夫かな」とちょっと気をもんだのだが、それは杞憂に終った。

真っ赤な2両編成の特急が熊本平野を疾走する。鹿児島本線は八代まで複線になっており、列車交換でスピードダウンを強いられる単線とは違って、ディーゼル特急の走りは快調だ。ギアチェンジによって、スピードアップ時には「グン」という衝撃をたまに受けるが、乗り心地もさほど悪くない。

人吉2

それにしても、九州の日差しは強い。いつ来てもそう思う。5月は1年の内でも最も紫外線の強い季節らしいが、そのせいだけではなさそうだ。鮮やかな新緑が目に眩い。改めて、列車の旅はいいなと思う。街や川、田園地帯の中をスピードを上げて突っ走る。後ろに飛び退いてゆく家並み、遠くにかすむ山々が旅の実感を豊かにしてくれる。

八代を出るとそれまでの風景は一変する。旧鹿児島本線の肥薩おれんじ鉄道を右手に見ながら、赤い特急は山間に向けて大きくカーブを切ってゆく。しばらくすると、翡翠色の水面が右手に現れた。日本三大急流の一つ球磨川だ。これから暫くは、球磨川沿いの渓谷の風情を愉しもうかと、景観の良い方の車窓を求めて、空いた車内を右往左往(?)してみる。

途中の鎌瀬駅を過ぎると、鉄道好きには有名な球磨川第一橋梁を渡る。この橋は、明治時代にアメリカで作られたという。こんな骨董品のような橋がまだまだ現役で頑張っている。この他にも、肥薩線には開業当時そのままの風情を残す駅舎や、大正時代に作られたというレンガ造りの発電所などが残り、まるでアンティークの宝庫のようだ。

球磨川第一橋梁を渡ると、線路は球磨川の左岸に移る。必然的に車窓から見える球磨川は左手に移り、自分も進行方向に向かって左側の座席に移動した。穏やかに流れていた球磨川も、白石あたりからは早瀬が多くなり、球泉洞、一勝地付近ではこれぞ急流という顔を見せてくれる。ただ、ちょっと残念だったのは、線路に沿って張られた電線が、折角の風景を邪魔するのである。列車の車窓からは殆どが電線のある風景となるので、そういうことが気になる方にとっては、少し興ざめと映るかもしれない。

列車が終点のひとつ手前の駅、西人吉に近づくと、球磨川は線路から離れてゆく。それまでの山間の村という風景から、なんとなく町らしくなるというか、家並みという表現が許される車窓になる。人吉盆地に入ったようだ。車内に到着を告げるアナウンスが流れ出すと、人吉まであと僅かである。

(写真先頭・中間とも肥薩線の車窓から見える球磨川の風景)

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2009年1月14日 (水)

白い一日

鳥海山に向けて

んよりと曇った空に小雪が舞う。とっぷりと日の暮れた秋田空港は一面の銀世界だった。「まるで、スキー場にでも来たみたいだな」。秋田市内に向かうリムジンバスを待ちながら、誰かがそう呟いていたっけ。「今年は雪が多そうだ。明日が思いやられるな」時折、足下に訪れるスリルを味わいながら、一夜のねぐらに急ぐ。やっぱり普通の革靴はいかん。そんなことは、とっくに分かりきっているのだが・・・。

一夜明けて、朝を迎えてみれば、昨日とはうって変ってのピーカンデイ。予想は小幅ながら裏切られた。羽越本線の各駅停車に揺られながら、羽後本荘を目指す。途中、山々の木々という木々には着雪がみられ、今年初めての雪にまみえる者の目には、まるで幻想的なオブジェが立ち並んでいるように見える。がしかし、地元の人々にとっては、別に感激するほどのものでもなく、いつもの景色くらいにしか映らないのだろう。

羽後本荘駅は、秋田県内の羽越本線の中心都市、由利本荘市の代表駅。本年の初仕事はここからスタートすることになった。各駅停車を降りてから、時間調整のために、駅舎内にしばらく留まってぶらぶらしていたら、名産品だという大きな手毬がぶら下がっているのに出くわした。跨線橋にも小ぶりの手毬がいくつも吊るしてあった。その跨線橋に登ってみてはじめて気づいたのだが、白く美しい山が彼方に見えた。しばらく山並みを眺めていたら、眼下を一両のディーゼルカーが発車していった。

ここ羽後本荘は、矢島線を引き継いだ由利高原鉄道(鳥海山ろく線)の乗換駅でもある。鳥海山ろく線は、羽後本荘駅から矢島駅までの全長23kmを約45分で結ぶ第三セクターによるローカル線だ。この羽後本荘駅から、秋田県と山形県の県境にある名峰鳥海山(2,236m)に向かって田園風景の中をのんびりと走ってゆく。

のんびりと仕事したいなぁ。今年こそは余裕を持って仕事するぞ・・・と毎年のように思うのだが、どうもその夢は叶いそうにもない。北に南に、駆け回るどころか通り飛び回ることになるのだろう。ディーゼルカーはいいなぁ。地に足が着いていて・・・。本気でそんな風に思えるところが、チョットだけ哀しいかなぁ。

(写真は、羽後本荘駅を出てゆく鳥海山ろく線のディーゼルカー) 

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2008年11月10日 (月)

アフロブルーな夜

作本さん

一人の時はそうでもないのですが、相方がいると、夜は呑みに出かけることが多いです。この時も「ご多分に漏れず」でした。折角、旅先にいるので、できれば地のもので・・・と、だいたいそんな感じになりますね。なお、一応断っておきますが、旅先ではそれほど深酒はしません。翌日の仕事に差障りが出てはいけないので、一軒目で終えることも多いです。

この日は、「瓢六」という店に行きました。相方から「大田和彦氏の本に紹介されていたので是非行ってみたい」と言われたのがその理由です。元々おでん屋からスタートしたお店ということで、先ずはおでんをオーダーしてみる。因みに、おでんの種のお芋といえばジャガイモが主流かと思いますが、熊本ではサトイモになるらしい。まぁ、ここ出身の同期の話によればではありますが・・・。その他にも、熊本名物ともいえる馬刺しや辛子蓮根、変り種では「人文字ぐるぐる」というのを注文したのですが、何を食べても美味しかった。ただ、飲食は2時間くらいまでというルールがあるらしく、ここのお店で長居は難しいようです。

長居が出来なかったせいにして、この日はもう1軒行く?ということになった。それでは・・・・と普通ならここから物色開始となる訳ですが、相方によっては「もう少しバーで呑みたい」だとか、「おネェちゃんのいる店に行く?」とか大体の傾向がヨメます。この日の相方からは、「ラウンジなんかでジャズが聞きたい」なんてのが多いので、ホテルから出かける前に情報収集をしておいたのですが、今回は、それが役立ちました。

afroblue

こうして訪ねたのが、熊本市新市街にある「afroblueというラウンジ兼ライブハウスのお店。熊本市内で毎日演奏が聞けて、それもJazzが中心ということから、ここに行ってみるべぇということになったのです。お店にはラウンジスペースとミュージックスペースがありましたが、時間が早かったせいかミュージックスペースには、自分たちオンリー。(でも、夜も更けて、こちらが帰ろうとした頃には、周りはお客で溢れかえっていましたけど)

ライブは、21時くらいからというのが通常のようですが、この日は予定を早めて(?)か、1回目のステージは20時から開始してくれました。この日の演目はJazzではありませんでしたが、その代わりに、この店の支配人でいらっしゃる作本光弘さんがギターとボーカルで魅せてくれました。「え~、支配人?」と言うなかれ、この作本さん、世良公則&ツイストでギタリストとして参加していたということで、ウデはなかなかのもの。用意した楽曲だけでなく、リクエストにも応えてくれるということで、2曲ほどやってもらえましたが、いや~、彼の「Change the World」にはシビれました。

この「afroblue」というお店、ミュージックスペースならチャージは2000円とリーズナブル。スタイリッシュで素敵な熊本の夜を満喫したいなら「afroblue」いかがでしょう。

(写真上は当日のライブをつとめた作本さん、写真下はライブハウス afroblue

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2008年10月28日 (火)

桜島って十七変化?

桜島8

東洋のナポリとも呼ばれる鹿児島。鹿児島湾西岸の市街地から桜島を望む景観が、ナポリからベスビオ火山を望む景観に似ていることから、そう呼ばれるらしい。らしいとしか言いようがないのは、小生はナポリに行ったことがないので・・・。

ナポリが出たので、ついでに言っておくが、地形が似ているということから、鹿児島市とナポリ市は姉妹都市提携をしているそうだ。だから、それを記念して、鹿児島中央駅前の通りに「ナポリ通り」というネーミングのストリートがあったりする。さらには、パース通りとかマイアミ通りとかいうのもあって、これらの都市とも姉妹都市になっているそうだ。もっと言うなら、ナポリとかマイアミには鹿児島通りが、パースには鹿児島公園があるそうだ。そのうえ・・・と続けたいところだが、蛇足なのでこのあたりでやめる。

さて、今回のテーマは桜島である。鹿児島のシンボルとも言われる桜島は、よほど高いビルにでも遮られない限り、市内の随所から望むことができる。活火山でもある桜島は、風向きによっては降灰をもたらし、また、空気中に漂う火山灰のせいで洗濯物を黒く染めてしまうなど、市民生活になんらかの影響を与えている。そのようなこともあってか、鹿児島の天気予報には、「桜島上空の風向き」という他の地域にはない情報が流される。

話は変わるが、例年に比べて今年は、何故か鹿児島に来ることが多かった。ただ、鹿児島市内から桜島に渡り、そのうえ一巡りして帰って来るというのは、出張のついでに・・・という、自分達の旅スタイルからすると、ちょっと厳しいかもしれない。なぜなら、往復で半日くらいはかかると見込んでおかなければならないからで、時間的な制約から、従来の出張においては、城山展望台から眺める、「いつもの桜島」で済ませるしかなかった。

その程度の桜島観光でお茶を濁していたのだが、今回の日程では、先方の都合で(あくまでも先方の都合で・・・)午前中の日程が、すっぽり空いてしまった。すっぽり空いたからには、これを無為に過ごすことはあるまいという結論に達し、出張二日目の午前中は桜島巡りをすることに決めた。それで、どこからスタートするかと考えた。いつもの城山展望台では芸がないので、小原庄助を気取ってという訳ではないが、朝風呂から望む桜島からスタートすることにした。

桜島1

■城山観光ホテルのさつま乃湯から望む櫻島

その場所はどこかというと、モノレールを使って羽田に向かうことを常としている人なら、「ああ・・・」とすぐ思い浮かぶ、あそこの湯からである。それは、城山観光ホテルにある「さつま乃湯」。温泉に憩うご婦人方のバックに、少し噴煙を上げる桜島。それが大きなパネルとして掲げられているので、ご覧になったことのある方もおそらく多いのではないかと思う。

ちなみに、さつま乃湯には、城山観光ホテルの宿泊者なら誰でも、無料で入浴できる。宿泊料が1万円くらいのビジネスパックで宿泊すると、部屋のサイズに比して、ベッドがデカすぎるので、通路側から窓側への移動がなかなか難しい(カニ歩きではないと行けない)という難点はあるが、グレードの高いサービスと設備、さらに露天風呂に浸かりながら眺める雄大な桜島が、そんな些細なことは忘れさせてくれる。

さて、お風呂ばかりに浸かっていても仕方がないので外に出よう。桜島に行くには、フェリーに乗らなければならない。因みに、桜島は島とはいえ、現在は大隈半島と繋がっている。だから、垂水市の早崎地区というところから、国道220号線と224号線を経由して、車でも入ることができる。時間的に余裕があるのなら、ドライブがてらそれもよいかも知れないが、時間的にも経済的にもフェリーを使うことをお薦めする。

桜島2

■錦江湾上で、桜島港からのフェリーとすれ違う

フェリーは、鹿児島港桜島ターミナルと桜島港との間を15分で結んでいる。なお、このフェリーは民間の運営ではなく、鹿児島市営で、驚いたことに24時間営業である。陸続きにもなっているので、なぜ24時間営業となっているのは分からないが、人口5700から800人くらいの島に、頻繁にフェリーを往復させるのは、それ相応の理由があるのだろう。

フェリーに乗って桜島に着いたまではよいが、島内でどのように行動するか全く考えていなかったので、少しこまった。というのも、島に着いたら、観光バスとか路線バスとかそれなりにあるのだろうと考えていたが、それは大きな間違い。路線バスは本数が少なく。観光には不向きであることが判明。さらに、観光バスは、桜島港を出発する時間が早い。ついでに言っておくと、主だった観光バスは、桜島港ではなく、例えば、JR鹿児島中央駅前あたりから出発するので、そのあたりは事前にチェックしておいた方がよいだろう。

とはいえ、とにかく来てしまったからには、どうにかしなければならない。それで、伊良部島に渡った時のように、観光タクシーでもと考えてあたってみたが、島一周の料金が9000円くらいかかるというので、パスすることにした。他の手段が何かないかと探していたら、レンタサイクルという看板があって、どうもそこにレンタカーがあるらしいということが分かった。

レンタカーは流石に高いのではないかと思ったが、そこの店主と奥方によれば、軽自動車で2時間、4500円だという。今回も相方がいたので、一人当たりにすると2000円ちょっとになる。という流れで、レンタカーを借りることにしたが、肝心の軽自動車が全部出払っていた。しばらく、躊躇していたところ、店主から「軽と同じでいいから」と普通車を勧められた。こちらにとってはラッキー、お店も車を遊ばしているよりは・・・という判断からか、ともかく、レンタカーは確保できたので、店主と奥方から教えてもらったルートに沿って、島を一巡りすることにした。

桜島3

■湯之平展望所の記念碑と北岳

桜島4

■湯之平展望所より、錦江湾ごしに鹿児島の市街を望む

まずは、定番の湯之平展望所に向かう。湯之平展望所は桜島中岳中腹の373mのところ、中岳の標高が1040mなので、だいたい4合目くらいにある展望所である。展望所までは、桜洲小学校のある小池町あたりから山道を登っていく。車でもなければ、ちょっときついのではないかという勾配だが、普通のレンタサイクルで登っていると思われるご婦人がいた。道が分岐するところに立って、額に手をかざしながら、微動だにしていなかったので、最初、何らかの案内板かと見間違ったくらいだが、多分板ではなかったように思う。それでも、やっぱり見間違いかな?と首を捻りながら、しばらく進むと桜の花びらのような屋根のある展望所に着いた。

まずは、霧島屋久国立公園「桜島」湯之平展望所の文字が溶岩に刻まれた記念碑とともに、北岳の威容を仰ぎ見る。北岳は標高こそさほど高くもないのに、途中から植生が途切れている。流石に活火山だなという印象を受ける。

北岳の見える反対側からは、真っ青な錦江湾を挟んで、鹿児島の市街地が見える。右手に回り込めば大隈地方、左手には開門岳まで一望できる。因みに、ここから、見る夜景もなかなかのものらしい。同じ展望台にいながら、一方では穏やかな錦江湾が望めて、その反対側では荒涼とした火山の風景が広がる。ここ湯之平展望台は、まさに桜島観光の定番スポットといえる。

桜島5

■溶岩原ごしに望む櫻島(烏島展望所)

桜島には、数々の噴火の歴史があるが、その一つに「文明大噴火」というのがある。フリー百科事典ウィキペディアによれば、1471年(文明3年)9月12日に大噴火が起こり、北岳の北東山腹から溶岩が流出し、死者多数との記録がある。2年後の1473年にも噴火があり、続いて1475年(文明7年)8月15日には、桜島南西部で噴火が起こり、溶岩(文明溶岩)が流出した。さらに、翌1476年(文明8年)9月12日にも、桜島南西部で噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成されたという。

こうして、形成された烏島であったが、1914年の大正大噴火で呑み込まれ、完全に埋没したそうだ。湯之平展望所を下りて、次に訪れた烏島展望所にはこんな歴史があった。現在は、大正溶岩と呼ばれる溶岩原の一部になっている烏島展望所は、昔は島だったと思うと、その噴火の凄まじさに驚くばかりである。

桜島7

■島の反対側に回ると、桜島も違った表情を見せる(有村溶岩展望所)

烏島展望所を後にして、大隈半島と桜島の接合部の方に向かいながら、その途中で有村溶岩展望所に寄ってみた。有村溶岩展望所は、桜島の南側の有村崎の付け根にある展望台で、1946年(昭和21年)の南岳東側中腹の大爆発で流出した昭和溶岩流で誕生した小高い丘にある。ここで、仰ぎ見る桜島は、鹿児島市内から見える桜島とは少し趣が違うようだ。こうして、ぐるりと桜島を巡ってみると、同じ桜島なのにいろいろな表情を持っていることに気づく。

有村溶岩展望所の周囲には、全長1kmに及ぶ溶岩遊歩道も整備され、錦江湾や南岳を眺めながら、溶岩原を散策できるらしいが、レンタカー店の情報によれば、遊歩道に入って時間を費やしてはいけないとのことで、10分くらいの滞在でここを後にした。

桜島7

■大正大噴火の猛威を後世に伝える黒神埋没鳥居

途中で、「放浪記」で有名な女流作家・林芙美子の文学碑に立ち寄りつつ、桜島巡りツアーの最終目的地である黒神埋没鳥居を目指す。桜島東岸の道路脇にある埋没鳥居は、桜島噴火の猛威を後世に伝えるために、発掘を中止し、そのままの姿でとどめられている。鳥居の高さは見当がつくと思うが、これがここまで埋まるかと思うと、噴火による火山灰がいかに凄かったかが分る。この道端にある埋没鳥居の横には、黒神元気塾という小さな資料館があった。そこには、大正大噴火の猛威を伝えるパネルやもうもうと噴煙を吹き上げる桜島の写真などが掲示してあった。久しぶりに、そのパネルをここで紹介しようかとも思ったが、今回の原稿がもう十分すぎるくらい長くなったので、やめることにした。興味のある方は、やはり現地で見てほしい。

こうして、桜島をぐるりと巡るツアーを終えて、桜島港に戻ってきたら、図らずも丁度2時間が経過していた。桜島港から離れるフェリーから、遠ざかる桜島を見ていたら、朝方の逆光に浮かぶ桜島とはまた違い、まるで、SF映画のエンディングのシーンにでも出てくるような、火山島風の桜島がそこに浮かんでいた。

大和撫子七変化ではないが、この桜島も「1日のうちにその姿を七色に変える」と言われている。「七色」というのは、多分、一日の中でも、光の具合によっていろいろな色に違って見えるということなのだろう。ただ、最近の大和撫子(?)は、十七変化するみたいだから、七色くらいでは驚かないか。ま、これも蛇足かも知れないが・・・。

ある時は、火山灰を撒き散らす迷惑な山かも知れないが、鹿児島には桜島がよく似合う。その時々の天気や時間によっていろいろな表情を見せるこの島は、とにもかくにも鹿児島の人たちの生活やリズムに溶け込んでいる。心のふるさととも言われる所以はそのあたりにあるのだろう。雄大な桜島と青い錦江湾の海、鹿児島を離れて間もないのに、また会いにゆきたい。

(写真先頭は、帰りのフェリーから望む順光の桜島)

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2008年10月17日 (金)

あ、そっ

阿蘇1

「ジャネーの法則」というのをご存知だろうか?フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、19世紀のフランスの哲学者であるポール・ジャネが発案し、甥の心理学者ピエール・ジャネが著作で紹介したもので、主観的に記憶される年月の長さは、年少者には長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に解明した法則のことらしい。まぁ、そんなに小難しく考えなくても、年をとるにつれて、1年がだんだん早く感じられるようになるというアレのことですよ。

しかし、この頃になるといつも感じることだが、本当に月日が過ぎるのは早い。あっという間に10月になっていると感じる訳だから、この前の原稿を書いてから、1ヶ月・・・なんてのも、すぐ過ぎている。1週間に1本くらいのペースで更新するぞ・・・な~んて気持ち的にはあるのだが、どうも実践が伴わない。クリエイト(?)の道はなかなか困難で、実行は儘ならない。そうしたいのはヤマヤマなのではあるが・・・。

阿蘇

■阿蘇熊本空港に降下する飛行機からは阿蘇全景が望める(11月10日追加)

ヤマヤマにひっかける訳ではないが(と言いつつ思いっきりひっかけているのだが)、うん十年振りに阿蘇に行ってきた。一口に阿蘇とは言うものの、阿蘇に来て、まず感じたのは「阿蘇山ってどこ?」ということ。大抵の山というのは、名前とイメージとはほぼ一致するように思うが、阿蘇山はそうではないみたいだ。どこからどこまでが阿蘇山と、はっきり分からないくらい広範囲に及ぶ。つまり、厳密に言うなら、阿蘇山という名称はなく、阿蘇五岳と呼ぶのが正しいそうだ。ちなみに、阿蘇五岳とは、中央火口群の根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の五つの山を指す。

その中でも阿蘇観光の目玉として、やはり中岳の火口は外せない・・・と最大公約数的に考えて、我々もそう動いた。熊本市内からパノラマライン坊中線を経由して、車で山上広場まで行き、そこから阿蘇山ロープウェーに乗った。後から考えれば、現在は阿蘇山有料道路というのがあるので、別に乗り換えなくても、車で火口近くまで行った方が早かった・・・とは思ったものの、つい昔のくせ(?)で、条件反射的にロープウェーのチケット(往復で1000円也)を買ってしまった。

91人乗りだというので、ゴンドラとしては大きいタイプのものだと思うが、乗り場に連なるすごい人数の列を見て、1便見送ることにした。15分おきの運行なので、騒々しい団体客を先に行かせて、次の空いているものと推定される便に乗ろうと考えたのだ。しかし、山の上から降りてきたおびただしい人の数を目の当たりにして、思わず呻ってしまった。目論見は見事に外れ、案の定というかなんというか、自分たちの乗った便は、見送った便に勝るとも劣らないくらいの乗客でごった返した。

阿蘇4

■阿蘇山西駅を出発して暫くすると荒涼とした風景が広がる。その彼方に烏帽子岳が望める

ところで、阿蘇山ロープウェーというのは、1958年(昭和33)に世界で初めて活火山に架けられたロープウェーとして誕生したそうだ。阿蘇山西駅から火口縁の阿蘇山上駅まで、高低差108mを所要時間4分で結んでいる。ゴンドラの窓からは、ごつごつとした溶岩の広がる荒涼とした風景と雄大なカルデラを見下ろすことができる。発車から終点駅まで、ほんの僅かな時間だが、今は大半が外国からの観光客だからか、中国語やら韓国語が飛び交うゴンドラ内でインターナショナルな雰囲気を味わってみるのも一興だろう。

中国語やら韓国語と言ったが、ロープウェイ乗場でもうひとつ気づいたことがある。それは、案内ボードのことで、案内ボードというのは、「火口周辺では、火山ガスが流れているので、喘息の方とか心臓の悪い人は登山をしてはいけません」などと告知しているアレのことである。

日本語は当然として、英語、韓国語(ハングル文字)の他に、漢字で書かれたものが二つ掲げられていた。どうして、漢字のものが二つあるのあろうと不思議に思い、待ち時間の間見比べていたら、漢字の字体や表記の仕方になんとなく違いがあるのが分かった。「どうして漢字のものが2種類も?」というのが疑問で、帰って調べてみたところ、その内の一つが繁體字(はんたいじ)で書かれているということが分かった。

繁體字というのは、日本風に言うなら「旧字体」にあたるらしく、主に台湾や香港、マカオで使われているようだ。そして、もうひとつの字体を簡体字という。簡体字は、大陸において繁體字が省略され、規範漢字として使われるようになったもので、中華人民共和国、シンガポールで正式に採用されている。

ちょっと前までは、案内板の表記や車内アナウンスなどは、日本語の他は英語くらいしかなかった(と思う)が、アジアに近い九州では、韓国語や中国語はもう当たり前のようになっている。日本の観光地などは、近い将来、外国のお客さんなしでは成り立たなくなるんじゃないかと、5枚も掲げられた案内板を見ながら、ふとそんなことを思った。

阿蘇2

■中岳火口縁近くにある「阿蘇中岳火口周辺案内図」

ロープウェイを降りて、中岳火口に登る。登るとは言ったが、阿蘇山上駅から火口縁までは4、5分も歩けばたどり着く。流石に火口に近いせいか、硫黄のにおいが強い。駅から火口までの道すがら、妙な建物群に出くわす。この妙な建物は退避壕で、突然の噴火に備えて設置されている。こんなことからも、阿蘇が生きている山なんだなと実感できる。

噴煙の見える方を目指して行くと、まるで大きなクレーターのような火口が見えてくる。ところで、中岳には7つの噴火口があり、白い噴煙を噴き上げている中岳第一火口は、直径600m、深さは130mもあるのだそうだ。それと、火口の底に何やらエメラルドグリーン色の湖のようなものが見えるが、これは湯溜まりといって、火口の底に雨水などが溜まってできたものだ。差し詰め、中岳火口温泉といえばよいものかも知れない。もちろん、温泉とはいえ、入浴に適さないのは言うまでもない。この湯溜まりは、火山の活動期には消失するそうで、噴火活動予測にあたっての指標の一つになっているそうだ。

久しぶりに阿蘇に来てみて、観光客の多さには少し驚いた。というのも、平日の観光地というのは、どちらかというと閑散としているというイメージがあったからだ。確かに、噴煙をもうもうと噴き上げる火口近くまで来て、見学できる火山というのは珍しい。この迫力ある風景こそが阿蘇観光の醍醐味というべきもので、今でもこうして、多くの観光客を引きつける所以なのだろう。ただ、訪れている観光客の大半が外国人というのも、何か寂しい。日本政府が旗を振る「YOKOSO!JAPAN」キャンペーンもいいが、70年代のディスカバージャパンのような和風の賑わいも見てみたい気がする。

(写真先頭は、今も噴煙を上げる中岳第一火口)

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2008年9月15日 (月)

夜汽車に揺られて その2

北斗星7

夜汽車。なんとも懐かしい響きのことばである。かつては、夜行列車のことをこう呼んだ。夜の旅立ちは、何故かロマンチックにもセンチメンタルにもさせてしまう。そんな不思議な何かがあるように思えてならない。行く手に広がる闇がそう思わせるのか、それとも闇を切り裂く一条の光に希望を見い出すからなのか、それはよく分からない。ただ、夜に旅立つ・・・たった、それだけのことで人の心は浮き立つ。希望、憧れ、不安、多くの想いが現れては消え、やがては眠りへの誘いとともに夜が包み込んでしまう。

かつては、北海道の玄関口と呼ばれた函館も、1988年に青函連絡船が廃止されてからは、ただのターミナル駅になった。夜ともなれば利用客がだんだんと疎らになり、連絡船全盛時のあの賑わいとは比べようもない。

まだ、列車の到着まで1時間以上もあろうかと云うのに、函館駅の待合コーナーには、一目でそれと分かる人たちで一杯になっていた。リュックを背負った若者たち、たくさんのお土産をベンチの傍らに積み上げている熟年カップル、鉄子の奥さんに無理やり連れて来られた付き添いの旦那さんと思しきペアもいた。みんな人待ち・・・いや、汽車顔待ちで、今頃は駒ヶ岳の西側を走っているであろう夜行列車の到着を待っていた。

北斗星3

■強い光を放ちながら函館駅8番線ホームに進入する

列車の到着を予告するアナウンスが流れると、待って待って、待ちくたびれて・・・、そんな気持ちを一斉に発散させるように、みんな一目散に改札口に向かう。ちょっとした民族大移動(?)みたいに。そうして、改札から最も遠いというべきか、海側に一番近いというべきか、とにかく櫛形をした函館駅の8番線ホームに向かう。

青く塗られたDD51重連が牽く「北斗星」の姿をカメラに収めようという人たちが、思い思いのポジションで配置につき、カメラやビデオを構える。そんな中を強い光に導かれた青く長い帯がしずしずとホームに滑り込む。

北斗星5

■最前部では、操車係が手際よくDD51の連結を解く

北斗星6

■最後部では、津軽海峡線専用の機関車に付替えられ、発車準備完了

「北斗星」が函館に停車している時間は7分間である。この間に、札幌からここまで牽いてきたDD51の連結を解き、最後部に津軽海峡線専用のED79をつける。こうして、函館からは、それまでとは進行方向が逆になる。つまり、函館では結果としてスイッチバックをすることになるのだ。ただ、逆に行くのは青森までだろうとと思っていたら、そうではなかった。

因みに、現在の「北斗星」は青森駅に進入しない。後で調べてみたら、どうも東北新幹線の八戸以北延長工事が影響しているらしい。青森駅に深夜時間帯に入る列車が制限されているようで、「北斗星」の最終ランナーであるEF81が、ED79からバトンを渡されるのは、深夜の青森信号場である。深夜の作業ということもあってか、それは殊のほか静かに行われ、どこでどうやって機関車の交換が行われたのか、全く気づかなせないくらいであった。

話を少し戻すが、スイッチバック駅で機関車交換を撮影するのは少し骨が折れる。というのも、最後部の付替え作業は、列車が停止すると直ぐに開始される。先頭の機関車交換風景を撮影するやいなや、最後部に向かってのダッシュが要求される。12両編成+重連機関車の長さを侮ってはいけない。おっとり構えていると、最後部に到着した時には、連結作業がもう終っている。(さらに言えば、息が切れていて、カメラを構えた手がなかなか落ち着かない・・・ということもある)最前部と最後部で行われている作業を両方見ておこうという者にとっては、7分間は余りにも短いと心得ておこう。そのうえ、脚力と心肺機能の向上のために普段からのトレーニングをお勧めする。(「それは、アンタでしょ」と言われれば返すことばもないが・・・)。では、次回。

(写真先頭は、函館駅8番線に停車する寝台特急「北斗星」)

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2008年8月31日 (日)

夜汽車に揺られて その1

北斗星4

まえがき

しばらく原稿を書くのをサボっていたら、もう8月も終ろうとしている。8月はどこにも旅に出なかったかといえば、そうでもなく、何度か九州方面に出かけた。ただ、「何かこれを」という何かがあったかといえば、そうでもなくて・・・。そんなことから、前回のアップ時からもう2ヶ月くらいも経っていた。そのうえ、8月にはオリンピックがあった。都合の良いことにというべきか、はたまた、その逆というべきか、夏休みと重なったことををいいことに、その他のことを全て休んで、オリンピックに見入ってしまった。だから、なかなか記事にまで手が回らなかったということもある。

しばらくぶりに何か書こうとしたが、これと言って閃くものもない。他に、書こうと思ってしばらくペンディングにしていたものがあるが、今更という感のものばかりという具合。そこで、どうせ中断していたものを手がけるなら、思い切り陳腐になっていたものを手がけてみようかという気分になった。

かなり昔になるが、2005年11月に「寝台特急北斗星 南へ」という記事を書いた。北海道の札幌と東京の上野を結ぶ寝台列車などそうそう乗車できるものではなく、この千載一遇のチャンスを記事にしてみようと思ったのである。そのとき「どうせ書くならルポ風にしてみようか」なんて、意気込みが大き過ぎたせいか、構想に行き詰まり、それから約3年の時が流れた。

今更、3年近くも経ってから続編なんてのもないだろうと思い直し、「北斗星南へ」シリーズはお蔵入り決定・・・と自分としては決めていたのだが、二度あることは三度あるというのか、この仕事について3度目になるが、この6月27日から28日にかけて、またまた「寝台特急北斗星」に乗る機会に恵まれた。

こうして、今回も少し送ればせながらではあるものの、再び、「北斗星」のことを書いてみようと思う。前にも少しふれたが、今回の記事は、前回記事の続編ではない。また、ルポ風なんて考えていない。ただ、できれば続編を書くためにと集めた資料などは、活用できれば使いまわしたいとは思う。

そういうことから、今回の「北斗星」ものは、全く前回とは趣を異にするものになると思う。また、一度に書くには、結構キツイ面があるので、連載方式をとりたい。とにもかくにも、こうして新たな北斗星ものを書くことで、2005年シリーズの続編をボツにすることの了承を得たい。

(函館駅に到着した寝台特急 北斗星)

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2008年6月27日 (金)

奇跡の動物園にて

旭山動物園15

旭山動物園14

旭川市にある旭山動物園は日本最北端の動物園で、最近では日本一人気のある動物園と言っても過言ではありません。しかし、今でこそ年間250万人の押し寄せる人気を誇るこの旭山動物園も、その歴史の中で何度も存続の危機に晒されたのです。

旭山動物園は、昭和42年に開園されました。開園当初こそ多くの人で賑わいましたが、それも長続きはしませんでした。だんだんと来園者は減り続け、また、施設も老朽化していきましたが、運営する市にも予算はなくジリ貧状態に陥っていきました。

旭山動物園21

■ぺんぎん館

ぺんぎん館に暮らすのは、「キングペンギン」「フンボルトペンギン」「ジェンツーペンギン」「イワトビベンギン」の4種類。フリッパー(羽)で上手にバランスを取り、よちよち歩く様は、観客の人気を呼ぶ。観客との距離が近いため、その表情まで間近に見ることが出来るとあって評判は高い。

しかし、ここから現園長を中心に、飼育係たちの新たな挑戦が始まるのです。「自分たちしか見られないような動物の素顔を、何とかしてお客に見せることはできないか」という問いに、飼育係たちは自らできることは何かと考え、そして実践していったのです。

そのひとつが、飼育係によるガイド作戦でした。今では、旭山動物園の恒例イベントとして定着して、もう当たり前のようにみえるガイド作戦も、飼育係たちが生き生きとした動物たちの魅力を伝えようと智恵をしぼり、来園者を増やそうとする努力の中から生まれたものなのです。そういった努力が少しずつ実を結び、飼育係たちの話を熱心に聞く人や、質問をする人がだんだん出てくるようになりました。

好事というほど順調であったかどうかは分りませんが、旭山動物園にも魔の手が忍びよります。動物園史上最大の存亡の危機が1994年に訪れるのです。飼育係のガイド作戦で園内随一の人気を誇っていたゴリラのゴンタが死んでしまったのです。死因はエキノコックス(感染)症でした。この事件によって、旭山動物園は厳しい風評被害に見舞われ、閉園の憂き目に遭うのです。

旭山動物園22

■もうじゅう館あたりから

平日にも拘らず、朝からすごい来園者数である。道内外からの観光客も多いが、遠足などの行事なのか、地元の学校から生徒・児童も多く訪れる。

ですが、窮地の旭山動物園を救い、支えたのが多くの旭川市民たちでした。カンパや「再開したら、必ず行く」などの多くのメッセージが市民たちから寄せられたそうです。そして、実際、翌年春に再開された旭山動物園には、多くの市民たちが押し寄せたといいます。

世の中というのは不思議なもので、物事が好転しだすと、次から次へと良いことが訪れました。この動物園人気に、旭川市も1億円の予算を計上することになり、これを元に、飼育係たちが暖めていた理想の動物園造りが実現に向けて動き出すのです。

さらに、殆ど夜しかその素顔を見せないカバの生態を見せるために、夜9時まで開園するなど、お客さんに動物たちの素顔を見せたいという思いを実現すべく、止まることなく努力を積み重ねているのです。

旭山動物園5

■シセンレッサーパンダ

手先を器用に使う仕草で動物園では人気ものだが、野生下では森林伐採の影響で生息数が減り絶滅が心配されているという現実を知っておきたい。

旭山動物園9

■アムール虎

全長=260cm~340cm。体重=150kg~200kg。アジアの広い地域に渡り、寒冷地帯から熱帯地帯までに及ぶ。オスは単独で、メスは子供と一緒か単独で行動する。近年、密猟や生息地の破壊により絶滅の危機にさらされている。

旭山動物園2

■ヒグマ

頭胴長=200cm~230cm。森林に棲み、夏から秋には高山帯にも出没する。子育て中の親子以外は、単独生活をする。雑食性で、根茎や果実といった植物質のものから、昆虫やサケなどの魚類まで実に多様なものを食べる。冬季には主に土穴を利用して冬ごもりをする。メスは冬眠中に1頭か2頭の子を生む。

実際、旭山動物園を訪れていくつかの展示を回ってみると感じることがあります。何か、ドキドキするのです。何か楽しいのです。動物園にいる動物というのは、今まで、寝ているか餌を食べているかどちらかだと思っていました。

でも、旭山動物園の動物たちは違うのです。別に「芸」が仕込まれている訳ではありませんが、とにかく良く動いたり泳いだり、多分、動物たちはお客さんに、自分たちのことを見てもらおうなんて気持ちは毛頭ないと思いますが、動物園の展示方法が、動物たちを気持ちよく活動させているのかなと思います。

旭山動物園といえば、「行動展示」という言葉が思い浮かびます。この言葉の意味は、動物の特徴的な行動を展示するということのようです。動物が暮らしやすい環境を整えることで、動物が本来持っている能力を発揮させるという考え方がベースにあるようです。

旭山動物園11

■ボルネオオランウータン

もともとは高い木の上で暮らすオランウータン。旭山動物園では大胆な仕掛けで、オランウータンの本来の生態を引き出した。あっと驚く迫力や、思わず心温まるシーンが多くの来場者を魅了している。

旭山動物園8

■ゴマフアザラシ

大人気のマリンウェイ(円柱水槽)をのびのびと泳ぐアザラシたち。アザラシはよく人間を観察している。目と目があった瞬間、大人も子どもも我を忘れて歓声を上げる。彼らの愛らしい仕草に、こんなにも幸せな気持ちになれる。

旭山動物園6

■フンボルトペンギン

こちらへおいでと誘うかのように、ペンギンたちは私たちの目前を泳ぐ。時には止まって、こちらを見つめ返してきたりと、地上で柵越しに眺めた彼らとは全く違う光景だ。

旭山動物園にいて気付くことのもうひとつに、お客と動物達の「近さ」があります。歩いていく頭上をペンギンが泳いでいったり、「きた、きた、きた」という誰かの声がすると間もなく、あざらしが目の前を猛スピードで急降下したり、とにかく、見る人を飽きさせません。「あざらし館」のマリンウェイや「ぺんぎん館」の水中トンネル、「オランウータン館」の空中散歩など、行動展示で見せる旭山ワールドは園内のあちこちで、見る人を楽しませてくれます。

旭山動物園16

■手書きメッセージ

旭山動物園では、来園者に少しでもその動物達について考えてもらえるよう、手書きの説明版を設置している

旭山動物園20

■園内を演出するアートの数々

園内のあちこちで見かけるアートの数々。殆どが元旭山動物園飼育係で、絵本作家のあべ弘士氏の作品だ。豊かな表現力による絵と文字で演出した園内は楽しさにあふれ、さながら美術館のようだ。

さらに付け加えるなら、旭山動物園には「暖かさ」が感じられます。主な展示施設には、飼育係が作成したと思われる手作りの資料が、所かまわず(?)貼り付けてあります。レイアウトや文字の美しさなど、機械を駆使して作るものと比べれば難点はあるのかも知れませんが、こうした手書き文字による試みによって、愛情を込めて世話をしている動物たちのことを、少しでも知ってもらいたいという飼育係たちの気持ちがひしひしと伝わってきます。

閉園の危機から一転、日本一の入場者数を誇る動物園へ。来る人の心を捉え、確実にリピーターにしていく。旭山動物園は、つい最近も放映されたTVドラマ風に言うなら、「奇跡の動物園」と呼ぶに相応しい日本で一番の動物園だと思います。

*各展示に関する解説は、「ガイドブック旭山動物園」(今津秀邦著)より引用させていただきました。

(写真先頭上:来園客で賑わう旭山動物園東門)

(写真先頭下:東門に立つモニュメント)

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2008年5月20日 (火)

温泉はいいなぁ

花巻温泉

ここ最近、花巻に通うことが多かった。花巻での仕事は2度目になるが、前回は同じ仕事をこなす中でも、盛岡やら山形やらあちこちを転々とさせられたので、ついぞ花巻には泊まることはなかった。

前回、仕事が一段落してからお客さんと雑談していたとき、「どちらにお泊りなんですか?」尋ねられたので、「出張だと、だいたいビジネスホテルになりますね。今回は盛岡とか北上とか・・・」と答えたら、そのような境遇の僕たちを不憫(?)と思ったのか、そのお客さんから「花巻にはいい温泉があるのですよ。今度は是非そちらでゆっくりして下さいね」とお国訛りを交えて勧められた。

東京から新花巻までは、乗換えなしの東北新幹線「やまびこ」でちょうど3時間。そこから、車で約30分。花巻南温泉郷の北部に位置する鉛温泉にある藤三旅館は、まさに「ひなびた温泉宿」というフレーズがそのまま当てはまる「はじめてなのに懐かしい」という風情の秘湯の宿だった。

スケジュールの関係で、宿に着いたのは夕方の7時30分くらい。1年の内でも太陽の沈む時間が遅い季節ではあるものの、もうとっぷりと日は暮れていた。藤三旅館では、夕食を出す時間が午後8時までで、下げ膳の時間が9時までということなので、先ずはひとっ風呂浴びて・・・といきたいところではあったが、早速、夕食の準備をしてもらうことにした。

温泉といえば、やはり浴衣。堅苦しいスーツは脱ぎ捨てて、食事の準備が整うまでしばしくつろぐ。部屋は六畳一間のこじんまりとした和室。昔ながらの造りなのだろうか天井がとても高い。後で仲居さんに聞いたところだと、今回泊まった本館は築67年にもなるというなかなかの歴史的建造物(?)なのである。窓の外を豊沢川が流れ、サラサラという渓流のせせらぎが1日中絶えることはない。ただ、ひとつ残念なことは、カメムシが異常発生したとやらで、窓を開け放てないことくらいか。

前沢牛をメインとした夕食時にお酒が過ぎてしまい、目的の温泉には朝目覚めてから入浴することにした。この旅館の名物でもある「白猿の湯」は、深さ120cm余りもある立湯だそうだ。この「白猿の湯」は基本的に混浴なのだが、出向いた時間帯が女性タイムだったため、露天風呂のある「桂の湯」に向かう。

この藤三旅館は、旅館部と湯治部に分かれている。湯治部には、湯治で長逗留する人が自炊できるように共同炊事場などが備わっている。また、日帰り入浴に来る人たちもいて、それぞれが同じ温泉を使う。尚、同僚の報告(?)によると、旅館部の客と湯治部や日帰りプラン客は履物の色が違うようだ。つまり、旅館部の客は、い草でできた室内履だが、湯治部の客はベージュ系のスリッパ、日帰り客は赤色のスリッパみたいだという。旅館部以外の客を旅館に通さないための措置なのだろうか?まぁ、別にどうでもいいことだが・・・。

「白猿の湯」は残念だったが、「桂の湯」の露天風呂もすぐ隣りを豊沢川が流れ、川を包むように木々の新緑たちがそよぐ、なんとも和むお湯であった。ここの温泉は完全な掛け流しで、お湯は透明で癖がない。この「桂の湯」は少し熱めなので、肩まで浸かるとすると長い時間はちょっと厳しい。しかし、腰湯ができるくらいの岩がお湯の中にあるので、それに座ってゆっくり温泉気分に浸れるだろう。

玄関ロビー(?)の応接セットのところに、土田何がしというが藤三旅館を紹介した古ぼけた新聞記事がクリアファイルに入れられてあった。それによると、この鉛温泉の名前の由来には、むかし、このあたりで金が取れたそうで、お上には金を鉛と偽って年貢を軽くしてもらったという曰くがあるそうだ。金なのか鉛なのかその真偽は不明だが、僕たちがこの鉛温泉を訪ねたワケは、「鉛ではなくて(お国)訛りに由来しているゾ」なんてことで、今回はおしまい。それにしても、やっぱり、温泉はいいなぁ~。

(写真は、藤三旅館の「桂の湯」の露天風呂)

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2008年4月23日 (水)

美ら海への誘い(いざない)その3

美ら海水族館7

入口から出口に進むにつれ、ビジターを少しずつ深い海の中に誘っていく。沖縄美ら海水族館は、こんな考え方で造られているようです。明るい水色から紺碧へ、海水の色が変化していくのが分ります。美しい熱帯魚たちの舞い泳ぐコーナーを過ぎると、いよいよ美ら海水族館のメインスポットと言われるエリアが見えてきます。

この2階から1階にかけてのコンセプトは「黒潮への旅」です。ここには、メインの展示である「黒潮の海」大水槽をはじめ、沖縄の美ら海に棲むさまざまな生き物や、沖縄の人々と海との関わりなどをハイビジョン映像で紹介する「美ら海シアター」やゆったりと泳ぐ魚を眺めながら、お茶や軽食が楽しめるカフェ「オーシャンブルー」などがあります。

この美ら海水族館の一番のスポットで、とにかくじっくりと・・・というのでも良いのですが、大水槽を眺めるために設けられた階段状のビジター席を横切って、もう少し奥に何かありそうですから、そこに行ってみましょう。

美ら海水族館16

■「サメ博士の部屋」の水槽を泳ぐサメ

順路から少し外れたようにも思えるそこは、サメ博士の部屋」と名づけられていました。前回でも紹介しました「美ら海観察ガイド」によると、サメの真実を紹介するのが「サメ博士の部屋」です。現在、世界には約400種のサメが知られていますが、その生態については未知な部分が多いのです。ここでは、豊富な資料と実物でサメ類の本当の姿を紹介していますというアナウンスがありました。

サメ博士の部屋のコンセプトは、人喰いザメの泳ぐ海水槽を中心に、顎・標本などの展示物が並ぶ学びの部屋というもののようです。巨大ザメの顎やサメの輪切りの標本・歯・皮などサメのことなら何でもござれというコーナーです。ただ、学びということに重点を置いているからか、サメのいろいろな部位の標本などが展示されていますが、まるで理科の実験室にあったホルマリン漬けの標本のようで、少しグロテスクかなという感もあります。

ところで、先ほど「人喰いザメ」というように書いてしまいましたが、サメ博士の部屋で、「それは違うぞ」という解説を目にしました。それには、次のように書いてありました。

サメと聞くと、「人喰いザメ」を思い浮かべるかも知れません。しかし、人を好んで襲って食べるサメは存在しません。ですから、「人喰いザメ」という表現は正しくなく、人にとっての「危険ザメ」と呼ぶべきでしょう。非常に危険なサメは3種類(オオジロザメイタチザメホホジロザメ)だけ。大部分のサメは人にとって危険性は少ないのです。

サメ博士の部屋にはサメだけが泳ぐ水槽があり、オオメジロザメやレモンザメヤジブカなどがいます。先ほどの説明からすると、差詰め「危険ザメの海水槽」となるのでしょうが、何匹ものサメたちが、コバンザメなどをくっつけながらゆったりと水槽を泳いでいました。サメなどをゆっくり眺める機会などなかなかないでしょうから、ここでじっくりと見学しておくのも一興というものでしょう。

美ら海水族館23

■「黒潮の海」の大水槽の前から人が途切れることはない

サメ博士の部屋を後にして、2階からステップ沿いに1階に下りると、いよいよ美ら海水族館海のメインスポットである、ジンベエザメの泳ぐ巨大水槽の前にやってきます。

水族館の1階から2階を貫く「黒潮の海」の大水槽は、ギネスブック公認の世界一の巨大アクリルパネル。その規模は深さ10m、幅35m×奥行き27m、水量7500tで世界でも有数の大きさだそうです。また、見る人と大水槽を隔てるアクリルパネルは高さ8.2m、幅22.5m、厚さ60cm、パネル総重量は130トンといいます。

美ら海水族館18

■悠然と泳ぐジンベエザメ

この大水槽の中では、3匹のジンベエザメが飼育されています。美ら海水族館のジンベエザメは、まだ中くらいのサイズだそうで、まだ成長途上にあるそうです。この水槽の中で、最も大きな体をしているジンベエザメは全長7.5m。成長するとこの倍近くになるものもいるそうです。

ジンベエザメについては、ウェブなどでも数多くの情報を見つけることができますが、美ら海水族館では、このように解説していました。

魚類の中で最も大きくなるのがジンベエザメです。最大では14mに達しますが、通常は全長10~12mに成長し、世界中の熱帯から温帯の高水温域に生息します。沿岸海域や外洋を回遊し、日本でも水温が高くなる3月から9月頃定置網に入ることがあります。温和なサメで、機能している歯もなく、危険性が少ないためダイバーが一緒に泳いだり、背ビレにつかまっても嫌がることなく悠々と泳いでいます。外洋で泳いでいるジンベエザメの周辺には、カツオやマグロが群れを作って一緒に泳いでいることがあるため、特にカツオ猟師からは大漁をもたらす目標魚として。恵比寿様とかエベスザメと呼ばれて大切にされています。

因みに、ジンベエザメを水槽で飼育するなどという試みは世界初で、かつ美ら海水族館以外には例がないということからしても、それはすごいことなのでしょうね。さらに、オスとメスを一緒に飼育してここでの繁殖を図ろうというのですから、他の水族館とはスケールが違うようです。ここで生まれたジンベエザメが、大洋を悠々と泳いでいる・・・なんて夢がいつか叶うといいですよね。

美ら海水族館22

■水槽の中を飛ぶ(?)マンタとキハダなど

主役の座をジンベエザメに奪われているものの、「黒潮の海」の大水槽には、オニイトマキエイ(マンタ)も4匹います。美ら海水族館の解説によると、

マンタとはオニイトマキエイの俗称で、スペイン語で外とうや毛布を意味します。英名ではManta Rayと呼び、熱帯から亜熱帯水域の海に分布する世界最大のエイです。頭から2本突き出しているのは、一見角のようにみえますが、これは頭鰭(とうき)と呼ばれる鰭です。これが糸巻きににていることから、この名がついたともいわれています。背面は黒色をしていますが、噴水孔から斜め後方が白っぽくなっている個体もいます。腹部は白地に黒の斑紋があり、この黒い斑紋は同じ模様を持った個体がないことから石垣島周辺に出現するオニイトマキエイは、腹部の斑紋で個体識別をしています。

というもので、大きいものでは幅6.8m、体重2tにもなるものもいるそうです。このマンタについても、飼育や餌付けに成功したのは美ら海水族館が世界初だということです。

美ら海水族館17

■黒潮の回遊魚たち(クロマグロ・キハダ・カツオなど)

「黒潮の海」の大水槽を見ていると、まるで自分がダイバーにでもなったような気分にしてくれます。ジンベエザメやマンタだけではなく、サメやエイ、その他黒潮の回遊魚たちも手を伸ばせば届きそうな位置で悠然と泳いでいます。

大水槽の名前にある「黒潮」とは、遠く南からくる暖かい潮の流れです。黒潮の豊かな流れにのって、小さなプランクトンから目を見張るほど大きなサメまでたくさんの生き物達が沖縄の海へとやってくるのです。

小さな魚達が群れをなして身を守っていたり、水槽の底の方には夜行性のサメやエイの仲間達が泳ぎ回らすにじっとしていることにも気づきます。「黒潮の海」の大水槽では、中の環境をできるだけ海に近づけようとさまざまな工夫が施されているそうです。

美ら海水族館24

「深海への旅」というコンセプトの最終コーナーには、「深海探検の部屋」や「深層の海」という未知を神秘の世界を再現したというスポットがあります。確かに珍しいのかも知れませんが、ここまでのスポットに比べて何か華に欠けるきらいがあるので、説明は省かせていただきましょう。

最終コーナーに至る前に通る「アクアルーム」は、大水槽から「深海の旅」へを繋ぐ水のトンネルになっています。アクアルームでは、体ごと海に溶け込んでいくような、ゆったりとした気分を味わえます。マンタや回遊魚たちが頭上を泳いでいく姿は、まるで空を飛んでいるようにも見えます。

美ら海水族館10

■1個900円のヤシの実生ジュースと美ら海水族館(遠景)

3回に亘り、沖縄美ら海水族館の魅力についてご紹介しましたがいかがでしたでしょうか?僅か2時間弱くらいの滞在時間でしたが、ジンベエザメが悠々と泳ぐ様を見るだけでも、ここに来た甲斐はあったと思います。できれば、子供連れの家族で訪れるというのがベストかも知れませんが、特に魚が苦手で・・・という人でもなければ、「お一人様」でも十分楽しむことができると思います。

全3回で、美ら海水族館シリーズは終わります。このシリーズで、美ら海水族館とはこんなところなんだと思っていただけたかも知れません。でも、熱帯魚のカラフルな色も紺碧の水槽もジンベエザメの迫力も、実際に見るのとは大違いです。沖縄にお越しの際は、アナタの目で是非、それを確かめてみてください。

(おまけ)水族館を見終わって、オキちゃん劇場の方に向かって下りて行ったところ、やしの実を鉈で割って、生ジュースを売っているお店がありました。1個900円という値段にしばし躊躇しましたが、滅多に飲めるものではなしと買ってみました。天然の程よい甘みが喉を潤し、とてもジューシーでした。あ~、また飲みたいなぁ~・・・。では、また。

(写真先頭は、沖縄美ら海水族館のメインスポット「黒潮の海」)

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2008年4月21日 (月)

美ら海への誘い(いざない)その2

美ら海水族館13

沖縄美ら海水族館だけで出会える大感動と新鮮体験」・・・チケット売り場でチケットと一緒に渡されたパンフレットには、そんなキャッチフレーズがありました。それに続けて、「黒潮に育まれた沖縄の海。そこでは、人の想像を遥かに越えた雄大な命の営みが繰り広げられています。沖縄美ら海水族館は、その輝き、神秘そして美しさを体感する世界最大級の水族館。まさに、コバルトブルーの海深く潜り込んだような、新鮮体験がお楽しみいただけます」と紹介されていました。それでは、エントランスから中に入ってみましょう。

美ら海水族館1

■美ら海水族館の入館券

おっと、その前に、チケットを買わなければいけませんね。入場料金は、大人(一般)が1800円で、高校生が1200円、小中学生が600円です。20名以上の団体については、20%オフになります。また、何度も来てみたいという方向けに、年間パスポートが用意されています。年間パスポートは一般料金の2倍、つまり大人向けは、3600円で購入できます。東京ディズニーランドなんかの年間パスポートなどに比べれば遥かに割安ですが、何せ沖縄ですし、それも那覇空港から車でたっぷり2時間はかかりますから、内地の人がそれほど通いつめるのは厳しい・・・かも知れません。

また、開館時間は、夏季(3月~9月)は8時30分~20時まで、それ以外は、閉館が18時30分までです。都内の水族館などと比べれば、はるかに遅くまで開いていますが、何せ国頭郡(くにがみぐん)にありますので、帰りの時間も十分考慮に入れた方がよいでしょう。

美ら海水族館3

■イノーの生き物たちのタッチプール

エントランスを入ってに左手に進むと、最初の展示エリア「イノーの生き物たち(タッチプール)」があります。ここは、オープン形式になっていて、浜辺の生き物たちに触る事ができます。水族館内で配布されている「美ら海観察ガイド」によると、イノーとは沖縄の方言で、珊瑚礁に囲まれた浅い海をのことをいうそうです。ヒトデとかウニ、ナマコなどいろいろな色や形をした生物を手にとって見ることができるので、小さな子供たちに大人気。子供たちがなかなか次のエリアに進もうとしないので、大人が水辺にたどり着くのは少し大変ですが、このような類が苦手なアナタもたまにはふれあいをなされてみてはいかがでしょう。

美ら海水族館20

■サンゴの海

さて、ちょっとお話が前後しますが、美ら海水族館は4階建てになっていて、4階のコンセプトは「大海への誘い」です。ここには、イベントホールやレストラン「イノー」などがあります。ここから、訪れたお客さまをきらめく海に誘う「海人門」(ウミンチュゲート)を通って、3階に下りて行きます。

3階のコンセプトは「サンゴ礁への旅」です。先ほどの展示エリア「イノーの生き物たち(タッチプール)」を過ぎて、順路に沿って歩いて行くと、まるでザ・サンゴショーとでも言いたくなるような、約800群体の造礁サンゴが現れます。「美ら海観察ガイド」によれば、この「サンゴの海」という展示エリアでは『太陽光線と目の前の海から取り入れる新鮮な海水を用いて世界初のオープンシステムによる生きたサンゴの大規模飼育を行っている』そうです。また、この水槽のサンゴは、特別の許可を得て採集した小片を、最長10年かけて飼育したものだそうで、将来はここで繁殖したサンゴを海に返すという計画があるそうです。

美ら海水族館21

■熱帯魚の海

さらに、順路に従って進むと、カラフルで個性的な衣装をまとった熱帯魚が泳ぎ回るサンゴ礁の水槽、題して「熱帯魚の海の前に着きます。このエリアのコンセプトは『強烈な光の差し込む浅い岩場から、美しい砂地、そして薄暗い洞窟まで、沖縄周辺に広がるサンゴ礁を忠実に再現』というものです。

赤、青、黄色、ピンクなどの色とりどりの熱帯魚たちが、目の前をゆっくり泳ぎながら横切っていきます。室内にいながら、まるでダイバーにでもなったような、そんな感じを抱かせてくれるエリアです。ここでは、サンゴ礁に生きる熱帯魚たちが自然に近い状態で飼育されています。

美ら海水族館11

■熱帯魚の海を泳ぐ「メガネモチノウオ」と「ウメイロモドキ」

「美ら海観察ガイド」から、この「熱帯魚の海」に住む魚たちを、もう少し紹介しておきましょう。大きいものだと2mにもなる「メガネモチノウオ」や全長120cmの「カスリハタ」。ブダイの仲間の「イロブダイ」「ナンヨウブダイ」、色鮮やかな「カスミチョウチョウウオ」や「トゲチョウチョウウオ」。他にも、「ミスジリュウキュウスズメダイ」や「ルリスズメダイ」など、まだまだたくさんの魚たちが泳いでいます。
美ら海水族館12

■各水槽には、展示解説のパネルが設置されている

「熱帯魚の海」には、多種多様な鮮やかな魚たちが泳いでいます。それを眺めているだけでも十分楽しめますが、やはりどんな名前の魚なんだろうという興味の湧く方も多いのではないでしょうか。美ら海水族館では、このような方のために、水槽の中にどんな魚がいるのかパネルで教えてくれます。また、各水槽エリア毎に、展示解説支援ツールとして「美ら海観察ガイド」が置いてあります。「美ら海観察ガイド」は水族館にいる生き物たちの図や分かりやすい解説が書かれたA4サイズのリーフレットです。この観察ガイドを、全て集めると16枚になり、クリアファイルなどに入れると立派な図鑑になります。お魚のことをもっと知りたいというアナタなら、これを見ながら各エリアを訪ねるのも良いでしょう。

尚、この「美ら海観察ガイド」は無料ですから、入館記念に、また、お土産としてお持ちになれば良いと思いますが、素手で持って歩いていますと、写真を撮る時など案外邪魔になるものです。また、1枚1枚が思ったよりも思い・・・ではなく、重いので、終盤に差し掛かった頃に握力にきます。ですから、何かバッグなど入れ物を持参するなどされる方が宜しいかと。老婆心ながら・・・。

3階の「熱帯魚の海」エリアを過ぎて2階に下りると、それまで見てきた大型水槽による展示とは趣を変え、「サンゴの部屋」「サンゴ礁への旅 個水槽」というセパレートされた展示が続きます。それでは、こちらに回ってみましょう。

美ら海水族館6

■沖縄名で「ジュリグヮーイユ」と呼ばれる「ハナゴイ」

美ら海水族館15

沖縄名「カーサー」と呼ばれる「タテジマキンチャクダイ」

美ら海水族館14

■これも沖縄名「カーサー」と呼ばれる「ヒメツバメウオ」

「サンゴの部屋」はサンゴ礁の成り立ちから、サンゴ礁に住む生き物までを分かりやすく解説するコーナーです。アンボイナの歯舌やナンヨウハギのトゲなど、サンゴ礁の危険生物を、模型と実物を対比させながら分かりやすく紹介しています。また、他にも、「ハブクラゲ」や「オニヒトデ」「ウンバチイソギンチャク」などの展示があります。

「サンゴ礁への旅 個水槽」では、30の個水槽で、サンゴ礁に生息する様々な生き物を紹介しています。マングローブ林を再現した水槽やクマノミ類を集めたコーナーなど見どころがいっぱいです。ここには、上の3枚の写真に掲げた熱帯魚以外にも「ロクセンヤッコ」や「セジロクマノミ」「ハマクマノミ」の様な鮮やかな魚たちだけでなく「ニセゴイシウツボ」や「トラフシャコ」のような鑑賞用には如何なものかというものも展示されています。

とにかく、珍しい生きものもいっぱいいて、また、見せ方も工夫しているので「足早に通過」なんてところがなく、ここまで見て回って約1時間くらいかかっていました。この後、順路では、美ら海水族館のメインスポットである「黒潮の海水槽」方面に回るのですが、その様子は、また次回に。

(写真先頭は、「熱帯魚の海」に見入る人たち)

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2008年4月12日 (土)

美ら海への誘い(いざない)その1

美ら海水族館1

美ら海水族館11

4月にならないと、なかなか旅に出るのが難しいと思っていたのですが、3月に入ってからは、前回投稿した「なは・あかつき」にちなむ旅をはじめ、広島やら釧路やらオフィスからの脱出は、取りあえず果たせるようになっていました。

しかし、いずれにしても4月になるまでは、プロジェクト中心の仕事環境が変ったわけではなく、外に出してもらっても時間的な余裕をもらえるわけでもなし、また、携わる案件もラクなものなど回してもらえる筈もなく、そんな事からもゆっくりと旅を楽しむなどという気分にはとうていなれる筈もなく・・・というキビシィ状況(?)には変りはありませんでした。

そのうえ、花粉症と付き合うようになって20年以上にもなるこの身には、3月は1年の内でコンディション上は一番きつい季節でもあるのです。杉や檜の花粉が飛び回るこの季節は本当に憂鬱になってしまいます。

ところで、沖縄には花粉症がないということをご存じでしょうか?春だというのに、鼻をグシュグシュしたり、マスクをかけたり、ましてや海やプールでもないのにゴーグルをしている人など全く見かけることはありません。なぜなら、沖縄は戦後米軍の統治下にあったため、スギの植林はあまり行われていないのです。しかも気候や地形の関係で針葉樹が育ちにくく、花粉症のモトがないので花粉症もないのです。

*)ここでいう花粉症とは、スギ、ヒノキによる花粉症のことです。

別に花粉症対策ということではないのですが、奇しくも昨年と全く同じ3月21日に沖縄を訪れる機会がありました。ちなみに、沖縄に来たからと言って、すぐに花粉症が治る訳ではありません。ただ、なんとなく呼吸が楽というか。空気がマイルドというか、そんな感じはありました。しかし、聞くところによると、本当に症状の改善を見るには、数週間から1ヶ月くらいは滞在しないとダメみたいですから、沖縄到着~劇的改善というコトにはならないようです。

前置きはこのくらいにしておいて、3月までの旅の中で、他にこれと言ったネタがなかったということもあり、以前から一度は行ってみたいと思っていた「沖縄美ら海水族館」を訪ねた時のことを、今回は書いてみようと思います。ただ、文章で表すのもなかなか難しいという点も多く、今回はできるだけ画像を入れて構成をしてみたいと思います。そんな関係から、数日間に亘って投稿することにします。では、イントロダクションはここまで。

(写真上は、海洋博公園の中央ゲート側から見た美ら海水族館)

(写真下は、美ら海水族館の正面入口)

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2007年11月11日 (日)

最果て紀行 その4

稚内8

稚内の市街地を抜けると、後はもう一本道のようなもの。車の鼻先を宗谷岬に向けて、ただひたすら国道238号線を走る。稚内空港を横目に通り過ぎると、進行方向の左手には、ダークブルーの宗谷湾の海が広がり、右手には原野なのか原生花園なのかよく分からないが、言うならば手付かずの風景が広がる。そのうえ、強い風のせいなのか、植物としての北限のためなのかこれも不明だが、背の高い樹木が殆どないことに気づく。

富磯漁港に近づく頃から、数多くの巨大な風車が回る丘陵の景色に出会う。稚内は、南部以外の三方を海に囲まれ、また、その風を遮る山脈もないので、海からの強風にさらされる。このため「風の街」と呼ばれる稚内は、この特性を生かそうと風力発電も盛んだ。風力発電は、クリーンエネルギーとして、また、この地区の電力需要を賄うインフラとして有用なのは理解できるが、景観との調和ということも十分考慮して設置をしてほしいと思う。

富磯漁港を過ぎると、右手に宗谷中学校が見える。宗谷中学校は、日本最北の学校なのかと思ったら、日本最北の中学校なのだという。因みに、日本最北の学校は、稚内市立大岬小学校なのだそうだ。

あと少し走れば、宗谷岬に着く。

稚内9

■宗谷海峡から遠くサハリン(旧樺太)の島影を望む

稚内11

■宗谷海峡付近の地理を示す石板

2007年11月9日 午前10時頃、ついに日本最北の地、宗谷岬の地を踏んだ。先ずは、日本最北端の地の碑に行ってみる。こんなに早い時間なので、余り観光客もいないだろうと思っていたら、さにあらず。前回の記事にも書いた通り、このあたりに来た人たちは朝早くから動くし、観光バスも既に数台着いていてまずまずの賑わいを見せていた。

日本最北端の地の碑は、宗谷岬の先端、北緯45度31分14秒にあり、文字通り日本最北端の地に建てられている。三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしていて、塔の中央にあるNの字は北を、台座の円形は平和と協調を表現しているそうだ。毎日、日没から夜明けまでライトアップがされていて、幻想的な風情を見せるというが、夜までいられる程の時間はないので、それは断念。

日本最北端の地の碑から遥か海の彼方を眺めたら、サハリンの島影を望むことができた。この日本最北端の地とサハリンの間には、どう目を凝らしても海しか見えなかった。しかし、宗谷岬と対岸の僅か43km、サハリンとの間には国境という見えないラインがしっかり引かれている。ここから先に日本の領土はなく、ここが国境の街なのだということを実感させられる。

日本最北端到着証明書

蛇足だが、宗谷岬の土産店には「日本最北端到達証明書」なるものを売っている。日本最北端の地に立った記念に買い求めてみた。名刺サイズのこの証明書は、一通、100円で、ここを訪れた人でなければ、買うことはできない。証明書には日付が押され、稚内市観光協会の協会印が入る。ちょっとした記念にはなるだろう。

稚内10

■間宮林蔵の立像

話は変わるが、1809年に間宮林蔵が、樺太(サハリン)とユーラシア大陸の間にある海峡を発見するまで、欧米では樺太は半島ではないかと考えられていた。このとき、林蔵が発見した海峡は、「間宮海峡」と名づけられ、現在でもその名を残している。世界地図に名前の載った日本人は、後にも先にも間宮林蔵ただ一人である。

間宮林蔵は、江戸で測量と製図を学び、幕府普請工事に従事した。1800年頃、ロシアの南下政策を警戒して北方警備の重要性が幕府にも認識されはじめたが、当時は、蝦夷地の地理もまだよく知られていなかったために、林蔵は幕府の役人として調査に同行するように命じられた。

林蔵は、蝦夷地で測量調査をする一方で、伊能忠敬に測量技術を学んでいる。こうした実績を認められて樺太探検を命じられたのは、1808年のことである。このときに樺太が島であることを推測した林蔵は、翌年にも探検を行い、大陸に渡るなどして島であることを確証したのである。

間宮林蔵は、常陸の国(現在の茨城県)の人だが、蝦夷や樺太に縁が深いということから、この宗谷岬にも、林蔵の偉大な業績を称えたモニュメントは多い。立像は、林蔵の生誕200年を記念して、1980年に建てられたものだという。

稚内12

■間宮林蔵渡樺の地を示す案内版

稚内13

■間宮林蔵が樺太に発った地をしるした碑と林蔵が持参したという墓石

宗谷岬から稚内に向かって、西へ3kmほど戻ったところにある第2清浜地区に「間宮林蔵渡樺出港の地」がある。林蔵が、樺太に向けてどこから出発したのかは、彼の著書「東撻(とうだつ)紀行」でも、ただ、宗谷とあるだけではっきりしないのだという。しかし、現在では、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第2清浜地区が林蔵渡樺の地と考えられているそうだ。尚、碑の横には、渡樺にあたり、死を覚悟した林蔵自らが稚内に持参したと伝えられる墓石が奉られている。

さて、4回に亘った「最果て紀行」も今回で終わります。第一回で稚内の魅力を余すことなくと予告していましたが、いかがでしたでしょうか。とかく、暗い、寒いなどのイメージがつきまとう最果ての街ですが、今回の投稿をご覧になって興味を覚えた方など、一度くらいは足を運んでみるのも如何でしょう。

まぁ、でも、わっかないか・・・。

(写真先頭は、日本最北端の地の碑)

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2007年11月10日 (土)

最果て紀行 その3

稚内3

稚内の朝は早い。目覚めると、外で汽笛が響いていた。今日の天気はどうかと気にしながら窓の外に目をやると、埠頭には2隻のフェリーが泊っていた。中央埠頭にあるフェリーターミナルからは、利尻・礼文航路の船が1日3、4便くらい出ており、島とこの日本最北の市とを結んでいる。

朝6時半から7時にかけて、利尻島や礼文島に向かう船が港を出て行く。それに合わせるためなのか、ホテルの朝食の開始時間はとても早い。朝7時からというのが一般的かと思うが、稚内全日空ホテルの朝食会場のオープンは、なんと5時45分だった。

周りの起動の早さに合わせてというつもりはさらさらなかったが、11時20分の飛行機で稚内を発たなければいけないということもあり、同僚とホテルを8時には出ようと決めていた。というのも、ある程度ゆとりを持ちながら、一通り近場のスポットをカバーして、日本最北の地、宗谷岬まで行くには、少なくとも3時間くらいは必要かと思っていたからだ。

稚内2

■半アーチ式の構造の北防波堤ドーム

しかし、人間、いつものクセはなかなか抜けないもので、結局、スタートは8時半過ぎになった。稚内2日目の天気は快晴、気温4~5度、この季節としては、絶好とも言えるコンディションの中、車をスタートさせた。先ずは、平成13年に北海道遺産に指定されたという北防波堤ドームに行ってみる。

この北防波堤ドームは、昭和6年、稚内港の北埠頭が旧樺太航路の発着場だった時代に、ここへ通じる道路や鉄道へ波しぶきがかかるのを防ぐために建設されたもので、高さ13.6m、柱の内側から壁まで8m、総延長427m、柱の総数70本、半アーチ式の構造になっている。古代ローマの建築物を彷彿とさせるなだらかな曲線で作られた回廊は、「樺太へ渡る人々で賑わった頃のシンボルで、世界でも類のない建築物」としても注目を浴びているという。

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■氷雪の門の碑文

北防波堤ドームを後に、昨日と同じ丘陵の道を登り、稚内公園の中にある氷雪の門、九人の乙女の碑、南極観測樺太犬記念碑・樺太犬供養塔などがあるエリアに行ってみた。

冒頭に掲げた写真が氷雪の門。氷雪の門は、正式名を「樺太島民慰霊碑」と言い、かつて日本の領土だった樺太で亡くなった日本人たちの慰霊碑で、高さ8mの望郷の門と2.4mの女性のブロンズ像と土台の霊石からなっている。真ん中のブロンズ像の、顔は戦争で自分たちが受けた苦しみを、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを、足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを、それぞれに意味が込められているという。

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■ノシャップ岬の突端にある標識と海

稚内公園内にあるいろいろな記念碑をかけ足で見て回り、ノシャップ岬に向かう。ノシャップとは、「岬がアゴのように突き出たところ」「波の砕ける場所」というアイヌ語「ノッ・シャム」が語源になっているそうだ。夕日が美しいポイントだということだったが、日没までいることはできず、取り敢えず、海の見えるところまで行って、シャッターを切った。標識がなければ、ただの海の写真と化してしまうので、ここで写真を撮ると、誰が撮ってもだいたいこんな感じになるのではないだろうか。ノシャップ岬は、利尻島や礼文島のビューポイントでもあるので見渡してみたが、利尻富士はガスって見えず、礼文島もぼんやりと霞んで確認不能だった。

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■赤と白のツートーンの稚内灯台

また、ノシャップ岬には、紅白のツートンカラーが特徴の稚内灯台がある。この灯台の高さは42.7mで、北海道では一番高い灯台であり、全国でも島根県日御岬(ひのみさき)灯台に次いで2番目の高さになるそうだ。現在の灯台は2代目になるそうで、米軍ノシャップ基地の増強と拡張により、昭和41年1月に、現在の位置に移設されたという。初代の稚内灯台は、映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地にもなったそうである。

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■日本最北端線路の標識

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■日本最北端の稚内駅

ノシャップ岬を後にして、一路、宗谷岬に向かっていたのだが、そういえば、これも日本最北のスポットの一つには違いなかろうと思い、稚内駅に立ち寄ってみた。日本最南端の駅、指宿枕崎線の西大山駅から延々3135kmを旅した鉄路の北の終着駅が、ここ稚内駅になる。ここから先には、日本の鉄道はない。島式ホーム1面2線のなんの変哲もないローカル駅が、そう思うからか、何か特別な存在感を醸し出す。ただ、同じローカル駅とはいえ、南の明るい太陽のもとにある最南端の駅と比べると、なんとも重苦しく感じるのは私だけではあるまい。寂寥感の漂う駅舎と線路を後に、いよいよ宗谷岬へと向かう。では、次回。

(写真先頭は、氷雪の門)

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2007年11月 9日 (金)

最果て紀行 その2

稚内夜景

午後3時半頃、あたりにはもう夕方の風情が・・・。低い軌道をたどる太陽から放たれた日差しが、地面に背丈の高い影を落とす。今日(11月8日)の日没は、午後4時11分でもう間じかに迫っていた。

だんだん弱々しくなっていく日差しの中で、さて、これからどこに行こうかと、またまた今回も、相棒としてジョイントした「愛と平成の雨男?」(「嵐を呼ぶ雨男」だったか?まぁ、どっちでもいいか・・・)と相談した。

ここまで来たからには、「まずは、日本最北端の地に行ってみたいよねぇ」と話がまとまり、宗谷岬を目指すことに。レンタカーのカーナビをセットしたところ、現在地である南稚内からまだ、35kmもあることが分かった。またまた、そこで「どうしようか?」となる訳で・・・。ただ、宗谷岬に着く頃には、とっぷりと日が暮れているだろうということに疑う余地はなかった。

しかし、敢えて行き先を宗谷岬に向けてスタートを切った。晴天のとても穏やかなこの日を無駄にはしたくなかった。なにせ、極地に近い(というのは少しオーバーですね)この地方の明日の天気に保証はないし、荒天にでもなろうものなら元も子もないという危惧が、こうした結論を導いたのだった。ところが、数km車を走らせたところで、断念せざるえをえなかった。というのは、「秋の日は釣瓶落とし」などという風流なことを言っていられない程、あっという間に、周りが薄暗くなってきたので、やむを得ず・・・。ダンネン!

「では、明日、少し早めにホテルを出発しよう」と同僚と話がまとまり、まずは、本日の宿である稚内全日空ホテルの近辺のスポットに行ってみることにした。ただ、「何とかの碑」というようなところに行って、薄暗いなかで見るのもどうかなという気もしたので、日本最北端の夜景スポットとして、稚内の夜景が一望できると紹介されていた「開基百年記念塔」に行くとにした。

「開基百年記念塔」のある稚内公園を目指して、丘陵の坂道をひたすら上っていくと、途中で一方通行になる。上り方面は、一方通行の分岐点で左折するのだが、そこを越えたあたりから、いやに鳥が目につくようになる。

薄暗いので最初はどんな鳥がいるのかよく分からなかったが、丘をさらに上って、ほのかに明るくなった時、自分達が何に囲まれているのかが分かった。カラスだった。稚内公園内の電線にびっしりと止まっているにとどまらず、それから溢れたカラスは、車道で群れていた。まるで、ヒッチコックの映画「鳥」を連想させるような、ちょっとゾクゾクするような光景だったが、それは寒さのせいだけではないような気がした。

そんなカラスの群れを蹴散らしながら、海抜170mのところにある「開基百年記念塔」にたどり着いた。到着して思ったことは、観光施設にしては「いやに人気がないな」だった。その理由は、後になって気づいたのだが、それもそのはずで11月~4月下旬までは閉館となっており、ドアのところなどは板で打ち付けてあった。

レンタカーやさんでもらったパンフレットにも「冬季閉館」などの案内はなく、そうしてくれれば、このような無駄なことにも・・・とブツブツ言いながら、車の外に出てみると「こりゃぁ寒い!」。気温は下がっているわ、風も出ているわで、長時間、車外に出ているのは流石にきつく、丘の上から稚内の夜景をカメラに収めると、そそくさと退散したのであった。では、次回。

(写真は、稚内公園からの稚内夜景)

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2007年11月 8日 (木)

最果て紀行 その1

稚内公園から

利尻島

「北緯45度にある街」と聞いてどこだか分かりますか?11月8日の午後3時半、東京から10度も北にあるこの地の気温は3℃でした。

「もっと、いい時期に行けばいいのに・・・」と周りからもよく言われます。しかし、ここ数年、北海道での仕事は、なぜか冬になってしまうのです。まぁ、経緯はともあれ、何とか雪の影響を受けないうちに・・・と考えつつ、今年も恒例となりつつある(?)晩秋から冬にかけての北海道ツアーをスタートさせました。

今年のツアー第一弾は、日本最北端の市・稚内から道都・札幌に回るというものです。例えば、北海道以外に住んでいる人が、北海道に行くとしたら、どうでしょう?そのルートに稚内を入れるなんてのは、おそらく、稀なパターンではないでしょうか?実際、かくいう私もウン十年も生きていますが、稚内の地を踏んだのは、これまで3度しかありません。

一度目は、私がまだ高校生だった頃、とにかく日本の一番端まで行ってみようと、郷里の倉敷から一気に北上した時のことです。とにかく、その時は、貧乏旅行だったせいもあり、飛行機はおろか、特急なども極力利用しなかった(できなかった)ためか、到着までに2日半を費やした記憶があります。

二度目は、この仕事に就いてからになりますが、2004年11月、帯広から札幌、旭川と転戦(?)し、最終日に稚内から空路東京に戻る予定だったはずが、急遽、再度札幌方面に戻らなければならなくなり、結局、札幌と稚内を列車で往復させられるという難行、苦行を強いられる羽目に・・・。何せ、列車に5、6時間も座り続けなければいけないというのは、流石に辛いものがありました。

従来と違い、今回の長距離移動は全て飛行機を利用したので、「座り続けの刑で、お尻が痛くなった」なんてことは免れたものの、羽田から僅か1時間半程度、飛んだだけで着いてしまうというのも、「どんだけ~」というべきか、何か味気ない気もするのです。最果ての地まで辿り着くには、それ相応の苦労があっても然るべき・・・なんて思うのはアナクロなセンチメンタリズムでしょうか。

それに、一度目は、夜中に稚内に着いて、翌朝、利尻島に渡り、夕方の列車でとんぼ返りの如く旭川方面に戻るという行程。二度目も、夕方6時ごろに南稚内に着いて、それから一仕事して、ホテルに。翌日朝、7時10分発の特急「スーパー宗谷2号」で稚内を発つという行程であったため、稚内での滞在時間はごくごく僅かなものでしかありませんでした。それに比べて、今回は幸運にも(?)ほぼ丸1日、稚内にいることができました。

なんだか思い出話ばかりになってしまいましたが、ともあれ、今回から数回にわたり、「最果て紀行」と題して、稚内の魅力を余すことなく(?)お伝えしたいと思います。では、次回。

(写真上は、稚内公園の丘陵から望む稚内市)

(写真下は、遠く洋上に霞む利尻島)

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2007年10月15日 (月)

続・塔のある風景

醍醐寺2

毎年10月くらいになると、「今年も後少しだよなぁ」という気持ちになります。それは、カレンダーの残り具合を見てそう思うのか、それとも、外気の肌寒さから、来るべき冬のことに思いを馳せるからなのかよく分りませんが・・・。どちらかと言えば、そんな感傷に浸るようなタイプではない筈なのですがねぇ。

10月に入ってからは、旅らしい旅には出かけていないような気がします。近場で川崎の方に何度か出かけてみたり、夕方からの名古屋での仕事のために、午後に東京を発って翌朝帰ってくるなどという面白みのないパターンの、旅というよりは「行き来」を幾度か繰り返しているに過ぎませんでした。そんな感じなので、10月に入っても特段、投稿するほどのネタもなく・・・となり、ボツるかとも考えていた、9月29日(土)の「塔のあるお寺めぐり」(?)の続編でつなぐことにします。

さて、前回の投稿の中で「今回の京都出張は、季節が中途半端な時期だったので・・・」と書きました。だから、今回は「今後も多分そこだけを訪ねて行くことはないだろう」という、どちらかと言えば京都観光巡りの中心線からは離れた所に行ってみようかと思った訳であります。

そんなことを思いながら、東寺を訪ねた後に、醍醐寺に行きました。醍醐寺は東寺とも密接な関係を持つ真言寺院ですが、お寺同士の関連性を理解して、事前の計画により醍醐寺に行った訳ではなく、ましてや、タイトルの「塔のある風景」を意識して、訪れた訳でもありません。どちらかと言えば、醍醐寺に来てから初めて「醍醐寺にも五重塔があるんだ」と気づいたくらいですから・・・。

コミュニティバス

■醍醐コミュニティバスの1日乗車券

公共交通機関を使って京都から醍醐寺に行くには、JR山科駅から京阪バス(22系統か24系統)で、醍醐三宝院バス停で降りるのが一番楽かなと思います。鉄道の最寄り駅はというと、京都市営地下鉄の醍醐駅になります。ここから徒歩で行くのに何の問題もありませんが、地理に不案内な方なら15分くらいはかかると思った方がよいでしょう。

そんな方の為に、醍醐寺までは「醍醐コミュニティバス」という地域が運営するバスが運行されています。乗り場は、地下鉄醍醐駅の醍醐寺方面出口から出てすぐ右手にありますが、京阪バスターミナルの向かいというように覚えておけば迷うこともないでしょう。運行間隔は20分おきで、醍醐駅から醍醐寺までの所要時間は、4~5分です。運賃は均一性料金になっていて、乗車1回につき200円ですが、300円で1日乗車券が販売されている(車内で買えます)ので、往復で利用される方は、これを購入した方がリーズナブルです。

醍醐寺1

■醍醐寺の金堂(国宝)

平成6年に、ユネスコの「世界文化遺産」に登録された醍醐寺については、多くの紹介情報があります。お寺の由来などは、いずれかの情報から引用させていただくことが多いのですが、今回はこのブログらしく(?)総門の付近にポツンとあった京都市の案内板を使わせていただくことにしました。この案内板には、次のように記されていました。

醍醐寺は聖宝(しょうほう)理源大師が貞観十六年(874)に上醍醐山に小堂宇を建立し准胝(じゅんてい)、如意輪(にょいりん)の両観音像を安置したのに始まる。その後、醍醐、朱雀、村上三帝の信仰が寄せられ、延喜七年(907)に醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように、下醍醐に、延長四年(926)釈迦堂が建立され、次いで天暦五年(951)五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。

そののち、応仁、文明の大乱の余波により、五重塔を残し灰燼に帰してしまった伽藍の復興に力を尽くしたのは、桃山時代の座主義演准后(ぎえんじゅごう)である。准后は、豊臣秀吉と関係を持って、伽藍、三宝院殿舎・庭園の復興をなすと共に、一代の英雄の最後を飾る善美を尽くした醍醐の花見を催させたことにより知られる人である。

江戸時代に入り、修験道中興の祖・聖宝により承継されてきた三宝院に属する修験(山伏)を「当山派」と称する許可を幕府より得、座主高賢の大峯入峯により醍醐の教風が広まっていった。現在もその法流を汲み花供入峰修行が行われている。現存する伽藍と中心的子院の建築の主要なものの多くが、国宝や重要文化財に指定されている。(京都市)

醍醐寺5

■三宝院(大玄関)

醍醐寺に来てみて分ったのですが、ここは結構広いです。それもその筈で、醍醐山全山が寺領だということからも分ります。伽藍も下醍醐、上醍醐とに別れており、上醍醐まで行くのに1時間くらいはかかると言われ、そこまで上るのは止めにしました。

醍醐寺の次は宇治の方にと予定していたにはいたのですが、予定がかなり押してしまい、宇治は止めにして、三宝院に入ってみることにしました。当初、三宝院に入るかどうか決めていなかったので、伽藍の拝観券(600円)しか買っておらず、三宝院でも、またまた拝観料(600円)が必要に・・・ということに。

因みに、醍醐寺においては共通券というのがあって、伽藍と三宝院の2ヶ所の拝観なら1000円という体系になっています。当初は1箇所での拝観券を購入して、その後もう1箇所追加で拝観というパターンで行動すると、個々の拝観料が必要になり、合計で1200円がかかります。後で「差額で調整してもらえません?」なんて頼んでみても、それはムリですから、念のため。

醍醐寺4

■三宝院庭園

秀吉が催した醍醐の花見は、慶長3年(1598)の春に行われたと伝えられています。秀吉が没する5ヶ月前であったと言われています。奈良、吉野で大々的花見(酒宴というべきか)を行った秀吉が、京都でも奈良に劣らない花見をしたいということから計画されたイベントが醍醐の花見なのです。醍醐の花見に際し、秀吉は、庭奉行の竹田梅松軒等に命じて三宝院に庭園を作らせたといいます。この庭園は、池泉回遊式と枯山水が折衷された見事なものです。

最後に、三宝院のことも書いておきます。(拝観券と同時にいただいたパンフレットから引用させていただきました。)

三宝院は、永久三年(1115)、醍醐字十四世座主・勝覚僧正の創建。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊である。現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されている。

醍醐寺は「花の醍醐」と言われるほど桜の名所として有名です。ですから、最高の時季は桜の季節ということになります。醍醐山の山上・上醍醐から麓の下醍醐まで約二百万坪の境内に、しだれ桜、ソメイヨシノ、八重桜、山桜など約千本が咲き競うさまは、それは、それは見事なものなのでしょう。いつかは、満開の桜花が彩る季節にここを訪れ、太閤秀吉の栄華を偲んでみる・・・なんてのもいいかなと思いますよ。

(写真先頭は、醍醐寺の五重塔)

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2007年9月29日 (土)

塔のある風景

東寺3

西に向かう新幹線が、京都駅を出るとすぐ左手に五重塔が見える。暮れなずむ京の街に、残照に映えながら佇む五重塔を見るにつけ「ああ、京都なんだなぁ」と、しみじみとした気分にさせてくれる。その五重塔のあるところが東寺だと知ったのは、新幹線の車窓から五重塔を眺めるようになってからかなり後になってのこと。

確かに、何度も京都には来ているのですが、東寺には今まで一度も行ったことがなかった。「その理由を述べよ」というなら、ひとつは京都駅から近いので、何時でも来られるだろうと思っていたこと。もうひとつは、東海道線などの鉄道を挟んで、南側には北側に比べるとはるかに見所が少なく、春や秋などの季節のいい時期には。わざわざ・・・という気持ちにならなかったからかも知れません。

今回の京都出張は、季節も秋というには早く、気温はともかく、夏というには遅すぎるという中途半端な時期であったことから、それでは、今までなかなか訪れることのなかった東寺に行ってみようかと考えた。さんざん何処に行こうかと迷いに迷った挙句ではありますが・・・。

東寺7

■南大門の大提灯

東寺は、正式な寺号を教王護国寺といい、約1200年前、平安京を守る目的で創建された官寺です。羅城門の東に位置したことから東寺と呼ばれました。後に、空海がもらい受け、五重塔を建立して真言宗の道場としたので、弘法大師のお寺として発展しました。

毘沙門天像

■小さな毘沙門堂にある兜跋毘沙門天立像

東寺の伽藍は、南大門を入って「金堂」「講堂」、少し隔てて「食堂」が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置されています。国宝の「講堂」に立体曼荼羅(りったいまんだら)として知られる21体の仏像を安置する他、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像、両界曼荼羅図などの密教美術の傑作を多数所蔵しています。

東寺は、創建後1200年の間に、幾度も台風、雷火、兵火等の災害を受け、堂塔の大半を消失しましたが、その都度、もとの姿に再建され、特に五重塔は古都の玄関の象徴として昔の姿そのままにとどめています。この五重塔は、高さ55mで日本最大の木造塔として有名で、夕暮れからライトアップされ古都の夜に趣をそえています。

さて、堂塔拝観料として500円を受付で支払うと、拝観券とともにパンフレットをくれます。その中には「東寺のみほとけ」など各堂内の諸尊をはじめ伽藍や弘法大師のことなどが解説されています。その中から、一部引用させていただいて、東寺の主な伽藍について記しておきましょう。

東寺4

■金堂(国宝 桃山時代)

金堂は、東寺一山の本堂で延暦十五年(796)創建されたと伝えられています。文明十八年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に竣工しました。天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風みなぎる桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れています。

東寺6

■講堂(重文・室町時代)

東寺の創建時にはなかった講堂は、天長二年(825)弘法大師によって着工され、承和二年(835)頃には完成しました。その後、大風や地震で大破し、度々修理を重ねてきましたが、文明十八年(1486)の土一揆による戦火で焼失しました。現在の講堂は延徳三年(1491)に再興された建物で、旧基壇の上に建てられ、様式も純和様で優美な姿を保っています。

東寺1

■大師堂(西院御影堂 国宝・室町時代)

西院は伽藍の西北部にあり、弘法大師の住房で、大師の念持仏、国宝・不動明王像(秘仏)一軀が安置され不動堂とも呼ばれていました。康暦元年(1379)焼失しましたが、その翌年には再建され、さらに十年後の明徳元年(1390)には北側に、国宝・大師像を拝するための礼堂と廊を加え現在の姿となりました。堂内には、不動明王と大師像が祀られ、弘法大師信仰の中心となっている御堂です。入母屋造りの礼堂、切妻の中門、ゆるやかな勾配の総檜皮葺の屋根がその優美さを際立たせています。

話は変わりますが、観光エリアに一人で訪れることの利点は、誰にも気兼ねすることなく、自分のペースで見て歩けるということでしょうか?ただ、その反面ちょっと寂しいなと感じることもあります。こういう時は、そこを案内するガイドさんを伴った一団に加わってみたりすると、味気なさが多少紛れるものです。(ただ、余り付きまとっていると変に思われますから、勿論、そのあたりはほどほどに・・・)

今回もちょっと便乗して、ガイドさん付きの御一行様と一緒に歩いていたら、金堂内の柱の秘密についてというお話を耳にしました。ちょっと興味深かったので、そんなお話でもご紹介しながら、今回はお終いにしたいと思います。では、また。

東寺5

金堂内を歩いていると、柱の根元に何やら四角いものが空いているのが見られます。これは一体なんでしょう?金堂のような大きな柱を使用した構造物の場合、柱を据え付ける向きがとても大事なものになります。それは、柱の上に、頭貫(かしらぬき)という材を据え付けるために、柱の上部に、縦に溝を掘ります。その溝の向きを揃えるため、下から調節をしなければなりません。

その調節をするために、この穴に角材を入れ、それを回して向きを調節したのです。奈良の大仏殿に大仏様の「鼻の穴」というくり抜き部分がありますが、それも同様なものであると思われます。また、金堂の柱が乗っている礎石を良く見ると東西南北を示す刻みが付いているものもあります。この線に合わせて、あのような巨大な柱を動かしたのです。

(写真先頭は、東寺境内にそびえる五重塔)

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2007年9月21日 (金)

空の日によせて 2

大分上空を飛ぶ

■福岡空港を離陸して、別府湾にさしかかるあたり

2005年9月20日、「空の日によせて」というタイトルの投稿をしましたが、奇しくも2年後の同じ日、またまた空の上でこの日を迎えました。しかし、9月20日が空の日だということは、全く意識にありませんでした。C.A.さんから、飛行機の図柄のグッズ(今回は、ポストイット?)をもらって、「ああ。そうだったか・・・」と思い出したくらいでしたし。

大分空港上空を飛ぶ

■大分空港の上空を飛ぶ

「空の日って何?」ということも、前回は中途半端な書き方で終わっていたので、今回は、国土交通省のHPから引用させていただき、簡単にふれておくことにします。

「空の日」の起源は、昭和15年に制定された「航空日」が始まりです。
この年の「航空日」は9月28日に行われましたが、昭和16年の航空関係省庁間協議において9月20日と決定されました。第2次大戦終戦に伴う一時休止もありましたが、昭和28年に再開され、民間航空再開40周年にあたった平成4年に、国民の皆さんにとってより親しみやすいネーミングということで、それまでの「航空日」から「空の日」へ改称するとともに「空の旬間」(9月20日から30日)が設けられ、現在に至っています。

佐田岬上空を飛ぶ

■四国の最西端、佐田岬の上空を飛ぶ

9月20日の空は、自分の今までのフライトの中でも、ベスト3に入るくらいの快晴中の快晴でした。しかし、途中まで、空の日だという認識がなかったので、カメラはバッグの中にしまったまま。「しまった」と後悔したのは言うまでもありません。

しかし、余りにも「いい空」だったので、9月20日のANA251便の機内から、道中ずっと外を眺めていました。富士山も、伊豆半島も、南アルプスも、琵琶湖も、淡路島にかかる明石海峡大橋も、瀬戸大橋も、玄海湾のエメラルドグリーンの海もくっきりと見え、紙に書かれていない日本地図を網膜にしっかりと焼き付けてきました。

伊豆七島上空を飛ぶ

■利島や新島など、洋上の彼方に霞む伊豆七島

翌日の9月21日、天気予報によると今日も高気圧に覆われて、日本全国とも「晴れ」とのこと。それでは、昨日のリベンジ?ではないものの、1日遅れの空を撮ってみようと、この日はカメラを機内に持ち込みました。

では、Please Fly with me. 福岡15時45分発のANA258便の機内から見た、1日遅れの「空の日」の空をご覧ください。

くどくどとした説明など却って邪魔でしょうから、今回はこのあたりで。

上弦の月

■右手上空の空には上弦の月がみえた

南房総上空を飛ぶ

■南房総の上空にかかると、いよいよ着陸態勢に入る

東京湾を降下する。

■木更津を過ぎて東京湾に進入する

夕暮れのお台場付近

■夕暮れ迫るお台場を横切り、いよいよ羽田空港へ

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2007年9月19日 (水)

「たんご」に遊ぶ

栗田湾

「たんご」ということばの響きから何を連想されるでしょう?「たんご」と言えば・・・「端午の節句」。そうですねぇ。ダンスミュージック、「アルゼンチンタンゴ」とか「黒猫のタンゴ」(ちと、古すぎるか・・・)、国語の得意な方なら、文構成の最小単位の「単語」なんちゃって・・・。確かに、これらは全て「たんご」ではありますが、今、はやりの小島よしお風に言うなら、

「でも、そんなの関係ねえ!そんなの関係ねえ!」ということになるのでしょうか。

いやいや、小島よしおは、今回のテーマとは全く「関係ねえ」ですが、あのフレーズとアクションがここ数日、頭から離れず、こんなところで使わせていただきました。今回は「たんご」は「たんご」でも、「丹後」に関係することを書いてみたいと思います。

丹後とは、京都市の最北部に位置し、日本海に張り出した丹後半島を中心に、東は舞鶴市、西は兵庫県豊岡市、南は福知山市、大江町、兵庫県但東町に接する地域のことをいいます。

日本海が洗う海岸線は急崖の続く断層海岸ばかりではなく、ロングビーチなどもあって変化に富んでいます。また、半島の東西に伸びる海岸線は、京丹後市網野町を境に、東側が若狭湾国定公園、西側は山陰海岸国立公園に指定されています。

丹後半島の東と西には、長大な砂嘴(さし:沿岸流や波浪によって運ばれた砂礫が、海岸や湖岸から細長く突起状に堆積してできた地形のこと)をもつ宮津湾久美浜湾があり、宮津湾にある砂嘴は、天橋立」と呼ばれ全国的にも有名です。「天橋立」を見下ろす傘松公園にある案内版には、以下のように解説されていましたので、いつものように記しておきます。

天橋立1

■傘松公園から望む「斜め一文字」の天橋立

日本三景のひとつである「天橋立」は、眼下に見える延長3.6kmの松並木と、智恩寺境内を含む橋立付随地、並びに傘松公園という展望地を総称します。この松並木は、日本海の荒波が岬から土砂を運んできた砂浜で砂嘴といい、宮津湾を二分し、左側を与謝の海、右側を阿蘇の海といいます。(傘松公園から見て)

丹後風土記には、「天橋立」は、イザナギとイザナミの神が、天に通うためにかけた橋という伝説が残っており、神の住み給う奇しき地という神秘的な概念がつきまとっていましたが、それに対して松島、宮島とあわせて日本三景ということばには、風景を風景としてみる近代的な響きがあり、貝原益軒は元禄2年(1689)、西北紀行において、成相寺坂より「天橋立」を展望して日本三景の一と賞賛しました。

傘松公園のリフト

■傘松公園に登るリフト

「天橋立」を望む絶好のビューポイントとして、天橋立三大観と言われる場所があります。ひとつは、大内峠一字観公園からの「横一文字」、二つ目は、栗田峠からの「斜め一文字」そして、三つ目は傘松公園です。

傘松公園へは、麓の府中駅からケーブルカーかリフトを利用して上がります。乗車時間は、ケーブルカーで4分、リフトで6分ですが、ケーブルカーは15分間隔で運転されているので、タイミングによっては、リフトを利用した方が効率的かもしれません。因みに、運賃は往復(大人)で640円で、ケーブルカーもリフトも同じです。

股のぞき

■傘松公園の股のぞき台から股のぞきをすると「天橋立」はこんな感じ

傘松公園から見る「天橋立」は「斜め一文字」に見えます。ここでは、有名な、「股のぞき」をすることができます。「股のぞき」をすると、天と地が逆さになったように見え、宮津湾を分ける砂の道が天にかかる橋のように見えます。

飛龍観

■天橋立ビューランドから見た「飛龍観」 2004年4月9日撮影

「天橋立」の景観は、三大観の他にもいろいろ呼び名があり、南側からの眺め、つまり天橋立ビューランドからの眺めは、龍が天に向かって飛ぶように見えることから、天橋立龍伝説に因んで「飛龍観」と呼ばれています。

天橋立ビューランドは、KTR(北近畿タンゴ鉄道)の天橋立駅から徒歩5分と近いことから、電車利用の観光客なら、まずはここを・・・というようになるからでしょうか、「飛龍観」の眺めは、北側の見所と観光客を二分するほどの人気があるようです。

さて、丹後に関するお話を・・・ということで、今回はスタートしたのですが、結局、天橋立のことばかりとなってしまいました。「でも、そんなの関係ねえ!」(はい、はい・・・。)

今回は、クルマを使うことができたので、舞鶴から天橋立方面に、栗田湾や宮津湾に沿って何往復かしてみました。9月19日の京都北部の降水確率は0%。透きとおるような空と、青い海に砕ける白い波、降りそそぐ光の中で僕はタンゴに舞う風になる・・・。な~んて、言ったりするとカッコいいのですが、まぁ、そのくらい爽快な気分を味わうことができたということです。

丹後に遊んだ感想を言えと言われれば「また、この海を見に来てみたいな」と思う反面、東京方面から来るとなると、沖縄の那覇に飛ぶよりも時間がかかるので、「ちょっと二の足を踏むかなぁ」という感じでしょうか・・・。

「でも、そんなの関係ねえ!」ってか(もう、ええから・・・)

(写真先頭は、栗田湾から金ヶ岬方面を望む)

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2007年9月 5日 (水)

りぞーと特急で乾杯

ゆふいんの森7

夏休み明けの最初の旅は、九州をチョイス。な~んていえば、カッコいいのですが、9月4日から5日にかけて、大分県日田市と熊本市をそそくさと回ってきました。

朝、羽田を発って、昼過ぎに日田に着いて、2時間程いて、午後5時前の「ゆふいんの森」4号で久留米まで戻って、「リレーつばめ21号」で熊本に着いたのは、もう夕方の6時半でした。熊本に着くまでは、いい天気だったのに「さて、これから、夜の熊本に繰り出すか」とホテルを出たとたん大雨・・・。今回も相棒だった「嵐を呼ぶ雨男」の威力には、ほとほと参った。

そんなこんなで、今回は(最近では、今回もか?)取り立てて何処かに(見学?見物?に)出かけるということもなく、真面目な1泊2日で終わりました。翌5日の熊本でも、仕事が終わったら、熱中症対策とかなんとか言いながら、まるで冷蔵庫のようによく冷えた喫茶店で、ずぅ~っと涼んでいましたし・・・。

要するに、最近の出無精(出張に行っていて、出無精はないか?)のせいで、今回も主だった旅ネタも乏しく・・・ということから、日田から久留米まで乗車した「ゆふいんの森」号について、少し書いてみたいと思います。(2年前の同じ時期の投稿と少しカブりますがねぇ)

ゆふいんの森1

■日田駅に着いた「ゆふいんの森」4号

「ゆふいんの森」号は、JR九州の誇るリゾート特急で、九州最大の都市・福岡と、いで湯の高原リゾートとして名高い湯布院や、その内一部は、湯煙りの街・別府と結んでいます。車両はオールグリーンのハイデッカー構造で、とても見晴らしが良く、沿線の美しい風景を楽しむことができます。

「ゆふいんの森」号には、少しタイプの違った2編成があって、旧型(キハ71系の編成)は、「ゆふいんの森Ⅰ世」号と名乗り、新型(キハ72系の編成)は、「ゆふいんの森Ⅲ世」号と名乗っています。

ゆふいんの森4

■「ゆふいんの森」号のサロンの様子・・・揺れがひどくてブレブレですが・・・

今回、乗車したのは旧型の「ゆふいんの森」号でした。その一番の特徴は、サロンが設置されていることです。(新型にはサロンはありません)天井まで窓が広がる開放感たっぷりの車内から、沿線の美しい景色を眺めるもよし、隣りのビュッフェで食べ物やお酒を調達して、楽しむもよしという過ごし方ができます。

ゆふいんの森2

■「ゆふいんの森」のビュッフェ・・・C.A.さんがあっちを向いてしまったのが・・・

ビュッフェのメニューには、「ゆふいんの森弁当」などのオリジナル弁当2種類や、自家製生ジュース、地鶏のたまごプリンなど沿線の食材を使った逸品たちが顔を揃えています。まぁ、しかし、男二人旅には、やっぱり『酒』だよね」ということで話がすぐにまとまり、先ずは「生ビール」(400円也)を注文。つまみには、「地鶏ももくんせい」(450円也)と「久住の生ハムとうらけん牧場手作りチーズの盛り合わせ」(これも450円也)をオーダー。

ゆふいんの森3

■手作り湯布院ガイドをバックに紅白ワインの記念撮影

飲み始めたら、1杯のビールで満足するはずもなく、再び、ビュッフェでアルコールを物色。「ゆふいんワイナリーのグラスワイン」(350円也)を追加オーダー。ワインを飲み始めた頃には酔いも程よく回り、電車の揺れなのかお酒による揺れなのかよく分からないくらいに・・・。

思い出ノート

■「思い出ノート」に残した書き込み・・・2007年9月4日付で残してありますので、ご乗車の方は是非?ご覧ください。

サロンに人が少なくなったことをいいことに、備え付けてあった「思い出ノート」に意味不明のギャグを書き込んだり、客室乗務員(C..A.)手作りの湯布院ガイド「私たちが見つけた湯布院」をバックに赤と白のワインを並べて記念撮影をしたりと、他愛もないことをしながらくつろいでいたら、乗換え駅の久留米に着いていました。

「着いていました」というのは、「着きました」ということではありません。日田と久留米の間は、僅か42分なのです。飲んだり食ったりしている内に、いつの間にか着いていたのです。慌てて、客室に駆け戻り、荷物を掴んで緊急脱出を試みたので、危うく乗り越しは免れました。間一髪でしたが・・・。

僅か40分余りのリゾート特急「ゆふいんの森」号の旅でしたが、ビジネス特急にはないゴージャスなムード・・・というよりも、美味しいお酒と沿線ゆかりのおつまみを堪能させていただきました。ただ、ひとつ残念だったのは、ビュッフェでカメラを向けた時、C.A.さんがみんなあっちを向いちゃったことですかねぇ・・・。(勿論、撮影の許しはいただいたのですがねぇ)では、また。

(写真先頭は、「ゆふいんの森」からの沿線風景)

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2007年8月 3日 (金)

まつ山だ もん?

松山城天守閣

夏台風というのは、行く手を太平洋高気圧に阻まれ、日本本土に近づくことは少ないと言われています。今までの経験に基づくとそうなるのでしょうが、地球温暖化のせいなのか、最近の気象現象はどうも常識だけでは測れないようです。

それに、常識的にということなら、夏台風の大きさは小型から中型クラスが多く、余り大型の台風は来ない筈なのに、今年の台風5号は大型で強い勢力があるとのこと。それも、九州から四国に接近あるいは、上陸するかもしれないというニュースが流れる中、アポの関係とは言えまるで台風の渦中に飛び込むが如く松山に行くことになりました。

南九州を発着する飛行機が軒並み欠航となっていく中、松山への便は、幸か不幸か分らないけれど、一応、飛ぶようでした。ただ、出発間際となって天候調査が入り、松山に降りられない場合は、岡山か伊丹空港に降りるかも知れないという条件付でのフライトとなりました。そのうえ、位置関係からすると松山に近い山口宇部空港への便は全て欠航となっていたので、「大丈夫かよ・・・」と思いながら。

*)天候調査とは、出発地もしくは目的地の天候不良により、最新の気象状況や予報をもとに運航の判断をすることを言います。

しかし、ラッキー(?)なことに、予約しておいた8月2日のANA593便は飛んだのです。ですが、それ以降の松山行きのフライトは全てキャンセルになった模様。そんなギリギリの中を、台風に向かって飛んでいくものだから、必然的に飛行機は大きく揺れる。飛行機が大きく揺れると、「地に足がついていない」ということを如実に思い知らされる。なので、飛行機が苦手な人にとっては、肝を冷やす時間がかなり続いたのではないかと思われ、松山空港に降りた時、安堵の歓声が乗客の中から上がったほどです。

天気が良くなければ、おとなしく帰路に着くというが一般的ですが、雨、風が大分収まってきたので、8月3日、帰路に着く前に、松山城にでも行ってみようという気分になりました。松山城に行くのは、初めてではありませんでしたが、前回は、改装工事中だったので、普通の状態(?)で行くのは、初めてということになるでしょうか。

前置きが長くなりましたが(いつものことですが)、今回は松山城について書いてみようと思います。松山城については、ネットの中でも様々に紹介されているので、ここでは、松山城に行かないと見たり、聞いたりできない情報(場内にある案内板、お城で配布しているパンフレットなど)を主に取り上げようと思います。

「春や昔 十五万石の 城下かな」「松山や 秋より高し 天守閣」などと正岡子規が詠んだ松山城は、標高132mの勝山山頂に立ち、松山市内からなら、概ねどこからでも見えます。松山城は、大天守に小天守が連結する連立式天守を持つ日本を代表する平山城(ひらやまじろ)のひとつです。

松山城は、慶長7年(1602)正月15日、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明(1563~1631)によって起工されました。石材などは正木(松前)城や湯築城から運ばれたものも多かったようです。嘉明は足立重信を普請奉行として工事に着手。おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手繰り渡しで瓦を運ぶなど多くの人が工事に従事しました。翌慶長8年10月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。城全体の完成は、加藤嘉明が会津40万石に移封となった寛永4年(1627)頃と言われています。約26年の歳月をかけて築城されたことになります。

さて、松山城には、戦術的に重要な役割を果たすいろいろな「門」が備えられています。ここからは、主に、これらの「門」のこと取り上げてみたいと思います。尚、ここで取り上げた門や櫓が全てではありません。他にも多数あります。ここでは、大手方面から天守閣に上る間に通過し、また、案内板を容易に探し出せたものを中心に取り上げてみました。

戸無門

■戸無門

本丸大手の重要な固めである。慶長年間に建造された高麗であり、昭和10年に国宝に指定されたが、法の改正により重要文化財となった。昭和年代では、12年、25年、46年、59年、60年に修理された。

筒井門

■筒井門

この門は築城の際、正木城にあったものを移築されたと伝えられる。本丸大手の正面の固めを構成する重要な門である。

太鼓櫓

■太鼓櫓

太鼓門・同続櫓・太鼓櫓・巽櫓はひとつの防御単位を構成し、高さ6.9mの石垣の上に一線に構築され、筒井門からさらに進入してくる敵に対し、厳しい構えをみせている。また、石垣の西端には太鼓櫓があり、太鼓門との間に24.41mの渡塀があって鉄砲狭間16ヶ所、石落3ケ所が設けられていた。

太鼓門

■太鼓門

太鼓櫓から巽櫓まで一線上に構築され、大手からの進入に対する重要な防御施設である。太鼓門はその東端にある脇戸附の櫓門である。昭和10年に国宝に指定されたが、同27年4月、戦災で焼失したので、同47年2月に古い資料に基づいて復元された。

松山城の小天守

■小天守閣と紫竹門東塀

小天守閣は、大手方面を防衛し、搦手方面を側防し、二ノ丸・三ノ丸方面を監視することのできる位置にあり、城内の諸櫓の中で、天守閣に次いで重要な櫓である。小天守閣の大棟には両端に瓦の鯱が置かれ、城郭建築の威厳を示している。

紫竹門東塀は、乾門(搦手門)方面からの攻撃に備えたものである。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、寛永期の再建とみられる。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。同26年、46年、59年、60年、平成4年、5年に修理が行われた。

一ノ門

■一ノ門

脇戸附の高麗門で、本壇の入口になるのでこの名があり、木割りも豪放である。二ノ門南櫓、三ノ門南櫓、小天守閣から射撃される構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、天明6年(1786)に再建された。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。同25年、4ⅲ年、59年、60年に修理が行われた。

ニノ門

■二ノ門

本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つ。天守閣、三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。

三ノ門

■三ノ門

本壇における第三番目の門で、高麗門の形式を持つ。三ノ門南櫓、天守閣から射撃される構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。

筋鉄門

■筋鉄門

脇戸附の櫓門で門の柱に鉄板が貼ってあるのでこの名がある。櫓は天守閣と小天守閣の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。昭和8年に放火により焼失したが、同43年に元の姿に復元された。

天神櫓

■天神櫓

本壇東北の隅は鬼門にあたるところから、城の安泰を祈るため、松平期の先祖である菅原道真(天満天神)の像を安置し祭ったのでこの名がある。本壇において、戦略的意味の少ない珍しい櫓である。昭和20年、戦災により焼失したので、同54年9月に古い資料に基づいて昔日の姿に復元された。

松山城の石垣

■美しい曲線を保つ扇勾配の石垣

松山城へは、松山市電の大街道電停から10分程歩いて、ロープウェイの山麓駅へ行き、そこから約3分で上るロープウェイか、平行して運行されているリフト(約6分)を利用して山頂駅である長者ヶ平(ちょうじゃがなる)まで上るのが一般的です。勿論、徒歩でも登って来れますが、登ってこられた方に伺うとだいたい30分くらいかかるとのこと。体力づくりに勤しんでいる人にはうってつけかも知れませんが、夏の間はちょっとどうでしょうねぇ。

松山城は、道後温泉と並ぶ松山の二大観光スポットといえるでしょう。天守閣からは松山市内や瀬戸内海が一望できます。市内からなら1時間半くらい見れば見学できるでしょうから、待ち時間でもあれば、山で待つってのは。待つ山・・・、松山・・・なんて、ちょっと苦しいか・・・。

*)各門や櫓に関する解説の一部を、パンフレット「重要文化財松山城」(松山市観光産業振興課作成)より引用させていただきました。

(写真先頭は、松山城天守閣)

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2007年6月26日 (火)

そのまんま宮崎

橘通り

羽田空港を朝の便で発って宮崎まで、宮崎で一仕事終えたら翌日の佐賀行きに備えて、最終便で福岡に入る・・・というややキツめの旅程で、宮崎までやってきた。

東京を出る時は、それほど感じなかったものの、宮崎空港に着いたとたん「ぬるいなぁ、空気が・・・」気温はだいたい30度くらいだが、湿度が高いからなのか。

宮崎には、今年2度目。でも、何故か宮崎に来るとスケジュールに余裕がなく、仕事をこなすので精一杯。だから、どこかに見学(見物?)方々出かけるということもできずじまい。やっぱり今回も、そう・・・。

そんなことから、福岡行きの飛行機を待ちがてら、夕暮れの宮崎市内をぶらぶらと歩いてみることに。そうだ、観光地じゃないけど、今年注目を集めている「あそこ」にでも行ってみるか・・・と。

七夕飾り(小)

■山形屋裏手の「四季通り」に七夕飾りが。風になびく短冊には「素敵な恋人が出来ますように」という定番から、「今年こそ教員試験に合格できますように」という切実なものまで

宮崎駅から西にのびる「高千穂通り」が国道10号線と交わるあたり、バス停を見ると「デパート前」となっているところからして、このあたりはそう呼ばれているのかな?確かに2つのデパートがあって、一つは、南九州では老舗の「山形屋」(写真フレーム外)、もう一つは、イオングループが経営する「ボンベルタ橘」(写真右手前)。2つのデパートの存在をもって「デパート前」バス停だなんて、まさに「そのまんま」というところですか・・・。

そこから南に「橘通り」という宮崎のメインストリートが走る。その道路の真中に何やら高い木がある。これは、ワシントニアパームという植物で、宮崎を象徴する街路樹として、中央分離帯などに数多く植えられ、南国宮崎のトロピカルムードを盛り上げている。

宮崎県庁

■県木のフェニックスや、ワシントニアパーム、ソテツ、リュウゼツランなどの亜熱帯植物で、1年中緑が絶えない宮崎県庁

橘通りに沿って南へ10分ほど歩くと、今度は何やら鬱そうとした木々の生い茂る通りに着く。この通りは「県庁楠並木通り」と呼ばれているが、宮崎の人はやっぱり「そのまんま」が好きなのか・・・。

橘通りから県庁並木通りに入って少し歩くと、今、宮崎では最も有名なスポットと言っても過言ではない「宮崎県庁」が見えてくる。外観はちょっと(かなりか?)古びた印象。それもそのはず、この庁舎は、昭和7年(1932)に建築され、九州では最も古く、全国でも4番目に古い代物とのこと。

宮崎県庁の掲示板

■県庁の東南の角にある「宮崎県広報掲示版」これも東国原知事一色

東国原知事

■掲示板の中の1ショット。クラブチーム「宮崎ゴールデンゴールズ」の片岡監督から背番号52(第52代知事)のユニホームを贈られた東国原知事

この県庁舎は、基本的に地上3階、地下1階となっているが、国旗・県旗掲揚台のある中央部分は5階になっている。「宮崎をどげんとせんといかん」と頑張っている東国原知事の執務室は2階東側にある。しかし、多忙を極める知事のこと、県庁に来たからと言って、会えることはまずない。その代わりと言ってしまえば何なのだが、正面玄関を入るとハッピを着た知事の等身大パネルが笑顔で迎えてくれる。

自称「宮崎県のセールスマン」こと東国原知事は、メディアの積極活用(露出が多いという批判もあるが)により、宮崎県を積極的にPRしている。低迷する観光宮崎をどう再生させるのか、知事の手腕に期待が寄せられている。

冷や汁

橘通りから県庁楠並木通りに入ったところに「花月亭」というお店があった。宮崎料理のお店とうたっていたので、入ってみることに。

しばらく歩きまわっていたのと、とにかく暑かったので、先ずは生ビール。そして、宮崎と言えば、最近は地鶏かな・・・と思ったのだが、まだ、旅の途中につき、ここで一人で宴会もできないので・・・。そこで、夏の宮崎と言えば、やっぱりあれかなと「冷や汁定食」(1,050円なり)を注文してみた。

冷や汁は、宮崎の代表的な郷土料理で食欲のない夏場に食べやすく栄養補給もできるという家庭料理のこと。焼いた味噌と煎った胡麻をすり鉢で擦り、焼いたアジなどをほぐして入れ、それにだし汁を混ぜ合わせ、大葉などの香味と薄くスライスした胡瓜を入れて冷蔵庫で冷やす。こうして作られた冷や汁を麦飯などにかけて食べる。これが冷や汁だが、受取方によっては、冷たい味噌汁をご飯にかけて食べるだけと思う人もいるかもしれない。だが、とにかく、夏の冷や汁は美味かった。

南九州だからなのか、1年で最も日が長い頃だからなのか、夕暮れ時でもかなり散策することができた。大淀川にかかる橋の向こうに、朱い太陽が沈みかける。宮崎の夜が、蒼く染まっていく頃には、空港にたどり着けるだろうか。

(写真先頭は、宮崎市のメインストリート 橘通り)

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2007年6月16日 (土)

あぁ、いいところですねぇ

夜の大原美術館

「ご出身は、どちらですか?この手の質問に接して、余り困った記憶がないんですね。「倉敷なんですけど・・・」と答えれば、だいたい「ああ、いいところですねぇ」と判で押したようなリアクション。だから、くどくど説明をする必要もなかったものですから。

倉敷の知名度がググっと上がったのは、70年中盤、山陽新幹線の開業くらいからで、昔から有名だったんじゃないと思います。倉敷をこれほど有名にしてくれたのは、女性向けファッション雑誌のキャンペーンなのじゃないかと思うのです。かつて、その手の雑誌が勧める特定の観光地を訪ねて、一人や少人数で旅行する若い女性たちを「アンノン族」と呼びましたが、倉敷は「アンノン族」のおかげで有名になったと言っても過言ではないでしょう。

夜の旅館鶴形

■ライトアップされた「旅館鶴形」

倉敷は、1642年(寛永19年)に天領地になり、新田開発等によって大きく発展しました。現存する美観地区の建物は、この時代の豪商の商家を原型とするものが多く、町並みの景観を特徴づけています。建物と特徴としては、町屋はほとんどが塗屋造りで、蔵はすべて土蔵造りになっています。また、倉敷窓倉敷格子が印象的で、白色漆喰仕上げになまこ壁が美しいコントラストを見せています。倉敷川畔とその両側に続く町並みには天領時代の面影が色濃く残っていると言われます。

それは、この町が殆ど天災にも見舞われなかったし、そのうえ戦災からも免れたという天佑あってのことでしょう。ですが、ここで暮らし、ここを愛する人たちの強い気持ちなくして、情緒豊かな町並みをこれほど長く留めることはできなかったのではないかと思います。

夜の倉敷

■現在は、無料休憩所、観光案内所となっている「倉敷館」

倉敷の町並みは、江戸時代に形造られたものですが、美観地区界隈には町屋と並び明治から昭和初期にかけて建てられた洋風建築もいくつか見られます。羽目板張りで白ペンキ塗りの洋館は、倉敷町役場として大正5年(1916)に建てられた倉敷館。そして、ギリシャ神殿風の外観を持つ大原美術館などがそれです。

大原美術館は、大原家の奨学生だった児島虎次郎が、ヨーロッパ留学中に「日本の画家たちに、本物の西洋画を持ち帰りたい」との思いに駆られたことがその発端となります。虎次郎の熱意にほだされた、当時倉敷紡績社長であった大原孫三郎が資金を拠出し、有名なエルグレコの「受胎告知」などの不朽の名作を入手するに至りました。三度の渡欧によって、数々の名画を日本に持ち帰った児島虎次郎は47歳の若さで生涯を閉じますが、大原孫三郎は、児島虎次郎の遺業をたたえるために、昭和5年(1930)、大原美術館を創設したのです。

さて、久しぶりに地元に帰ってきたということもあって、従来、手がけていなかった故郷、倉敷編に取り組んでみました。今回、載せた3枚の写真は美観地区の夜を撮ったものです。観光客で大賑わいの昼の美観地区より、ライトアップされた町屋や洋館などが闇の中に浮かび上がる夜の方がなんとなく「いいんじゃない」と僕は思うのです。特に夏など、人通りもまばらになった頃、倉敷川にかかるアーチ型の中橋の欄干に腰を下ろして、しばし夕涼みなんてのが結構いいと思いますよ。

皆さんも美観地区近辺でお泊りの際は、是非、夜の方にも行ってみてください。ちなみに、ライトアップは午後9時までとなっていますので、ほどほどの時間に行かれることをお勧めします。では、また。

(写真先頭は、ライトアップされた夜の大原美術館)

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2007年6月 6日 (水)

やっぱ、岡崎城だらー

岡崎城天守閣

どちらかといえば、ここしばらくは遠出はしていませんでした。新幹線を使えば、日帰りもできるような静岡とか愛知とか岐阜方面のそれも急ぎでという仕事が多く、泊まりも殆どないことから、ちょっとした息抜きという訳にもいかず、そんな連続だったことから特段投稿するほどのこともなく・・・という日々が続いておりました。

そんな中、久々の泊まりの日程で岡崎に行ってきました。岡崎といえば、家康生誕の地と八丁味噌、最近では、2006年上期のNHK連続テレビ小説「純情きらり」の舞台として名を馳せた愛知県のほぼ中央にある街です。市内の中心部を流れる乙川が陽光を集め、土手堤の桜の木や河川敷の緑がとてもいい感じの演出をしていました。

今週は、日程に余裕があったという訳でもないのですが、たまたま泊まったホテルの隣が岡崎公園だったということもあって、「折角ですから・・・」と訪ねてみることにしました。

岡崎公園は、岡崎城を囲む公園で、桜の名所としても有名です。およそ8万平方メートルの敷地内には、「三河武士のやかた家康館」や、花時計、茶室、能楽堂、家康人形が能を舞うからくり時計などがあります。

先ずは、岡崎城天守閣に行ってみました。別名竜ヶ城とも呼ばれるこの平山城は、西郷頼嗣(よりつぐ)によって、康正元年(1455)頃に築城されたといわれていますが、現存する岡崎城は、昭和34年に復興されたもので、鉄筋コンクリート3層5階建てとなっています。

天守閣は、2階から4階までが江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっていて、2階のテーマは「藩政と支配」、3階は江戸時代に、城下町・宿場町として栄えた岡崎の産業文化や人々の生活を紹介しているスペースで、テーマは「城下町の文化と産業」、4階のテーマは「城と城主」で、江戸時代の岡崎城の様子や歴代の岡崎城主、大岡忠相ゆかりの西大平藩などの展示があります。また、5階は展望室となっていて、三河平野を一望することができます。

さて、家康と岡崎城について、お城で配布されている資料には次のように紹介されています。

徳川家康像

■岡崎公園内の徳川家康の銅像

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生した。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに、19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一偉業への基礎を固めた。

元亀元年(1570)、家康は、本拠を遠江浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正元年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川和正、ついで本多重次を城代とした。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。

岡崎城から龍城神社の裏手の方にまわり少し歩くと、武家屋敷風の重厚な建物が見えてきます。これは、「三河武士のやかた家康館」と呼ばれる資料館です。この資料館は地階が常設展示場となっており、1階には特別展示室などがあります。常設展示場に入ると、CG(?)の大久保彦左衛門が「三河物語」などの話をしながら迎えてくれます。それから、順路に沿って進むと、三河の風土、三河武士の紹介から、松平氏と譜代家臣が形成されるまでの歴史、家康の生涯などを見学して回ることができます。

資料館などというと、どちらかというと退屈なようなイメージもありますが、扱っている題材が家康にちなむものが多いからなのか、それなりに興味深く見てまわることができるでしょう。それと、入館料が350円、岡崎城とセットのチケットは500円と安いので、時間がたっぷりある場合などはうってつけの見所と言えるかもしれません。

常設展示場の出口のところに、写真にあるような、何やら含蓄のあるものが掲示されていました。

徳川記念館

■「三河武士の館 家康館」に掲示されている家康公の遺訓

これは家康公の遺訓として、また、格言としても有名です。どんなことが記されているのかといえば、こんなようなことかと思います。

人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものである。急いではいけない。不自由なことが普通だと考えれば、不満が起きることはない。心に欲が生じたときには、苦しい過去を思い出すことである。
 「堪忍」こそ、無事を長く続ける土台である。「怒り」は敵と思え。人生では勝つことばかり知って、負けを知らないといずれはそのつけが回ってくる。
 自分に厳しくしなさい。人のせいにしてはいけない。何か事をなすとき、何か不足があるほうが、やり過ぎよりは良いのである。

この家康公の遺訓については、後世のものとも言われているようですが、待ちに待ち、耐えに耐えた家康の哲学をよく表していると思います。何年ぶりかにこのことばを目にして、さすがに名言というのは示唆深いところがあるものだと改めて感じ入りました。我が身を振り返れば、まだまだ至らぬことばかり。このような境地に達するのは・・・、達する前に多分息が絶えるんじゃないでしょうか。ハイ。

それでは、今回は、このありがたい遺訓の余韻に浸りながらお別れしたいと思います。今週もご覧いただきありがとうございました。

(写真先頭は、神君出生の城「岡崎城」天守閣)

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2007年5月22日 (火)

気分はそうかい・・・

日本ライン

大泉寺付近

さかほぎって、「漢字でどう書くのでしょうか?」と先方に伺ったところ、「パソコンで変換してもらえれば出てくるから」と言われ、送話口を押さえながらキーをたたいてみたら、「坂祝」という文字が現れた。

坂祝というところは何処にあるかというと、岐阜県の加茂郡というところにある。その加茂郡ってどこ・・・と続きそうなので、もう少し説明しておくと、名古屋市から北に向かって、車で1時間程のところになる。岐阜市からだと、国道21号線(途中から41号線と重複)で下呂方面に向かって、やはり車で1時間くらいのところ。今週は、このあたりをウロウロとしていた。

岐阜市から国道21号線に沿って車を走らせると、各務原(かがみがはら)を過ぎた頃から右手に大きな川が見える。木曽川だ。木曽川は、揖斐川、長良川と共に濃尾平野を流れる三本の大河川で構成される木曽三川のひとつで、木曽川水系の本流になる。

さて、このあたりを走っていると、赤い船が急流を下り降りて行く様を見ることができる。これは、日本ライン下りの船である。日本ラインというのは、岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川中流域の沿岸の風景が、ヨーロッパのライン川に似ているということから名づけられたいう。

因みに、日本ライン下りの船は、坂祝より川上の美濃太田から13km下流の犬山橋下まで、1時間おきに運行されていて、船で下ってバスで戻るという2時間程のコースのようだが、興味のある方は、木曽川観光のサイトでご確認されたい。

美濃太田駅

この木曽川沿いをドライブした5月21日はとてもいい天気で、気温も24度ほど。絶好の行楽日和というのがぴったりの五月晴れで、その翌日も、やはりピーカンDAYだったが、この日は車ではなく高山本線の列車に乗って美濃太田まで行ってみた。高山本線の車窓からも、ドライブの時とは一味違う日本ラインの美しい景観を眺めることができた。

今回の日程は本当にいい天気に恵まれたが、空き時間をみつけて日本ライン下りの船にでも・・・といった余裕はなかった。だが、とにかく青く澄んだ空と、木曽川の清流と、清々しい空気に気分は爽快!ああ、そうかいということで、今回はひとまず・・・。それでは。

(写真先頭上下は、国定公園にも指定されている日本ラインの景観)

(写真中は、快晴の美濃太田駅にて)

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2007年4月19日 (木)

福岡だわ・・・

福岡タワー全景

福岡タワーを知っていますか?このランドマークは、8000枚のハーフミラーで覆われた福岡のシンボルタワーだそうです。展望台に上るエレベーター内で、タワーコンパニオンから「日本で一番高い海浜タワー」と説明されましたが、福岡以外での認知度はどうなのでしょう?

福岡タワーは、1989年、福岡市制100周年を記念して開催されたアジア太平洋博覧会(よかトピア)のモニュメントとして建設されました。全長は234mで、地上123mにある展望台から、福岡の街並みや博多湾に浮かぶ島々などが一望できます。

福岡タワーで配布されているパンフレットによると、この建物は震度7の地震や風速63m/秒の風にも耐えられる設計となっているようです。また、夜には季節ごとに様々なイルミネーションが施され、福岡の夜に彩りをそえています。

全長234mのタワーですが、観光客の上れる最も高いところが展望台です。地上123mの展望台までは、17人乗り・秒速1.75mのエレベーターで、70秒で到着します(これも、タワーコンパニオンの受け売りです)。高速エレベーターは、シースルーとなっており、昇降時にも外の景色を眺めることができます。

では、展望台から見える景色を少しお見せしましょう。

福岡タワーから

■福岡タワーからの眺望(北側)

タワーの北側は、博多湾に面しています。赤い屋根の建物は、マリゾンと呼ばれる施設で、シーフードレストランや多目的ホール、マリンショップなどがあります。また、ここから海の中道に向けて高速船が発着しています。

写真上部の中央にある島は、「金印」が見つかったといわれる志賀島(しかのしま)、左端の島は、奈良時代には防人がおかれていたという能古島(のこのしま)です。

福岡タワーより

■福岡タワーからの眺望(西側)

こちらは、西側の風景です。手前に見える高層ビルは、ネクサス百道(ももち)というマンションです。写真中央の水の流れは、海ではなく室見川です。この方角には、生の松原元寇防塁跡や写真のフレーム内には入っていませんが、愛宕山などが見えます。

福岡タワーにて

■福岡タワーからの眺望(東側)

こちらは、東側の風景。写真中央を横切る樋井川の向こうにある高層ビルが、JALリゾートシーホークホテル。その影からちらっと見えるのが、福岡ソフトバンクホークスの本拠地であるヤフードームです。その向こうには、福岡市の中心部である博多区や中央区の街並みが見えます。

さて、昨日(4月18日)から久しぶりに福岡に来ています。福岡に来ると最近では、シーサイド百道地区にある「ハイアット・レジデンシャルスイート・福岡」というコンドミニアムスタイルのホテルをチョイスすることが多いです。その理由は、このホテルがコンドミニアムスタイルのホテルだからです。

コンドミニアムスタイルなので、ポーターサービスやルームサービスなどはありませんが、その反面、普通の生活をしているように過ごせるのがいいですね。通常、出張で泊まるのはどうしてもビジネスホテルになることが多く、それにもちょっと食傷気味というのもありまして・・・。

シーサイド百道地区のキャッチフレーズは、「福岡の未来を象徴するエリア」とのこと。この周辺には、リゾート関連施設、文化やビジネス関連施設などが多数集まっています。福岡タワーもその一つです。平日なら(休日には行ったことがないので、そこは何とも言えないですが)、観光客で賑わっていることなど、まずないでしょうから、かなり余裕を持って見学できます。そんな福岡タワーを盛り上げるためにも、福岡にお越しの際、もしよろしければ行ってみてください。では、また。

(写真先頭は、福岡タワーの全景)

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2007年4月 4日 (水)

Holiday in Kyoto 2(後編)

哲学の道

南禅寺を後にした頃、タイムリミットまで後1時間くらいしかありませんでした。とにかく先を急がねばならない。しかし、ここでも問題発生。もともとの想定は、銀閣寺に行ってその足で哲学の道に回ろうというもの。このため、銀閣寺からのルートは調べてあったのですが、南禅寺側から哲学の道にどうやって入ればいいのかが分からない。

さらに、来た道のりを引き返したために、右手に琵琶湖疎水記念館が見える地点、つまり、行きたい方向とは真逆に進んでいたことも分かった。ここでマップを確認するも、どこから入れるのかはっきりしなかった。そのため、哲学の道に平行している白川通り方面に歩いて、適当なところで哲学の道に入ろうかと考えたのです。

しばらく歩き続けたが、なかなか「ここから入ろう」というポイントが見つからない。そうしている内に丸太通と白川通の交わる天王町に着いた。もう少し行ってから・・・と思っていたら、後ろから来た銀閣寺行きのバスにバンバン抜かれた。「こんなことなら、最初から・・・」と思っても、それは後の祭り。結局、第三錦林小学校近くの小道から住宅街の中に入って、上宮ノ前町でやっと哲学の道にたどり着くことができました。

哲学の道は、京都市左京区にあり、北は銀閣寺から南は若王子(にゃくおうじ)にまで続く、約1.5kmの散策路です。この小径は、京都でも有数の桜の名所として人気があり、春には450本とも、500本とも言われるソメイヨシノが華のトンネルを作ります。

名高いのは春の桜だけではなく、初夏には蛍が舞い、秋になれば紅葉がこの小径を彩ります。これら四季折々の風物詩たちが、琵琶湖疎水の緩やかな流れとともに訪れた人たちの心を和ませてくれます。

哲学の道は、もともと「思索の小径」と呼ばれていたそうですが、哲学者の西田幾太郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名前がついたそうです。

銀閣寺2

■東山文化の真髄を今に伝える名刹「銀閣寺」

銀閣寺の参道にかかる銀閣寺橋が、哲学の道の終点になります。桜は五分咲き(三分~四分咲きかも?)くらいでしたが、観光客とかデートコースとして人気があるからなのかカップルの姿もとても多かった。

銀閣寺橋のところで時計を確認したら、午後4時を回っていた。ここから、京都駅まで順調に行っても、40~50分はかかる。さらに観光シーズンを考慮に入れれば、なおさらか・・・とも思った。思ったのは思ったのだが、「ここまで来て・・・」という感情に負けて、銀閣寺に行ってしまった。錦鏡池を一回りして、「来た」という証拠写真を撮ったら、もう外に出なければ・・・。総滞在時間10分以内、拝観料800円。よせばいいのに。ああ、もったいない。いろんな意味で・・・。

再び銀閣寺橋まで戻って時計を見たら午後4時半になっていた。帰りの「のぞみ」の時間は、5時32分。キップは買ってあるので、5時25分までに京都駅に着けばOK。京都駅行きのバス停を探すと、鹿ヶ谷通に「銀閣寺前」という停留所があった。バスがすぐ来るかと期待したが、なかなか来ない。後から聞いたのだが「急ぐ人は、本数の多い銀閣寺道まで行った方がいいよ。ここから5分くらい歩くけど」と。「早よ、言えよ」とグッと力が入る自分をなんとかなだめていたら、バスが来た。

凄い人数が待っていたので座れないかと思っていたら、ラッキーにも座れた。しかし、バスはメチャ混み。途中の停留所から乗車できないなんて当たり前で、後から無理やり乗りこんだ乗客は、バスに乗ったはいいが下車できない。なぜなら、バスの降車は前方の運転手サイドのドアからではないと出来ないから。このため、乗客が降りようとしても降りられず、降りないので運転手がバスを発車させようとするから、車内は一時大騒ぎに。

乗降で時間を食い、道路も大渋滞なのでバスが思うように進んで行かない。迫り来る新幹線の時間を気にしながら、時計と外の様子を交互に眺めていました。ですが、それも、東山三条あたりで99%諦めました。五条坂を過ぎたあたりでかすかな願いも露と消えて、京都駅にたどり着いたのは、予定を30分もオーバーした午後6時過ぎでした。

予定の「のぞみ142号」に乗り遅れたため、キップを買った東海ツアーズに行ってみました。乗り遅れた場合、自由席券として使用できることは知っていたものの、混み具合を考えて、少々お金を出しても指定が取れないものかと相談するために。

東海ツアーズで順番待ちをしていたら、たまたまキップを買った時と同じ、気の弱そうな青年のいる窓口にあたった。なので、「すみません、乗り遅れてしまったのですが、指定だけを追加で買うことは出来ますか?」と低姿勢で尋ねてみた。

その青年は、こちらをチラと一瞥し「お客様、それはもう一度、特急料金を払うという意味ですか」という。そのうえ、「これをそのまま使った方が、お客様の為なんじゃないですか」と駄目押し。

気弱な青年から豹変し、クソ生意気な物言いに「こ・の・ヤロー」という気持ちが湧き上がってきた。「同じ事を言うにも、言い方があるだろう」と・・・、本当は言いたかったのですが、ま、そこは、大人ですから「あ、そう」と軽くいなして店を出ました。しばらくは憤懣やるかたなく「もう、京都なんか来るもんか」とカリカリしてしまいました。ところがよく考えると、このような結果を招いたのは鉄則を無視した自分にもある訳で・・・。「そうか、じゃ、また来ま~す」と相変らず立ち直りだけは早いんだけど、これが、いいのか悪いのか・・・。では、また。

(写真先頭は、桜の名所として知られる哲学の道)

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2007年4月 3日 (火)

Holiday in Kyoto 2(前編)

南禅寺山門

『あき』探しに奔走した後、クールダウンを兼ねて京都駅で食事をしました。出だしが遅い上に、ロスタイムが重なって、当初の予定を大幅に変更しなければいけないかなぁ・・・そんなことを思いながら。そうだ、コインロッカーが満杯になるくらいなら、帰りのキップもゲットするのが大変になるかも・・・ヒラメキました。

「今が、午後1時半だから、5時半に予約を入れておこうか」とJR東海ツアーズの窓口に。予想外に並んでいる人も少なく、すぐに予約完了。JR東海ツアーズのなんとなく気弱そうな青年が、やたらバカ丁寧にキップの説明をしてくれた。午後5時32分に京都を発つ「のぞみ142号」は新大阪始発ということもあり、2列座席の窓側E席を確保できました。

さて、使える時間も4時間くらいなので、回れるところも2、3箇所かなと思い、先ずは「祇園の夜桜」の昼の顔でも見に行くかということにしました。祇園方面行きのバスに乗るために、京都駅前のバス停に。案の定、すげぇ~人でした。このため、1台目のバスには乗れず、2台目のバスにやっと乗れました。車内はすし詰め状態を通り越し、押し寿司(?)状態でかつ、周りはやたらと外人だらけだった。

祇園でバスから降りて、一目散に八坂神社を抜けて円山公園に。ゆっくり見物するヒマなどなく、枝垂桜を写真に収めてその場を去ろうとしたところ「すいませ~ん。シャッター押してもらっていいですか~」攻勢に遭う・・・。「よぉ邪魔だ 道を空けな 俺には、そんな時間はもうないんだ~♪」という訳にもいかず、お人好しの私としては、厭な顔もできず「ハイ、じゃあ、いいですかぁ~、はい、そりゃ、笑え~」と・・・。ですから、ここでもロスタイム。

今日は、とにかく「哲学の道」周辺を歩いてみようと思っていたので、次は、銀閣寺に行くか南禅寺に行くか迷いました。しかし、うまく行かないときは、こんなものか。東大路通の渋滞が凄そうだったし、地図上では大した距離でもなさそうと感じたこともあり、バスを捨てて歩いて南禅寺に行ってみる事にしました。

東大路通を北に向かい、東山三条の先の京都市動物園のある通りとクロスする交差点を右折して、ひたすら南禅寺を目指しました。途中、平安神宮も目に入ったのですが、今日のところは、無視して通過。歩いてみて感じたことは、思ったより遠く、かなり時間を食ってしまった。とにかく、やっとのことで、南禅寺に到着。

南禅寺法堂

■勅使門から三門をくぐって進むと突き当たりにある南禅寺の法堂

南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山です。1264年(文永元年)亀山天皇が建てた御所、離宮禅林寺殿を後に寺に改めたものと伝えられています。歌舞伎「桜門五三桐」(さんもんごさんのきり)で石川五右衛門が、「絶景かな、絶景かな」と欄干に片足をかけて見得を切る場面でおなじみの巨大な山門と小堀遠州作の「虎の子渡し」の通称で知られる庭園が有名です。慶長期に清涼殿を移築した大方丈と、それに続く小方丈はいずれも国宝に指定されています。

歩き疲れて(考えてみたら、コインロッカー探しで歩き詰めだったし・・・)南禅寺に着いたものの、時間的にはかなり押し気味。これから「哲学の道」を歩いて銀閣寺まで行くことを考えると、ここに居られる時間はどう見積もっても30分がいいところ。さらに、この段階で銀閣寺を観るのはちとしんどいかなという状況。よって、大方丈、小方丈を観てから南禅院に回り、特別拝観となっていた山門まで全てを観ようとするなら、ここ南禅寺でタイムアップとなってしまいます。そうなっても、十分価値のある名所ではあるものの、今回、やはり疎水に桜花舞う最高の季節の「哲学の道」は外せないので、南禅寺はまたの機会に取っておくことにしました。ただ、ここまで来ておいて、通過のように去ってしまうのも何だなと思い、山門にだけは登ってみることにしました。

南禅寺山門からの絶景

■三門の楼上から見た「絶景」?

山門のみの拝観料は500円。入口で靴を入れるビニール袋をもらって、階段に挑みます。この階段の角度は、とても急なので、登る時も大変ですが、降りる時の方がさらにスリリングです。手摺よりは備えてあるロープを持って降りる方が安心できます。山門の楼上に着いたら、ごっつい板張りの廻り縁を一回り。石川五右衛門ばりに「絶景かな」と見得を切るもよし、遥か彼方の京の街並みをボーっと眺めるもよし。好きにやっちゃって、降りて来て・・・という楽しみ方ができます。南禅寺の山門をもう少し詳しくという方のために、山門の拝観チケット裏の解説から引用させていただき、ここに記しておきます。

三門は一般に山門と書かれるが、正しくは三門と書く。三門は空門・無相門・無願門の意味で仏教修行の三解脱をあらわす。南禅寺の三門は天下竜門と号し上層の楼を五鳳楼と云う。日本三大門一つで有名である。開創当時のものは永仁三年西園寺実兼(さいおんじさねかね)の寄進によって建立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失した。

現在の門は藤堂高虎が寛永五年(一六二八)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものである。入母屋造り、本瓦葺、五間三戸の純然たる禅宗式三門の形式を備え、その高さ約二十二メートルで、左右の山廊より昇降する楼上には、勾欄を附した廻り縁をめぐらし、内部には正面に仏師左京等の手になる宝冠釈迦坐像を本尊として、その脇士に月蓋長者、善財童子を安置し、その左右に十六羅漢を配置し、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されている。

天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆である。又、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名である。門前左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので、高さ六メートル余りあって、大きさでは東洋一である。

それでは、後編に続く。

(写真先頭は、日本三大門のひとつ南禅寺の山門)

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2007年4月 1日 (日)

桜ですが・・・何か?

春ということばから桜を連想する人は多いでしょう。多くの他の花々と違い、桜が日本人のメンタリティーにすごく影響を与えていることは間違いないでしょうし、日本人にとって特別な存在であることは言をまたないでしょう。

春になるといつも「桜の名所に行ければなぁ」と思っていました。しかし、この仕事をするようになってから、季節が到来してもホント、桜には縁がなく、それは、多忙に紛れて気付いたら桜の季節が終わっていたということもあり、東京の桜が一番いい時期には、まだ桜には早いところとか、完全に桜が終わっているところに出かけていたり、とにかくそんなことの繰り返しだったように思うのです。

やっぱり今年のスケジュールもそんな感じでしたし、まぁ、今年も桜には縁がなさそうだと思っていたところ、どうしても優先してやってほしいという仕事が舞いこんできて、それも神戸で、日程も週末にかかるということになっちゃったのです。そうなると、「では、これに便乗して花でも見に行っちゃおうかぁ~」となるのは自然の成行(?)ですよねぇ。「やっぱり、桜は京都かなぁ~」という流れになって、まずは、日本三大夜桜に数えられる桜を見に行ってみることにしました。

上に掲げた写真を見ていただくと、「この桜知ってる」という方は結構多いんじゃないかと思います。この桜は「祇園の夜桜」と呼ばれる有名な枝垂桜で、東山区の「円山公園」にあります。

この桜の正式名は、一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)というそうで、ここ円山公園の枝垂桜としては二代目のものです。初代の桜は、樹齢200年を越える桜の古木でしたが、昭和22年に枯れてしまったそうです。

さて、3月末の京都はやや肌寒いという感じでした。東京の桜が満開を迎えたと報じられていた頃でしたので、ちょっと期待していたのですが、残念ながら五分咲きくらいで、「ちょっと早かったかな・・・」という印象でした。ただ、ライトアップされた枝垂桜は、それでも「美しい」という以外適当なことばが見つからないほど見事なものでした。

その翌日、昼の「祇園の夜桜」をみてみようと、再び円山公園に来てみました。さすがに京都でも一二を争う桜の名所なのでしょう、この枝垂桜の周りは見物客でごった返していて、写真を撮るにも一苦労というありさまでした。

こんな「ちと早い京の花見」ではありましたが、久しくできなかった「この季節に桜を見る」それも「桜の名所で」ということを実現することができました。京都に桜が似合うのか、桜が京都に似合うのか、どちらなのかよく分かりませんが、京で桜を見ていると「わぁ、ホンマええわぁ」と感じます。

各地の桜はそれはそれで素晴らしいと思いますが、「京の桜」はまた格別です。ですから、桜を見るためにだけ、この季節に京を訪れてみるのもいいものですよ。ただ、お断りしておきますが、桜の季節の京都はめっちゃ混み!ますから、そこのところは堪忍しておくんなはれ。では、また。

(写真は、祇園の夜桜の夜と昼)

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2007年3月23日 (金)

朱いグスクで朱玉の時を

首里城5

首里城はいつ造られたのか、今でもはっきりとは分からないそうですが、通説では十四世紀末頃に創建されたのではないかと言われています。十三世紀末から十四世紀末の琉球では、数多くの城(グスク)が成立したと言われており、首里城もこの頃に作られたものだと言われています。

沖縄では、「城」の字を「グスク」と読みます。この読み方は、今でこそ巷でもかなり知られていると思いますが、例えば、高校野球で有名になった豊見城高校は、今でも「とみしろ」と読ませている様で、同じ沖縄でも混在があるようです。

ところで、「グスク」とは何でしょうか?グスクの正確な正体は分からないというのが正解の様ですが、フリー百科事典ウィキペディアによれば、「グスク」とは「沖縄県を中心に奄美諸島から八重山諸島にかけて多数存在する古琉球時代の遺跡」のことをいうようです。

ちなみに、首里城で購入した「首里城ハンドブック」には、

「グスク」の主な特徴として、石積などによる縄張り空間を持ち、その中に御嶽(うたき)と呼ばれる聖域を有しているものが多い。「グスク」は沖縄が農耕社会に移行する十二世紀前後から、十四世紀にかけて盛んに造られた。三山時代を経て、「琉球王国」が成立することにより、他の「グスク」が衰退する中、唯一「首里グスク」だけが、王国の拠点として近世まで生き残ったことになる。

と解説があります。

■「歓会門」 

首里城の正門として、王府役人や外国の使臣などが通用した。創建は、尚真王代。戦災で焼失後、昭和49年に復元された。石造拱門は間口2.9m、高さ4m。櫓は一重入母屋造、本瓦葺、桁行3間(5.46m)、梁間2間(3.64m)

■「漏刻門」

門内の漏刻器で時刻を計っていたことから、漏刻門の名称となった。別名「かごいせ御門」とも呼ばれ、高官もここで駕籠から降りた。創建は、1470年頃。昭和初期に老朽化のため撤去、平成4年に復元された。門幅3.09m、櫓は一重入母屋造、本瓦葺、桁行3間(5.76m)、梁間2間(3.76m)

守礼門をスタートして、「国比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん」の横を抜け、「歓会門(かんかいもん)」あたりから、階段の続く坂道を上りながら多くの門をくぐっていくことになります。「瑞泉門(ずいせんもん)」「漏刻門(ろうこくもん)」を抜けると「広福門(こうふくもん)」に到着します。

首里城4

■奉神門

一重入母屋造、本瓦葺、桁行20間(57.08m)、梁間4間(8.48m)、中央7間分の屋根を高くして3門を設けている。創建年は、1562年以前。明治45年に撤去され、平成4年に外観を復元。門の北側は、薬、茶、煙草などの出納や御内原の御用物を扱う「納殿」、南側は神女たちが神をもてなす「君誇」があった。

そこから、「奉神門(ほうしんもん)」を眺めるだけでも、「首里城に来たなぁ〜」という雰囲気を味わうことができるでしょう。しかし、折角ここまで来たのなら、大人1名:800円というちょっと高めの入館料ではありますが、チケットを買って「御庭(うなー)」に入ってみましょう。正面にドーンと「正殿」が構えています。

■「正殿前の大龍柱」

正殿」は、琉球王国最大の木造建築物で「国殿」または「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)」と呼ばれ、首里城の顔というべき最も中心となる建物と言えるでしょう。「正殿」の正面には、一対の龍柱がありますが、「装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式」だそうです。

首里城の主な施設は、城のほぼ中央にある「御庭」周辺に配置されています。「御庭」の右手から、「南殿・番所」〜「書院・鎖之間(さすのま)」〜「正殿」〜「北殿」というルートで見学するのが一般的です。

■「書院」は、国王が日常の執務を行った建物であり、取次役や近習などの側近スタッフがその周辺に控えていました。三司官(さんしかん:国王を補佐する大臣クラスの役人)は、取次役を通じて、国王に面会し、報告を行うとともに指示を仰いでいました。中国皇帝の使者(冊封使)や那覇在住の薩摩役人を招き、ここで接待することもありました。
■「鎖之間」は、王子などの控所で、諸役の者たちを招き懇談する施設だったと言われています。

お城の見学というと、お城によってはすぐ終わってしまうというようなところもあります。でも、首里城は見所も結構多く、少し高めの入館料もなんとなくリーズナブルに思えてきます。ですから、ルートに沿って慌しく通過するだけというもったいないことはやめて、じっくりと見ながら歩いてみてください。そうすると、1時間半〜2時間くらいは必要になるのではないでしょうか。

■久慶門

日常の通用門として主に女性が利用したと言われている。久慶門は浦添城を通って西岸沿いを北上する街道の起点にもなっており、国王が寺院を参詣する際もこの門を使っている。創建は、尚真王代で、昭和58年に復元された。門外側には、城内の水を排出する石樋がある。拱門幅は2.88m、高さ3.93m。櫓は一重入母屋造、本瓦葺、桁行3間(5.46m)、梁間2間(2.73m)

北殿」を出て、「右掖門(うえきもん)」をくぐり「久慶門(きゅうけいもん)」を出てから、しばらく坂を下りていくと、再び「守礼門」のところに戻ってきます。

こうして、取りあえず首里城にでもという感じで来て、今回初めて「お城の中」を廻ってみたのですが、琉球独特の文化を目の当たりにしながら過ごしたひと時は、多忙を極める毎日にあって、ささやかな朱玉(しゅぎょく?)の時間となりました・・・かな?

*)各門に関する解説は、「首里城ハンドブック」(首里城研究グループ著、首里城公園友の会発行)より引用させていただきました。

(写真先頭は、琉球王国最大の木造建築物の首里城「正殿」)

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2007年3月22日 (木)

ひさびさの沖縄で

守礼の門

旅先での土地勘があるとないとでは全然違いますよね。沖縄なんていうのは、その土地勘なしの典型でした。勿論、私にとっての話ですが。最初に沖縄に来たとき、まず困ったことは、空港から先は、どっちを向いて行けばいいの?ということでした。

こういう時、コンパスの役割をしてくれるのが「鉄道」なんです。これも勿論、私にとってですがね。ただ、沖縄には鉄道のようなものはなく、今でこそモノレールが走っていますが、空港からの公共交通機関といえば、どうしてもバスということになります。そうすると、土地勘のない者にとっては、ちょっと厄介(?)ですかねぇ。

それに、沖縄のバス便はそれほど本数が多くないのです。停留所の時刻表を見ても、多いところで1時間に3〜4本、普通なら1〜2本といったところです。さらに、朝夕のラッシュ時には、大都市周辺並みの交通渋滞に見舞われますので、これでは、訪問先に何時に着けるか計算が立たない・・・ということになり、必然的にレンタカーで、ということになります。

こうして、訪れた人たちがレンタカーを使うと、またまた交通渋滞が深刻になるという悪循環に陥ってしまう・・・と言及しつつ、やっぱり、今回の沖縄もレンタカーを借りることにしました。やはり、その方が便利だし、安いし、機動的だし・・・ということから・・・。

今回の沖縄出張は、3月21日(春分の日)にスタートしました。羽田空港から那覇空港まで約2時間半、その前後も含めると5時間くらいになります。とすると、ただ泊まりに行くだけのために「沖縄の休日」を潰してしまうのはもったいないと誰しも考えますよね。ですから、一緒に行く同僚と打ち合わせて、午後の時間が有意義に過ごせるような時間帯のフライトを選択しました。

那覇空港着13時、気温22度、本土ではまだコートが手放せない時期でしたが、朝、少し寒いのをガマンしつつ、スーツだけで出かけました。やっぱり正解でした。沖縄では、コートは無用の長物にしかなりえなかったでしょう。

やっぱりといえば、沖縄に着いてから、どこに行こうかと考えた挙句、やっぱり最初は、首里城に行ってみることにしました。以前、一度訪れたことはあるものの、入場料を払って、御庭から中に入ったことはなく、「取りあえず、行ったことがある」という実績を残したに過ぎない場所になっていたからです。

休日だからなのかわかりませんが、県営駐車場が満杯でレンタカーの置き場所を確保するのがかなり難しく、とにかく周りは混みコミでした。首里城公園に入って、園内の道に沿って、少さな傾斜をゆっくりと昇っていくと、沖縄の民族衣装をまとって記念撮影をする観光客でにぎわう守礼門が見えてきます。もちろん、ここも沖縄を代表する観光スポットなので、ここだけ見て帰ったとしても、「沖縄に行った」という気分を味わえるかもしれませんね。「守礼門」はそんな趣のあるところです。

首里城で購入した「首里城ハンドブック」によると「守礼門」とは、

綾門大道に建つ第二の坊門。尚清王代の創建。1945年の戦災で焼失し、昭和33年に復元。中国の3間牌楼に似るが、随所に日本建築の影響もあり、琉球独特の建築。中央柱間は、3.42m、両脇柱間は、2.26m、棟高7.05m。

やっと、「守礼門」までたどりつきました。次回は、「首里城ハンドブック」を参考に、首里城のことを少し書いてみたいと思います。では、次回。

*守礼門に関する解説は、「首里城ハンドブック」(首里城研究グループ著、首里城公園友の会発行)より引用させていただきました。

(写真は、「守礼門」)

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2007年3月21日 (水)

転やわんやですわ

福山駅のサンライナー

♪ だから結局あれだな あれがこうしてこうなってさ もうなんだかおれ もうなんなんだよこれ~ 

というのは、この3月27日までフジテレビ系で火曜21時の枠でオンエアしていた「今週、妻が浮気します」という連続ドラマの主題歌、クレージーケンバンドの「てんやわんやですよ」の一節。

「今週、妻が浮気します」のストーリーは、家庭生活に何の不満や不安も感じていなかった夫が、偶然妻の携帯メールを見て、妻の浮気を知ってしまう。どうしていいか悩んだ夫は、インターネットのQ&Aサイトに助けを求める。そして、紆余曲折とドタバタを繰り返しながら、最後には夫婦の危機を乗り越え、より一層夫婦の絆を深めていく・・・というもの。

このドラマとも自分の家庭生活ともなんの関係もありませんが、このクレージーケンバンドの「てんやわんやですよ」の歌詞が、ホントにこの3月の忙しさを代弁してくれているようで、原稿を書きながらつい口ずさんでしまいました。

これまでの(仕事の)スタイルでは、若干の例外はあるにせよ、出張の旅に出るのは1週間に一度くらい、だいたいそんなものでした。しかし、この3月は、仕事のボリュームもさながら、年度末までになんとか・・・というリクエストのものが重なり、ハードでタフな・・・なんてもんじゃないくらいのスケジュールに振り回されています。

♪ Sunday Monday Tuesday Wednesday Thursday Friday Saturday あと数秒でまたSunday 堂々巡りで なんでおれだけどうしてこうなるんだ I Never Gonna Give You Up!

これがほんとにぴったし・・・というくらい、日本中を転々と飛ばされているという感じ、もう本当に転やわんやなんです。3月になってから、富山、福井、川越、再び富山、次は尾道、それから福山(3月20日現在)、その後も沖縄本島石垣、また福井、そして神戸、最後に京都と予定されています。

ホント、もう体もたんわぁ~って感じではありますが、しょうがないやりますかと半分、自暴自棄気味ながら、モチベーションの向上に心を砕いているところです。日付が3月20日から、21日に変わりました。今日は、朝から沖縄に飛びます。

♪ もう困難だよおれ もうやんなっちゃうよEveryday な毎日ですが、頑張って少し記事ネタを持って帰りたいと思います。で、遅れ遅れとはなるかと思いますが、ログを更新して行こうかと思ってはいますので、期待はしないで待っててください。ではまた。

(写真は、JR福山駅に停車中の山陽本線快速「サンライナー」)

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2007年3月20日 (火)

ほう、国宝

瑞龍寺2

とにかく今年は、北陸方面それも高岡市には何度も出かけていたのですが、この高岡を拠点とした仕事、伺う軒数がかなり多いということもあって、殆ど、仕事以外の時間を取ることができずにいました。そんなことから、せっかく旅先に来ても、今年先頭の記事「特記事項なし」状態に変化なし・・・がしばらく続いていました。

しかし、何度も訪れていると、何かしら「近場だったら、ここに行ってみたら」なんていう情報をもらえたりするものです。ここ高岡にも、富山県では初めて国宝に指定されたという「瑞龍寺」があって、回廊の窓から望む立山連峰はなかなかすばらしいと教えていただいたので、富山シリーズの仕事の終盤、3月14日に出かけてみました。

入口にある受付で、拝観料500円を支払って受け取ったパンフレットや「山門」の手前にある案内板に、以下のように沿革が紹介されていました。

曹洞宗高岡山瑞龍寺は、加賀二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡城を築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた異母弟利常は、その恩を感じ、時の名匠山上善右衛門嘉広をして禅宗建築七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山された。

瑞龍寺4

■山門(さんもん)国宝

瑞龍寺3

■大庫裏(おおぐり)重要文化財

瑞龍寺5

■回廊の内部

造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)まで、二十年の歳月を要して完成した。当時、寺域は3万6千坪(約18万8千平方メートル)、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。平成9年、「山門」、「仏殿」、「法堂」が国宝に指定され、「禅堂」、「大庫裏」、「大茶堂」、「回廊」、が国の重要文化財に追加指定となり、江戸時代を代表する禅宗建築として高く評価されている。

「総門」から中に入るとそのスケールの大きさに驚かされます。また、伽藍は、「総門」・「山門」・「仏殿」・「法堂」が一直線上に設けられ、そのうえ、「禅堂」と「大庫裏」を左右同じように置いて、見事なまでのシンメトリーを完成させています。では、主な建築物について、パンフレットなどを参考に少しご紹介しておきましょう。

「総門」を後ろに、手入れの行き届いた白い石砂利を踏みしめながら歩を進めれば、すぐ「山門」があります。「山門」は、延享三年(1746)に焼失した後、文政三年(1820)に立て替えられたものだそうで、重層入母屋造りの柿葺きで総欅造り、左右に金剛力士像を配置し、楼上に釈迦如来や十六羅漢がまつられています。

「山門」をくぐってまっすぐに進むと「仏殿」があります。「仏殿」は、万治二年に建立されたもので総欅造り、屋根は本瓦形鉛板葺きになっており、47トンの重さがあるそうです。ご本尊としては中国明代の釈迦・文殊・普賢の三尊がまつられています。

「仏殿」の後には「法堂」があります。「法堂」は、明暦年間(1655~1657)に建てられたものだそうで、建坪が186坪もあり、仏殿の約2倍の広さをもち、境内では最も大きい建築物です。「法堂」は銅板葺き総檜造りで「仏殿」とは異なっています。中央奥の内陣には利長公の位牌が安置されています。

その他にも、歴史の刻まれたいろいろなものを見ることができましたが、私、個人的には、回廊の窓越しに見る伽藍の風情が気に入りました。このバックに青い空と立山連峰があれば言うことなし・・・のお膳立てではありましたが、残念ながらそこまでの希望はかないませんでした。ですが、瑞龍寺の荘厳にして典雅な伽藍のさまは、確かに国宝としてふさわしいと感じられ、今年先頭の記事で、高岡を「特記事項なし」と紹介してしまったことは、訂正しておかなければいけないですね。

(先頭部:写真上は、瑞龍寺 仏殿〔国宝〕)

(先頭部:写真下は、瑞龍寺 法堂〔国宝〕

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2007年3月19日 (月)

ヤマヤマでしたが・・・

立山連峰

立山連峰2

あっという間に過ぎ去ってしまうことの喩えとして、昔から「一月は行く、二月は逃げる、三月は・・・」と言われます。本当に早いもので、あっという間にもう三月、それも半ばになります。う~ん、本当に早いものです。

ただ、今年のこのシーズン、何か変でしたね。およそ冬らしくないというか。寒い時も確かにありましたが、中途半端な寒さでした。一年中旅をしている者にとって、本来なら一番厳しい(かも知れない)この季節が、今年はどうしたことか例年とはちょっと違うようです。

ちょっと前のニュースなんかでも、「記録的暖冬」なんて見出しが出てましたよね。因みに、この冬の平均気温は、日本全国各地で、観測史上最高の暖かさとなったようです。(いつから観測していたのかは定かでありませんが)気象庁によると、記録的暖冬の原因として①「北極振動が」寒気蓄積期であった②エルニーニョ現象③地球温暖化、この3つが挙げられるとのこと。

いつもの冬なら、この季節に北日本やら日本海側に出かけたりすると、降雪や道路の凍結などによって、たまにひどい目に遭ったりするものですが、今年はそれがありません。実際、今年の1月から富山、富山、釧路、2月はたった一回の福山・・・を挟んで、富山、福井、富山と、主に日本海側を、それも、動くのは殆どがクルマでというのに、「こんな雪じゃあ、仕事にならねぇぞ~」という目に遭ったことがないのです。この季節なら、普通はあり得ないことです。

前述した通り、ここ暫らくはほぼ富山の仕事にかかりきりの日々を送っていました。富山は富山でも高岡をキーとして砺波や南砺というところでの仕事が大半で、東京を昼前に発って、翌日の夕方に帰ってくるというトンボ返りを繰り返していました。同じところへの通いの上に自由時間も僅かということもあって、あまり記事を書く気にもならず・・・というのが本音でしたが、余りにも更新を怠ると、せっかくおいでいただいているリピーターの皆さんに愛想を尽かされるかな(?)と思い直し、またまた、長い中断を経て、久々の更新です。

さて、富山空港を後に東に向かえば、正面に立山連峰を望むことができるはずです。「はずです」というのは、ここ2ヶ月ちょっとの間に4回も富山に行ったのに、立山連峰が見えたのはたった一度だけ、後はガスっていて全然見えませんでした。たった一度拝めた3月2日も少しボーっと霞んでいましたが、雪をいただいた白い稜線を遥か彼方に望むことができました。

立山連峰というのは、北アルプスのうち黒部川の西側に連なる山域のことをいうそうで、3000メートル級の山々が連なっています。その中でも、剣岳はその名の通りひときわ尖って見えるので、山に詳しい方でなくても容易に見分けることができるでしょう。

先頭の写真は、南砺から富山空港に戻る途中の峠で撮影したものですが、もう少し近くに寄ってみると、さらに鮮明に見えるのではないかと思い、本来なら空港へ戻る道を通り越し、白い稜線にできるだけ近づいてみようと、立山町の方まで行ってみました。しかし如何せんすぐにタイムリミットが訪れてしまい、いろいろな地点から立山連峰を堪能したかったのはヤマヤマでしたが、仕事も山積み・・・ということもあり、残念ながら立山橋まで来たところで空港に向けて引き返すことにしました。

こうやって走り回ったことによる収穫は、「立山連峰」として鑑賞するのなら、遠くから眺めた方がいいんじゃないかなということでしょうか。どんな美しい山でも近づいて行けば行くほど、ただの山にしか見えなくなっちゃいますから。

(写真上は、富山市街の彼方に見える立山連峰の白い稜線)

(写真下は、富山地方鉄道上滝線の大川寺駅近く、常願寺川にかかる立山橋付近から見た立山連峰)

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2007年2月 4日 (日)

暖冬なんだ・とう

幣舞橋と書いて、皆さんはスッと読めるでしょうか?貨幣の「幣」に「舞う」橋で「ぬさまいばし」と読みます。かく言う私も、最初はなかなか読めず、また覚えられず、最初の頃は、「へいまいばし?」違うなぁ・・・、確か、外交官で後に首相になった幣原喜重郎って人がいたなぁ、確か発音は「しではら」だから、「しでまいばし?」なんていうtry and errorを繰り返しながら、今でこそ、躊躇なく読めるようになりましたが、今回、ジョイントした釧路は初めてだという同僚も、なかなか読み方が覚えられないようでした。

この幣舞橋は、北海道の三大名橋のひとつに数えられるとか(といろいろなものに紹介されて知ったのだが)で、後の二つは、札幌の豊平橋と、旭川の旭橋だそうです。幣舞橋が名橋と呼ばれるのは、「四季の乙女像」の存在が大きいのではないでしょうか。橋の中央より両側の欄干に、それぞれ、春、夏、秋、冬を表現する4体の裸婦の像が置かれており、アートな雰囲気を醸し出しています。

幣舞橋の袂には、フイッシャーマンズ・ワーフ MOOという建物があります。Fisherman's Wharfというのは、直訳すると、漁師の波止場あるいは埠頭というものですが、この建物は、釧路のウオーターフロントに設置された、グルメやショッピングのできるレジャー施設といったところでしょうか。因みに、MOOとは、Marine Our Oasisという造語の略だそうで、公募によりネーミングされたものだそうです。詳しくは、MOOのホームページにも紹介されていますので、そちらをご覧ください。

さて、今回は何の前フリもなく書き始めてしまいましたが、1月の最終週は、またまた釧路にお邪魔してきました。相変わらず、日程がタイトなので、何処かちょっと観光でも・・・なんて、やはりムリでしたが、今回も宿泊が、全日空ホテルだったので、夜の幣舞橋の近辺をちょっとだけ散策することができました。

しかし、今年はやっぱり暖冬なんですね。道東の釧路と言えば、北海道の中でも気温が低いことで知られていますが、その釧路に着いた時(1月29日 16時30分くらい)、気温が1℃、なんとプラス1℃ですよ。この時期の釧路としては、格段に暖かいという感じでした。このため、道路に雪がない。前回12月末に来た時は、メチャメチャ凍結しまくっていましたが、今回は、夜でも平気で、乾いたアスファルトの上を歩けちゃいました。

ただ、暖かかったせいで、今回も見られるかなぁと期待していた海上の「けあらし」が現れず、もう一度(まともに)撮影しようかと思っていたのに・・・、それがちょっと残念な暖冬の釧路でした。

(写真上は、幣舞橋の夏の像付近からフィシャーマンズワーフMOO付近を望む)

(写真下は、雪のない冬の釧路駅前)

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2007年1月28日 (日)

特記事項なし

年末・年始19連休を無事完遂!体も心もリフレッシュして、1月15日に久々の出社を果たしました。

口うるさい・・・なんていうと叱られるかも知れませんが、同僚たちから厭味の一つでも飛んでくるかと思っていたら、さにあらず、「いやー、待ってたよ」の暖かい言葉。本来なら、喜ぶべきシチュエーションなのかも知れませんが、私としては、「イヤーな予感・・・

出社した週はオフィスで体を慣らして、旅に出るにしても翌週から・・・なんて自分なりに決めていたスケジュールは、木端微塵に吹っ飛ばされてしまいました。今年こそペース配分を守って、ゆとりで行こうなんて戯言は、シロップに浮かんだうたかたのように消え去ったのでありました。

さて、2007年第1発目の旅は、富山県の西部に位置する砺波市、南砺市、高岡市の各市にお住まいの方々のところに伺うというもの。1月18日~19日と1月23日~25日までびっちりと組まれたスケジュールを精力的にこなさなければなりませんでした。このため、全日程ともレンタカーを使用したにも拘わらず、ちょい旅なんていう息抜きも全くできず・・・という悲しい結果に。(まぁそれが普通だろうと言われれば、その通りですが)

そのうえ、ホテルでもらった観光案内なんかを見ても、忙しいスケジュールの合間を縫って、どうしても行ってみたいというスポットも見あたらず、所謂、特記事項なし!という結果???今年初の旅なのに大した収穫もなく、終わってしまいました。(高岡の皆様、スミマセン。ここはいいぞなんてところがあれば是非教えてください)

ただ、何もないというのも寂しいかなぁと思い、このとき宿泊したJR高岡駅の前あたりで一枚、シャッターを切ってきました。手前に見えるのは、万葉線の路面電車です。ここでいう万葉の謂れは、この高岡に、万葉集の編者である大伴家持が5年間国府としていたらしく、その時に数多くの歌を詠み、万葉集にもおさめたそうで、それに因むらしいのです。

またまた因みに、万葉線は、人口18万人余の高岡市と9万4千人の射水市の間の合計12.8kmを市民の足として走り続けています。どうしてここに路面電車があるのかというと、以前の経営主体であった加越能鉄道が、経営不振を理由にバス代行へ切り替えようとしたとき、高岡市や旧新湊市が中心になって、路面電車を残すために第三セクターを作ったからだそうです。万葉線は、加越能鉄道より2002年に譲渡されましたが、路面電車を運営するための第三セクターは日本で初めてということです。

えー、そんなことで、特に収穫のない本年・第1回目の旅については以上です。(第1回目の旅でなければ、ボツってたかも??)そんなところで、今年も、適当に忘れられない程度にやっていこうかと(今のところは)思ってます。本年もひとつ、ご愛顧のほど。

(写真は、JR高岡駅前と路面電車 万葉線)

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2007年1月11日 (木)

昨年のことですが・・・(その1)

釧路港のけあらし

今年に入って11日目になり、年末年始19連休も残すところ4日となりました。仕事の関係上、中断しなければならないか?という憶測も一時浮上しましたが、何とか大丈夫のようで、予定通り「休む時は休む」で最後まで行きたいと思います。

休みが続くということになると、この旅ブログの新ネタがないということになってしまいます。となると、本業が忙しくて更新する時間が取れないと言っていた時期と違い、時間があるのに更新できないというのも、なんだかもったいない感じもしますので、昨年のことではありますが、日にちが経ちすぎてボツにした旅のことをここでいくつか書いておきたいと思います。

では、昨年のことですが(その1)のテーマは、「クリスマスイブなのに・・・」の巻。

2006年12月24日(日)、巷では、この日はクリスマスイブと呼ばれる日でありますので、家族でパーティーをしたり、カップルでディナーを楽しんだりというのが普通ですよね。実際、この仕事を始めてからもクリスマスイブに旅先というのは、余りなかったような気がします。ですが、昨年のクリスマスは先方の都合に合わせるためにはどうしても・・・ということに抗えず、ペアで(ペアと言っても男の同僚とですが)、道東は釧路まで行かなければなりませんでした。

24日の午後、もう年末休暇に入った人もいるのかな?という影響なのかどうか良く分りませんが、混みこみの羽田空港から飛んで、たんちょう釧路空港に着いたのは、夕方の4時半くらい。さすがに1年の内でもっとも日が短い季節であり、そのうえ地理的にもかなり東に位置するところにいるということもあって、あたりはもう夕闇に包まれていました。

飛行機を出ると、外気がマイナス13度の世界が迎えてくれました。「マイナス13度ってどのくらい?」というと、冷蔵庫の温度はプラスなので比較の対象にはなりませんが、冷凍庫の温度がマイナス18度くらいですので、これに近いんだというふうに思ってください。冷凍庫に食品などを入れておくと、みなカチンカチンに凍るでしょう。まぁ、そんな空気の中にいることになります。

そういえば、仕事で冬の北海道に初めていく前の晩、スキーに行くならともかく、どんな格好で行けばいいのかと一思案しました。確か行き先は苫小牧だったような記憶がありますが、前日の天気予報によると最低気温がマイナス5度くらいだったように思います。これは寒さが結構こたえるだろうと思って、下着に厚手の長袖やら普段ははかないタイツなどを装着し、Yシャツの上にセーターなどを着込み出かけたのですが、新千歳空港に着いてまず思ったことは、「暑い・・・」ということでした。その後、屋内に入るたびに、暖房が効いて、というよりは効きすぎていて、室内では東京よりも暑い事が分ったので、それ以降の重装備はやめて、服装は、東京で過ごす時と変わらない組み合わせで来るようにしています。

さて、クリスマスイブの釧路市内の積雪量は、まだそれほどでもなかったように思います。ただ、道路は完全凍結状態でした。こんなことから、移動には主にタクシーを利用しましたが、そのタクシーの運転手さんによると、「完全に凍結してしまったら、普通のコンクリートを走っているのと同じような感覚で走れる」とのことで、「それよりも、日中で氷が緩んだ後、再び凍り始めるときが、一番滑って危ない」と説明してくれました。

クルマでは、完全凍結状態の方が走りやすいようなのですが、歩きになると話は別です。釧路全日空ホテルにチェックインして後に、夕食のために「炙り屋」という炉辺風?居酒屋に行きましたが、普通に歩けば10分ほどの道中にもかかわらず、おっかなびっくりで歩くので時間がかかるかかる。もちろん底がツルツルの革靴ではなく、裏面にギザギザの滑り止の入ったタイプのものを使っていたのですが、途中何度か危うく転びそうになってしまいました。行きがそんな感じなので、酔っ払った帰りの方が心配されたものの、お酒が入って大胆(?)になっていたせいか、特に支障なく、無事ホテルに帰り着きました。こんな風に1年に1度しかないクリスマスイブの夜が、味気なく過ぎて行ってしまいました。

その翌日、釧路はとてもいいお天気でした。ホテルから港を見渡すと、海面からもうもうとお風呂の湯気のようなものが立ち上っているのが見えました。多分、気温よりも海水の温度が高いために、こんな現象が起こっているんじゃないかと検討はつきましたが、気になって調べてみました。そうすると、この現象は「けあらし」といって、内陸で冷やされた空気が、あたたかい海面に流れ込んで発生した霧なのだということが分りました。

「けあらし」という冬の北海道でも一部の地方でしか見れないような光景が見られたので、そういう面では良かったのかも知れませんが、でも、クリスマスでなくてもなぁ・・・と思いつつ、凍てつく空気の中を2006年最後の仕事場に向かったのでありました。

(写真上は、モヤでかすむ釧路港から幣舞橋〔ぬさまいばし〕方面を望む)

(写真下は、けあらしの様子・・・写真にはあまりはっきりとは写っていない様ですが・・・)

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2006年11月30日 (木)

書かぬはオマエの・・・なりけり

上杉鷹山公像

10月5日から開始した下妻~米沢の旅も、途切れ途切れながら、なんとか続けていたのですが、記事の上では、10月24日にやっと米沢にたどり着いて後は、力尽きてしまい(?)長~いお休みをいただいておりました。長~く書いていないと、再開する気力もなかなか盛り上がって来ないもので、このまま絶筆か・・・な~んて気持ちもなかった訳ではありませんが、やっぱり、中途半端はイカンと思い直し、書きかけのままになっていた米沢編のラストまで書き上げることにしました。(写真は、上杉神社にある上杉鷹山公の銅像)

舞鶴橋から上杉神社を望む

米沢は「上杉の城下町」と呼ばれています。上杉家とは?という取り上げ方をすると、有為転変が激しく、ひとことで説明するのは難しものがありますので、川中島の戦いで有名な越後の戦国武将、上杉謙信の流れをくむ家系くらいに考えると良いのではないかと思います。(写真は、鶴舞橋から上杉神社の参道を望む)

上杉神社1

上杉神社2

上杉家が米沢に入ったのは慶長6年(1601年)ですし、上杉謙信が没したのが天正6年(1578年)ですから、謙信公と米沢藩とのつながりは無いように思われますが、上杉家が越後から会津、さらに米沢へと移るたびに、上杉家の主従が、謙信公の遺骸の納められた「甕」を慎重に運んだと伝えられています。上杉家の人たちが謙信公に見せるこのような崇敬の念が、米沢藩の多くの人たちの間に、謙信信仰を育んでいったのではないかと言われています。(写真上下は、上杉神社の鳥居と拝殿)

米沢藩の初代藩主は、上杉景勝です。上杉景勝は謙信の養子で、跡目争いに勝って上杉家の家督を継いだ人物です。景勝は、豊臣政権下では、五大老の一人でありましたし、豊臣、毛利に次ぐ大名で、越後から会津に封入したときには、石高120万石の大大名であったのです。

関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍に加担したことから、家康の命により30万石に減封されました。120万石の大きな藩から30万石の小藩に変わっても、120万石の時とほぼ同じくらいの家臣を抱えたことから、藩の財政は困窮を極め、下級武士たちは刀を鍬に持ち替えて畑を耕し、女達は機を織って生計をたてたと伝えられています。その後、嗣子(しし)の問題などもあって、15万石までに減封された米沢藩は、さらに窮乏していきます。

鷹山シアター

財政難や多くの事件に苦しむ米沢藩を立て直したのは、九代藩主上杉鷹山(治憲)でした。しかし、七家騒動や腹心竹俣の失脚などを経て、明和・安永期の改革は天明の飢饉をきっかけに一旦は挫折します。天明5年(1785)、鷹山は35歳の若さで隠居し、藩主の座を退きますが、寛政3年(1791)に再び改革に着手し、これまで以上に計画性と効果のある政策を実行していきました。それらの努力は、鷹山の晩年、文政年間(1818~30)頃に至って実を結びました。米沢藩の再建は、まさに-上杉鷹山、一生涯の仕事-だったのです。(写真は、上杉博物館の鷹山シアターで鷹山を演じる西村和彦)

上杉鷹山は、宝暦元年(1751)7月20日、日向国(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美(あきづきたねみつ)の次男として、江戸で生まれました。母、春姫は、筑前国(福岡県)秋月藩主・黒田長治と、四代米沢藩主上杉綱憲の娘・豊姫との間に生まれました。宝暦10年(1760)6月、鷹山は、八代藩主上杉重貞の養子に決まり、10月に上杉家の江戸桜田邸に移りました。明和3年(1766)に元服し、治憲(はるのり)と名乗ります。その翌年に家督を継いで、九代藩主となり、藩政改革への第一歩を踏み出したのです。米沢に初めて入封(にゅうぶ)するのは、明和6年(1769)になります。

治憲(鷹山)は、傾いた米沢藩を救うため、先ず「大倹約令」を発し、役人の贅沢や無駄を正すことから改革を開始します。その後、教育に力を入れ、農政改革や産業振興を図っていくのですが、その中でも最も重点施策となったのが、「織物業」で、置賜特産の青苧を原料とした縮織に始まり、やがて養蚕・絹織物へと発展していくのです。

上杉博物館全景

上杉博物館の内部

さて、10月5日から6日にかけて訪ねてきました下妻から米沢の旅シリーズもやっと終わりです。米沢市内にいた6日は、冷たい雨が降り続いたせいもあって、上杉神社と米沢市上杉博物館だけに徒歩で行ってみました。今回の記事は、米沢市上杉博物館に行ったときの取材を中心に書いたものです。上杉博物館の規模は、鷹山の藩政改革の精神、つまり官の贅沢や無駄を正すという姿勢からすると立派過ぎるんじゃないのかなぁと思うのは気のせいでしょうか?ちょっとそんなことを思いました。(写真上下は、米沢市上杉博物館の全景と展示)

「為せば成る為さねばならね何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」は、上杉鷹山が詠んだ有名な詩であります。最後に、この詩をなんとかいじってみようかと考えましたが、恐れ多いのでやめることにしました。まぁ、「書けぬは、オマエの怠慢なりけり」これは良く分かりましたので・・・。ではまた。

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2006年10月24日 (火)

ビッグスリー

山形新幹線

前回の記事を更新してから、ずいぶん経ってしまいました。10月5日(木)~6日(金)にかけて行ってきた下妻から米沢への旅シリーズも書きかけのままになっていました。この10月は、好き勝手に書いて、もうちょっと更新の頻度を上げるぞ・・・な~んて心に決めていた筈(?)でしたが、ふたを開けてみたら、書いたのは2本だけと、冬の気配がなにげに感じられるこの頃と同じく、なんともお寒い限り・・・なんて感じになってしまいました。(写真は米沢駅に着いた山形新幹線“つばさ”)

しかし、何ともどうしようもない多忙が続いており、下妻から米沢の旅の翌週からどんな具合だったかというと、

10月10日(火)~11日(水)の日程で函館に行き、11日(水)の夕方には、丘珠空港経由で札幌に。その日は夜中まで仕事して、12日(木)に東京に戻ってきました。13日(金)~18日(水)までは、その間に溜まったデスクワークをさばき、その後の週は、10月19日(木)~20日(金)の日程で福山に。福山での仕事を終えた足で、久しぶりに倉敷の実家に戻り2泊。その後の日曜日の午後(10月22日)には、瀬戸大橋線経由で四国の松山に入りました。

というなんとも忙(せわ)しないスケジュールで動いて(動かされて)いたものですから、最近は、ゆっくりとプチ旅を楽しむ余裕が、日程的(精神的にもか?)になく、その関係もあって、「なかなか次に取りかからない病」から、ちっとも脱け出せないようです。

ところで、今日は、松山に入って3日目になります。松山での仕事が一段落したので、久々に更新してみよう・・・というより、中途半端なまま放置(?)されている米沢編くらいなんとか完結させておかないと・・・ということで、遅ればせながら、ご無沙汰となっていた更新作業をすることにしました。(全然、脈絡も何もないのですが、前回、更新したときは、プロ野球パリーグプレーオフ第二ステージ[ライオンズVSホークス]をやっていたのが、今日は日本シリーズ[ドラゴンズVSファイターズ]のそれも第3戦・・・。そう考えてみると、かなり時間が経っちゃったよなぁ・・・ホント、そう思います。)

それでは、長~い前フリはさておき、米沢に着いてからのことをちょっと書いておきます。宇都宮から山形新幹線に乗って、米沢に着いたのは、夕方の16時を少し回った頃でした。米沢市の町の中心は、JR米沢駅から少し離れているので、市街地方面にあるホテルまではタクシーで移動しました。

タクシーの車窓から街並みを、ボーっとしながら見ていたら、あちこちで「米沢牛」というのぼりやポスターを見かけました。「米沢牛?ん?」としばらくは、ピンと来なかったんですが、「そうか、ここ米沢は、米沢牛の産地なんだ」と途中で認識しました。

さて、みなさんは「米沢牛」って、何だか知っていますか?日本では「日本3大なんとか」なんてのを決めるのが(自薦か他薦かそのあたりはよく分かりませんがねぇ)とても好きなようで、いろんなものにこの「3大なんとか」というものがありますよね。実はこの米沢牛も「日本3大和牛」のひとつといわれています。3大和牛を構成する他の牛は何かと言えば、松坂牛神戸牛ですから、そのブランドの価値がいかに高いものかということが良く分かります。因みに、米沢牛とは、黒毛和種で山形県の置賜(おきたま)郡地方で12ヶ月以上飼育され、厳しい審査を通過した証として、技肉に証明印が押印された外観及び肉質・脂肪が優れている高級牛肉のことだと言われています。

十五万石屋

つまり、高級品=too expensiveという構図が成り立つ訳で、通常だと、まぁ、そんな高い肉を無理して食わなくても・・・となりがちですが、この日は折角本場に来たのだから・・・ということから、1回食ってみるかという気分になりました。ただ、当日は、雨が少し強く降っていたせいもあり、宿泊先に一番近かった「お食事処 十五万石」(写真)さんというお店に行ってみることにしました。

お店に入って、メニューを見ると、「すきやき」だとか「しゃぶしゃぶ」だとか「サイコロステーキ」などが三千円少々くらいでした。しばらく思案した後、これから米沢牛なんて、滅多に食べることもないだろうから、メニューの中で一番高いステーキを注文しました。お値段は、5,250円(ステーキのみ)ただ、お店の人によくよく聞いてみると、特選メニューというのがあって、さらに上質の肉を、さらに高いお値段で提供するそうな・・・。それは、要予約とのことでしたが。

この「お食事処 十五万石」さんというお店は、お肉やさんが経営しているそうです。注文を受ける際に、普通のステーキにするか、形にこだわらなければ、いいところの肉にしてあげてもいいとご主人が言ってくれたので、味がいいところの方でお願いすることにしました。ご主人の説明によると、その肉は、牛の肩ロースの端の一部しか取れない貴重な部分らしいのです。

米沢牛ステーキ

20分ほど待って、テーブルに置かれたステーキは、3つにセパレートされており、余りカッコいいという代物ではありませんでした。しかし、一口含むと、本当にいい牛肉というのは、口の中で一噛みすると、とろけるというか、肉汁がジワーっと染み出してきて、それはそれはジューシーというべきか、噛むごとに、肉自体の甘みがお口全体に広がると云えばいいのか・・・もう、言葉で説明するなんてどうでもいいというくらい美味でした。写真は、米沢牛のステーキ)

翌朝、普段、ほとんどやらない米沢牛を堪能なんていうグルメの反動なのか、脂っこいステーキをこれでもかというくらい詰め込んだので、年相応の胃腸がバランス感覚を発揮したのか、無性にお茶漬けが食べたくなりました。結局、お茶漬けにはありつけなかったものの、メニューに雑炊がありましたので、お腹にやさしい朝食で一息つきました。自分には、やっぱりこういう粗食系の方が性に合うみたいだなぁと変に納得しながら、胸焼け気味の朝がスタートしたのでありました。

この記事は10月7日の続きになります。この下妻~米沢の旅シリーズはもうちょっと続けます。(筆がかなり遅れ気味なるも)

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2006年10月 5日 (木)

10月のラプソディ?

つくばエクスプレス守谷駅

満開の秋桜が風に揺れながら、ちょっと控えめな色合いで目を楽しませてくれる、そんな季節になりました。もう10月なのか・・・本当に時が過ぎるのは早いものです。

久しぶりに旅先で原稿を書いています。旅先で原稿を書くのが久しぶりなのか、ブログをアップするのが久しぶりなのかどっち?と言われそうですが、どっちも久しぶりなのかも知れません。最近は、なかなか「次に取りかからない病」が治らず、筆がちょっと重いかなぁなどと思ったりもします。

今までより内容を良くしようなんて考え出すと、なかなか更新できなくなっちゃいますよね。だから、この10月は音楽で言うなら狂想曲?のように「自分の好き勝手シリーズ」・・・という、最初に掲げた方針に戻ってみようと思います。

いつもなら「訪問先は1箇所」というのが多いのですが、今日は2場所でした。1つ目は、茨城県下妻市というところ。関東に住んでいる方以外(関東に住んでいてもでしょうか?)余りご存知ないかも知れません。ちょっと紹介しておきますと下妻市は茨城県南西部にあって、東京を中心として約60km圏に位置します。筑波研究学園都市などと隣接する田畑が主流の田舎町です。

東京近辺に住んでいると、なかなか丘や山などを見ることはないですが、ここまで来ると秀麗な筑波山の姿を眼前に見ることができます。そう言えば、深田恭子主演の「下妻物語」という映画がありましたね。その手の方面がお好きな方は、ひょっとしてご存知だったりして。

下妻まで行くならつくばエクスプレスを使うのが便利です。まず、守谷駅まで行き、そこで関東鉄道常総線に乗り換えて、乗車時間30~40分というところですが、常総線は1日13本しか走っていないので、事前にチェックして無駄な待ち時間を作らないようにすることが肝要です。

さて、次は下館を経由して小山に出て、それから宇都宮に行って、それから・・・と今日の泊まり先まではまだまだです。では、乞うご期待?

(写真は、幾何学チックな造りをしたつくばエクスプレス守谷駅)

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2006年9月24日 (日)

遠野の物語・終章

河童淵

伝承園を後にして、ホップの畑や刈入れ前の田んぼが両わきに広がる田舎道を10分ほど歩くと、常堅寺というお寺があります。その常堅寺の裏、50mくらいのところにカッパ淵(写真)はあります。カッパ淵には澄んだ小川の水が流れ、昼間でも薄暗く感じられるほどの木々の茂みに覆われています。淵の岸辺には、カッパ神を祀った小さな祠があり、子持ちの女性がお乳が出るようにと願をかけると願いがかなうと言われています。願掛けには、赤い布で乳の形を作り、この祠に収めるのが習わしとされているようです。

カッパ淵にまつわる説話は次のようなものです。いたずら好きのカッパが馬を川に引き込もうとして失敗した。怒る村人にカッパは「もういたずらはしません」と約束して許してもらい、母と子の守り神となった。カッパは常堅寺の火災のときに出現し、頭の皿の水で火を吹き消して協力したと伝えられています。尚、「遠野物語」では、カッパは猿ケ淵川に多いといわれ、赤い顔で猿のような生き物だと語られており、一般的に馴染みのある緑色のカッパとはちょっと違うようです。

泣石

続石

遠野への旅の最後を飾って(?)続石まで登ってみることにしました。続石はどこにあるかというと、遠野から盛岡に向かう国道396号線の右手、前回の記事で紹介しました千葉家の曲り家の少し手前(遠野からみると)、石神山という山中にあります。続石とは何ぞやという人のために、登り口手前の案内板を転記してきましたが、それには、次のように記されていました(写真上段は、弁慶が笠石を一旦乗せたところ、一晩中泣いたという泣石、下段が続石)

小高い杉林の中に、古代巨石文化が残したものといわれている大きな石があります。二つ並んだ一方の石の上に、幅7メートル、奥行き5メートル、厚さ2メートルほどの巨石が笠石として乗っています。弁慶が傍の石(泣石)に笠石を乗せたら、位の高い石なのに大石の下になるとは残念と嘆いたので、今の石の上に置き換えたという話を遠野物語拾遺第11話は伝えています。

続石へは、麓の登り口から、細い山道を辿りながら登っていくのですが、無論、舗装などされていません。草ぼうぼうの土の道が続いていくだけです。途中までは、木材の横木が土の中に埋められていて、それが階段の役割を果たしてくれますが、ある程度の高さになるとそれさえもありません。ですから、途中からは、本当に足場が悪くなりますので、履物にはどうぞご注意ください。

そのうえ、登り口から続石までは、早い人で15分くらい、体力のない人ならば20分くらいはかかると思います。この間、結構な急勾配を登って行くのですが、登れども登れども案内標識さえ見当たらないことから(後、60mという標識が一番最初のものです)、ひょっとして、ルートを間違っているんじゃないかという不安に襲われるかもしれません。ですが、信じてもう一頑張りしてみてください。困難を乗り越えた後の達成感に浸りながら、この奇妙な石を見上げるというのもなかなかのものかも知れませんよ。しかし、義経北行伝説にこんな山中でお目にかかるなんて、遠野とは本当にロマンとミステリーの宝庫なんだなぁ・・・そんな感じにさせてくれます。

さて、9月11日、15日~16日、18日、20日と5日間の岩手滞在の内、2日間で時間としては約7時間ほど遠野にいることができました。ただ、遠野の奥深さを理解するには、もっともっと時間が必要なようです。遠野を訪れた感想を一言でといえば、「懐かしさ」ということになるのでしょうか・・・。ふるさとは遠野にありて思うもの(正しくは遠きだが・・・)なんてフレーズがあながち間違いではないように聞こえる、そんな遠野の秋でした。

どんとはれ。

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2006年9月23日 (土)

遠野の物語・第2章

遠野駅

遠野にゆかりのあるものといえば、遠野物語だけではありません。遠野には、懐かしさを思い起こさせる数多くの名所やおおらかな自然が溢れています。小難しいお話はさておき、今回は、民話のふるさと遠野のことを、自分の歩いた足跡と重ねて、少しだけ紹介してみたいと思います。写真はJR釜石線の遠野駅)

千葉家

千葉家2

先ずは、日本十大民家の一つの数えられる「南部曲り家 千葉家」(写真上下段とも)を訪ねてみました。千葉家は、遠野市から盛岡市に向かう国道396号線の右手にあります。見晴らしの良い小高い丘の中腹に石垣を築き、前面に柵をめぐらした屋敷構えの家で、曲り家の最盛期に建てられ、上層農民の最高級の曲り家として典型的なものと言われています。飛騨の合掌造り等と並び「日本十大民家」の一つの数えられます。約八百坪の敷地に、曲り家を中心に蔵・納屋や社があります。かつては、作男15人、馬20頭を有していました。(千葉家に置かれているパンフレットより)

曲り家というのは、L字型の家のことで、人間の住む母屋と馬小屋を直角に連結した家を言います。この南部曲り家の拠点は二つあり、遠野郷と盛岡周辺であった。これを外から見てみると、屋根は茅で葺き、周りを土塀で塗りつぶし、柱や貫だけを露出させる。これを遠くから眺めると。自然の風景に溶け込んで。小さな山や丘に見えた。(『遠野物語小事典より』)

遠野は名馬の産地として知られています。軍用として、または三陸海岸と内陸を結ぶ交易上の拠点という地理的環境から、馬の育成に力を入れた地方で、農家にとっても労力使役や運送の手段として大変貴重なものでした。江戸時代、南部馬の飼育が盛んになると同時に家の形も工夫され、やがて、今見ることができる曲り家が確立されたと言われます。深雪を避け、馬と寝食を共にするそのつくりからは、馬に対する家族同様の愛情が感じられます。家は、住まい手の生活や地域環境を背景に工夫が重ねられて進化するものであることを伝えてくれます。(千葉家に置かれているパンフレットより)

伝承園の曲り家

伝承園の曲り家2

次は伝承園に回ってみました。伝承園は、昭和59年6月にオープンした遠野地方の民俗伝承施設です。伝承園では、遠野地方のかつての農家の生活様式を再現し、伝承行事、昔話、民芸品の製作・実演などが体験できます。園内には国の重要文化財となっている旧菊地家住宅や遠野物語の話者であった佐々木喜善の記念館、千体のオシラサマの御蚕堂(オシラ堂)などがあります。(伝承園に置かれているパンフレットより)写真上下段とも伝承園の曲り家)

「オシラサマ」とは何ぞやと思う方は多いでしょう。残念ながら僕にもよく分かりません。東北地方に伝わる民間信仰で、一般的には養蚕の神様、馬の神様、農業の神様とも言われているようですが、信仰の対象はそれに限らず、もっともっと広いようです。遠野のオシラサマには、娘と馬の悲しい恋物語があり、遠野物語にも収録されています。ここでは、オシラ堂入り口に掲示されていた、オシラサマ伝説を紹介しておきましょう。

おしら堂

オシラサマ伝説
むかしあるところに、貧しき百姓あり。妻はなくて、美しき娘あり。また1匹の馬を養う。娘この馬を愛して、夜になれば厩に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜、父はこのことを知りて、その次の日に、娘には知らせず馬を連れ出して、桑の木に吊り下げて殺したり。その夜、娘は馬のおらんより父に尋ねて、このことを知り、驚き悲しみて、桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きたりしを、父はこれを憎みて、斧を持ちて馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというは、このときよりなりたる神なり。(遠野物語第69話)

オシラ堂の中には、オシラサマが千体展示されており、中に入った時の印象は、ただ、「凄いな」の一言です。ミステリアスな世界が苦手な人にはちょっと心臓に良くないかも知れませんのでご留意のほど。尚、オシラ堂では願いを込めてオシラサマの着布を体験することができます。(有料ですが・・・)写真は、オシラ堂の中のオシラサマ)

遠野の物語は、私の印象や感想を極力抑えて、各施設で配布される資料などをもとに、できるだけ忠実に伝承(?)しています。この物語(?)はもう少しだけ続けます。

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2006年9月19日 (火)

遠野の物語・序章

遠野昔話資料館(<br />
 全景)

9月も半ばを過ぎて、だいぶしのぎやすくなってきました。ここしばらく更新をサボっていました。そのわけは、9月になってからのお出かけが、毎度おなじみの函館シリーズの続編の一度くらいだったのと、8月の名古屋・岐阜シリーズのハードワークダメージが抜け切っていなかったせいかも知れません。写真は、遠野昔話資料館の全景)

日本中をフィールドに・・・なんていうと、何処にでも出没しているんだろうと思われるかも知れませんが、東北を訪れた回数はそれほど多くはありません。特にその中でも、岩手県には縁が薄かったのか、一関市と釜石~大船渡のルートで伺ったくらいだったように記憶しています。そんな中で、今回、花巻市での仕事で、久しぶりに岩手を訪れることができました。

今回の岩手方面への日程は、9月15日(金)の昼過ぎに東京を出発して花巻の訪問先へ。花巻での仕事が、夕方から夜にかけてでしたので、その夜は、北上川に面する瀟洒なホテルに泊まりました。翌日の土曜日は帰るだけの日程でしたが、「遠野」という言葉の響きに誘われ、なんとなく訪ねてみようかなという気になりました。(ここを書いていた段階では、9月15日~16日で日程終了の予定であったのですが・・・[9月19日補足])

さて、みなさんは遠野物語って知っていますか?かくいう私も、道行く車の中では、遠野物語ってなんだっけ?遠野凪子主演のNHKの朝のテレビ小説だったっけ・・・?なんてアホなことを考えていたのでした。

柳田国男像と遠野昔話資料館

あてずっぽにスタートしても時間を浪費するだけなので、とりあえず遠野市観光協会のサイトで、情報収集してみることにしました。それで思ったのは、一口に遠野って言っても、こりゃ結構広いなぁということです。2、3時間あれば回りきれるかなと軽く考えていたのが、大間違いだったと悟りました。なので、先ずは遠野市内の著名なスポットからと思い、最初に、遠野昔話村を訪ねそこから、数箇所をセレクトして行ってみるかと決めました。(写真は遠野昔話資料館の前の柳田國男像)

旧高善旅館(<br />
 柳翁宿)

遠野昔話村には、柳田國男が宿泊した旧高善旅館を移築保存した「柳翁宿(りゅうおうじゅく)」(写真)や、酒蔵を利用し遠野の昔話を紹介している「物語蔵」、また昔話の歴史や広がりを紹介している「遠野昔話資料館」があります。すぐ近くには遠野市立博物館や、遠野城下町資料館などもあり、遠野初心者のスタート地としては、最適ではないかと思います。ここからしばらくは、現地でないと見聞きできない「遠野のこと」を少し紹介していきたいと思います。

さて、遠野は北上山地の中央に位置し、三陸海岸と北上川流域の内陸部を結ぶ交通の要衝として発展しました。特に、江戸から明治時代は、月に6日開かれた六度市の日に、数多くの人や馬で賑わい交易拠点としても繁栄しました。内陸産品や海浜産品を運搬する駄賃づけを始め、五十集屋(いさばや)や塩魚を売る人や店、古着屋などの商売人や、山伏、厩祈祷(やまぎとう)、琵琶法師など、遠野を往来する様々な人々によって数多くの情報が集積し、遠野固有の信仰や文化と結合して、新たな文化を生み出し、民衆の心に深く浸透しました。魂の記録は、親から子へ、子から孫へと悠久の時を越えて伝承され、やがて遠野は昔話のるつぼとなっていったのです。

次に、「遠野物語」とは、柳田國男が明治時代に書いた説話集です。柳田國男が民俗学者として著名なため、遠野物語は民俗学の論文じゃないかと思われている方もいるかも知れませんが、そもそも、遠野出身の佐々木喜善から語られた民話を、柳田國男が編纂したものであって、学者のために書かれたものではなく、一般の人向けに書かれた読み物のようです。「遠野物語」本編は119話が収められ、続編の「遠野物語拾遺」には299話が収録されています。

正装した柳田国男

柳田國男(明治8年~昭和37年)とは、兵庫県出身の民俗学者です。明治20年から2年間、茨城県利根町布川で医院を開いていた実兄鼎(かなえ)のもとで過ごしたと言われていますが、このときの体験が、後に民俗学を志すきっかけとなったと言われています。その後、第1高等学校、東京帝国大学へと進み、明治33年に卒業した後は、農商務省に勤務しました。 その後、貴族院書記官長となりますが、辞任して、朝日新聞の論説委員になりました。ライフワークの民俗学は、官僚時代から研究を続け、朝日新聞の論説委員を辞してからその研究に専念しました。柳田國男は、日本民俗学を創設し確立にまで導いたことから、その業績は高く評価されています。(写真は、正装した若き日の柳田國男)

旧高善旅館の玄関

旧高善旅館の客間

明治41年(1908)、柳田國男は小説家 水野葉舟の紹介で遠野出身の青年、佐々木喜善と出会い、遠野物語を書くことを決意します。その後、しばしば喜善と面会してメモをとり、やがて自らの目でその真実を確かめようと、明治42年8月遠野を訪れました。柳田は、高善旅館に宿泊して、馬を借りて遠野の里をめぐり歩いたり、佐々木喜善の家を訪ねたり、台湾人類学者の伊能嘉矩(いのうかのり)を訪ねて、遠野旧事記などを見せてもらいながら実感を深めていくのです。その時の様子は、後に遠野物語の序文として詩情豊かに表現されています。大正9年には、その見聞を豆手帳からと題して、東京朝日新聞に掲載しましたが、これは、後に雪国の春に収録されました。写真上段は、高善旅館(現柳翁宿)の帳場、下段は柳田國男も宿泊したという客間)

柳田國男は、佐々木喜善から聞いた話を69話にまとめ、明治43年、350冊限定で出版しました。さらに昭和10年には、「遠野物語増補版」が出版され、一般に広く浸透していくに従い、時代を経て様々な角度から評価されていくのです。

遠野に伝承される様々を、柳田國男に提供したと言われる佐々木喜善は1886(明治19年)に、上閉伊郡土淵村(現遠野市)に生まれました。筆名を鏡石または繁といい、作家を志して上京した後、水野葉舟に伴われて、柳田國男と会いました。江刺郡昔話(1922-大正11年刊行)、老媼夜譚(1927-昭和2年刊行)、聴耳草紙(1931年-昭和6年刊行)は著名です。

以上、遠野物語と柳田國男に関することを中心に、遠野昔話村を訪ねた時に見聞きしたものを基にまとめてみました。昔話伝承、民俗学、時代背景などなかなか奥が深く、ICレコーダーに口述した数々の情報をひとつのものに編集するのに4日もかかってしまいました。おかげで、今回の遠野行に出発したときに利用した北上の瀟洒なホテルに、最終校正をしている今、再び舞い戻る(勿論、仕事のためですが)というありさまで、明日また、遠野方面に出かけられそうです。せっかくのご縁ならもうちょっと探訪してみようかなぁ、なんて。勿論、仕事もちゃんとやりますけど・・・。(遠野シリーズはもう少し続けます)

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2006年8月 6日 (日)

夏の函館を歩いてみたら(その3)

旧函館区公会堂2

嘉永6年(1853)浦賀沖にペリーがやってきて、日本の鎖国政策は終焉を迎えます。長く続いた鎖国から開国へ、時代の大きなうねりに抗うことはできなかったのです。安政元年(1854)に「日米和親条約」が結ばれると、翌安政2年には、伊豆下田に続いてここ函館も開港されました。それから欧米5カ国との修好通商条約が締結された後、函館港は安政6年(1859)横浜、長崎とともに日本初の国際貿易港となったのです。

国際貿易港となった函館港には多くの外国船が入港するようになり、領事館が次々と建てられました。その中心地であった元町は、今でもモダンでハイカラな西洋文化の香りを残し、異国情緒あふれる空間にタイムスリップさせてくれます。元町など函館港が開港された頃に栄えていた函館山麓に広がる地域のことを現在では西部地区と呼びます。このあたりをぶらりと歩けば、ノスタルジックな街並みが、まるで異次元から迷い込んだかのような錯覚を覚えさせてくれます。

函館どつく前電停から弥生町を通り抜け、入舟町あたりから坂道を登っていく。入船稲荷神社を通り抜け、国華山高龍寺バス停を背に右斜め前の小道を進むと外国人墓地があります。墓地内の山側にはロシア人墓地、向かい側に中国人墓地、海側にプロテスタント墓地というようにシェアされているようです。海を見下ろす高台にさまざまな墓標が並んでいますが、これも函館が国際貿易港として歩んできた証であり、横浜や神戸、長崎などと共に日本の窓としての役割を果たしていたことを物語っています。

外人墓地

プロテスタント墓地(写真)について、案内板に解説がありましたので例のごとく転記しておきました。それによると、

誰ということなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいますが、必ずしも外国人ばかりでなく、キリスト教徒である日本人の墓も混じっています。しかし、当時函館で他界した外国人は殆どこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名が出来たのでしょう。古くは安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき、死亡した水平ウォルフ(50歳)、レミック(19歳)の墓をはじめドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基あります。
by 函館市

ロシア人墓地

また、外国人墓地(ロシア人墓地)[写真]についても、以下のような解説が掲げられていました。

ここがロシア人墓地として公式に認められたのは、明治3年(1870)のことで、当時の開拓使・函館支庁と在函5ヶ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されました。最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ヴォリケビッチのものです。現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓があります。その中には、初代領事ヴォシケビッチ婦人や領事館付属聖堂の読経者で、後に魯学校の教師として活躍したヴィオサリオン・サルトフも葬られています。故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。
by 函館市

この他にも、元町を中心とした西部地区には、以前紹介したハリスト正教会や聖ヨハネ教会などの教会群や元町公園の上に建っている旧函館公会堂など、数多くの観光スポットがあって、市内観光の中心地域になっています。みなさんも函館を訪れる機会があれば、是非、この界隈を散策してレトロな気分を味わっていただければと思います。

写真先頭は、国の重要文化財に指定されている旧函館公会堂。函館山を背景に、レモンイエローの窓枠と柱をアクセントにしたブルーグレーの外観は、西部地区のシンボルでもあります。)

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2006年8月 4日 (金)

夏の函館を歩いてみたら(その2)

ゴライアスクレーン

函館どつく前電停

赤と白のストライプのクレーンを目指して、レンタカーで函館どつく前電停(函館市入舟町)あたりまでやってきました。函館の街は、函館どつくのある弁天町のあたりから栄えて、だんだん東に広がっていったとか。函館どつく(正式には、函館どつく株式会社)は、別に観光名所ではありません。函館の地場企業で明治29年に「函館船渠株式会社」として創立されました。現在では、造船を中心に船舶の修繕や橋梁、重機などの部門をもつ総合重機械メーカーです。

函館どつくは観光資源ではありませんが、海と空の青と本当によくマッチしていて、函館らしい風景を作り出していると思います。ただ、このクレーンも北海道南西沖地震の影響などで現在は操作できない状態にあり、函館市は安全性の面から売却先を選定して処分しようとしているようです。ということは、函館どつくのクレーンが見られるのもしばらくの間ということになるのでしょうか?

それはともかく、函館どつくのクレーンは、近くに行って見るよりも、市内の数多くの坂道から海を望みながらだとか、ベイエリアで函館港の象徴のひとつとして眺めるのがベターではないかと思います。

いか釣り船

電車の軌道が途切れる函館どつく電停を後に、道路に沿ってクルマを走らせると、すぐに函館漁港に着きました。函館漁港はイカ釣り漁業の基地港として、重要な役割を担っています。函館の漁業の中心は、ご存知の通りイカ漁で、函館市の魚の水揚げの内、イカは全漁獲量の95%を占めるそうです。漁獲金額では75%になるとのことですから、函館におけるイカ釣り漁業の存在の大きさが分かります。写真は、函館漁港に停泊するイカ釣り船)

夏の夜に函館山に上って、夜景がきれいな方角から右手に目をやると、暗い海の上に、とても明るい光が見えますが、この灯りはイカ釣り船の漁火なんです。イカは、明るい光に寄ってくる習性があるので、船の上からサーチライトで照らして、近づいてくるイカを捕まえるのだとか。函館のイカ漁は、今が最盛期で、晩秋まで行われるそうです。ここ函館漁港の、居並ぶイカ釣り船たちにもなんとなく活気がみなぎっているように感じられ、この時期の港はなんとなくイカしてました。とっても。

(写真先頭上は、赤と白のゴライアスクレーン〔写真:2009年1月6日変更〕、写真先頭下は、函館どつく電停で発車を待つ函館市電)

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2006年8月 3日 (木)

夏の函館を歩いてみたら(その1)

花電車

7月の後半から8月のお盆前まで、日本各地では夏祭りが催されていると前々回の投稿でふれましたが、ここ函館でもちょうど「函館みなとまつり」の真っ最中でした。「函館みなとまつり」は、昭和10年の函館大火で意気消沈した市民を奮い立たせようと始まったそうです。メインイベントは「道新全国花火大会」と「ワッショイはこだて」と呼ばれる踊りパレードで、普段なら余り人通りも多くない午後9時から10時くらいまで、おまつりの会場界隈にはたくさんの露店が軒を連ねる縁日が出て、多くの人出でごった返します。

おまつりの期間中は、市電に電飾をあしらった花電車が運行されて、おまつり一色の街を盛り上げます。因みに、市電のことを言うなら、おまつりの期間中は、いつもと違うことが2つばかりあります。一つは、パレードコースにあたる通りにおいては、会場となる区間の市電の運行が休止されます。(午後3時30分頃~9時30分まで)もう一つは、おまつりの期間中(8月1日~5日)は、市電の料金が全区間大人200円(子供100円)となるので、少しだけですが交通費を節約することができます。

(末広町電停に停車中の花電車)

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2006年8月 2日 (水)

場慣れしちゃいました

スーパーシート再び

今日から5日までの日程で、またまた函館にやってきました。最初に仕事で伺ったときの状況にもよりますが、仕事の関係で一度ご縁ができるとこうやって同じ街をちょくちょく訪ねることになるのはままあります。ですから、函館に来るのもここ2年の間で10回に迫るのではないかという感じがします。

さすがに夏休みということもあってか、ていうか去年の今頃も同じようなことを書いていたような気がするのですが、羽田空港は人で溢れていました。ただ、去年と違うところは、場数を踏んでるということもあって、自分的には旅についての要領がよくなったことと、プラチナサービスが使えるようになったことなど条件面がちょっと良くなったということでしょうか。

7月31日に函館出張が正式に決まった段階で、ANA853便の空席状況を確認したところ、普通席はほぼ満席に近く、空席が1席だけでした。当然、座席は真ん中の座席群の中のその真ん中という窮屈なところしか空いていませんでした。ところが、スーパーシートの空席状況を見ると、殆ど予約が入っていなかった。夏休みの繁忙期は割引航空券が少なく、特に直前に搭乗しようとする者にとっては、この時期は普通運賃でチケットを購入せざるを得なくなります。なので、その上に3500円が上乗せされるとなると、わざわざスーパーシートにしなくても・・・と二の足を踏んでしまうのではないでしょうか?

去年なら、「まぁ、仕方ないか」と諦めて普通席、ていうかそれ以外の選択肢は殆どなかったはずですが、今年はアップグレード券6枚という特典の恩恵に浴することができるので、ためらうことなくスーパーシートにアップグレードしちゃいました。(しかし、考えてみればアップグレード券はこれで4枚使ってしまいましたが、路線はほとんどが函館線です。余り、長距離でもないのでちょっともったいない気もしますが・・・)

僕的には、通常チケットは浜松町のカウンターで購入していますが、アップグレード券を使うときは空港で手続きをしなければなりません。ただ、この時期の羽田空港内のカウンターは結構混んでいるので、待ち時間がかかります。このため、いつもより30分くらいは余裕を持って出かけていないと、後であたふたする羽目になります。去年までは確かにそうでしたが、今年はスターアライアンスゴールドメンバーになっているので、専用の優先チェックインカウンターを利用でき、余り待たなくてもチケットが買えちゃいます。

余った時間は、ラウンジ「Signet」でゆっくりと過ごし、搭乗開始時刻間際に搭乗口についても優先搭乗サービスで、長い列に並ぶこともなく機内に入れるのでストレスもありません。そんな感じなので、環境面は去年よりもだいぶ良くなったと感じています。これだけ見ると、「快適に旅することができていいね」と言われそうですが、それは、それだけこき使われて(旅に出されて)いるからということに他ならないとは言えませんかねぇ・・・。

自慢じゃないですが、これだけスーパーシートに乗っていると、C.Aさんがどのタイミングでどういうサービスをするのも先刻承知で、こちらも無駄な動きがなくなります。席に座ると、まず上着をクローゼットに預かってもらいます。(最初はこれを知らなくて、スーツの上着を頭上の物入れに突っ込んだものですから、スーツがくしゃくしゃになったりして・・・今から考えると懐かしいなぁ。)

飲み物サービスも何度か声がかかりますが、最近はNo Thanksで済ませます。茶菓が出ても、それをお土産に持って帰るなんてこともしません。スーパーシートの席も、空いていれば一番後方の席にすることにしています。なぜかというと、降機が素早くできることと、後ろの人を気にせずにシートのリクライニングを思いっきり倒せるからです。

やっぱ、大人は少しお金がかかっても、いいサービスに慣れておく必要があるなぁと今日は感じちゃいました。そういうサービスを受けても、自然にスマートにできるようなクールな自分が今日はいたかな・・・なんて、うぬぼれっちゃったりして・・・。初めてのアップグレードでスーパーシートを使ったのも、1年前のちょうどこのくらいの時期だったように思いますが、スーパーシートに付いているサービスをすべて使わなければ・・・なんて力んでいたあの頃の自分がちょっと恥ずかしい。

(写真は、ANA853便のスーパーシート席)

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2006年7月31日 (月)

お祭りの夜に

アーケードの七夕飾り2

七夕まつりと言えば、東北三大まつりのひとつに数えられる仙台市のそれが最も有名ですよね。二番手としては神奈川県平塚市の七夕が続くのではないでしょうか。日本三大七夕はどこかということになると、三番手にはいくつかの街がラインナップされ、安城市や高岡市、旧清水市(現在は静岡市清水区)などが大規模な七夕まつりを催す街として知られているようです。写真は、本町アーケードの吊り下げ飾り)

アーケードの七夕飾り1

ここ尾張一宮の「おりもの感謝祭七夕まつり」もかなり大規模なもので、全長約500mのアーケード街を数多くの吹流しや趣向を凝らした竹飾りなど(約1500本と言われている)が華やかに彩り、「御衣奉献行列」、「ミス七夕などのオープンカーパレード」、「ワッショーいちのみや」、「盆踊り大会」などさまざまなイベントが開催されるそうです。(写真は、多くの人で賑わうアーケード街)

今年のお祭りの開催は、7月27日(木)から7月30日(日)けてにかけてでしたが、ちょうど、七夕期間中の7月28日、たまたま岐阜・愛知方面に仕事で出かけていたので、偶然にもこの盛大なお祭りに出くわし、七夕まつりの雰囲気をちょっとだけ味わうことが出来ました。

本町商店街アーケード中央ドーム

中央にドームを備えたアーケードのある本町通り商店街は、色とりどりの吹流しや吊り下げ飾りなどで地上の天の川と変わり、あでやかな浴衣姿の、にわか織姫たち(?)や子供連れなどが大勢くりだし、まるで渋谷駅前の交差点状態(?)で、まっすぐ歩くこともままならない。写真は本町商店街アーケード中央ドーム)

居並ぶ露店

アーケード街からJR尾張一宮駅東口までの通りは、車をシャットアウトして歩行者専用になっていました。そこに、お祭りの定番というか日本のお祭りの風物詩というべきか、数多くの露店が軒を連ねていました。どんな露店が出ていたのかちょっと列挙してみましょうか。「お好み焼」、「わた菓子」、「かき氷」、「やきそば」、「玉子せんべい」、「フランクフルト」、「おもちゃすくい」、「いか焼き」、「金魚すくい」、「たこ焼き」、「りんご飴」、「スマートボール」、「焼とうもろこし」などなど、まだまだありましたが、やっぱりお祭りの舞台装置としてはこれはなくっちゃという感じでした。写真は居並ぶ露店)

7月の後半から8月のお盆前まで、日本各地では夏祭りが催されるのですが、そうすると、もう2、3週間もすれば季節は秋に向けて動き出していくのですね。う~ん、一年が早い。

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2006年7月20日 (木)

うなぎから秋だ?

秋田上空(ANA877<br />
 便)

今年の梅雨明けはいつになるのでしょうか?

ここ数日は、大雨による土砂崩れや土石流が各地で発生して、数多くの犠牲者を出したり、多数の家屋が土砂で押しつぶされたりなどという悲惨なニュースに接するにつけ、この時期はいつもながら・・・という気がしないでもないのですが、なんとも暗い気持ちになりますね。

東京も朝からずっと曇っていて、時折、小雨がぱらつくというはっきりしないお天気でしたが、日本海から秋田空港に向けて降下してゆくANA897便の窓の外(写真)には、青い空と少し小ぶりの入道雲が輝いていました。

今日から明日までの予定で秋田市にやってきました。仕事では初めてで、それ以外を含めても多分2度目かと思います。前回の訪問は、秋田で挙式するという友人の結婚式に出席するため、多分、もう20年くらい前になるのじゃないでしょうか。

とにかく、今までの中で仕事が一番ハードな頃だったような気がします。金曜日の夜遅くまで仕事して、一番遅く上野を発つ寝台特急「あけぼの」のB寝台車で、ろくに眠ることもできずに秋田まで揺られてたというような記憶があるのです。その上、秋田駅に着いたときも、早朝だったせいなのか殆どお店が開いておらず、友人の結婚式の開始される午前11時まで、時間を潰すのに一苦労したなぁ・・・なんてことが懐かしく思い出されます。

前回、秋田に来たときのことで、もうひとつ印象深かったのは、秋田空港がずいぶん山の中にあって、秋田駅からとても遠かったということです。(前回も復路は飛行機だったのです)ただ、その頃は、余り飛行機に乗る機会もなかったので、そんなことを思ったのかな?という気がします。実際、いろんな空港に降りてみると、地方空港は結構山の中だったり、JRの駅からかなり距離があるというのはザラですから、秋田空港が特別じゃなかったということを、今回、秋田空港から市内に向かうバスの中で思い直しました。

ちょっと、思い出に浸ってしまいましたが、要するに、前回は殆どとんぼ返りだったので、秋田がどんな街だとかどんなものが名物なのかなんて知る暇もなかったということです。そういう意味からすると、今回が初秋田?と言ってもいいのかも知れません。

今日は移動のみだったので、宿泊先に入ったのは夕方6時を回った頃でした。とりあえずは晩ごはんに何を食べようかと思い、秋田でおいしいものと言ったら何だろうと考えてみました。

秋田名物といえば、「きりたんぽ」「しょっつる鍋」「ハタハタ」「稲庭うどん」「比内地鶏」などが浮かびますが、稲庭うどんを除けば、どちらかというと鍋物系だし、お昼がうどんだったので、稲庭うどんもねぇ・・・。なんてことを考えながら、適当なお店がないか川反(かわばた)通りからJR秋田駅前までぶらぶら歩きながら見てまわったのですが、お酒の店ならともかく食事中心のお店となるとなかなか見つけるのに難しいものがあります。

そうして歩いて内に、だんだんお腹は減って喉も・・・となってきたのですが、なぜか無性に「うなぎ」が食べたくなってきました。秋田においては、うなぎは別に名物でも何でもないと思いますが、今日の晩ごはんは「うな重」にするゾという衝動にかられ、再び川反通りに戻って店を物色しました。3件ほどお店を見つけましたが、1店目は閉店間際でダメで、もう1つのお店に行ってみました。そこが、値段的には一番安かったのですが、ちょうど席が空いておらず断念、結局「津ねや」さんというお店に入りました。

津ねやのうな重

先ほどのお店と違い、引き戸を開けてお店に入ったら、お客が誰もいませんでした。大丈夫かな?と思っていたのですが、出てきた「うなぎ」はなかなか型も良く美味しかった。ただ、注文してから、うな重が運ばれてくるまで、30分くらいかかったんではないでしょうか?注文を受けてさばいて、蒲焼を焼いて・・・なんてことは私が注文してから開始したものと思われ、そんなことからかなり待たされる羽目になったのではないかと思われます。

そういえば、今日7月20日は土用入りだったのですね。そういう意味からすると、秋田の名物による夕餉ではなかったものの、ちょうど暦どおりというか季節感のある晩ごはんをいただくことができました。「津ねや」さんのうな重[竹](写真)は2100円也でありまして、プラスビール1本(突き出しあり)にて、約3000円のお勘定でありました。食事だけに限るといつもよりちょっとかかちゃったかなぁ・・・。

それにしても、夏の土用入りを迎えたということは、これから18日後には、暦の上では秋になるわけですよね。まさに諸行無常を感じますねぇ。それに秋田で秋の気配を感じつつな~んてちょっとロマンって感じじゃないですか?なんてね。

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2006年7月 6日 (木)

はじめてのゴーアラウンド

視界不良の空を行く

今年の梅雨も終盤戦を迎えています、

梅雨の末期といえば、1年のうちでも最も集中豪雨が発生しやすい時期だと言われています。この時期には、梅雨前線にそって次から次に低気圧がやってくるために、梅雨前線の活動が活発になって大雨を降らせるという気象状況になりやすいようです。

今日の気象状況は、台風3号からの湿った空気が梅雨前線を刺激して、九州を中心とした西日本では大雨になるだろうと予報されていましたが、東日本は曇りとか所によっては雨というくらいで、それほど荒れた天気にはならないだろうと思っていたのです。

この週末は、久しぶりに庄内地方に出かける予定だったので、羽田発15時50分発のANA897便に乗るべく、空港に向かいました。途中、浜松町のエアシティターミナルのカウンターで、いつものように航空券を購入したのですが、このとき「庄内行き897便は15時30分に天候調査が入りますのでご了承ください」と言われました。

「はい?」と思いましたが、飛行機を頻繁に利用していますと、天候調査なんて事態にはしばしば遭遇しますので、航空券を買った段階では、「ひょっとしたら、出発の時間が遅れるかなぁ」くらいのことしか思いませんでした。ただ、遠隔地に出かける場合は、交通機関のある程度の遅れは想定内の織込み済というように考えておかなければ、私のような仕事はつとまりません。ですから、このときは、今日中に目的地に着けないなんてことは、全然頭の中にありませんでした。

羽田空港の空港ロビーについて、念のために先方に電話を入れておきました。「天候が悪くて、そちらに着けないかも知れない」と話したところ、先方は、「こちらは曇ってはいるが、雨が降っているでもなし、風が強いでもなし、冗談でしょう」との反応でした。私も、「多分、大丈夫と思いますが、念のために今日の予定は、少し弾力的に考えておいてくれませんか」と申し入れておきました。普段ならこんな申し入れは、まずしないのですが、この日は動物的なカンが働いたのか、何とはなしにそうしておいたのです。これが、後々役に立つとは思いもよりませんでしたが・・・。その後、しばらくして「897便は定刻通り運行することになりましたと」いうアナウンスがあり、それから5分くらいしてから、搭乗開始になりました。

ANA897便は出発が少し遅れたものの、羽田空港を飛び立ちました。機内に入ってから、チーフパーサーから、「この飛行機は庄内空港に向かいますが、庄内空港周辺の気象状況によっては、秋田空港に向かうか羽田空港に引き返すこともありえます」というアナウンスがされましたが、こんなアナウンスも別に珍しいことではなく、ここでも「まぁ、大丈夫だろう」というくらいにしか考えていませんでした。

奥羽山脈を越えるくらいまでは、揺れも少なく、全く順調な飛行でした。庄内空港は、春夏秋冬で30回くらい利用したことがあるので、ある程度、気候のこともわかっていましたし、これまでの経験から言うなら、庄内空港での天候不良は、主に冬場の強風にからむものだったので、今回の天候調査の原因である「視界不良」くらいなら、なんとか下りれるんじゃないかとまだまだ楽観視していました。

ところが、奥羽山脈を飛行機が越えると状況は一変しました。先ず、急に雲が広がり始めたかと思う間もなく、窓ガラスが水蒸気で曇り、水滴がガラスに付着しはじめました。飛行機はもうもうとした白いガスに包まれながら、真っ白な世界の中を飛んで行きました。

日本海の上で、車輪を出す気配がしてからしばらく後、やっと眼下に海岸線がうっすらと見えて来ました。飛行機は少し旋回しながら庄内空港方面を目指し、だんだんとスピードが落ちてくるのが分りました。

さて、着陸かと思った瞬間、大きなエンジン音を響かせながら飛行機は急上昇を始めました。「あ、だめだ」と機内の乗客の誰かが、ポツリとつぶやいていました。飛行機が上空に戻ったとき、機長から「これからしばらく、庄内空港の上空を旋回しながら、天候の回復を待つことにします。次の天候調査の結果により、再び着陸を試みるのかそれとも秋田空港あるいは新潟空港に向かうか、または羽田空港に引き返すかを判断します」とのアナウンスがありました。

上空を旋回しているときは、トイレに行きたいお客さんもいるだろうという配慮からか、シートベルトサインが消えて機内の往来ができる様になりましたし、C.A.さんもキャンディーを配布したり、飲み物のサービスを改めて開始するなど、乗客の機嫌を損なわないように気遣っているようでした。ただ、C.A.さんにも若干の動揺があるのか、機内アナウンスを幾度となくカミまくっていたようでしたが・・・。

1回目のメリーゴーランド、もとい、ゴーアラウンド(気象条件などで空港に着陸できない場合、着陸を断念して、通常の飛行形態に戻して上昇すること)の後、30分くらい経ってから、「天候調査の結果、非常にゆっくりながら、天候の回復がみられるため、再度、庄内空港への着陸を試みます」とのアナウンスが機長からありました。そのうえ、「当初は、新潟空港の視界が良好との情報があり、新潟空港への着陸を考えていましたが、結局、新潟空港も視界不良のため、着陸は難しいとの最新情報が届きましたので、着陸できない時は羽田に引き返すことにします」と付け加えられました。流石にこのときは、乗客がざわつきましたが、庄内の人たちが多かったせいなのか、やっぱり日本人の奥ゆかしさというべきか、C.A.さんに文句を言うような人は誰もいませんでした。

飛行機は、再び日本海側から庄内空港を目指して降下を始めました。後はに運を天にまかせるしかありません。さて、どうなるかとずっと窓の外を凝視していたのですが、どう見ても前よりも天候が改善している様には見えないぞ・・・と思っていたところ、先ほどより早いタイミングで着陸は諦めたようで、飛行機はエンジンフルパワーで再上昇を開始しました。

2回目のゴーアラウンド後、機長から「庄内空港は視界不良につき着陸を断念し、これから羽田に引き返します」とアナウンスが機内に流れました。このときは、みんなある程度「やっぱり、ダメか」という諦めの気持ちが固まっていたためか、殆ど無反応だったように思います。ただ、心なしか機内は沈うつな空気に包まれたというか、人の気持ちが沈んだ時は、空気も沈むということが肌で感じられ、やっぱり「気」というのはあるんだなとつくづくそう思いました。

こうして、他空港へダイバード(ブルース ウィリス主演のアクション映画に非ず。あれは、ダイハード。ダイバードとは、目的の空港に天候の理由などで着陸できない場合、別の空港に降りること)することもなく、3時間ほどのジェット機による遊覧飛行は終りました。

羽田空港に着いてから、地上係員から払戻や今後の手配などについて、短い説明があり、一旦、改札から出て専用カウンターで各種手続きを行うように案内がありました。この便の後ろの方に座っていた私が、飛行機から降りた時には、既に大勢の人が長蛇の列を作っていました。「こりゃあ、手続きが終るまで、1時間以上かかるなぁ」と思っていたら、スターアライアンスゴールドメンバーの方は、専用カウンターを設置していますというアナウンスを耳にしました。

こんな所でもプラチナサービスの威力が発揮されるとは、全く思いもよりませんでしたが、そのおかげで、長蛇の列に並ぶこともなく、5分ほどで払戻の手続きを完了することが出来ました。「こりゃあ、今年も頑張って50回乗らなくっちゃ」とプラチナサービスカードをしげしげと眺めつつ、複雑な感慨に浸る自分がそこにいました。徒労ってこんなことなのですね・・・。

(写真は、視界不良の空を飛ぶANA897便の主翼)

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2006年6月18日 (日)

地震の余波で・・・

スーパージェット

瀬戸内海航路

福山への旅を終えてからは、その週末は郷里の方で過ごし、週明けの月曜日から松山に出かける予定になっていました。倉敷のほうから松山に行くには、山陽本線などで岡山に行って、そこから瀬戸大橋線の特急で瀬戸内海を越えて・・・というのが一般的です。

しかしながら、6月12日の朝は、大分県中部を震源として、九州から西日本一円に震度5弱を最高とする大きな地震が発生しました。自宅の方にいれば全く影響のなかったこの地震に遭遇する羽目になってしまったのですが、これも、全国を股にかけて動き回っているためのご褒美(?)というべきでしょうか・・・。久々のでかい地震であったのと、築35年を超える老朽化した実家が約10秒くらいの間、右に左に大きく揺れるものでちょっと肝を冷やしました。

このため、瀬戸大橋線を通って、岡山と松山を結ぶ特急「しおかぜ」が運休となってしまいました。ただ、地震の発生が早朝5時過ぎであったことと、地震による被害が限定的であったことから、約束の時間までにどうやって松山に渡るかを考え直す時間がありました。いくつか(と言っても2つ、3つでしたが)の代替ルートの中から、広島港から松山観光港に向けて、高速船で海を渡る方法を選びました。

広島港(宇品港)から松山観光港までは、瀬戸内海汽船あるいは石崎汽船の「スーパージェット」という高速船で、最短68分です。このスーパージェットという高速船は、推進力をスクリューではなく、高出力のウオータージェットを使用することによって、32ノットという高速航行ができるそうです。

広島港を出航した高速船は途中で呉に寄港しました。ここでも旅客の取扱いをするようですが、この日はここでの乗降は一人もありませんでした。呉港は、佐世保港と同じように軍港の面影を残す港で、港内には自衛隊の艦船や海上保安庁の巡視船などが数多く停泊していました。

呉港を出発した高速船は、ここから一路松山観光港に向かいます。この日の瀬戸内の海はとても穏やかでしたが、さすがに梅雨空の下、島影はぼんやりとかすんでいました。どちらかというと船に弱い(船に弱い~船よわい~船酔いとなったものか?)方なので、余り嬉しくはなかったのですが、こんな機会でもないと、瀬戸内海の船の旅なんてなかなか・・・なんて思いながら、リラックスしていたら、リラックスしすぎて瀬戸内の海の上では殆ど夢心地で、シート上で船を漕いでたように思います。

こんな経緯があって、瀬戸内海を船で渡るなんてことを、宇高連絡船であったか、水島~丸亀フェリーだったか記憶も定かではありませんが、数十年ぶりに体験しました。ですが、松山へ着くまでにかなり時間がかかってしまい、仕事以外の時間は殆ど取れず残念でした。ただ、松山方面には、今回の続編で出かける予定もありますので、松山のことはまた後日としたいと思います。それでは、また。

(写真上は、広島港の桟橋に停泊中のスーパージェット)

(写真下は、スーパージェットの船内から瀬戸内の島々を望む)

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2006年6月12日 (月)

海にそびえる観音様を訪ねて

はやともの海

鞆の浦(とものうら)という地名を聞いたことがありますか?

鞆の浦は、福山市の市街から南に14kmほど、福山駅からバスで20分余りのところにある瀬戸内海の海辺のことをそう呼びます。海に面した小さな港町は「鞆」というのが正確なのでしょうが、港町全体を総称して鞆の浦と呼ばれているようです。鞆の浦の地名の由来は、神功皇后が西に出征されたときに、この地の沼名前(ぬなくま)神社に参拝されて、戦勝を祈願して鞆(武具)を奉納されたことにちなんでこのように呼ぶようになったそうです。

ここ鞆の浦は、瀬戸内海の中央にあたり、東からの潮流と西からの潮流がちょうどこのあたりでぶつかり、潮の流れが変わるところで、古くから「潮待ち」の港として、また江戸時代には多くの北前船が往来する拠点して栄えたといわれています。写真は、島と島が接近する鞆の浦に続く海)

ちょっと興味が湧いたのと、訪問先と方向が同じだったという理由から、レンタカーを駆って鞆の浦まで行ってみることにしました。国道2号線から県道22号線に入って、ほとんど道なりに進んで行くと、途中の田尻町あたりから海沿いを走ることになります。このあたりまでは、どこにでもある普通の田舎道といったところなんですが、鞆の浦に入ると少し風情が変ります。

とにかく街並みが古めかしく、道が狭く入り組んでいる。多分、道路の規格を満たしていないんじゃないかと思えるほど狭い道が続く。にも拘わらず、車の往来は結構多い。車自体の幅を単純にプラスすると、絶対、すれ違えないような道幅なのに、ちょっとは渋滞っぽくなったりするものの、なんとなく流れていく。察するに、譲り合いの精神というものが、ここの交通を支えているんだろうなと思うのですが・・・。そんなものはとっくに失くしてしまった都会部ではこうはいかないでしょう。

実際、ここの街並みは、多くの地でなくしてしまったものが未だに息づいているというか、ある種の日本の原風景というかそんなものを垣間見ることができます。特に街並みが保全されている訳ではないようですが、どこか懐かしいそんな時間が流れる街です。レトロ大好きという方はどうぞ訪ねてみてください。

阿伏兎観音

鞆の浦を後に、15分か20分くらい西の方に進んでいくと沼隈町というところがあります。ここに磐台寺というお寺があり、そこに阿伏兎観音(写真)という観音様があるのをご存知でしょうか。私の記憶が定かなら、JR西日本かどこかのテレビCMかポスターで紹介されたことがあるように思います。

社から瀬戸内海を望む

阿伏兎観音(あぶとかんのん)というのは、阿伏兎岬の岩頭に建っており、本尊は、石仏十一面観音で航海安全の祈願所として、また子授け観音、安産の守護として昔から知られています。(写真は阿伏兎観音の回廊から瀬戸内海を望む)

と説明しておきながら、かくいう私もこの阿伏兎観音が何であるかも良く知らず、何処にあるかということさえも調べずに訪ね歩いたものですから、最初は鞆の浦にあるんだろうと狭い街中をうろうろしたり、それが間違っていることに気付いて、近くまで来たのはいいけれど、全然関係ない阿伏兎森林自然公園で全く無意味な山歩き(山登りと言った方がいいかも知れない)で、大幅に時間をロスした上に、汗だくだくになるなど、いやぁ、到着するまでかなり苦労しました。

社の中

そのような紆余曲折を経て、やっと阿伏兎観音に到着しました。小生、特に子授かりを祈る身ではないものの、お堂で手をあわせてきました。お堂の中には、「子供が授かりますように」とか「お乳が出ますように」などのおっぱいをあしらった絵馬が多数奉納されていました。

それでという訳ではありませんが、帰り際に例の如く、案内板を転記してきました。阿伏兎観音の由来などについては、次のように記されていました。(写真は阿伏兎観音のお堂の中)

険しい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に建つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人々の信仰を多く集めてきた。

観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇がこのあたり一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して岬の岩上に十一面観音石仏を安置したのが開基と伝える。

後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の磐台寺境内の形をほぼ整えた。磐台寺観音堂と客殿は室町時代の建築様式で知られている。本尊の十一面観音は子授け・安産・航海安全の祈願所として、広く信仰を集めてきた。

朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、観音堂の眼下に広がる燧灘(ひうちなだ)の展望もすばらしい。

瀬戸内海を見守りながら、岬の頂にそびえ立つ朱塗りの観音様はなかなか雰囲気があります。子宝に恵まれている方も、そうでない方も、出来ちゃたら別の問題が・・・というスリルを味わっている?諸氏も、たまには海でも見ながら、人生という航海の安全を祈ろうではありませんか。なかなかいいですよ、ここは。

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2006年6月11日 (日)

今度は今度のままの方が?

福山城

あまり身近な観光スポットというのは、たぶん誰しも行かないものではないでしょうか?私にとって福山城なんかはその典型であって、前回でも触れましたが、郷里がお隣なので、「いつでも行けるから」という考えがあるからか、いつも、「また、今度ね」という感じでした。

ただ、「今度とお化けは出たことがない」という格言?があるように、この「今度」ということの本質は、そもそも気が進まないという意思表示そのものでありまして、そうやってやり過ごして来たんですが、6月8日の夜にホテルからライトアップされた福山城を見て、今回、行ってみるかという気になりました。

もちろんこの福山城も、天守閣を構えるを他の多くのお城のように再建されたもので、正式名を福山城博物館といいます。展示されているものは、福山城に関する書画や刀剣、陶磁器、武具などです。どちらかというと、多分他のお城でも見るようなあんな感じかなと思ったものですから、展示を見るのはパスしました。

そんなことから、ちょっと時間をもてあましたこともあり、例のごとく福山城に関する案内板を転記してきましたので、それをここで紹介しておきます。

福山城は、元和5年(1619年)広島城主であった福島正則の改易により、備後十万石の城主として入封(にゅうぶ)した水野勝成が、3年の歳月を費やして構築した近世の城郭である。
[入封・・・大名が初めて自分の領国に入ること]

低い丘陵を利用した平山城で東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉備津川を通し、小丸山、天神山を天然の防塁(敵の攻撃を防ぐためのとりで)とした。現在、内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街化しているが、二之丸、本丸は築城当時の姿をよく伝えている。

城池には、そそり立つ石垣をはじめ重要文化財の伏見櫓、筋鉄御門や市の重文の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。尚、天守閣、月見櫓、湯殿は昭和41年に、鐘櫓は昭和49年にそれぞれ外観を復元したものです。

福山城の城主は、水野氏が5代、松平氏は1代、阿部氏が十代つとめています。

このようなお城ですから、お城好きの方はおいでになってくだされ。でも、わざわざこのお城だけを目的になんてことは止めといたほうがいいでしょう。そこまで入れ込むとちょっと・・・・・・・・・・ですから。それでは、また。

(写真は、福山城天守閣)

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2006年6月10日 (土)

バラの町福山

バラの町福山

広島県とか岡山県とか中国・四国地方以外にお住まいの方に、福山と言ってピンと来ますかね?福山雅治なら知っているってあ~そうじゃなくて、福山市って知っていますかということです。福山市は、広島県第二の都市で、現在では47万人が暮らす町です。瀬戸内海の臨海工業都市の顔をもつ広島県東部の中核都市でもあります。

東京からだと飛行機よりも新幹線を利用する方が便利です。飛行機だと広島空港で降りてそこから連絡バスで約1時間ほどというコースとなるのですが、そんな乗り換えのりかえの行程を辿らなくても、福山駅には1時間に1本「のぞみ」が停車します。こちらを利用する方が、時間的にも経済的にも効率的かと思います。

さて、新幹線で福山駅に着いて、ちょっと長いエスカレーターでホームから降りていくと、床のタイルの上に、大きなワッペンでも貼っているの?というような模様を目にします。何が書いてあるんだろうと近づいてくるその模様を見ていますと、薔薇の図柄と「ばらのまちふくやま」というキャッチフレーズでした。

「バラのまち福山」、実際に町を歩いてみると、大きな通りにはあちこちにバラの花壇が設けられていて、様々な種類のバラが道行く人の目を楽しませてくれます。そして、おそらくボランティアだろうと思われる多くの市民の方たちが、バラの手入れをしている様子があちこちで見られました。しかし、どうしてこの街はこんなにバラに力を入れているのでしょうか?そのヒントを福山駅から福山城に向かう途中のバラの花壇の中にあった案内板にみつけました。それをご紹介しておきます。

福山のバラ作りの生い立ちは、1956年(昭和31年)、当時の南公園(現在のばら公園)の一角に付近にお住まいであった方々がバラの苗1000本を植えたのが始まりとされています。福山市と市民たちが一体となってバラ作りを進め、今では市内に約30万本、また、ばら公園には280種450本のバラが植えられています。

1985年、4月1日にバラが福山市の花に制定され、これにちなんで新品種の「ローズふくやま」が誕生しました。毎年、5月には「福山ばら祭」を開催するなど、さらなる「ばらのまちづくり」を進めています。

バラで何か決め台詞を・・・と思って、しばらく考えていたのですが、つまらないギャグしか浮かばなかった。このあたりの言葉で説明すると、こうでしょうか。「ぼっけぇ、やっちゅもねぇものじゃけん、自分で却下じゃ。」以上。

福山近辺シリーズはもうちょっと続けます。

(写真は、福山駅前にある花壇の赤いバラ)

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2006年6月 8日 (木)

福山の夜

福山夜景

東京駅を出発したのぞみ23号が富士川橋梁を通過する頃から、空模様が怪しくなってきた。白い雲が浮かぶカンバスはだんだん墨絵のようなモノトーンに染まってゆく。

何を考えるでもなく、時速300キロ近いスピードで流れ去っていく車窓から、今にも泣き出しそうな空を眺めていた。

「東海地方まで今日梅雨入りしました」というテレビのニュースを見て、1年中で2番目にうっとおしい季節がやってきたのかと再確認する。

これだけ外に多く出かける仕事であっても、お天気に邪魔されることはそう多くない。自称、晴れ男。でも、雨男とジョイントすると、ほとんど負けてしまう晴れ男かな?そうやって自分で自分を打ち消してしまういつものクセにちょっと微笑ってしまう。

今日の夜は、広島県の福山で過ごす。新幹線の駅で言うなら、お隣が郷里の駅なので、ここに泊まる必要性はたぶんない。だから、敢えてここに泊まってみる。たまにはそんな気まぐれもいい。

夜の雨が小止みになった頃、ホテルの窓から外に目をやると、ライトアップされた福山城が闇の中に浮かんでいた。「明日は晴れるといいな・・・」部屋で乾いた傘を折りたたみながら、そんな他愛もないことを祈る。男一人の夜がゆっくりと更けてゆく。

(写真は、夜の福山城と福山駅〔手前〕)

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2006年5月28日 (日)

芝桜にあっぱれ!

芝桜満開

5月26日、網走での仕事を終えて、レンタカーで空港に向かうには少し時間があったので、網走市街の後方に位置する天都山(標高207m)に行ってみることにしました。天都山には、オホーツク流氷館とか北方民族博物館とか博物館網走監獄などの観光スポットがあるし、展望台からは、能取湖や網走湖はもちろん遥か遠くに知床連山や阿寒の山々を一望できるということから、ちょっと訪ねてみようかなという気になったんです。

天都山に登りながら、あたりを見回していたら、ピンクや赤い色の小さな花が庭を一面に覆っているお家をいくつか見つけました。余りの鮮やかさに、なんという名前の花だろうということが気になりました。とはいえ、いきなり見ず知らずのお家を訪ねて、これなんてお花ですかなんて(?)伺うのは、余りにもぶしつけでしょう?ですから、なんとかこの花の名前を調べてみようと思い、これをこの常呂・網走の旅の最終課題にすることにしました。

網走湖

さて、どこでどうやって調べるかと思いながら、網走湖(写真)にそって車を走らせていました。(オホーツク海に注ぐ海跡湖であって、湖周辺には温泉も湧き出るという網走湖にも寄ってみたかったのですが時間がとれず、ちょっとのぞいたのみでした)手っ取り早いのは、お花やさんとか園芸店で調べてみる方法かなぁとか考えていたものの、なかなかお目当てのお店が見当たらない。そうしているうちに、時間がどんどん過ぎてしまい、結局、空港近くのレンタカー店に向かわなければならない時刻になりました。

お花やさんや園芸店は見つけることができませんでしたが、この小さな花は、道端のちょっとしたところやら、空港に向かう国道39号線の中央分離帯にもたくさん植えられており、あちこちで目にすることができました。

結局、道中では花の名前を調べることができなかったので、レンタカー店の誰かをつかまえて聞いてみようと思っていました。とりあえず、料金の精算をしてからと思いながら、レンタカー店の中に入ってみたら、壁にポスターが貼ってあり、そこに芝桜祭りとかなんとかというのが出ていました。このポスターによって、僕はこの花が芝桜であるということを知りました。

この花は、春に桜に似た花を咲かせ、それ以外の季節には、緑色の葉が芝のように地面を覆って広がることから「芝桜」と呼ばれています。原産は北アメリカ東部でハナシノブ科の多年草です。日当たりと水はけの良い場所を好み、耐寒性が強いのが特徴です。北海道での芝桜の見頃は4月下旬から6月のはじめくらいだそうです。ただ、今年は低温の影響で、10日ほどシーズンが伸びそうだということです。

女満別空港から車で約30分くらいの所にある東藻琴村(ひがしもことむら)には、有名な芝桜公園があります。芝桜公園はこの時期に約8万平方メ-トルの園内が芝桜で埋め尽くされ、まるでピンクの絨毯のように敷き詰められた芝桜はみごとという他はないそうです。

さて、車を返した後だったのと、飛行機の時間も迫っていたことから、芝桜公園に行くことはできませんでしたが、この季節にまた網走近辺に来ることがあれば、今度は行ってみたいなぁと思いつつ、女満別空港に向かいました。今回の常呂・網走の旅は何故かお花に縁があったような旅でした。余り自分には似つかわしくないかなとは思いながら・・・。ではまた。

(写真先頭は、天都山に向かう途中のお家の庭で咲き誇る芝桜)

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2006年5月27日 (土)

もうすぐ夏の彩(いろ)に

サロマ湖

日本最大の海岸草原といわれているワッカ原生花園は、サロマ湖のオホーツク側、南東から北西に向かって、総延長は約20kmにおよび、幅は広いところでは700mくらいある砂洲に広がっています。写真はワッカ原生花園とサロマ湖)

オホーツク海と北海道最大の湖であるサロマ湖を隔てるこの砂洲では、センダイハギヒオウギアヤメハマナスエゾスカシユリエゾゼンテイカミヤコグサハマエンドウなどの約300種類の花々が、オホーツクの短い夏を彩り、人工では作ることのできない景観を見せてくれるそうです。ただ、訪れる時期が少し早すぎたようで、花々による一大ページェントは見ることができず残念でした。

湧き水

砂州の中央にある国有林の中に真水が湧き出す場所があり「花の聖水 ワッカの水」(写真)といわれ、原生花園のシンボルとなっている場所があります。サロマ湖は海とつながる塩湖だし、オホーツク海もちろん海水です。そこに真水が湧き出ているこの不思議な場所を訪ねてみました。(以下は、ワッカの水を紹介する常呂町が作った案内板から転記したものです)

ワッカとはもともとアイヌ語で、ワッカ・オ・イ(水が・ある・ところ)、砂嘴(さし)の中ほどに真水が湧く沼があることに由来します。オホーツク海とサロマ湖という塩水と塩水の間で湧きつづける真水。口に含むと甘い水がこんこんと湧くこの神秘の泉は生命のそして自然の不思議さを感じさせます。ワッカの水は気の遠くなるような歳月にわたって、この地の人と自然に生命のエネルギーを送りつづけてきました。1万年以上も昔から豊かな暮らしが営まれたのも、ワッカ原生花園という奇跡の生態系を育みつづけたのも、ワッカという生命の泉があればこそでした。

ワッカ原生花園に入るには、道道442号の栄浦から栄浦大橋を渡って原生花園の入り口にあるワッカネイチャーセンターまで行く必要があります。ワッカネイチャーセンターは、ワッカ原生花園に咲く花々や自然について解説する入場無料のビジターセンターです。

車やバイクはここから先は乗り入れ禁止です。これはワッカ原生花園の環境を保全するために、今は龍宮街道と呼ばれる散策路を町道ではなくすることにより、一般車両の乗り入れを禁じているためです。このため、ワッカ原生花園の中の散策路を走ることの許される乗り物は、自転車と馬車だけです。

ワッカ原生花園を縦断する龍宮街道には、ワッカネイチャーセンターを基点に、東西2つの散策コース(AコースとBコース)があります。

Aコースは、ワッカネイチャーセンターから海に向かって進み、突き当たりを左に折れるコースで全長5km、途中、サロマ湖とオホーツク海をつなぐ第二湖口を経て、ワッカの森を目指すコースです。所要時間は往復で約40分。右に折れるコースはBコースで、全長5.5km。所要時間は往復で約45分です。

オホーツク海

ゆっくりと陽が西に傾くのを見ながら、青とみどりの彩る風景の中をワッカの森を目指す。オホーツクから吹くゆるやかな潮風の中を、風を切って走る。雲ひとつない圧倒的な青空の下を自転車で飛ばす。右手にちらりとオホーツク海が顔をのぞかせる。14℃前後の、少し冷えた空気が上気した顔に心地いい。写真は、ワッカ原生花園の外側に広がるオホーツク海)

人がいない。人に会わない。いれば煩わしいと思うことさえあるのに、いなければ何か淋しくなってくる。関わる、関わらないというのは別にして、人間というものは、つくづく一人じゃダメなんだなとちょっと思ってみたり。そんなふうに思わせるほど、誰もいない海沿いの花園に響いているのは、風と波の音だけです。

砂利道

さらに、自転車を飛ばす。龍宮街道は途中までアスファルトで舗装されていて、ほとんど起伏のない平坦な道が、オホーツク海に沿ってまっすぐに延びています。それでも、第二湖口を過ぎる頃から、砂利道に変わります。写真は、龍宮街道の赤き砂利道)

この砂利道を走っていて、不思議なことに気づきました。太陽に向かって進んでいるとき、つまり、逆光のときは、黒々と見えた砂利道が、帰り道になって太陽を背にして走ると、即ち順光でみると、茶褐色というかどちらかという赤い色にえるんです。まるで赤い絨毯の上を走っているような不思議な感じを体験しました。自分の目がおかしくなったのかと錯覚してしまうくらいです。写真では残念ながら、その色お見せすることができなかったようなので、もしご覧になりたい方は、ここにきて夕陽を浴びながら走ってみてください。

初夏の夕陽がサロマ湖の湖面を輝かせる頃、淡くなっていく陽の光と涼しい風が、ワッカの園にもうすぐ夜が訪れることを告げにきます。厳しい冬が終わり、一斉に花々が咲き競う奇跡の花園は、もうすぐ夏の彩(いろ)に染められてゆくはずです。

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2006年5月26日 (金)

カーリングを育んだ町から

常呂町

来月にはワールドカップドイツ大会が開かれる予定なので、スポーツイベントに関する世間の関心は、サッカーの方に集まっているように思えます。考えてみれば、この2006年は、野球でいえばWBCもあったし、イタリアはトリノで開催された冬季オリンピックもあって、スポーツのビッグイベントが本当に数多く開催されているなと思います。

トリノオリンピック全体を通していうなら、フィギアスケートの荒川静香選手の金メダルを除けば、日本勢の活躍は今ひとつというところだったかもしれません。しかしながら、成績こそ上位には食い込めなかったものの、オリンピック以降、とても人気の出た競技にカーリングがあります。

カーリングは、「氷上のチェス」と言われるウインタースポーツの一つで、4人ずつ2チームが目標とする円(ハウス)にめがけて、交互に8回ずつ石(ストーン)を氷上で滑らせ、ストーンをより円の中心近くに残したチームが得点を得ます。この交互に石を8回投げ合って得点を得るまでをエンドといい、カーリングの試合は、10エンド(または8エンド)で行われます。

ところで、常呂町はカーリングにとても縁のある町なんです。まぁ、オリンピックで競技を観ていらっしゃれば、別にお話ししなくてもよくご存知とは思いますが、現在のカーリング人気は常呂町あってのことといっても過言ではないかも知れません。というのも、上の写真にもチラッと写っていますが、常呂町は町立の専用「カーリングホール」をもっているくらいカーリングに縁のある町だということです。

常呂町は、ちょっと前まで常呂郡常呂町として単独の自治体でありましたが、2006年3月15日に北見市に合併されています。常呂町はオホーツク海に面し、西側はサロマ湖に隣接する北海道東部の町ですが、よほどの機会でもなければ、一般の方はなかなか訪れることもないところだと思います。5月もそろそろ終わりの週末に、ここ(旧常呂町)や網走市などの訪問先に伺ったのですが、今回はレンタカーを使ったので、少し見聞を広めることが出来ました。ということで、これから数回に亘って、オホーツク沿いの町の風物詩についてお話ししたいと思います。

さて、カーリングの話に戻しましょう。常呂町とカーリングとの関係は、1980年1月、北海道と姉妹提携を結んでいるカナダ・アルバータ州から、カーリングの元世界チャンピオンを指導者として呼び寄せたことに始まるそうです。

有志によって、常呂カーリング協会を発足したものの、当初は道具も揃わず、カーリング場も競技用具も手作りだったというように、順風満帆のスタートではなかったようです。ですが、常呂町ではカーリングが根付いていったのです。そして「常呂町からオリンピック選手を」を合言葉に、1988年1月、アジアで初の屋内カーリング場である常呂町カーリングホールを完成させ、競技の普及と選手の育成に力を注ぎました。

1998年、念願がかない長野冬季オリンピックにおいて、カーリングはオリンピックの正式種目として認定されました。常呂町では、長野冬季オリンピックには5人、ソルトレーク冬季オリンピックには4人の選手を送り出しました。ソルトレークオリンピックでは、常呂町出身の幼なじみの高校生4人で編成した「シムソンズ」が出場しました。このチームには、今回のトリノオリンピックにも出場した小野寺歩選手林弓枝選手がいて、中心選手として大活躍した姿は、今でも記憶に新しいのではないかと思います。このように、常呂町は日本におけるカーリングの普及・発展に大きく貢献したところなのであります。

それでは、最後にクイズです。今回の記事の中に、トコロという言葉は何回登場したでしょう???それでは、次回。

(写真は、旧常呂町の案内板)

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2006年5月21日 (日)

海と坂の街 佐世保にて

佐世保市内を望む

佐世保市は、長崎県第2の都市で25万8千人が暮らす町です。四方を弓張岳や烏帽子岳などの山々に囲まれているせいなのか、長崎市と同じ様に坂の多い町で、民家が坂に沿ってかなり高いところにまであります。近くには観光資源も多く、国際観光都市としての顔を持っています。

しかし、佐世保と言えば、やはり軍港の町というイメージもあります。もともと、地理上でも天然の良港であった佐世保港は、明治時代から巨大な国費を投じて、開発、整備が行われてきました。写真は、セイルタワーから佐世保港の方角を望む)

現在の佐世保港は、もちろん軍港(のみ)という事ではありませんが、港には、海上自衛隊の護衛艦などの艦船がみられ、また、港内の83%が米軍への提供水域となっていることなどからしても、他の港とは少し趣が違うように感じます。

街中を歩けば、他の地方都市に比べると(多分米軍関係者だと思われますが)外人を見かけることも格段に多く、米軍基地や自衛隊の関連施設などもいろいろ目につきます。それと、九州の中でも西の果てにある町ながら、結構、栄えているように思えます。駅前を見ても、全国展開をしているホテルや商業施設は特に見当たらず、地元の企業が頑張っているようです。ただ、ここに米軍基地や自衛隊の施設があることと佐世保市の繁栄とは、やはり何らかの相関関係があるのかなと思えてなりません。

佐世保市内

地方都市で、さびれているものの代名詞と呼んでも過言ではないものに、商店街があります。しかし、ここ佐世保では、この商店街がりっぱに機能しています。というより、今でも繁栄を誇っているといっても良いでしょう。写真のさるく403アーケードは、7つの町を一直線に貫く、全長約1kmのアーケード街です。平日でもかなりの賑わいを見せており、「日本一元気な商店街」と評判の商店街でもあるようです。年間を通して、様々なイベントの会場となるほか、1日2日早朝からの初売りはこの商店街の名物でもあります。

教会

時間の許す限り、市内を歩いてみようと思って佐世保駅を出発したのですが、まもなく、ちょっと小高い丘の上に教会を見つけました。この教会は三浦町教会(写真)といって、カトリックの教会だそうです。静かな農村から軍港として発展を遂げた佐世保市に移住してきた信徒が増えたことから、明治の中ごろに仮聖堂が建てられ、その後昭和6年に鉄筋コンクリート建てのゴシック式聖堂が建てられたそうです。佐世保は第二次大戦中に大空襲を受けて、町は壊滅状態となりましたが、この教会は戦火を免れたそうです。

それから、先程のアーケード街をぶらぶらと歩いて、海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー)に行ってみました。この方面のことに、特段の興味があった訳ではありませんが、入場料が無料ということが最大の理由だったかも・・・。

自衛隊

セイルタワー(写真)は、旧日本海軍や自衛隊の3000点にものぼる資料が展示されている資料館で、新館と旧舘からなっています。この資料館は、旧海軍将校の社交場だった「水校社」の跡地に建てられていますが、旧舘の方には、水校社の八角形装飾屋根や蛇腹模様の外観がそのまま生かされているそうです。新館のほうは、展示テーマ「波とうを越えて」を反映させて、正面にはガラスを用いて、青く広大な海原を、頂部の造詣で純白の帆を表現しているそうです。ここでは、展望ロビーを兼ねた7階から見て回る展示形態となっており、かなり大規模な資料館ですが、展示を見るために「登り疲れた~」となることはないと思います。

山本五十六

セイルタワーの数多くの展示の中でひとつだけ、山本五十六連合艦隊指令長官のコーナー(写真)をご紹介しておきましょう。(展示の解説をメモしたものです)

山本五十六(1884年[明治17年]~1943年[昭和18年]) 新潟県長岡市出身

海軍兵学校を卒業と同時に、日露戦争に参加し日本海々戦で重傷を負った。第一次世界大戦で航空機の活躍に刺激され、航空分野に転進し、霞ヶ浦航空隊教頭を務めた。その後、海軍航空に関する捕職を歴任し、短期間で航空隊を世界水準に高めた。

世界の動向を見るうえで優れた見識があり、海軍々縮会議に2度出席し、海軍次官の時には、三国同盟に強く反対した。1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官になり、真珠湾奇襲作戦を推進した。

世界に先駆けて空母機動部隊の作戦を立案するなど、先見の明の持ち主であったが、地上から作戦命令を発する時代に、旗艦に座乗して陣頭指揮をとり続けた。

2週にわたって、続けて参りました「佐世保シリーズ」は今回でもって終了いたします。ご精読ありがとうございました。以上

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2006年5月13日 (土)

分割、併合の駅と藤井フミヤ?

早岐駅にて

佐世保線を走る特急電車には、「みどり」と「ハウステンボス」の2種類があります。「みどり」は佐世保行きで、ハウステンボスはその名のとおり、ハウステンボス(駅)まで行きます。ハウステンボス(駅)は、佐世保線の駅ではなく、早岐駅と長崎本線の諫早駅(いさはやえき)を結ぶ大村線の駅なんです。因みに大村線は電化されていませんが、博多からの電車特急が乗り入れることから、早岐~ハウステンボス(駅)間のみ電化されています。

特急「みどり」「ハウステンボス」は、概ね併結運転され、早岐駅で分割または併合されます。この特急「みどり」や「ハウステンボス」に乗車された方ならひょっとして、気がついていたかも知れませんが、「みどり」や「ハウステンボス」には1号車がありません。もっと厳密にいうばらば、無いのは1号車だけではなくて、2~6号車までが無いということになります。

これは、佐世保線や長崎本線を走っている特急の多くが、併結運転されているところにその原因があるんです。博多から長崎や佐世保に向かう特急は、佐賀県の鳥栖から長崎本線に入り、肥前山口までは同じ線路の上を走ります。このため、先ほどお話した特急「みどり」や「ハウステンボス」の他に、長崎に向かう特急「かもめ」も併結(所謂「白いかもめ」の愛称で運用されている885系電車は除く)されているところにその理由があるようです。

もうお分かりのように、1号車から4号車という車両番号は「かもめ」にしか割り振られておらず、7号車から10号車は「ハウステンボス」に、11号車から14号車というのが「みどり」に割り振られた車両番号なんです。これは、分割や併合作業の際の確認のために、このような車両番号としたようです。これもお気づきかも知れませんが、5号車と6号車が欠番になっていますよね。これは、さきほど登場した「白いかもめ(885系)」の編成が6両で運用されているので、それに配慮したものだと言われています。

併結された「みどり」「ハウステンボス」は、早岐駅に着くと5分前後停車して、分割作業を行います。分割された「ハウステンボス」は、進行方向が順行のまま隣の終着駅であるハウステンボス(駅)に向かいますが、「みどり」はスイッチバックを行うために、進行方向がそれまで進んできた方向とは逆になります。スイッチバック後は、通常、座席の向きを逆にする作業が行われますが、早岐から佐世保間は時間が約10分程と短いせいなのか、よほど気になる方以外は、座席の方向はそのままにしておくようです。尚、佐世保から博多に向かう特急電車は、最初から座席の向きが進行方向とは逆になっています。

さて、なぜか電車のことばかりになってしまいましたので、早岐駅のことを少し書いてみましょう。早岐駅は昔から佐世保線の要の駅でした。今では、佐世保線と大村線の接続駅であることと、特急電車の分割と併合の駅であること意外は特筆することもないように思われますが、長いホームと広いヤードが昔は本当に大きな駅だったのだろうなぁということを偲ばせてくれます。事実、その昔、早岐駅の構内には機関区、客貨車区、信号通信区、保線区などがあり、ターミナル駅としての機能を充分にそなえていたのです。

さくらを牽引するC11

早岐駅で乗り換える列車待ちのためにホームをブラブラしていたところ、早岐駅の今昔のようなものを簡単に紹介しているコーナーを見つけました。蒸気機関車などの白黒写真や簡単な記事が掲げられていましたが、その中に、ブルートレイン「さくら」を牽く蒸気機関車C11の姿もありました。当時、蒸気機関車がブルートレインを牽くことは珍しいものではありませんでしたが、牽引機がC11でかつ佐世保に向かう時は逆走となることから、早岐から佐世保間の寝台特急さくらは、ちょっと有名だったように思います。

それと、早岐駅の今昔と関係があるのかどうか分かりませんが、この駅には、元チェッカーズのリードボーカルだった藤井フミヤが勤務していたことがあったそうです。みなさんご存知でしたか?日本全国、いろいろと見てまわったりするだけで、思いもしない「へぇ~」にあたるものなんですね。フジテレビ系列の「トリビアの泉」ではありませんが、どうでもいいことなんだけど、誰かに伝えてあげたい・・・そんなものを探しながら、これからも旅を続けて行こうかなぁ・・・なんて考える今日、この頃です。

佐世保シリーズはもうちょっと続けます。

(写真先頭は、早岐駅に進入する特急「ハウステンボス3号」「みどり3号」)

(写真下は、さくらを牽引したC11/2006.7.22 My libraryより追加)

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2006年5月12日 (金)

夕暮れを待つ佐世保で

夜の佐世保駅

月日は百代の過客にして・・・と松尾芭蕉を気取るわけではないのですが、僕の旅よりも月日が流れていくスピードの方がはるかに早いもので、(それと、少し環境面の変化もあって・・・、サボっている気はないのですけどねぇ)最近はちょっと更新が遅れ気味となっています。

これまでは、旅の記録とか旅先でメモしてきた取材内容なんかも、旅先から帰って来て、だいたい1週間以上も過ぎてしまえば、ボツにしていたのですが、それももったいないかなぁと思い直し、最新の旅のことではないのですが、前回、4月26日(水)から4月28日(金)にかけての西九州の旅で、未整理となっていた佐世保編を記しておきたいと思います。

このまえ、「再起動、西九州から」のところで書いておきましたが、有田町大木というところに伺った後、この日の宿を予約してあった佐世保に向かいました。ところで、今回の仕事先は、伊万里市とか唐津市でしたので、別に、宿泊は佐世保にする必要はなかったんですが、そのあたりに適当な泊まり先が見つけられなかったということ(そういうことにしてあるってことかな?)と、同じ長崎県のなかでも、長崎市は何度となく訪れたことがあるのに比べ、佐世保市には一度も行ったことがなかった(ハウステンボスは佐世保ダゾと言われれば、それはそうですけど)ので、一度、行ってみようかなという気になったというわけです。

佐世保線の有田駅から佐世保駅までは、ドン行(普通列車)でも直通なら30分足らずですが、そのドン行列車自体の運行が少なく、佐世保までの直通のものは1日に6本しか運行されていません。佐世保がハウステンボスをはじめとした観光資源を売り物に、国際色豊かな観光都市を目指しているということもあってか、佐世保線も観光路線化しているので、普通列車よりも特急列車の往来の方がはるかに多いのです。ですから、いやおうなしに特急を利用することになり、特急料金(自由席だと300円也)が乗車券代の他にかかってしまいます。(途中の早岐まで行く普通列車が、佐世保直通以外に9本ほどありますので、早岐で大村線の電車に乗り換えて佐世保まで行くという手もあります。待ち時間と300円を比較して、待ち時間など気にならないという方は、こちらを選択されるといいでしょう。

佐世保線(下り)は、有田から二駅目の早岐という駅でどん詰まりとなります。このため、佐世保まで向かう電車はここで進行方向が逆になるのです。ところで、先ほどから登場している早岐という地名は読めますか?これは「はいき」と読みまして、「はやき」とか「そうき」ではありません。早岐駅はオールドレールファンには名の知れた駅かと思いますので、次回はこの早岐駅のことを少し書いてみたいと思います。

さて、早岐駅で進行方向がかわった特急電車は、大塔(だいとう)、日宇(ひう)の二つの無人駅を通過して、進行方向左手に海が見えて来たと思うまもなく、終点の佐世保に着きました。高架駅となっている佐世保駅を出たのは、夕闇迫る18時を少しまわった頃でした。

佐世保シリーズは、ショートバージョンにしてもう少し続けます。それでは、次回。

(写真は、夜の佐世保駅)

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2006年5月 6日 (土)

陶磁器の輝きに魅せられて?

3

前回にひきつづいて、再起動の旅にまつわるお話を続けます。(とはいえ、前回更新してからもう1週間過ぎていますけど・・・。)

JR佐世保線の有田駅で松浦鉄道に乗りかえて、伊万里方面に向かうと右手に何本もの煉瓦でできた四角形の煙突を望むことができます。有田とか伊万里というと、所謂、陶磁器で有名な街なんですね。ですから、やきもの好きの人たちが街を歩けば、それは楽しい風景が広がっているんだろうと思います。

しかし、小生、歳はある程度食ってはいる(?)ものの、とんとこういうものに縁も興味もないので、さて、伊万里・有田焼のここを・・・なんていう気にもならず、結局、電車待ちの時間などのほんの合間でもって、お土産店のディスプレイをひやかしで覗いてみたり、観光センターでもらった資料を読んでみたりと、その程度で終わってしまいました。せっかく、歴史と伝統ある陶磁器の里を訪ねたのにもったいないと思われるかも知れませんが・・・。とはいえ、ここで見聞きしたことを少しだけ紹介しておきましょう。

伊万里焼、有田焼、古伊万里、IMARI、伊万里・有田焼・・・と並べてなんのことか分かりますか。これらは、呼び名は違っても、同じ系譜に連なる陶磁器たちのことを指します。つまり、時代や場所によって、その呼び名は違いますが、佐賀県は有田町を中心に焼かれている陶磁器のことを指すようです。

伊万里焼と有田焼というのは、ほぼ同義語と考えてよいそうで、ここの陶磁器については、その昔、積み出し港であった伊万里の名でもって広く流通して行ったことから、今でも伊万里という呼称が多く使われているそうです。そんなせいもあって、現在でも、このあたりで焼かれる陶磁器には、「これ」という呼び名がはっきりしていないように思えます。(解説書によると、現在では、伊万里・有田焼という呼称が、多く使われているとのことですが)

伊万里・有田焼の歴史は、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵(文禄、慶長の役)がその起点になります。この出兵に参加していた多くの藩が朝鮮から陶工を連れ帰りましたが、当時の肥前国鍋島藩主が連れ帰った陶工の李参平によって、磁器の原料である白磁鉱が、有田泉山で発見され、このことが伊万里・有田焼のはじまりと言われています。

有田では、当初、その当時に中国の景徳鎮から輸入されていたような白磁の器や染付磁器(白地に藍色一色で図柄を表わした磁器)を作っていたようです。この頃は、色絵の磁器はなく、白の素地に青一色の顔料で山水や草木が描かれた大皿が主に作られていたようですが、この頃に作られていた陶磁器を古美術界では古伊万里と呼ぶそうです。その後に、やきものの技術の進歩やら、用途などさまざまな歴史的な過程をへて、現在の伊万里・有田焼が在るのだと思われますが、この分野に足を踏み入れると、奥が余りにも深く、かつ素人には分かりづらい世界でありますので、初心者のための「伊万里・有田焼講座」はこのあたりにしておきたいと思います。

(写真上は、JR有田駅前の「二宮閑山窯」の店内で、伊万里・有田焼の大皿を1枚)

(おまけ)

2

佐賀県北部をうろうろしていました4月27日に、この仕事では多分3度目になる伊万里を訪れました。それまでは、車とかタクシーで伊万里駅から動いていたせいで、気付きもしなかったんですが、さすがにやきものの街「伊万里」。街なかというか駅前に、磁器でできたこんなモニュメントが飾ってありました。その名を伊万里色絵婦人立像(いまりいろえふじんりつぞう)というそうです。このモニュメントの前に立って、地元の人に「何、やってんの?」という顔をされようともたじろぎもせず、写経をするが如く(ちょっと、オーバー)解説を書き写してきましたのでどうぞ。では、また。

片手で着物の褄(つま)を軽く持ち上げ優雅に歩き出そうとする婦人の立ち姿は、寛分期(17世紀後半)の風俗画を特徴づける美人画の様式です。それが古伊万里のモチーフになり、美人画の様式として定型化しました。その後の絵画の世界では、浮世絵の流行に伴い、美人画の様式が様々に変化しますが、陶磁器の世界では18世紀以降も、当初の様式が頑(かたくな)に踏襲されます。国内外の王侯貴族や富豪が鑑賞用として珍重しました

(写真下は、陶磁器でできた伊万里色絵婦人立像。伊万里駅前交差点の舗道上に伊万里駅に向かう道路を挟んで、一対で置かれています。立像の高さは40cmほどです。)

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2006年4月28日 (金)

再起動、西九州から

大木駅から

3月の最終日に投稿してから、早やひと月。今週の末からG.W.(ゴールデンウイーク)に入るという季節を迎えています。今年のG.W.は長いお休みを取るのに適した休日の配列となっているようで、35万人以上の人が海外に出国すんるんじゃないかと言われていますが、みなさんの中にも、旅を前にウキウキ・ワクワクされている方もいらっしゃると思います。

当方、ここしばらくは、オフィスワークに忙殺されていたこともあり、なかなか外に出ることもままならず、いくつかの出張の旅には出ていたものの、ほとんど用件を済ませたらトンボ返り・・・ってなような感じで、なかなか旅先で見聞を広める(?)ということも難しく、ということもあって、なかなかこのブログを更新することができずにいました。別に、やめたわけではないので・・・。更新を楽しみに待っていらした(?)方々、とりあえずはご安心くだされ。

そんなどうしようもない繁忙期を経て、最近やっと、今までのリズムを取り戻しつつあるかな?という感じになってきました。天気でいえば、この旅の初日(4月26日(水))のように雨のち曇というところでしょうか?菜種梅雨というには暖かい雨がパラパラと降っては止み、止んでは降るというちょっとはっきりしないこの日の天気のように、この現状が、この先まだ不透明であることに変わりはないのですが・・・。

まぁ、そんなことはさておき、久しぶりに旅のことについて書いてみようと思います。今回は、主として佐賀県にお邪魔してきました。最初の訪問先は、陶磁器で有名な佐賀県西松浦郡有田町というところで、ちょっと中心部からはずれた旧西有田町大木というところでした。おそらくこのブログをご覧になっている方のなかでも、大半の人は訪れたこと(将来に向かっても訪れること)は多分ないだろうと思われるような田舎町であります。

大木駅は、JR佐世保線の有田駅から松浦鉄道に乗り変えて、伊万里方面に向かって5駅ほど行ったところにあります。1両編成の気動車に乗っている時間は、僅か30分足らずですが、松浦鉄道の運行本数が1時間に1~2本程度なので、アクセスが悪いとちょっと時間がかかります。

平日のそれも午後という時間帯の乗客は、往路は地元のご高齢のご婦人が主でしたし、復路はちょうど下校の時間と重なったせいもあり、大半が通学の高校生たちでした。いずれにしても、紺色のスーツにネクタイ姿で、アタッシュケースなんていう出で立ちは僕だけでしたので、まわりからのちょっとした好奇の目と、少し場違いな雰囲気の中に置かれているかなという感じでした。

予定通り30分ほどで列車は大木駅に着きました。僅かな停車時間を経た後、1両のディーゼルカーは伊万里に向けて再び走り出しました。ディーゼルカーが走り去った駅のホームに残されたのは、唸るようなエンジン音と油くさい排気臭、それとたった一人、僕だけでした。

(写真は、松浦鉄道の大木駅に侵入するディーゼルカー)

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2006年3月26日 (日)

唐津城と忘れもの

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福岡で一晩過ごした後の3月24日は、佐賀県は佐賀県でも、前日に伺った三養基郡基山町(みやきぐんきやまちょう)とは、反対側の玄海灘に臨む町、唐津市に伺いました。ただ、唐津市は唐津市でも、ちょと前(平成16年12月31日まで)は、東松浦郡呼子町と呼ばれていた唐津市の中心からは、車で30~40分はかかる場所が、今回の訪問先なのでした。

唐津から先(正確に言えば、西唐津から先)は鉄道がないため、唐津でレンタカーを調達しましたが、先方から夕方の時間を指定されたので、ちょっと時間に余裕がありました。暖かい九州とはいえ、桜の開花にはもうちょっとかかるかなという季節柄で、いわゆる花曇りと言えばいいのでしょうか、遠くがぼんやりとかすんでみえるような微妙な天気の中、唐津城にむけて車を出しました。

以前、伊万里から帰る途中に唐津駅で、乗り換えのために電車を待ったことがありました。このとき、唐津駅からもほぼ正面に唐津城を望むことが出来ました。福岡空港行きの電車に乗って、しばらく車窓を眺めていたのですが、東唐津に着いた時、窓からまたお城が見えました。そのとき、僕は思ったんです。「え、こんなに近くに、もうひとつお城があるのか・・・」と。

お城が二つあるということについては、暫くしてから間違いだと気がつきました。しかし、普通なら、お城が見える駅なんてのは、まずひとつしかないだろう(大都市圏で駅が接近している場合は除きますが)と思っていたものですから、唐津城のように、結構距離の離れた二つも先の駅から、同じ城が見えるとは、思いもよりませんでした。しかし、筑肥線が松浦川の河口部の遊水池に沿って、市街地から海沿いに大きくカーブして走っているというか、唐津城を円の中心にして、回り込んでいるように走るために、電車でしばらく走っても、海に突き出た形で聳えるお城を遠くから望むことができるんだということに気づかされました。

その唐津城とは、お城で配布しているパンフレットによると、次のように紹介されています。

豊臣秀吉の臣 寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602年)から7ヵ年の歳月を費やして同13年に完成しました。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたといわれています。城は、本丸、二の丸、三の丸に分かれ、本丸は、当時満島と陸続きであった満島山を人工川により切り離したものです。城の全域は45ヘクタールありました。寺沢氏に次いで、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏が城主に任ぜられましたが、廃藩置県により明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園になりました。周囲の約1キロ、面積4.3ヘクタール海抜43mに聳える現在の唐津城は、天守台跡に慶長様式を取り入れ、昭和41年に建造されたものです。天守閣は五層五階からなっており、最上階の展望台からは、松浦潟の全景が一望できます。

いつも思うのですが、お城というのはホントに人を寄せ付けないように作られているんだなと思います。不揃いの石段を息せき切って登らなくてはいけないというのは、どこも同じ様なもので、そういう意味では旅とは体力だということを常々思い知らされます。唐津城の石段は、それほどきついという感じではなかったのですが、2往復もすると、ふだんの運動不足がたたり、さすがにこたえます。

何で2往復もするのかって?ほう、いいところに気がつきましたねぇ。別に、好き好んで、2度も唐津城に駆け上ったのではありません。理由はこうです。ゆっくりとお城を見学して、一度駐車場に戻って来たのですが、それでは、次に虹の松原あたりに行ってみようかなと、車のシートに腰を下ろしたときに、何か足りないぞ~ということに気付きました。財布はあるし、携帯もある。仕事用の携帯バックも、これを無くすと大変なので、しっかりと持ってきた・・・。なんだろうと思っていたら、デジカメがない。バッグの中、スーツのポケット、車のシートの下・・・。いろいろ探すもののそれでも見あたらない。

「あっちゃ~、どこかで落としたか、忘れてきたな」とすぐ思いました。出張が多い身なので、身の回りには結構気をつけているのですが、たまにこういうポカをやるんですねぇ。年のせいかな・・・と思ってみたりして。

今までの行動を思い返してみる。最後にカメラで撮影したのは、天守閣の展望台だった。「ああ、あそこでベンチに座って、何かメモしたっけな・・・」とフラッシュバックじゃありませんが、すぐ思い当たりました。

しかし、そこでまず頭に浮かんだこと。「だいぶ、年数も経ったので、新機種に買い換えようかな」って思っていたので、「まぁ、いいか」とそのまま、車をスタートしようかなって思ったんです。だけど、「カメラはともかく取った画像がかなり入っているので、それは、惜しいかな」と思い直し、でも「また、あの石段を登るのか」と思うと、「ひょっとしたら、誰かがもう持っていったかも・・・」とネガティブに考えてみたり、そうするとますます引き返すのが億劫になってみたり・・・という感じだったのですが、「探しに行かなかったことを後悔するかなぁ」・・・とかこんな考えがぐるぐると頭をめぐった挙句、取り敢えず、天守閣まで行くだけ行って無かったらしょうがない(気前いいでしょう!)と最終的に考えがまとまり、海抜43mに再チャレンジすることにしました。

再び、息せき切って天守閣まで駆け上がり、入場券売り場のところに行ってみたら、なんとなんと、窓口に「忘れ物」と大きく張り紙がしてあり、その前に、僕のデジカメがちょこんと置いてありました。もし、これが外国なら、絶対になくなっているのでしょうが、さすがに日本でかつ地方ではまだこんな親切な心が残っているんですね。ですので、窓口の係りの方に丁重にお礼を言って、カメラを受け取ってきました。

雨傘なんかでも、無くしちゃ困ると意識しているものは、思いとは逆に早く無くしたりするのに、結構、年季が入ってきて、ところどころに穴の開いたような傘は、なかなか無くならない・・・そんなことを感じたことはないでしょうか?それと同じで、今回も、別に無くなってもいいぞ(本当です)と思っていたから、結局、手許に戻ってきたんじゃないかと思います。だから、大切なものほど、無くなってもいいぞ・・・って、あまり気にかけなければ、本当に無くさないかも知れませんよ。(でも、ここでそうか!と納得して、僕の言った通りにしたにも拘わらず、扱いがぞんざいになった挙句、本当に紛失しちゃったりしても、責任は取れませんから。悪しからず)

(写真上は、唐津城の天守閣)

(写真中は、天守閣の展望台から、舞鶴公園や唐津湾を一望する。・・・右端の島は、高島)

(写真下は、虹の松原を車で走りながら1枚・・・虹の松原は、松林が延々と続くのみだった気がする)

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2006年3月23日 (木)

松中 凱旋

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月日が流れるのは早いもので、前回更新してから早や十日余りも経ってしまいました。前回お話しした件の余波(?)で、近来まれにみる超多忙な日々を過ごしておりましたが、それもやっと一区切りつき、普段の生活に戻りつつあります。なので、今日は久しぶりに旅先で原稿を書いています。

今日は、昨年の10月の下旬にちょっと立ち寄って以来、もう何度目になるか見当もつきませんが、ちょっと久しぶりで福岡にやってきました。といっても、実際に用事があったのは、佐賀県の三養基郡基山町(みやきぐんきやまちょう)という、鹿児島本線で云えば、鳥栖からちょっと博多寄りに3駅ほど戻ったところで、佐賀県と福岡県が境を接するようなところでした。

今朝のニュースでは、ANAも24時間ストライキに入るかもしれないとのことで、こりゃあ、飛ばなかったらどうしようと少し気をもんだのですが、出発前にプラチナサービスデスクに問い合わせてみたところ、ANKなど一部の便に欠航がでるものの、ANA本体の方はストが回避され問題ないとのことで、ほっと胸をなでおろしつつ、いつも通りの時間的余裕を保って羽田空港に向かいました。

羽田空港には、予定通り出発の35分前には到着し、手荷物検査場を経て25分前には出発ロビーで、羽田発11時35分発のANA251便を待っていました。いつもなら出発時刻の15分前くらいには、優先搭乗のアナウンスが始まって、体にハンディキャップのある方、小さな子供さん連れ、お年寄りなどが一般客に先行して機内へと導かれます。かく言う私も、ANAゴールドメンバーの資格を使って、さっさと乗り込もうと準備をしていたのですが、なかなかお呼びがかからない。どうしたのかなと思っていたら、どうも機体のメンテに手間取っているらしく、結局、出発は25分遅れになりました。

とにもかくにも、飛行機は12時には羽田を離陸して、一路福岡に向かいました。今日の座席は、テクノジャンボ(ボーイング747-400)の2階席で3列の窓側でした。隣にはたぶん出張で福岡に向かうのであろう東京のOLが二人、自分の会社の人間関係について、離陸してから着陸するまで、まぁよくそれだけ喋ることがあるなというくらい、ペラペラとしゃべり続けてくれました。ただ、僕の方は、まだ超多忙な日々の疲れが抜けきっていないせいか、彼女たちのおしゃべりを子守唄代わりに、ウトウトとうたた寝をきめこんだのでありました。

2時間弱のフライトを終えて、空港の出口からでようとしたところ、かなりの人数の人たちとカメラの放列が僕を迎えてくれました。さらにテレビカメラもあって、やたらとフラッシュが眩しい。なんだろうと思っていたら、僕の少し前を、ニットの茶色の帽子を来た大柄の男性が歩いており、それが、なんと、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で世界一に輝き、昨日、凱旋帰国した野球の日本代表で主砲を務めていた松中選手だったのです。

しょっちゅう旅に出ていると、たまにこういうタイムリーな瞬間に出くわすこともあります。空港の出口で、松中選手の殆ど50センチくらいの横を通り抜けましたが、折角のチャンスなので、僕も居並ぶ観客(単なる野次馬か?)に混じって、しばらく様子を見ていました。

松中選手は、空港のロビーに出ると、二人の男性(球団の関係者?)に出迎えられ、携帯電話を取り出して、どこかに電話をしていました。(おそらく、空港の外にクルマで迎えに来た奥様と連絡を取り合っていたものと思われます。)

電話が終わると、手に持っていたポーチから、何やらもぞもぞと取り出しはじめました。ストラップらしきものが見えたとき、金メダルを取り出しているなということがすぐ分かりました。松中選手は金メダルを取り出すと、ちょっと照れながらではありましたが、金メダルをかざし、福岡空港に残っていた観客に向けて、ミニ凱旋報告をしてくれました。そして、約10分くらい後には、お迎えに来た奥様運転のベンツに乗り込んで、福岡の町に消えていったのでありました。

それにしても、WBCは盛り上がりましたですねぇ。野球でこんなに盛り上がるのかって感じでしたけど。アメリカ戦での世紀の誤審、韓国戦での福留選手の代打ホームラン、決勝戦ではキューバに、8回裏に1点差まで詰め寄られこれはヤバイと思っていたら、イチローが期待に応えてタイムリーを打つ・・・など、応援する側としてはこれ以上ないんじゃないかというような展開が数多くありました。それに、選手たちの必死さというのが伝わってきましたよね。それは、多分、負けたら終わりだという刹那的な部分とナショナルチームによる国の誇りをかけた戦い・・・これらの要素が大きかったんじゃないでしょうか。

何かを賭けて選手が必死に戦っているから、観るほうもドキドキとしてしまうんですね。きっと。そういう意味では、日本のプロ野球では余り感じられなくなった何かが、改めて野球というスポーツの面白さを再認識させてくれたイベントでした。

しかし、イチローはハイテンションでしたね。アメリカに渡る前後くらいから、なんとなくストイックな求道者っていう感じになっちゃったのかなと思いましたが、このWBCでは、おそらく彼本来のキャラクターを出していたんじゃないでしょうか。発言についても、刺激的なものもありましたが、それによって仲間をそして自分を鼓舞していたんじゃないのかなというように思います。

イチローの言動をして有言実行といいます。言うは易し、だが、行うは難しい。みなさん最近はどうですか?「有言不実行?」これならまだまだ目がありますよ。なにしろまだその気もあれば色気もあるってことですから。さて、振り返って自分は・・・。不実行で無言(?)な~て周りから言われないように、これからも頑張りましょう。それでは。

(写真は、福岡空港でWBCの金メダルを披露する松中選手)

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2006年3月12日 (日)

春霞 たなびく山の 桜島?

鹿児島の町並みと桜島

つい最近まで、この冬の手強さに手を焼いていたかと思えば、3月の声をきくとともに、流石に春めいてくるというか、そういうことを肌で感じられる季節になってきました。たとえ、朝はまだ真冬のような寒さだとしても、太陽が昇るにつれて暖かさが増し、日中では汗ばむような陽気になることもあります。春はもうそこまで・・・、いや、もう春なのか?全国を飛び回っていると、たまにこんなことも分からなくなってしまうものです。

鹿児島空港からの連絡バスを、南国ニッセイビルにあるバスセンターで降りて、ほの暗い通路から街に一歩足を踏み出したとたん、南国の強い日差しに目がくらみ、僕は思わず額の上に手をかざしていました。そのうえ、頬をなでる温~い風、鹿児島はもう春でした。こうなると、東京を出る時には必需品だったコートも無用の長物というか、周りを見渡しても、冬っぽいコートなど着ている人を見つけるほうが難しく、仕事道具以外の荷物とともにコインロッカーに放り込んで、今回の仕事先に行くことにしました。

鹿児島での1日目は、仕事が終わってホテルに戻ると、きびなごの刺身やら黒豚の角煮やらさつまあげなどをツマミに芋焼酎のロックで、多忙を極めてろくに呑む暇さえなかったここ数週間の疲れをちょっと癒しただけで終わりました。

疲れのせいか泥のように眠ってしまい、朝の目覚めはいつもよりかなり遅かった。シャワーを浴びて、気だるい体を起こし、ホテル内のレストランで朝食を採って、部屋に戻ってきたらチェックアウトの時間までそれほどの余裕はありませんでした。

2日目の日程は東京に帰るだけでしたが、土曜日だし久しぶりの鹿児島でもあったし、また、とてもいい陽気だったこともあり、少し近場を散策して帰ろうかと思いました。(というより端からそのつもりではあったのですがね)ただ、朝寝坊のせいで、2便予約していた帰りの飛行機の遅い方を選択しても、3時間余りしか残っていませんでしたけれど。

鹿児島には、仕事も含めて4回目になりますが、市内を観光して歩いたことがありませんでした。それで、いつものように鹿児島といえばと考えてみました。桜島と西郷隆盛と大久保利通と島津家と天文館などなどいろいろ浮かんだのですが、鹿児島初心者は初心者らしく、今回は欲張らずに桜島と西郷隆盛あたりにしておこうかということになりました。

まずは、いつものように、レンタサイクルのお店を探しましたところ、鹿児島中央駅のすぐ近くに「若松サイクル」というお店があるとのことで、訪ねて見ました。若松サイクルというのは、所謂、街の自転車やさんという感じのお店で、以前、山陰の浜田で借りたお店と同じように店主のおじいさんが一人で営んでいるみたいでした。自転車を借りたいと申し出ると、「普通の自転車からマウンテンバイクのようなものまであるがどれにするか」と聞かれました。別にオフロードに挑戦するつもりはないので、普通のでいいと答えたところ、「じゃあ」と連れて行かれたのがママチャリなどが並ぶ区域。「おいおい、ママチャリかよ」と思いながら、でも、「ま、しょうがないか」と諦めかけていたら、その奥にスポーツ車っぽいのが数台あって、「これなんかはどうかね?」とのこと。「なんだ、あるじゃん」とか思いながら、それを借りることにしました。

自転車を借りる時には、いつもそうなのですが、店主の方はいろいろ一生懸命説明してくれます。ただ、共通することは、自転車は必ず持って帰ってきてほしいということ。ということは、自転車を借りたはいいが、返却しないという輩がそれほど多いということなのだろうか?と思わずにいられませんでした。借りたら返すという今の日本ではこんな当たり前のことを守れないヤツがそんなにいるのかと思うと、なにやら情けないやら・・・。僕のそんな思いなど気づくはずもなく、おじいさんの説明は長々と続き、特に天文館という繁華街に行ったときにはさらに注意するように、ここにしばらく自転車を置いて、買い物とか飲食をしている間に、市が撤去してしまうことがあるので、指定された場所以外には置いてはいけないとか・・・微に入り細にわたる説明はやっと終わりました。

その後、利用料金の説明がありましたが、2時間まで400円で、それ以降は1時間毎に100円プラスされるというものでした。「ああ、そんなものか」と思っていたら、その後に「ええっ~」と思うようなことを言われました。店主のおじいさんから、「それでは、1万円を預からしていただきます」といわれて、「えっ、1万円?」とびっくり。話を伺うに、保証金として預かるだけで、自転車返却の際には、その預かったお札そのものをお返しするということらしい。店主のおじいさんは新聞の折込チラシを半分にした紙に、お札を挟んで私の名前を書き、それを金庫にしまいました。それから、厚紙で作った預り証を渡してくれました。

そのようなやりとりを経て、若松サイクルをスタートしました。前段で若松サイクルでのやりとりが煩雑のようなことを書きましたが、貸してもらった自転車は、スタイルといい状態といいなかなかのものでした。今までいろいろなところでレンタサイクルを借りましたが、ペダルを漕ぐと大きな音がしたり、タイヤの具合かギアの部分の調子が悪いのか少し重く感じたりというものだったこともありますが、ここで借りた自転車の調子は極めて上々で、ペダルを漕いでて、とても軽快に感じました。

自転車を漕ぎながら、一応、城山と仙厳園くらいには行って来ようという目標を立てました。その時は、3時間ならこのくらいは行けるだろうと思っていましたので。しかし、いきなり目的地に向かうのも何だしと思い、取りあえず海の方にでも行ってみるかと目的地とは全く関係ない方向に走り出しました。

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海に着く少し前に、天保山公園というところを通りました。公園の中に、チャイナ風の建物があって、なんだろうと足を止めました。建物の名前は「共月亭」(写真)というそうで、これは鹿児島市と中国の長沙市の姉妹都市盟約を記念して、長沙市にある愛晩亭という建物を模して1986年に建てられたものだそうです。中秋の名月には、ここでお月見会が催されているそうです。

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20分ほどで天保山シーサイドブリッジに到着。錦江湾を挟んで対岸に桜島をみることができました。一日に7回色を変えるという桜島ですから、さてどんな色かと期待していたのですが、春霞のせいなのか青くかすんだ色で迎えてくれました。写真は、シーサイドブリッジから桜島を望む)

それから、海沿いの道を鹿児島新港に向かって走りぬけ、国道225号線を天文館方面に向けて走って行きました。「春の陽気の中、僕は潮風になる」・・・なんて颯爽と走っていればいいのですが、果たして周りの皆さんは、どう見ていたでしょう?「なんや、あのおっさん、早よ、走らんかい(何で、関西弁なの?)」ならまだしも、「自転車が可愛そう・・・」とかなるとそりゃちょっと言い過ぎでしょう。でも、そんなこともお構いなしに、街並みを楽しみながら城山の近くまでやって来ました。

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大きな鳥居のある照国神社の近くまで来た時に、1本の桜らしき木(写真)を見つけました。場所は県立博物館の旧考古資料館の前です。いかに鹿児島といえどもまだ桜には早いのかなと思うのですが、ソメイヨシノではない、桜の種類によってはもう花を咲かせたものあるのかと思ってみたり、他の花なのかと思ってみたり、しかしながらその姿は散り際の桜そのもののようでもあり・・・なんて思いながら、もうすぐ訪れる桜の季節にちょっとだけ思いを馳せながら、しばらく眺めていました。

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島津斉彬(しまづ なりあきら)を祀る照国神社(写真)の目前まで来て素通りすることもなかろうと思い、拝殿で参拝を済ませてから、城山公園内の城山展望台に向かって再び自転車をスタートさせました。鶴丸城跡地にある黎明館の前をとおり、鹿児島地裁を左手に見ながら、国道10号線を左折すると、江戸時代に幕府から課せられた難題に対処しながら、自決や労死した人々を義士として祀る薩摩義士碑があります。自転車でもここくらいまでなら、大したことはないのですが、そこから本格的な坂道が始まるのです。

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城山の標高は107mです。こんなちょっとした丘くらい大したことはないだろうと、しかし、登れば登るほど傾斜のきつくなる坂道を、西郷隆盛が自刃して果てたという「西郷隆盛洞窟」(写真、2枚とも)までなんとか立ち漕ぎで登りきるものの、このあたりで動悸、息切れがひどくなり、そのうえ気温も上がって、もうほとんど汗だく状態となりました。洞窟で一息入れて、時計を見るとスタートしてからもう1時間45分を経過していました。

洞窟を後に再スタートするが、坂道の傾斜はさらにきつくなってゆく。自転車を漕ぎながらノンストップで登りきることは、どだい無理だということに気づくと、途中で休み休みそれでも渾身の力を振り絞りつつ、「南無八幡大菩薩、我に艱難辛苦(かんなんしんく)を与えたまえ!」(ちょっと、オーバー)ともう半ばやけくそになりながら自転車を漕いで、城山展望台の駐車場までたどり着きました。所要時間はだいたい30分くらい。駐車場で車の整理をしているお兄ちゃんが、息絶え絶え、おそらく真っ赤に上気していたであろう僕の顔を見て、「上り坂がきつかったでしょう」と労ってくれました。でも、裏返してみれば、こんなところまで自転車で来る物好きは滅多にいないよと言うことなんでしょう。実際、駐車場を見渡して、他に自転車は見当たりませんでしたから・・・。

城山展望台の駐車場に着いた段階で、すでに残り時間が1時間となってしまいましたので、仙厳園に行くことは断念し、展望台から、やっぱりここでも霞んだ桜島と東洋のナポリと云われる鹿児島の街並みをしばし眺めながら、ほてった体をクールダウンしたのでありました。

重力に逆らいながら、重い体を無理やり引き上げた上りと違い、下りは楽そのものというか爽快でした。上りが30分なら、下りは僅か2、3分。カーブでは曲がりくねった道の真ん中あたりまではみださないと、曲がりきれないくらいのスピードで山を駆け下りて、あっという間に平坦なところに着きました。

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今回の山登りを終えて、まだまだ行けるぞと思う反面、あぁ、2日後がコワイという自分がいました。複雑な思いを胸に、自転車を飛ばして鹿児島中央駅に向かう運動不足の男を、小高い丘から西郷どんが見送ってくれたのでありました。おしまい。写真は、西郷隆盛銅像)

(写真先頭は、東洋のナポリと云われる鹿児島の街並みと桜島)

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2006年2月25日 (土)

路面電車にゆられて

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2月23日の昼過ぎに東京を発って、今週は再び(というか、今年になって始めてではありますが)、北海道は函館に行ってきました。

先週の石垣島では、空港に降り立ったときの気温は27度。もうすぐそこに夏の足音が・・・という季節感でしたが、函館では空港に着いた時の気温は2度、空港から乗ったタクシーの運転手さんによると、「ここ数日は少し暖かかったので車道の雪は殆ど融けました」とのことでしたが、歩道の脇には除雪した雪が積み上がっていて、まだまだ冬将軍の支配下・・・という感じでした。

日本の北端の稚内市が北緯45度で、南端である沖縄県の波照間島では北緯20度ですから、確かに日本もそれだけ南北に長いということが言えるでしょう。ですから、同じ日本とはいえ季節感もそれだけ違うということになるのだと思います。因みに、空港に到着した時間だけでいえば、石垣島も函館もほぼ同じ午後4時くらいでしたが、ちょうど両者の気温差は25度でした。ということは緯度で1度下がれば、1度暖かくなるということなんでしょうかねぇ?(まぁ、同じ日の気温の比較ではないし、偶然に気温差がそうなったものかと思いますがねぇ)

さて、今回の予定は、23日の夕方に現地の出先に立ち寄って、ミーティングをしたうえで、翌日の午前中に一仕事して、それで東京に帰るという気忙しいスケジュールでした。ですから、どこかで油を売っている暇は残念ながらありませんでしたが、函館には何度も来ているということもあってか、このタイトな時間をかいくぐってどこかに行きたいという欲求もなく、それよりも、TVでトリノオリンピックでも観ながらゆっくりとした夜を過ごそうか、それとも、いつものように週末に慌ただしくブログをアップするのもなんだからと、この木曜日の夜に1本投稿しとこうかなんて考えながら、当日の宿泊先ホテルニューハコダテに向かいました。函館の出先がある五稜郭公園前から末広町の停留所まで、路面電車に揺られながら約35分のショートトリップです。

函館を走る路面電車について少しだけ。

函館市交通局の路面電車(営業用)は現在35両で、その内の4両は、東京の都電などで活躍していたものから転属された車両です。路面電車の平均年齢は、38歳を越えるとのことで、殆どの車両が、乗客の年齢層を写すように老朽化、おっと失礼、レトロ調で渋い味を出しています。黒ずんだ床板、かすかな機械油のにおい、チンチンという甲高い鐘の音、なんだかそこはかとなく懐かしい気持ちになるのはどうしてなのでしょう。

ピーク時には12系統もあった路線も、現在は、湯の川~函館どっく前と湯の川~谷地頭(やちがしら)の2系統を残すのみですが、今でも函館市民29万人の足としての役割を立派に担っています。

八幡坂(はちまんざか)など函館山に続く多くの坂道から眺めれば、函館港の海を背景に、ゆっくりと横切っていく路面電車のシルエットは、なかなか雰囲気があります。この路面電車は、港町函館の風物詩として、これからも多くの人に愛されていくでしょう。

末広町で電車を降りてホテルに入る前に、函館ベイエリアのメインともいえる金森赤レンガ倉庫群にちょっと寄ってみました。着いた時間が午後8時半くらいでしたので、飲食店以外のお店は閉まっていて、人影もほとんどありませんでした。この前、ここに来た時はクリスマスシーズンでしたのでそれなりの賑わいを見せていましたが、今回は、ライトアップされた倉庫たちも夜の静寂(しじま)のなか、更けていく夜の下でひっそりと息づいているようでした。

(写真上と中は、夜の金森倉庫群)

(写真下は、十字街電停の路面電車)

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2006年2月19日 (日)

24時間30分

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石垣島を車で走っていると、石垣という文字よりも「八重山」という文字の方を多く目にします。ところで、この八重山ということについて、ご存知でしょうか?すでに、このブログでも「八重山そば」のところで登場していますが、この石垣の旅シリーズ最終回は、主に八重山のことについて、現地で仕入れた情報をもとにお話ししたいと思います。

九州から台湾にかけて、太平洋と東シナ海を分けるように、弧状に連なる島々を八重山諸島といいます。八重山諸島とは、石垣島をはじめ9つの有人の島と多数の無人島の総称で、行政区分で言えば、石垣市と(八重山郡)竹富町、台湾との国境を接する与那国町の一市二町で構成されています。八重山諸島は亜熱帯海洋性気候に属し、年間の平均気温は24℃、冬でも平均18℃という暖かさです。

亜熱帯の八重山諸島では、その数3000種類以上と云われる植物が生息しています。その殆どが熱帯、亜熱帯の植物ですから、日本では八重山諸島でしか見られない珍しいものも数多くあります。また、イリオモテヤマネコをはじめ、他では見られない珍種の動物も数多く棲息しています。

八重山諸島のうち、島民の暮らす9つの島を紹介しましょう。

八重山諸島の主島である石垣島は、このエリアの人口の80%が集中する政治・経済・交通の中心地です。
島の周囲130kmの沖縄本島に次いで大きな島が西表島(いりおもてじま)で、この島の90%以上は熱帯、亜熱帯の原生林に覆われています。
赤瓦に魔よけのシーサーをのせた民家が静かな佇まいをみせる竹富島
ガジュマルが茂る小さな美しい島が小浜島。NHK朝のテレビ小説「ちゅらさん」のロケ地になったことでも有名です。
島のほとんどが牧場という黒島。人口のおよそ10倍の約2500頭もの牛がいるといわれています。
果ての「うるま」という意味を持つ波照間島(はてるまじま)。「うるま」とは、サンゴ礁のことだそうで、「果てのサンゴ礁の島」という意味のようです。この島の南端の高那海岸には日本最南端の碑があり、北回帰線がこの島のすぐ南を通っています。
島を覆うサンゴ礁が絶景と云われる面積約1平方kmの小さな鳩間島
上地島と下地島のニつからなるのが、新城島(あらぐすくじま)。二つの島が離れていることから、別名「はなれ」と呼ばれています。
日本最西端の島、島の殆どが断崖に覆われている与那国島(よなぐにじま)は、台湾まで125kmしか離れておらず、島の西端の西崎(いりざき)に日本最西端の碑があります。ここでは日本で一番最後に沈む夕陽を見ることができます。

以上が現地で仕入れた情報をもとに八重山のことを調べた結果です。あ~、疲れた。(読む方も疲れますよね。これは失敬)

一番最初の出だしに戻りますが、こうしてみていくと、石垣島は八重山諸島の主島ではありますが、あくまで八重山の一部なんだという意識が強いのではないかと思いました。八重山はひとつだという思いがあるからこそ、石垣という一個の島の名前を前面に出すことが少なく、それよりも八重山というほうが多いのかなぁと勝手にそう解釈しました。

さて、川平湾からの帰り道、すこし時間に余裕がありましたので、灯台と海に落ち込んだ断崖が見事な景色の景勝地で、夕陽がきれいなスポットとして有名と紹介されていた御神崎(うがんざき)に寄ってみることにしました。

御神埼灯台案内板

■御神埼灯台にある案内板。夕陽とテッポウユリが美しい灯台とのことだが、今回はそれを楽しむような状況になかった。

県道79号線から崎枝分岐で別れた農道のような道を走ること15分ばかり、御神崎の灯台に着きました。しかし、周りを見渡しても誰もいません。それもそのはず、車を出てみると、猛烈な海風がアゲインストでもろにぶち当たってくるという状態。灯台の前が少し坂になっているせいもあって、サイドブレーキを緩くしか引いてなかった車は、風で後ずさりをしていくし、灯台の写真を撮ろうにも、前に歩くのが極めて困難で、やっとのことで、灯台の前にたどり着いても、強風に煽られてカメラを構えた手の震えが止まらないために、写真の構図が定まらない。ですから、上に掲げた灯台の写真は、そういうやっとの思いを経て撮影されたものなんですよ。

御神崎で強風と戦った後に、車を少し飛ばしてレンタカー店に戻り、結局3時10分くらいには石垣空港に戻ってきました。

石垣島に降り立ったのが、2月17日の午後3時30分で、飛びたつのが翌日の午後4時ですから、実質24時間30分の石垣島滞在でした。僕たちの暮らす東京とは違う時間が流れる島、スローライフを求めてこの島にやってくる人も多いのに、こんな短い時間で足早に通過して行くのは、いかんなぁと思ったりしました。もしも、また来る機会があるならば、そのときは、できれば長期滞在でなどして、のんびり・ゆっくりと過ごしたいな。そう思いました。

でも、東京でのせかせかした日常があるからこそ、ゆっくりとした穏やかな時の流れがうらやましいと感じるのかなぁなどと、千々に乱れる心をよそに(?)、飛行機は空に舞い上がって行きました。

(写真先頭上は、御神崎灯台)

(写真先頭下は、石垣空港。右手の長い幕は、今年のセンバツに出場する八重山商工への応援横断幕)

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2006年2月18日 (土)

美ら島かけあし巡り

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丸八そば屋さんを出て車に戻り時計をみたら、午後1時前くらいでした。帰りの飛行機の時間は午後4時ですから、石垣島に滞在できる時間があと3時間ちょっとありました。

この時間の中で、何処に行って何ができるかちょっと考えてみました。レンタカーをお店に返却しなければいけないし、レンタカーのお店から空港まではちょっと距離があるので、送迎をお願いしなければいけません。さらに、途中で交通渋滞に遭うかもしれないし(石垣島に交通渋滞はないでしょうから(多分)、なんらかのアクシデントに備えてということです)なんてことを考えに入れると、レンタカーのお店に午後3時過ぎには戻っていないといかんなという結論をハジキ出しました。

そこで、あと2時間少しの時間で何ができるのか?ということですが・・・。車はあるし、島を一周してくるという手はある。島の一週は、国道390号線と県道79号線でだいたい70kmくらいと事前に調べておきました。車を平均時速70kmで走らせれば、理論的には可能ですが、石垣島に着いて1日目に少しだけドライブした時のことから思うに、この島の道は余り広くないのでとばすのには適していないし、複雑な形をした半島が多く、道が結構くねっているので、平均時速70キロはちょっと厳しい。それに、第一、交通違反だし・・・。

そんなことから、石垣島一周案はボツにして、石垣島で最も有名な景勝地として知られている川平湾に行ってみることにしました。川平湾までは石垣市内から15~16kmくらいなので、30分程で行くことができます。ですから、ここをメインに、この行き帰りでもう1箇所くらいと行けたらいいなと考えたわけです。

川平湾は、石垣島の北西部に位置し、エメラルドグリーンというのかブルーというのか透きとおった海の色と白い砂と亜熱帯の木々に覆われた小島がサンゴ礁の海に点在するという本当に美しいところです。その美しさゆえに、全国で8箇所しかない国指定名勝地に選ばれているそうです。小高い丘の上にある展望台からの眺望は、まさに絶景と言っても過言ではないでしょう。一日の間に7回もその色が変わると言われる海は、南国の強い日差しを受けて輝くといわれています。

時間に少し余裕もありましたので、湾に沿って設置されている小道を歩いてみました。白い砂とエメラルドグリーンの海が本当に美しい。ただ、時折、小雨の混じる曇りがちのお天気のせいで、最高の美しさにまでは達していなかったのかもしれません。そういう意味では、晴れた日にもう一度訪れてみたいと思わせる美ら島の海でした。

ただひとつ、難点を言えば、結構、訪れている人が多いんです。観光バスがバンバン乗りつけてきますから。石垣一の景勝地ですので、やむをえないところはありますが、できれば、余り人のいない環境の下で、この美しさに浸れたら最高かな?というところはあります。

しばらく川平湾を満喫した後に、また湾に沿った小道をあるいて戻っていたら、1匹の猫に遭遇しました。まさか?え~?と思ったんですが、やっぱり、まさかでした。そうですよね、ここに、イリオモテヤマネコなんているわけありませんよねぇ。でも、面構えはなんとなく雰囲気出てましたけどね。このあたりに住んでいると、ノラネコでもだんだん似てくるのでしょうかね?特別天然記念物とノラネコじゃあ、えらく違うけど・・・。なんとも謎ですね。

それでは、今日はここまで。(もう少し材料があるので、できればもう1回石垣シリーズを書きたいとは思っています。思っているだけで終わっちゃうかも知れませんけど・・・)

(写真上は、展望台からの川平湾の眺望)

(写真下は、川平湾に点在する小島とグラスボートを砂浜から)

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2006年2月16日 (木)

1300マイル飛び越えて

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寒い、寒い東京を抜け出して絶対、寒い間に行ってやる!と決めていた石垣島にやってきました。この仕事になってからというかそれまでの人生も含めて、日本最南端到達記録を更新しました。(今までの最南端は、沖縄の那覇でしたので。)

石垣島は沖縄からでも、約450kmほど離れており、東京からだと約2120km南西にあります。地図でも眺めると分かりやすいのですが、日本の九州よりも台湾のほうがはるかに近いのです。

石垣空港に着いて、まず感じたこと。それは「あったかーい」を通り越して「あつ~い!」でした。なにせ、石垣空港到着時の気温は、27度もありました。東京を出る時は、だいたい5度くらいでしたから、その差は22度。少し寒いのを我慢して、今回はコートを着ないで出かけたのですが、これは、正解!しかし、石垣島は、3月になったら海開きをすそうで、ということは、本州で言えばもう夏の一歩手前に来ているようなものですから、冬物のスーツなんかで来たりすると、だんだん体が汗ばんでくる訳です。因みに、こちらの飛行機に乗ってたCAさんは、半そでのシャツでした。とはいうものの、東京を発つときから、コートなしでスーツは夏物というというスタイルでは、酔狂にも程があるということにもなりかねないし・・・。余り、温度差があるのも困ったものです。

さて、今回も勿論、仕事で来たんですが、自宅を朝8時に出てから、こちらのホテルに着いたのが、午後4時ですから、途中の那覇空港での乗り継ぎに1時間ほど要したものの、移動だけで殆ど半日かかっています。何せ、1300マイルくらいを飛び越えてきた訳ですから、さすがに飛行機に乗っているのがいやになりましたね。

移動に時間がかかることは、当初から想定はしていたので、仕事は明日からということにして、空港近くでレンタカーを借り、その足ですぐ今日の宿泊先である石垣全日空ホテル&リゾートにチェックインしました。

その名にリゾートとうたっているだけあって、やっぱり、ビジネスホテルとは規模と設備が違います。もちろん、グレードも高いのでお値段も高いということになります。会社から許可されている宿泊料では、これも勿論ペイできませんので、オーバー分は自前でということになります。まぁ、しかし、折角、石垣に来たわけだし、きっとそんなに来る機会もないでしょうから、今回くらい少し奮発しとこうというところです。

リゾートホテルに泊まっていつも思うことは、確かに払ったお金の分だけサービスもいいのですが、サービスやそのサービスが受けられる場所、手続きなどを覚えるのが大変です。やれ、サービスを受けるときには、必ずゲストカードを提示してくれだの、ウエルカムドリンクは、ホテルの何とかの棟のあそこで、何時から何時までで、大浴場とスポーツジムがどうだの、植物園があって、そこに何があるとか・・・。説明を聞いて、ガイドブックで確認して、TVのホテルチャンネルで再確認して・・・、ああ、忙しい。結局、ウエルカムドリンクも、大浴場も屋内プールもパスして、たそがれが迫る中、どこにという当てがあったわけではないのですがクルマで出かけちゃいました。

こんな感じで、石垣島での1日が過ぎようとしています。

今週は、ウンチクや能書きはあっちの方に置いておいて、このブログの本来の姿である旅ブログでそれもライブ感覚で綴れればと思っています。きっと、明日はいくつかの観光スポットにも行けるのではないでしょうか。

それでは、本日はこれまで。

(写真上は、石垣全日空ホテル内売店のシーサーの置き物)

(写真中は、ホテルのエントランスホールあたり)

(写真下は、今回宿泊したパティオ館の中庭、その他にタワー館とサンコースト館がある)

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2006年1月27日 (金)

昔とった記念つうか・・・

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今週末は急遽四国の仕事をセットしました。現時点でも、旅の品揃え(仕事の行き先)は、北でも南でも都内のような近場まで、As You LikeでOn Demand  まるで、何かのTV CMでもあるまいに、とにかく、なんでや?というくらい毎週いろいろ取り揃えてもらって、本当にHappyです。(やや、自虐的か・・・)

というより、人手も限られていますので、半分有無も言わさず机上に積まれて・・・(そこまで、極端ではないですけどね)、とにかく、仕事の束をじっとにらんでいても、仕事は終わりません。というわけで、しばらくデスクの引き出しの中で熟成させていた四国は、丸亀と善通寺の仕事で出かけることにしました。先週に降った雪がまだ消え残る東京から、少しでも暖かい所に脱出するぞという意味合いもこめて・・・。

四国といえば八十八ヵ所(霊場)めぐり、香川と云えばやっぱ「讃岐うどん」でしょうとヒラメキましたので、空港からの連絡バスで高松駅につくと、事前にチェックしておいた駅近のうどん屋さんに行ってみました。しかし、高松駅に着いたのが、午後2時くらいだったということもあり、そのうどん屋さんには「営業中」の札は出ていたものの、「売り切れました」との張り紙が・・・。さすが、讃岐うどんの本場、うかうかしていたらありつけないかも・・・と思いながらも、まずは、仕事先に行くことにしました。(お昼ご飯は、飛行機に乗る前に済ましておいたので、とりあえず、昼ヌキは免れましたが。)

仕事を終えての帰りがてら、往路で丸亀駅に着く前の電車からも見えていた丸亀城に行ってみることにしました。丸亀城は、市街地の中央にある亀山(標高66m)に築かれた平山城で、お城全体が史跡に指定されています。丸亀城には、天守閣の他に大手一の門、大手二の門、御殿表門、番所、長屋が現存していますが、そのうち天守閣、大手一の門、大手二の門は国の重要文化財に指定されています。

お城の北側からお堀を渡ると、丸亀城の正門である大手二の門(高麗門)があり、その中に入ると、威厳のある大手一の門があります。この二つの門には、やはり重文に指定されるだけの歴史と風格を感じます。二つの門をくぐり、天主を目指して、さらに坂道を登って行くと、60mと日本一高く、扇の勾配といわれる美しい曲線を描く石垣を見ることができます。このお城の一番の見所は、どうもこの石垣の美しさにあるようです。

亀山の山頂まで登ると、丸亀城の天守閣があります。このお城の天守閣は、やや小ぶりながら、日本にたった12しかない現存する木造の天守閣の一つでもあります。この天守閣のある山頂には、かつてこのお城の本丸があり、隅櫓(すみやぐら)や多聞(たもん)、土塀、門などの建物があったと云われています。

さて、丸亀城の全域は亀山公園となっていて、市民に開放されています。広い公園には、散歩をしている老夫婦や愛犬の散歩をさせているご婦人など多くの人がいました。なかでも、公園を走っている高校生の数の多いこと。おそらく、お城の傍にある丸亀高校の生徒たちが一番多いんでしょうが、その他の学校の高校生や中学生などのランニング姿もたくさん見かけました。余談ですが、丸亀高校は、フジテレビの中野美奈子アナウンサーの母校なんですって。知ってました?ひとつ、勉強になりましたね!?

その中でも、陸上部かと思われる面々は、さすがにハードにやっていましたね。先ほどもご紹介したように、亀山の高さは標高で66メートルです。因みに、六本木ヒルズの森タワーの高さが地上54階で238mですから、換算するとだいたい15階くらいに相当するのでしょうか?そこを、その陸上部の面々は一気に駆け上がってくる。お城に上がる坂道ですから、結構、勾配がきついんですが、みなさんには出来ますか?

こう見えても僕は(というのは、昔の僕を知らない人は、今の僕を見て、通常「え~~?」というからです。)、中学校の頃は、陸上部だったんです。それも、みんな嫌がる中距離を主にやってたんです。ですから、学校の練習だけではなくて、家に帰ってからも、約3kmのランニングが毎日の日課でした。

ですから、腕に覚えありっていうやつですか、横目で、彼らの走る姿を見ていたら、その坂道にちょっと挑戦してみたくなったんです。勿論、全部走ってやろうってことじゃあないですが、靴も靴ですし・・・。それでも、一人で「よ~い。ドン」

さて、結果はどうだったでしょう?

昔取った杵柄?年寄りの冷や水?どうぞ、好きに言って下さい。あ~、それと、想像もしなくていいです。

(写真上は、大手二の門から内堀を望む)

(写真中は、大手一の門の威風)

(丸亀城の天守閣)

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2006年1月 7日 (土)

始動2006年、寒~い。

東京にいても寒いのに、なぜか今年の冬は寒いところでの仕事が多く、困ったものです。もしも許されるなら、冬は暖かいところでの仕事をやって、逆に夏は涼しいところでというのが、そりゃあ理想ですが、現実ではそのようなことは、ありえない!ですね。

新年になってからは、しばらく溜まり気味のオフィスワークをこなして、出張は早くとも3週目になってからスタートするゾ・・・と、自分なりに心に決めていたのですが、どうも、周りがそれを許してくれないみたいで、松の内もあけないうちからいいんかな?と思いつつ、1月5日から会津~栃木への旅に出る破目になりました。

そんなことで、本当は、暖かいところに行きたぁ~い!という心の叫びはあえなく無視されたのでありました。

さて、東京から会津若松までは新幹線と磐越西線を利用して、約3時間くらいですが、今年は特に雪がすごいので、時間通りに目的地に着けるかなということが一番の心配でした。案の定、新幹線に乗車した大宮駅では、雪の影響で秋田新幹線の盛岡と秋田間は運転を見合わせているというアナウンスがされていました。しかし、それ以外の区間では、平常通りの運行をしているとのことでしたので、とりあえず、「つばさ111号・Maxやまびこ111号」で郡山に向かいました。

ちょっと、余談を。

列車に乗るには、ホームで待たなければいけませんよね。首都圏のような接続がいいところなら、あまり気にならないかも知れませんが、地方に行くとこの待ち時間が、結構な長さになったりします。待合室なんかで体を温めていたとしても、寒いホームに出るととたんに、生理現象をもよおすことは誰もがあることでしょう。

今年の冬は特に冷えるせいか、(自分のスパンは結構長いほうだと思っていたのですが)、列車に乗る前と、降りたとき、そして、乗り換える前にもう一度など、どこかに着くたびに、トイレに行っといれ~って感じで、すごく頻度が高くなっています。こうも頻尿になると、歳も歳だけに、う!成人病か?と心配になったりして・・・。原因がギャグ同様「寒~い」というだけならいいのですがね。はい、余談おわり。

郡山で新幹線からJR磐越西線に乗り換えて、会津若松まで行くのですが、僕たちが、トイレに行っている隙に(というわけでもないのでしょうが)4両編成の電車は、ほぼ満席に近い状況になっていました。

しかし、なんとか座席を確保でき、荷物を網棚に上げてから、恒例の車内 watchingをしてみました。乗客には、郡山までお買い物に出てきたおばさま方やそのお孫さん(くらいかな?)の子供たち、高校生、中学生が大半を占め、その他は、猪苗代近辺のスキー場に行くのかなと思われるスノーボーダーのお兄さんたちもいました。

1両の車内をずっと見渡して見ましたが、僕たちのようにスーツにコート、それに普通のビジネスシューズという出で立ちの種族は誰もいなかった。まれに、地元のおじさんもいましたが、その装備は、ジャンパーにマフラー、作業用か何かのズボンを履いて、靴は長靴という雪国の装いをコーディネートするなら、こーでねーと(すいません)って語ってくれているようでした。

新幹線の車窓から眺めていたら、那須塩原くらいから、外は雪景色になっていました。しかし、新幹線から見えた風景など序の口で、磐越西線に入るといよいよ雪国にきたぞ~という感じになり、途中の猪苗代付近を電車が走っている時は、外は吹雪いており、仕事じゃなくて、スキー場にでもやってきたような錯覚を覚えました。

それでも、とにかく真っ白な世界の中を電車はひた走り、会津若松には5分ほどの遅れで、午後1時過ぎに到着しました。ちょうどお昼時になってはいましたが、この日は、お昼は後回しにして、まず相手先に向かうことにしました。

会津若松での仕事を終えて、食事をどこで取ろうかという話になったとき、今回の旅の相方から喜多方でラーメンが食べたいという提案があった。それで、経路探索ソフトで調べてみたら、行けないことはないと分かった。しかし、列車の本数が少ないために、片道15分ほどのところを、往復すると1時間20分もかかることが判明し、さらに、41分と極めて短時間しか滞在できない中で、お店を探したりする時間まで取れるかどうかさえも危うかったので、喜多方ラーメンはまたの機会にということにしました。(行っていれば、駄洒落がもうひとつくらい増えたかも?)

話を少し変えます。皆さんはこんなことを思ったことはありませんか?それは、何か地元の名物なんかを食べに行くとします。すごく期待していたお店で、期待のものをラッキーにも食べられました。でも、あれ、こんなもの?って思うことはありませんか?その反面、偶然入った、全く期待していないお店での料理が結構ウマかったりとか・・・。

余り、期待が大きすぎると、それが外れた時の失望も大きいものですし、グルメ情報誌なんかが流す、これがイチ押しなんて情報は、僕はあまり信用しないようにしています。だって、味の感じ方なんかは十人十色でしょう?万民が美味しいと感じる料理なんてありえないわけですから。

そんなこんなで、喜多方ラーメンを諦めて、会津若松市内の「ラーメン 関さん」というお店で、もやしラーメンをいただいたのですが、少し太めの縮れ麺としょうゆベースのスープにもやしをはじめとする野菜の甘みが溶け込んでいて、それは美味しかった。特に期待して入ったお店ではなかったのですが、結構イケました。(お昼をとった時間が遅くて、お腹が空いていたことと、寒い中を歩き回った後に、温かいものを食べたからという点を差し引いても)

喜多方まで足を伸ばさなかったので、帰りの電車まで若干時間がありました。それで、鶴ヶ城に行ってみることにしました。僕としては、二十余年ぶり2回目となりますが、雪の季節に訪れるのは初めてでした。

鶴ヶ城は、会津の領主であった葦名氏が原型を築いたという黒川城に、後の文禄二年、蒲生氏郷が天守閣などを築いて、本格的なお城となりましたが、このときに、鶴ヶ城と改名されたと伝えられています。しかし、鶴ヶ城のハイライトは、やはり戊辰戦争の時代ではないでしょうか。

幕府軍と政府軍との激しい戦いが、会津城下で行われていましたが、城下町は戦火につつまれるも、鶴ヶ城は1ヶ月に及ぶ籠城戦に耐え抜いたと伝えられています。

このとき、天守閣が黒煙あげているという光景を飯盛山から見て、もう城に戻ることはできないと落胆した白虎隊士たちがお城を眺めながら静かに自刃して果てたという悲しい物語が伝えられていますが、その舞台のひとつがこのお城なのです。

冬の季節で、訪れる人も少ない鶴ヶ城は、純粋、無垢な少年兵たちの心と同じくらい白い雪に覆われ、哀しいほど静寂な空気が漂っていました。

(写真は、雪の鶴ヶ城)

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2005年12月29日 (木)

今年もいろいろ・・・ その3

函館の巨大クリスマスツリー

今年最後の旅は、室蘭で終わりました。

しかし、仕事自体は、ほぼ室蘭市内でスケジュールをこなしたものの、ホテルの予約がうまくいかず、1泊目が苫小牧になったり、先方の都合により、2日目も急遽、札幌で泊まらなくてはいけなくなったりで、室蘭本線を行ったり来たりウロウロしていました。

また、移動に時間を取られたことと、強い寒波のためにずっと雪が降り続いていたという事情もあり、室蘭では仕事以外のことは何もできませんでした。ですから、今年最終の旅へのコメントは、12月16日の「Sキップフォー!」に書いたもので代えさせていいただきたいと存じます。

ということで、12月の旅のアラカルトも今回が最終回になります。今年もいろいろ・・・第3回のテーマは、「函館ベイエリアの夜」の巻。

12月は、クリスマスシーズンということで、イルミネーションのイベントは各地であります。北海道でいえば、札幌のホワイトイルミネーションが歴史も規模の面でも、最もメジャーだと思いますが、ベイエリアをロマンチックに彩る函館の「はこだてクリスマスファンタジー」もなかなかのものがあります。ホワイトイルミネーションが、観光客や市民など対象を特定しないイベントと思えるのに対して、クリスマスファンタジーの方は、カップル向けというかしっぽりとぬれたい層むけのイベントかなと思うのは僕だけ?でしょうか。

さて、はこだてクリスマスファンタジーは、冬場の観光客の誘致を図るために、今から8年前に函館市民の有志が始めたものだそうです。函館市の姉妹都市であるカナダのハリファックス市からもみの木を贈ってもらい、2万個の電飾で巨大なクリスマスツリーにして、会場の金森倉庫群の前の海に浮かべていますが、このツリーがイベントのメインホストの役をつとめています。

12月8日、僕は、そこにいました。

エキゾチックなベイエリアに輝くクリスマスツリー、赤レンガの倉庫そして、白い雪。ファンタジックでロマンチックな夜を過ごせる最高のシチュエーションなのに、なぜか男二人(仕事で行ったのだから、しょうがないですけど・・・)こういう場所に似合うのは、妙齢の女性と二人でデート・・・っていう感じでしょう。やっぱり。

てなことで、なんか場違いというか、ちょっと違うだろう~みたいな感じでしたので、早々に引き上げて、「はこだてビール」という地ビールレストランで、シーフードやポテトをつまみに4種類ある地ビールを片っ端から飲んでいくという、オジさんらしい夜の過ごし方にすぐ軌道修正しました。

このレストランの地ビールは美味しいし、食べ物もまずまず、レンガ造りのお店は夜はライトアップされ、なかなかいいカンジのお店なのですが、気になったことがひとつ。それは、

このお店の1階には、グランドピアノが置いてあり、毎晩2回のステージが楽しめます。僕たちが行ったときも、きれいなお姉さまがピアノの弾き語りで、J-popやジャズを聞かせてくれました。でも、ちょっと、音はずすのが多かったんじゃないでしょうか。それと、リズム感もイマイチかなぁ・・・。お顔は可愛らしいのですから、もうちょっと、ピアノ練習しよう。(確かに、酔っ払い相手じゃ、乗らないかも知れないけど。一応、ステージ務めるんだったら、ね。)以上です。

因みに、「はこだてクリスマスファンタジー」イベントスケジュールなどは以下のとおり。(尚、2005年のイベントは既に終了しています)

・開催日:2005年12月1日(木)~12月25日(日)
・時 間:16:30~17:45、18:00~26:00(金、土は翌朝7:00まで)
・会 場:赤レンガ倉庫群前の海上

(写真は、海に浮かぶ巨大クリスマスツリー)

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2005年12月28日 (水)

今年もいろいろ・・・ その2

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去年の12月は、福岡とか松山とか西日本での仕事が多かった。それに比べて、今年は北海道詰めというか、11月から12月にかけて、一度京都に行った以外は、全て北海道のどこかで仕事をしていました。

11月に3度で合計9日、12月も2度で合計6日も滞在していたということになります。別に北海道が好きじゃないということを申し上げている訳ではないのですが、ここまで重なるとですねぇ・・・。やっぱ、他のところにも行ってみたくなりますよね。なにせ、今年の冬は寒いですから。

さて、今年のまとめをという趣旨で書いている訳ですから、さっさとそちらの方に話を移しましょう。今年もいろいろ・・・第2回目のテーマは、「大沼公園。寒いぜ!」の巻。

12月の7日(水)~9日(金)は、今年3度目の函館への旅でした。このとき一緒に仕事をした同僚は、函館が初めてだと言うことでしたので、夜景を見るために、このときも函館山に登りました。今年3度目になりましたが・・・。(ということで、今回はコメントなしです)

それはさておいて、今回の訪問先は、JR線の駅名で言えば渡島大野(おしまおおの)の近くでしたので、アポの時間までの間を利用して、大沼公園に行くことができました。

大沼周辺は、全国でも最も古い自然公園の1つで、昭和33年に国定公園の指定を受けています。大沼公園には駒ヶ岳の噴火によって堰きとめられてできた大沼湖(5.12km2)をはじめとして、小沼(3.8km2)、じゅんさい沼(0.75km2)の3つの湖があり、秀麗な駒ケ岳とともに、美しい景観を誇っています。

大沼公園には、約30年ぶりくらいの再会になります。以前訪問した時は、確か夏でしたね。大沼公園駅近くの貸自転車屋さんで自転車を借りて、大沼を1週してきたことを思い出します。まだまだエネルギーがあり余っていた頃だし、体も現在と比べようもないくらい軽量だったので、夏の風を切って、びゅんびゅん自転車を飛ばしたのを覚えています。ですから、一周それほど時間も食わずに戻ってこれたかと思いますが、30年も前の話ですから、どのくらいの時間で戻ってきたか、定かではありません。

それに比べて、12月の大沼公園では、湖面は薄っすらと結氷し、湖畔には雪も残っていました。湖の周りの木々たちも、僅かな黄葉を除けば、木の葉を全て落として凍えているように見えました。人影も殆どなく、寂寞とした風景がそこに広がっているという感じでした。こういう風景が好きだと言う人もいるかもしれませんが、大沼公園は、やっぱり夏かな。それも初夏の頃しょうかねぇ、一番いい季節(とき)は。僕はそう思うのです。

(写真は、冬の大沼公園)

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2005年12月27日 (火)

今年もいろいろ・・・ その1

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えー、前回の原稿を書いて、また10日以上も過ぎてしまいました。本当に年の瀬は慌ただしく過ぎていきます。

もう少しこまめに書いていれば、11月に続いて、12月も2週連続となった北海道ツアーのことなどをしたためて、その後に「今年1年を振り返って・・・」といきたいところですが、なにせそのような余裕がないままに、こと此処に及んでしまったものですから、12月のまとめ兼今年のまとめという感じで今日からは(年末に向けて、少しまめに)書いてみようと思います。

まず、12月の旅のアラカルトから。今年もいろいろ・・・第1回目のテーマは、「東福寺、おぬしなかなかやるな」の巻。

12月4日に京都を訪れたということは、「名残りの秋と嵯峨野の龍」のところで書いておきました。その翌日は、もちろん仕事ではあったのですが、相手方の都合で始動が早かったということもあり、東京への帰りがてら、東福寺に行くことができました。(写真上は、東福寺の開山堂)

東福寺は、京都五山の一つに数えられる大寺院で、臨済宗東福寺派の総本山です。摂政九条道家が奈良で隆盛を誇っていた興福寺になぞらえようとの願いから「東」と「福」の字を取り、当時では京都最大の大伽藍をもつ東福寺が建てられました。完成までには、嘉禎2年(1236)から19年の歳月を要したとのことです。

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この東福寺は、京都でも有数の紅葉のスポットでもあるのです。そのなかでも、洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる深い渓谷(三ノ橋川)の紅葉を臥雲橋(がうんきょう)から通天橋(つうてんきょう)を望みながら(写真下)っていうのが、東福寺の紅葉のベストアングルなんだそうです。観光客を引き連れてきたバスガイドさんがそう言っていましたので、間違いない!でしょう。

ただ、僕が訪れた12月5日時点では、ここの紅葉はちょっとピークを過ぎちゃったかなぁ~という感じでした。その分、観光客の数が少なくて良かったとか、余り人が多いと臥雲橋のような木造の古い橋は、観光客の重みで落ちるんじゃあないかなんていう人もいましたので、紅葉のピーク時の賑わいがなんとなく分かります。それでも、また、そのピーク時に是非来てみたいと思わせる東福寺でありました。

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2005年12月16日 (金)

Sキップフォーッ!

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お笑いコンビのレイザーラモン(住谷と出渕)の住谷が、彼がデザインしたというハードゲイのコスチュームに身を包み、レイザーラモンHGとして、単独であちこちのメディアに出没。振り過ぎで腰を痛めるくらい、腰を振り振り「フォーッ!」(正確にはにはフゥー!!らしいが)とやったものだから、これが大受け。小学生まで腰振りを真似てやるもんだから、親に頭をはたかれるケースが続出しているらしいというのを何かの番組でやっていた。

その勢いで、今年の新語・流行語大賞のトップテンにも入ったし、11月の気になる言葉ランキングでは堂々の2位になっている。たいしたゲイ、いや芸ではないのだが、普通の言葉の後にくっつけて「フォーッ!」とやるだけで、どうも笑ってしまう。多分、すぐ飽きられるだろうと思っていたのだが、どうしてどうして、このまま年を越してもまだ生き残っていそうな感じですねぇ。

といっても、僕のブログで別にレイザーラモンの特集をやるわけではなくて、いかに彼のゲイ、いや芸が世の中に浸透してしまったのかという事例を厳寒の北海道で見つけたのです。

12月16日の木曜日の夕刻、北海道ツアーの最終回になるであろう今回のひとつの目的地、洞爺駅に降りました。北海道の中でも雪が少ない言われている苫小牧から西の太平洋側に位置するこの地域においても、今年一番の寒波の影響なんでしょうか、マジかよ!」というくらい雪が積もっていました。

それでもなんとか仕事を終えて、洞爺駅まで戻ってきたら、なんと駅の営業が終わっていた。というとなんのことやら?と思われるでしょうからもう少し説明すると、駅にある切符売り場やレンタカー店、キオスクなどすべての店が閉まっており、おまけに暖房から切り替わって、冷房が入っていた。(ま、シャレです。シャレ。つまり暖房が切られていたということです。)

列車の時間までは1時間以上もあって、することはないし、待合室に人はいないし、寒いし、切符は列車の中で買えと書いてあるし、そんな環境にちょっと途方に暮れ気味だったのですが、目にとまったJR北海道の1枚の広告が気分を変えてくれました。それがS切符フォー!だったんです。これのおかげで暖房などなくても(外は氷点下3度だったけど)僕の気持ちが少し暖かくなりました。

もちろん、これはレイザーラモンの「フォーッ!」とは関係ないものだと思いますが、それを見る方にそう思わせてしまう「フォーッ!」の勢いを感じずにはいられませんでした。

え!何?そう思うのは、オマエだけだって?そうかなぁ~。このネーミングをされたJR北海道の社員のどなたか、なかなかgoodでしたねぇ。また、このネーミングで承認した上司の方も先見の明がありましたね。(ちょっと、むちゃくちゃにまとめ過ぎかな~)

JR北海道の「自由席往復割引キップ」Sキップというのですが、これが4枚つづりになって、さらにお得に!(基本的には数百円ですけど)・・・。これが、Sキップフォーなのです。

皆様のご利用お待ちしております。(なんて、JR北海道のCMみたいですが、そういうわけではありませんので、念のため)

それでは、皆さんご一緒に。Sキップフォーッ!!

(写真は、洞爺駅にあるSキップ、Sキップフォーの広告)

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2005年12月 4日 (日)

名残りの秋と嵯峨野の龍

常寂光寺の紅葉

師走になって、やはり冬らしくなってきたというか、しばらく北海道に通いづめとなっていた僕でさえ、本州も寒くなったなと感じるこのごろです。

本当は、11月の26~7日頃に行ければなぁと思っていたのですが、今回の仕事のスケジューが、12月5日(月)の午前中にセッティングされたため、タイミングとしては1週間遅れとなってしまいましたが、晩秋というか初冬というのか微妙な季節の京都を訪ねてきました。もう、紅葉はダメかなぁと思いながら・・・。

今まで、紅葉のシーズンに京都を訪れたことのない僕にとって今回の行き先を決めるのは一思案でした。京都の紅葉は、たぶん、どの地区の有名なスポットに行っても、どこもすばらしいと思うのですが、前回、9月に東山あたりを歩いたということもあって、今回は嵯峨野近辺に行ってみることにしました。

渡月橋

■紅葉の彼方に見える渡月橋

JR京都駅からJR嵯峨野線(山陰線)に乗って、嵯峨嵐山駅で下車。駅前のくねった道を道なりに進み、川べりの道に出てそれを右に進むと、嵐橋とも呼ばれる渡月橋が見えます。この橋は平安時代の始めの承和3年(836)に空海の弟子、道昌が大堰川を修築したときに架橋されたものと云われています。

この日は、生憎の雨混じりのお天気にもかかわらず、多くの観光客が訪れており、渡月橋から京福嵐山駅あたりまでは、夏の旧軽井沢のように人で溢れていました。

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■天龍寺

渡月橋から10分程あるいて、天龍寺へ。ここ天龍寺は、京都府のH.P.によると、

嵐山を代表する京都五山の一位として栄えた名刹。後嵯峨天皇の亀山離宮があったところに、暦応2(1339)年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として創建した禅寺。

方丈裏の庭園(史跡・特別名勝)は往時の面影を今に伝えている。嵐山、亀山を借景とした池泉回遊式庭園で、貴族文化の伝統と禅好みの手法が溶け合い、四季折々の美しさを見せる。

大方丈から曹源池を望むと、それはそれは、見事な日本庭園です。春は桜、初夏はツツジ、秋は紅葉の名所として有名です。また、天龍寺は京都に17箇所ある世界遺産の一つでもあるのです。

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■天龍寺の雲龍図

天龍寺の朱印所を入ると、すぐ左に法堂という伽藍がありその天井には龍の図が描かれています。現在の龍は、日本画家加山又造画伯による渾身の作品で、この雲龍図は平成9年に完成したものです。それまでは、鈴木松年という日本画家が明治期に描いた雲龍図が描かれていたそうです。

ここの龍は、五爪(ごつめ)の龍なんだそうです。僕もなんのことやらよく分からなかったのですが、ここのお坊さんが迫力たっぷりに説教?いや、説法してくださいました。

龍の爪の数は、その龍の位をあらわすそうな。つまり、爪の数が多ければ多いほど位が高いということだそうです。龍を生み出した国、中国においては、龍はパワーと権力の象徴をあらわすのだそうで、その中でも五爪というのは最高ランクの権力をもつもの、即ち、皇帝をあらわすということらしいのです。

このため、一般の人が五爪の龍を描いたり持ったりすることは禁じられているそうで、間違って描いたりすると、罪になったそうなのです。ですから、日本で五爪の龍が描かれているのは、この天龍寺ともう一箇所しかないそうです。

このお坊さんが、説明している時に、「中国から日本に龍が伝えられた時、龍の爪は何本だったか?」と、いきなりの質問が僕に飛んできました。突然、指差されて訳がわからず、

え?4本?」と答えたら、お坊さんはでかい声で、「違う!

そして、隣にいた同僚に「何本? 

流石に同僚は関西人、その答えは「日本だから二本・・・

お坊さんは、「おもろいやんけ、でも、違う!!」と、次の人に振りました。

まぁ、答えは3本ということで、日本の各地で描かれている龍は3本爪が一番多いそうです。もし、龍に興味のある人は、こんなところもチェックしてご覧になってはいかがでしょう。

この龍は、八方睨みの龍として描かれており、龍の顔を見ながら円に沿って、堂内を歩いて回ると、驚いたことに、な、なんと龍の顔が動くのです!最初は左を向いていた龍が、こちらが左に回り込むと、正面に向き、さらにこちらが左に動くと右を睨むのです。それも、平面に書かれている龍がですよ。いやいや、すごいです。

これは、拝観料500円を払ってでも、一見の価値はあると思いますが、いつでも見られると言うわけではないそうです。たまたま今回は、12月5日までが特別拝観の期間であり、現物を見ることができました。(雲龍図は撮影禁止につき、上の写真はパンフレットの写真です)

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■孟宗竹の続く小道に幽かな光が差込む

京福電鉄側のご朱印所の反対側にあるもうひとつのご朱印所から、天龍寺の外へ出ると、孟宗竹の林の中に小道が続きます。この小道を歩くと、それまでの赤や黄色の世界から、青々とした竹林と木漏れ日の織り成す神秘的な空間へいざない、趣を変えて日本の美に浸ることができます。

常寂光寺

■常寂光寺

大河内山荘を左手に見ながら竹林の小道を進み、途中で山陰線の踏切をまたいで、十数分くらい歩くと次の目的地常寂光寺に着きました。

小倉山の中腹にある常寂光寺は、藤原定家の山荘、時雨亭があったところと云われています。本圀寺から移築された仁王門は南北朝時代の萱葺きの門として有名です。紅葉の名所でもあるこのお寺の楓におおわれた石段を上がると、伏見城の客殿を移築した本堂、その背後に美しい多宝塔が建っています。石段は、表面が土なので、地面に水溜りがたくさんできていて、歩くのに一苦労でしたが、ここにはまだ、みごとな紅葉が残っていました。また、地面に落ちた紅葉はまるで、赤い絨毯を一面に敷きつめたような風情でした。

祇王寺

■祇王寺

常寂光寺の後は、祇王寺を訪ねました。「平家物語」ゆかりのこのお寺は、平清盛の寵愛を失った祇王が母や妹とともに尼になり、隠棲したところだと伝えられています。このお寺の本堂には大日如来のほか、祇王・祇女・刀自・仏御前・清盛の像が安置されていて、境内には祇王・祇女・刀自を合葬したと伝わる印塔があります。

ここ祇王寺に着いたとき、しばらく止んでいた雨がまた降りだしました。しかしながら、コーヒーのコマーシャルに使われている丸窓から眺める雨の風情もなかなかのものでした。

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■落柿舎

祇王寺からの帰り道、松尾芭蕉の門人だった向井去来の閑居跡である落柿舎の前に行ってみました。たまたま来ていた人力車のお兄さんの説明を聞いていたら、落柿舎前の畑は、景観を残すために京都府が買い取ったそうで、これから何十年先になっても、同じ風景を見ることができるのだそうです。さすが、国際観光都市、京都ですね。

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■京都タワー

落柿舎から、縁結びの神様である野宮神社の前を通って、再び竹の小道の中を帰路につきました。京福電鉄嵐山駅のホームには足湯があり、氷雨で冷え切った足を暖めたいという気分でしたが、時間も時間でしたので、今日の(京のか?)ディナーを予定している河原町に急ぐことにしました。

河原町で食事の後、市バスで京都駅まで戻ってきました。駅に向かって歩いていたところ、高層となった京都駅の駅ビルのガラスに京都タワーが写っていることに気がつきました。

昭和39年に建てられた京都タワーは、確かに京都のランドマークと言っても過言ではないものでした。京都駅が高層化する前までは、列車が京都駅に着くと、その存在感を充分に示していたように思います。

しかし、現在ではJR線はおろか新幹線のホームからでさえ見えなくなってしまいました。学生時代など、岡山と東京を新幹線でしょっちゅう往復していた僕にとって、新幹線の窓から京都タワーを仰いで、あぁ、だいぶ帰ってきたなぁ・・・とか、また東京に戻っていくんだなぁという感慨に浸ったものでした。

高層ビルになった京都駅には、ホテルやいろいろなお店なども入り、それはそれで便利になったのでしょう。でもね、やっぱり京都駅に着くと京都タワーを探してしまうのです。僕にとっての京都駅には、今でも京都タワーがそびえているのです。

(写真先頭は、常寂光寺の紅葉)

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2005年11月19日 (土)

プロペラ機に乗って

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11月17日は、当初予定になく、急遽セットされた函館でのスケジュールをこなすため、札幌郊外の丘珠空港に向かいました。

丘珠空港は、そもそもは陸上自衛隊の基地として使用されていて、それを民間と共用しているという形態となっています。滑走路としては、1500mのものを備えていて、ここから釧路空港や女満別空港など北海道内の各空港への定期便が発着しており、道内の空の拠点となっています。

函館に行くのなら、JRの特急を使っても所要時間は3時間余りだし、コストもJRの方がかなり安いのですが、今回は先方の都合もあり、コストよりも時間の方を優先して、丘珠空港から空路を使うことにしました。

札幌駅前から、連絡バスに乗って25分ほどで丘珠空港に到着しました。搭乗手続きを済ませると、2階にある待合室へから、階段を下りて駐機場へ案内されました。これから搭乗しようという飛行機と、ここで初(はつ)対面。

ほぅ、プロペラ機か・・・。久しぶりだなぁ

プロペラ機に乗るのは、多分18年くらい前に羽田空港から国産旅客機の最高傑作といわれるYS11に乗って以来になるのではないでしょうか。YS11に乗った時は、余り飛行機慣れもしていなかったし、その時の気流の関係なのかかなり揺れて、一時はエアポケットに入ったのではないかというくらい(今から考えるとそんなにひどくはなかったのかも知れないが・・・)機体が、ガクンと下降したことがあり、その時の恐怖体験がよみがえってきて、おいおい大丈夫かよ・・・という感じでした。

今回搭乗したのは、DHC8-Q300というプロペラ機で、定員56名の小型機です。エンジンが始動すると、まるで大型扇風機のようなブーンとという音が響いてきます。プロペラの力はどうなのかなと思っていたのですが、思いのほか推進力も強く、空中に向けてグッという感じで引き上げられました。離陸の瞬間は、ジェット機よりも飛行機らしいという様に感じました。

離陸して窓から景色を見ていたら、高度もせいぜい4000mくらいと低空を飛行しているせいもあるのか、まるで遊覧飛行のような感じです。この日、札幌の中心部には雪がなかったものの、丘珠空港の周りの家々の屋根にはうっすらと雪が積もり、まるでパズルの如くモノトーンの世界が広がっていました。

しばらくすると、支笏湖上空に差しかかりました。このあたりを見下ろして思ったことは、北海道は平坦な原野が多く、山なんかは少ないのでは?というイメージを持っていたのですが、こうして上空から見てみると、北海道も結構、丘や山が多いんだなという事が分ります。

丘珠空港を離陸して20分ほどすると、飛行機は機首を西に向け、太平洋岸に沿って進んでいきます。この日は気流もさほど良くなかったのでしょうか、シートベルトのサインが消えるまで、離陸後20分ほど要しました。このため、C.A.による機内サービスも殆どないまま、25分ほど経過した時点で着陸体制に入ったというアナウンスがあり、実質のフライトは40分~45分ほどで、函館空港に到着しました。

(写真上は、丘珠空港)

(写真下は、丘珠~函館便のDHC8-Q300)

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2005年11月18日 (金)

ホワイトイルミネーションまであと少しだった・・・

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先々週からの北海道3週連続出張もいよいよ最終週とを迎えました。11月16日から3日間で札幌から函館を経由して最終日は室蘭に至るというルートです。室蘭からの帰路は、普通なら新千歳空港まで戻り、そこから飛行機でというのが一般的かと思いますが、いつも飛行機では芸がないので、別ルートで帰ることを計画しています。(これについては、乞うご期待)

11月16日、ANA63便で再び北海道へ飛びました。今回の最初の目的地は札幌です。3週間も連続して北海道に通っていると、何か通勤というか単身赴任で週末に自宅に帰り、週明けに職場に復帰するという感じに近くなるというか、僕たちにしても、余り北海道出張という機会はないので、普通ならすこしワクワクしたりするところですが、こうも立て続けでは感動も何もあったもんじゃないってのが正直なところでしょうか・・・。そんなことなどを考えているうちに僅か1時間半ほどで、北の玄関口といわれる新千歳空港に到着しました。新千歳空港からは、いつものように快速エアポートで札幌に。「雪はどうかなぁ?」とちょっと心配ではありました。写真上は、新千歳空港に着いたANA63便)

札幌に着いて、快速エアポートを降りたときに、すぐ感じたことは「やっぱり、ちょっと寒いな」でした。前回の帯広出張の時までは、コートはちょっと邪魔かなと思ったときもあったのですが、今回は持ってきて、もちろん「正解!」でした。札幌駅の南口に出て見たところ、雪はなく、靴がいわゆるビジネスシューズだった僕にとっては、一安心というところでした。

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今回の札幌は、滞在時間が短く、待ち時間などを利用して、どこか観光スポットに行って見るという時間はありません。しかし、さすがに札幌は街中にもたくさんの観光地があります。例えば、約250万個もの赤レンガで積み上げられた美しい洋風建築で、“赤れんが庁舎”として親しまれている「北海道庁旧本庁舎」(写真)。 観光客ならば、じっくり観光していきたいというスポットの一つでしょうが、今回は、訪問先に行く途中に敷地内を横切って、通過しただけでした。しかし、寒いのに多くの観光客の方がたむろしていましたね。ホントにご苦労様です。

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一仕事終えた帰りがてら、大通公園にでてみました。11月も半ばを過ぎるといよいよホワイトイルミネーションのシーズンですが、今回の僕のスケジュールでは、ほんの少し早すぎたようで、残念ながら37万個の電飾が彩る真冬のファンタジーを見ることは出来ませんでした。しかし、一部のシンボルオブジェは準備のために点灯されていて、すこし本番の雰囲気を味わうことができました。また、ちょうどこの日は満月の夜でもあったので、しんと冷えた空気の中、テレビ塔のかなたにも丸い月がかかってロマンチックな夜を演出していました。(写真は、ライラックのシンボルオブジェとさっぽろテレビ塔、テレビ塔の中段の明りは満月)

ちなみに、さっぽろホワイトイルミネーションのイベントスケジュールなどは以下の通り。

大通会場 (大通公園西1丁目~西8丁目)
  2005年(平成17年)11月18日(金)~2006年1月4日(水)

駅前通会場 (札幌駅前通北4条~南4条)
  2005年(平成17年)11月18日(金)~2006年2月12日(日)

※点灯時間は16:00~22:00まで、12月23日(祝・金)~25日(日)と大晦日の12月31日(土)は24:00まで延長して点灯されます。

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さて、札幌の夜は、恒例の元同僚との旧交をあたためる会(まぁ、単なる飲み会ですが・・・。詳細は、2005年8月5日の「友遠方より来る~札幌編」をご覧下さい。)を約半年ぶりに開催。前回でさんざん飲み過ぎたせいか、それとも年齢のせいなのか?というか、週の真中ということもあって、そんなことから少しセーブしながら、北海道の地物を肴にお酒を酌み交わしたのでありました。しかし、帰り際に札幌時計台(写真)を見ると、深夜12時前でした。おっと、早くねぐらに戻らねば、魔法がとけてしまう!(なんのこっちゃ!、阿保がボケてしまうってこと?)

明日は、函館に移動です。

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2005年11月10日 (木)

BANG!BANG!バカか?

十勝連山

今日は朝からず~っとドライブの1日でした。

帯広から、クルマでいくつかの町に行ってきました。とにかくこのあたりの道は、直線区間がとても多く、交通量がマジで少ない。まっすぐな道が遥かかなたまで続いて、場所によっては、道路から立ち上る気流の影響(?)で、路上の景色が歪んで見えるほど。

朝、8時半の気温は2度。初冬の冷涼な空気を切り裂いて、アクセルを踏み込む。前を走るクルマも見えないが、すれ違うクルマも稀だ。ふらふらと走る自転車の姿もなければ、歩行者の影もない。

今から24年前の薬師丸ひろ子主演の映画ではないが、快感!でした。

クルマをぶっ飛ばして、ストレスをぶっ壊すって感じでだんだん楽しくなってきました。このとき、偶然にもFMから流れてきた、SMAPの「BANG!BANG!バカンス」を一緒になって、大声で歌ってしまった。夏でもないのに・・・。

バカンスって言葉の半分は、バカン、バカン、バカン

どうせバカなら元気なバカがいい~  うぉぅ~~

バカですね。

計画通りなんか進まない それがバカのバカンス

ウチにつくまで元気なバカがいい~  うぉぉ~お~

あ~、すっきりした。

ハイテンションと暖房があいまって、暑くなってきたので、窓を全開に。冷た~い空気が入ってきたけれど、これくらいがちょうど気持ちいい。遥かかなたに目をやると、昨日の寒波で雪化粧をしたのか、十勝連山が青白くかすんで見えた。

心が洗われるようじゃ~ (半壊)

でも、確かこれから仕事なんだよね? 

残念!

(写真は、雪化粧した十勝連山を望む)

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2005年11月 8日 (火)

晩秋の北海道を行く 網走編

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先週からの北海道3週連続出張も中日(中週?)というのか中盤戦というのか、まぁ、とにかく第2週に入りました。前回、ここから帰路についたからという訳ではありませんが、今週のスタート地点は、女満別空港(写真)です。

羽田空港発午前10時25分発のJAL1183便は、前回の帰路の便と同路線とは思えないくらいほぼ満席の状況でした。この日も天候に恵まれて、たいした揺れも無く、定刻で女満別空港に降りました。

今日の天気は快晴、陽射しが強く、眩しい。空には、殆ど雲がなかった。気温はといえば、おそらく15度くらいはあったのではないでしょうか、全く寒くない。コートは持ってきましたが、このときは、邪魔くさ・・・という感じで、重装備してきた自分がアホみたいでした。

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女満別空港からは、バスで網走に向かいました。網走行きのバス(写真)は8名の乗客を乗せ、国道39号線に沿って、途中には秋化粧も終わり冬支度を急ぐ網走湖を左手に見ながら走ります。約25分で今日の目的地の網走駅に着きました。因みに網走駅までの運賃は、880円でした。

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網走駅(写真)には、午後1時前くらいにつきましたが、そのときの気温は17度だった。こりゃぁ、すがすがしくていいなと思ったので、駅の観光案内所に行って、自転車を貸してくれるところはないかと聞いてみた。しかし、返事は「すみません。9月で終わってますけど・・・」とつれない。しかし、まぁ、もう雪が降ろうかという時期に、自転車もなかろう・・・と、それは理解しました。

仕事を終えて、今日の宿泊地である北見に移動するため、網走駅に戻ってきました。駅の時刻表を見ると、なんと午後3時台に出発する列車は1本もない。一番、早くて午後4時28分、次の特急オホーツク8号にいたっては午後5時19分でありました。

網走刑務所

駅で、じっとしていても仕方がないので、観光案内所でもらった市内案内図を見ていた。そこで、思ったことは、網走といえば、やっぱ、刑務所かなぁ・・・。

幸いなことに、駅から2kmと近いので、タクシーで行ってみました。タクシーの運転手さんに、「刑務所まで」と言ったら、「お客さん面会ですか?」と聞かれた。「え?ああ、いや、観光ですけど・・・。」とちょっと言いよどんでしまった。

運転手さんが、僕に聞いた意図は、つまり、観光ならば刑務所前の網走川にかかる鏡橋の手前までしか行けないが、刑務所で仕事をしていたり、面会の用事がある場合は、刑務所の正門の中まで、車で行けるそうなのです。

鏡橋にタクシーが着いたら、運転手さんが、「どうします?車、待ってましょうか?」と聞くので、「いやあ、時間もかかるでしょうから・・・」と答えると、「どうせ、門の前で写真とってくるだけでしょ。他は何もありませんから・・・」「そうか、そう言えば、確かに網走監獄の博物館は、別にありましたもんね」ということで、タクシーを待たせて、鏡橋を渡って、刑務所の正門の方に、歩いて行ってみました。

網走刑務所(写真)が有名になったのは、なんといっても、健さんの功績ではないかと思います。昭和40年から10作を数えた映画「網走番外地」は、主演の高倉健の代表作でもあります。最果ての地の刑務所、脱獄、追跡、男たちのドラマ、やはりこの映画は高倉健なしでは語れません。

この映画の影響からでしょうか、網走刑務所というと常習犯や凶悪犯など、二度と出獄できないような重罪犯しか入っていないのではないかと思われがちですが、現在では、刑期2~3年の者が主だそうです。

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写真を撮って、再び鏡橋を渡っていたら、網走川を渡る風が急に冷たくなったように感じた。実際、このあとに網走市街のほうにぶらぶらと歩いて行ってみたのだが、網走市民会館前の温時計(写真)は、8.8度を表示していた。こちらの方も、そろそろ今日あたり雪がくるかなぁと話していた。

しかしまぁ、2時間で気温が一気に10度近くも下がるんですよ。東京あたりじゃ、ありえないでしょう。これは、オホーツクからの冷たい海風が影響しているらしい。4年前の夏に来たときも同じような経験をしたことがあったのを思い出しました。そのときは、どうして、クーラーの風を外でも、それもこんなに広範囲に感じるのだろう?と思ったほどでした。

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列車に乗り込む前に、網走川沿い(写真)少し歩いてみました。もう冬が近いからか、それとも何十年も以前にあったような活気が薄れたのか、そのあたりはよく分かりませんが、街全体が沈滞しているようにみえ、ちょっと寂しいかなぁ・・・。

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北見から特急オホーツクに乗って、北見駅についたときは、既にとっぷりと日が暮れていて、ここではじめて、やっぱりコート持って来て良かったなぁという実感に浸りました。(写真は、夜の北見駅)

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2005年11月 6日 (日)

Holiday in Hokkaido その2

阿寒湖

-前回からの続き-

なにしろ、帰りの飛行機の時間も気にしながら動かないといけないですから、途中どうしようかなぁと思案を巡らせました。女満別空港から羽田までは1日4便しかなく、残る便は午後3時30分発と最終便の午後8時25分発の2つです。

午後3時30分発だと午後2時20分には、北見駅の隣にある東急百貨店の裏手にあるバスターミナルにいなければならず、逆算していくと、多分、摩周湖までは行けるし、なんとか北見までも戻れそうですが、ただ、ホントに行って帰るだけのトンボ帰りの行程となってしまうかなぁ・・・と考えて、最終便で帰ることに腹を固めました。それなら、当初、予定には入れていなかった阿寒湖までも足が伸ばせるだろうとも考えて・・・。

屈斜路湖の展望台から下りて、さらに国道243号線を弟子屈に向かうと、途中でたった1箇所、左折しただけで、阿寒湖の第一展望台の駐車場に着きました。駐車場入口というのが目に入りましたので、そちらに行ってみましたら、車を止めるのに410円かかるとのこと。ちょっと停めるだけなのに410円は高いなぁとは思いましたけれど・・・。

駐車場から少し土手を上がらないと、摩周湖は見えません。それで、早速、駆け上ってみました。

摩周湖の絶景!が目の前に広がりました。

摩周湖

摩周湖を訪れたのは、もちろん、初めてではありません。ですが、何度訪れても、この自然の美しさには感動させられます。摩周湖は、霧につつまれることで有名ですが、霧で湖面が見えなかったという経験は、幸か不幸か僕には一度もないのです。それも、今回以前(3回くらいかな?)の訪問は全て、霧の出やすい夏季であったにもかかわらずです。

とはいえ、この日は完全に澄み切った景色が見られたわけではなく、ちょっとかすんでいると言うか、もやがかかっているという感じでした。そういうことからすると、「霧の摩周湖」ではなくて「もやの摩周湖」(写真)ということになってしまうのでしょうか?ネーミングとしてはちょっと変ですけれど・・・。

ここに来ることが、本日のメインイベントでもありましたので、展望台の柵によっかかりながら、しばらくぼ~っと風景に見とれていました。摩周の風は少しだけ肌寒かったけれど、コートを羽織ることもなく、一人たたずむ後姿・・・な~んていうと、かっこいいみたいですが、他の観光客からは、「コートも着ないで、アホちゃうん?」な~んて見られていたかも・・・。

展望台から下りて、摩周第一展望台休憩所に行ったら、大型パネルで摩周湖の四季という15分のプログラムを写していた。四季おりおりの風景がみごとだったので、ちょっと立ち見の中に加わり、映像とともに流れるナレーションを聞いていました。

摩周湖は、約7000万年前の火山の噴火によって形成されたカルデラに水が溜まってできた湖です。カルデラの周囲は約20kmで、面積は約19.6K㎡、最深部で212mです。湖の中ほどに浮き島があり、カムイシュ島と呼ばれています。高所の為、特に夏場は霧がしばしば発生して、これが幻想的なムードを醸し出します。また、人の手が入ることを拒み続けてきたその孤高さもあって、それが神秘の湖と呼ばれる由縁になっているのでしょう。

摩周湖には、注ぐ河川はなく、流れ出す河川もありません。それなのに、水位は年間を通して変わらない不思議な湖です。湖水は、雨水と森林からの湧水だと言われていますが、絶妙なバランスが維持されているのは、すごいなと思いました。

そのような条件にも恵まれて、摩周湖はかつて、透明度において世界一だと言われていました。透明度調査の時期が違うため、現在、透明度世界一と呼ばれているバイカル湖(ロシア共和国)と実際のところはどうなのか誰にも分かりませんが、そんなことはともかく、摩周湖が世界でも最高の透明度を誇る湖であるということについて、異論を挟む人は誰もいないでしょう。

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第一展望台の休憩所の大型パネルの横に、北海道遺産第1号との認定書(写真)が掲示してありましたので、それを見て摩周湖を後にしました。

それから、国道241号線と国道240号線を経由して、阿寒湖畔まで行きました。摩周湖から約1時間余りでした。阿寒湖も、初めて訪れた訳ではないのですが、久しぶりに訪れて感じたことは、阿寒湖は観光地っぽすぎてちょっと俗っぽいかナ?ということでしょうか・・・。ここに来る前が摩周湖だったので、特にそう感じたのかも知れませんが。

阿寒湖もやはりカルデラ湖で、周囲は23.5kmで、面積は約12.7K㎡、水深は44mと阿寒国立公園にある三つの湖の中では比較的浅めです。阿寒湖には、大島、小島、ヤイタイ島、チュウルイ島と4つの島が浮かび、その中のチュウルイ島には、まりもの観察ができる「まりも展示観察センター」があります。

まりもを見ずして、阿寒湖で何をするの・・・というくらい、ここにくるとまりもははずせません。というか、他にこれと言ってすることがないので、やっぱり、遊覧船に乗るかなぁという気持ちになります。しかし、遊覧船の運賃が高い。大人1620円(まりも展示観察センターの入場料を含む)ですよ。うわぁ、高けぇ!とか思ったのですが、ここまで来てそのまま帰ってもしょうがないので、さて、乗るかと桟橋に行ったところ、ちょうど船が出たばかり・・・。

次の遊覧船はいつなの?と確認したら、1時間後の午後3時発でした。これじゃあ、もう薄暗くなるじゃんと、しばし考えていたところ、遊覧船ではないが午後2時30分発の船があるのを発見しました。それは、高速船「ゼフィール」と呼ばれており、チケット売り場の方によると、「遊覧船より時間は早いし、遊覧船では行かない阿寒湖の一番きれいなところまで行きますよ。」とのことで、さかんに勧められました。

運賃を見たら、さらに高い大人1名2200円でした。それに、出航間際なのに、まだ乗客が一人もいない。こりゃ、勧めるわけだよなぁと思いましたが、今日は、お金より時間が大事だったので、高速船に乗ることに決めました。

午後2時半の乗船客は、僕のあとにチケットを買った一組のカップルと併せて合計で3名。定員38名でしたのでガラガラでしたが全席指定となっており、ちなみに僕の席はキャビンのすぐ横の席でした。(でも、出航後に寄るもう一つの桟橋から10名くらいが乗り込んできて、13~4名くらいの航海(?)にはなりました。)高速船は、時速45㎞で、桟橋から阿寒湖随一の景勝地と言われる滝口までの往復18㎞をまりもの観覧時間も含めて、約50分で走ります。

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高速船は、雄阿寒岳(1371m)を右手に見ながら、水しぶきをあげて走り、10分くらいでチュウルイ島に到着しました。係りの人から、ここでの観覧時間は15分ですので、それまでには帰ってきてくださいと告げられ、乗客みんなで「まりも展示観察センター」に行きました(写真は高速船のキャビンから雄阿寒岳を望む)

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「まりも展示観察センター」におけるメインイベントまりも(写真)を観察することです。まりもはご存知のとおり、国の特別天然記念物で、阿寒湖のそれも2箇所の数十メートル四方に生息しているに過ぎないとても珍しい植物なのです。まりもの生態はまだよく知られていませんが、生育にはとても時間がかかり、直径6cmくらいでも150~200年くらいかかると紹介されていました。

まりもの一番の敵は、水質が悪くなることだそうです。その意味では、人間が一番の敵なのかも知れません。水を汚さない。生態系を荒らさないという当たり前のことを続けていかなければいけませんね。

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まりもの他では、絶滅が危惧されている幻の淡水魚イトウ(写真)が、水槽のなかをゆうゆうと泳いでいました。イトウが泳いでいた水槽が展示の一番最後で、そこを出ると、水辺に群生している植物(ひょっとして葦?)が茶褐色になって覆う湖面の向こうに雄阿寒岳が見えました。

チュウルイ島でのまりも観察の後、高速船は阿寒湖で一番の景勝地と呼ばれる滝口まで行って、ゆっくりと旋回してから帰路に着きました。船を降りた午後3時半過ぎには、回りも少しほの暗くなり始めて、冬の訪れを真近に控えた阿寒湖は、さすがにはだ寒くなっていました。

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阿寒湖から車を飛ばして、北見に戻って来たのは、午後5時半少し前でした。北見バスターミナル午後7時発の連絡バスの時間まで、少し時間がありましたので、東急百貨店の中で、軽く食事をした後に、バスに乗り込みました。休日だからなのかそれとも最終便の連絡バスだからか定かではありませんが、乗客は自分も含めてたったの2名でした。バスは約40分程で闇の中に佇む女満別空港(写真)に到着しました。

というような行程を経て、自宅に戻ったのは、11月4日(金)の午前0時を少し回ってからでした。それでは、何はともあれお疲れ様でした。(それは、旅をした僕に対して?この長いブログを読んでくれたあなたに?それとも、こんな長いブログをいつも書いている僕にかな?・・・。さぁ?)                                                                          The End

(写真先頭は、チュウルイ島から見た雄阿寒岳)

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2005年11月 4日 (金)

Holiday in Hokkaido その1

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今回の北海道ツアーの最終日は、11月3日(文化の日)で祝日でした。

元々の予定は最終日を11月4日(金)に設定して、スケジュールを立てていたのですが、休日を間に挟んでしまうこともあり、関係者に無理をお願いして(自分としても2日の日にスケジュールを詰め込むことは厳しかったのですが・・・)、なんとか2日(水)の夜に全ての仕事を終える事ができました。ですから、最終日の11月3日(木)は移動日として、朝10時前には北見を発って帰路に着くつもりだったのです。

ですが・・・、仕事が片付いたら、少し気が変わり、もし、3日がいい天気だったら、久しぶりに摩周湖あたりに行ってみようかなという気になりました。

普段の行いがいいためか、朝起きたら、穏やかなとてもいい天気でした。気温も15度以上になるということで、この地方の11月の気温としては、かなり暖かいらしい。まぁ、せっかくだからという気持ちもあり、帰りの飛行機の時間を思いっきり遅らせて、レンタカーで湖めぐりをすることにしました。しかし、もともと予定にない思いつきですから、レンタカーの予約なんかしていません。このため、1件目のレンタカー屋さんでは、空きの車がないと断られましたが、2件目でなんとか調達して北見を10時頃に出発しました。

カーナビの計算によると、摩周湖までは120kmあまりで、所要時間はだいたい2時間くらいでした。国道39号線と国道243号線を経由するルートで、まずは美幌峠を目指しました。運転環境は極めて良好で、途中、道路工事のために片側通行となっていて、すこし通せんぼをされた以外は、ストレスもまったくなく、北海道らしい風景?(写真先頭)のなかを走り抜けていきました。

美幌峠

国道243号線は、途中から坂道が急になり、右に左にヘアピンカーブが連続しだします。坂道を登りきると、車の進行の右手に駐車場が見えたので、一休みすることにしました。1時間10分くらいで、美幌峠に着きました(写真は美幌峠の標柱)

屈斜路湖

美幌峠は、屈斜路湖(写真)を真正面に望む北海道でも屈指の景観を誇ります。標高は525メートルということで、それほどの高さはないものの、木立など景観を遮るものがなく、すばらしい見晴らしを満喫することができます。

屈斜路湖を撮影するために、約200mくらいでしょうか坂道に沿って作られた階段を上って、展望台の一番上に行ってみました。いつも思うのですが、観光地でも景観のいいとことは、山の上だったり、急な階段をかなり上らなければいけなかったりで、結構、体力が必要ですよね。僕も昔は、年齢を重ねて悠悠自適になったら、いろいろな所に旅を・・・と思っていたのですが、余り、悠長に構えていたら、多分体がきつくなって、そうすると、今度は億劫になって、旅に行こうと思っても、行けなくなってしまうのではないかと思います。ですから、お金や時間などいろいろ事情もあるでしょう。でも、旅も体と気持ちが元気なうち・・かと思いますよ。老婆心ながら・・・。                                                                                          to be continued

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2005年11月 2日 (水)

インカルシとスイッチバック

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さて、今日は、まず旭川から遠軽に向かいます。ホテルを出たときにどうかなと思ったのですが、意外と今日も寒くない。多分5〜6度といったところかな?街を歩いている方々の服装を見ても、まだ、重装備ってのは見かけませんでした。昨日は、ホテルから駅までは、5~6分くらいとか書きましたけど、今日、歩いてみたら約10分くらいでした。(荷物背負ってゆっくり歩いてですが。)

旭川駅で午前9時1分発の特急オホーツク1号(写真)を待って乗り込んだ。オホーツク号はキハ183系のディーゼル特急で、最高速度120kmです。今日は、増結1号車を含む5両編成でした。旭川から乗り込む乗客は、1車両あたり5人前後というところでしょうか?僕の乗った指定席車両の乗客は、定員68名のところ18人でした。

特急オホーツクは遠軽に向けて、ディーゼル音をうならせながら、晩秋の色濃い山谷を走り抜けていきます。別にどうでもいいことですが、途中の上川と白滝周辺を除いて、遠軽に着くまで携帯は圏外となっていました。

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石北本線で旅をしたことがある人は、分かると思うのですが、遠軽はスイッチバックの駅なんです。スイッチバックというのは、簡単に言えば、ある特定の駅(信号場などの場合もある)で、列車が進行方向を逆にして、さらに次に進んでいくことです。スイッチバックをする理由としては、急峻な峠などを超えるためにその勾配の緩和を図るということが一般的に知られていますが、線路が敷かれた経緯とか、列車の運行上の制約などから、結果としてスイッチバックとなってしまう場合があります。したがって、スイッチバックの駅は、山岳地帯ばかりにあるのではなく、北海道で言えば、札幌駅なんかも立派なスイッチバックの駅です。

遠軽駅(写真)はかつては交通の要衝であって、現在は折り返しのために行き止まりとなっている方向には、名寄線の列車が発着していました。ですから、平成元年に名寄線が廃止されるまでは、遠軽駅単なるスイッチバックの駅ではなくて、ターミナル駅でもあったのです。

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遠軽に着いてまず思ったこと。空気がとてもおいしい。思わず深呼吸をしてしまいました。空を見上げると青くそして高い。日差しは強いものの南国のそれとは違うという感じがします。日差しに密度があるとするならば、北のそれは何か希薄というか、午後になって少しするとスーっと薄くなっていくように思うのは僕だけなのでしょうか。

訪問先から帰る途中の湧別川(写真上)に架かる遠軽橋から1枚。土手には「湧別川の魚たち」というカンバン(写真下)がありました。この川に棲む魚たちは、ウグイ・アメマス・ニジマス・オショロコマ・フクドジョウ・ヤマメなどです。棲んでいる魚たちだけからみても、湧別川が清流だということがよくわかります。

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太陽の丘・えんがる公園の傍を通りかかったときに、静態保存されているSLを見つけました。形式及びナンバーはD51859(写真)です。おそらく石北本線で活躍していた機関車なのでしょう。石北本線の難所といえば、常紋峠がまず頭に浮かびます。厳冬の空気の中、25‰の急勾配とS字カーブの続く峠を、9600型SLを補機としてD51が喘ぎながら、常紋越えに挑む姿に感動を覚えた方も多かったのではないでしょうか。

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訪問先からブラブラ歩きながら駅に向かっていたら、結構急な小高い岩山の上に何やら天文台のようなものが見える。あれは何?と聞こうにも、人通りが少なくて聞く人がいない。しかたなく、岩山の麓まで行ってみた。

岩山の名前は瞰望岩(がんぼういわ)(写真)と呼ばれていることがわかった。麓には、瞰望岩の由来を記した案内版があり、それによると、

地上80mの安山岩質火山角礫岩よりなる奇岩で、約730万年前に噴出したものと言われています。アイヌ民族はこの岩を「インカルシ(見晴らしのよい所)」と呼んでいました。遠軽町の地名は、これより起こっています。

昔、湧別アイヌと十勝アイヌの間で争いが起こり、湧別アイヌはこの瞰望岩をチャシ(砦)として、十勝アイヌの大軍を迎え撃ち、数日の死闘を繰り返しましたが、岩下を流れる湧別川が一夜にして大洪水となり、岩下に陣した十勝アイヌは全滅したというインカルシの戦いの伝説が残っています。

また、この岩は神祭りの行われた神聖な場所であったといわれています。昭和3年、風致保安林の指定を受け、自然美とアイヌ民族の夢をいただくこの地は、太陽の丘・えんがる公園として町民に親しまれ、憩いの地になっています。

BY 遠軽町教育委員会

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太陽の丘・えんがる公園を出て、駅にむかって歩き出すと、公園のすぐそばに遠軽神社(写真)がありました。旅に出ていると、予期しないトラブルに見舞われることも少なくはなく、遠軽神社にこのツアーの無事をお祈りしてきました。それにしても、境内の楓がとても鮮やかでした。たった1時間余りの遠軽でしたが、一足早く秋を満喫させていただきました。

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北見に向かう列車を待つプラットホームで、遠軽の名物駅弁かにめし(写真)を買いました。お茶の容器は昔懐かしい注ぎ口が煙突型になったタイプのものだった。かにめしは、温かいご飯の上にほぐしたかに(勿論、毛がに)といり卵がのっており、この2つが絶妙のハーモニーを醸し出しています。黄色や赤に色づいた風景が流れていくなかで、食べるかにめしの味はもうサイコーです。因みに、かにめしの値段は900円ですが、そのお味はどんな高級料理店の豪華な料理にも勝っていたのではないかと思いました。

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かにめしに舌鼓をを打っている間も、遠軽から乗車した特急オホーツク3号は順調に走り、55分で今日の最終目的地、北見駅(写真)に着きました。

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2005年11月 1日 (火)

晩秋の北海道を行く 旭川編

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えー、今日(11月1日)から、北海道にやってまいりました。どうせなら、もっといい時期に行ったら、どーよ・・・と言われそうですが、そりゃそうですよね。

今回の北海道行きのお話は、実は7月にあったもの。しかしながら、この夏から秋にかけては、他でもいろいろありまして、8月のはじめに帯広方面でのお仕事があった他は、西日本から九州の仕事にかかりっきりになっていたんです。しかし、まぁ、今回の件が、ここまで先送りになるとは考えていなかったんですけれど・・・。

今回の目的地は北見市なのですが、これを先送りにしていたために、8月中旬以降に出た北海道がらみの仕事は、基本的に僕に回ってきたのです。つまり、「どうせ北海道に行くのだから、ついでにこれも一緒にやってきて」っていうパターン。

なかなか北海道に行けなかったために、北海道関連のストックが全部で6件となってしまいました。トータル3件くらいの時までは、「全行程一筆書きで終わらせてやるよ!」とうそぶいていたのですが、流石に6件となると、ホテルを転々としながらの出張でこなせるレベルではなく、仕事の関係者のアポを調整するだけでも、一苦労です。

てなことで、北海道案件の一掃を期して、今週から北海道3週連続ツアーに挑むことになりました。能書きはこのくらいにして、今日からツアー終了まで、ブログもできるだけショートバージョンにして、(何日になるか分かりませんが)このツアーの足跡を綴っていきたいなと考えております。

第1日目の今日は、完全移動日でした。羽田空港からANA65便にて、新千歳空港まで飛んできました。空のコンディションはまずまず、余り気流の乱れによる揺れもなく、無難なフライトだったのですが、出発直前になって、ドアの不具合が見つかったとのことで、点検のために10分程テイクオフが遅れました。

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新千歳空港に着いたのは、午後3時前でしたが、もう夕暮れのような風情でした。少し雲っていたせいもあるのでしょうか?九州なんかで仕事をして、その時間に馴染んだ後に、北海道にくると、日の暮れる時間のギャップにちょっと戸惑ってしまいますね(写真は、新千歳空港についたANA65便)

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新千歳空港からは、午後3時19分発の快速エアポート153号(写真)で札幌まで、札幌からは、同じ車両で特急スーパーホワイトアロー19号になります。札幌からは、進行方向が逆になるために、乗客みんなで椅子の反転作業をします。北海道では電化区間が限られているために、数少ない電車特急がこの区間を走っているんですね。

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旭川駅(写真)到着は、午後5時20分でした。もう、日はとっぷりと暮れて、流石に旭川は肌寒く感じました。しかし、こちらの方に聞くと今日は暖かいらしい。最高気温も13度くらいあったらしい。確かに、コートを羽織らなくてもまだ大丈夫かなって感じでした。

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今日の宿は、ホテルレオパレス旭川で、駅から徒歩で5~6分くらいの立地です。選んだ理由は、1泊2食つきで7000円という値段。さらに、レンタルビデオ(120タイトル)が無料で見ほうだいというところでしょうか。部屋は、少し小ぶりかなという感じですが、ベッドは大きく、一夜の宿としては十分でしょう。ホテルに付属しているレストランの夕食(写真のメニューは、甘海老3尾、てんぷら4種(4個)、にしんの煮付け、鶏肉のソテー風料理、それに漬物とお吸い物にご飯です。そのうえ、生ビール1杯と、ウエルカム・スープもついてました。これで、泊まりも込みで7000円なら安いかなという感じでした。

旭川で1泊してから、明日は石北本線で遠軽へ、そこで一仕事してから北見に入る予定です。

(写真先頭は、函館付近を飛ぶANA65便)

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2005年10月31日 (月)

ちょっと前後しますけど

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前回(10月25日)にも、ちらっと書いておきましたが、その日は広島にいました。本当は、仕事が終わって、空港への連絡バスの時間まで、広島市内を少し散策して帰るつもりでいました。しかし、衝動にかられて宮島に行ってしまったというのは、前回ご紹介したとおりです。ですから、今日、ここで書いているものが、本来は10月25日分として載せるはずだった分です。という理由から、ちょっと、前後します。

この仕事を担当してから何度くらい広島に来たか思い返してみると、2003年から2004年には各1回で、2005年になってはじめて、5回と多くなりました。しかしながら、広島の市内や宮島などの名所に行ったというのは、今回が初めてという気がします。

その理由で一番大きいのは、隣の岡山県に実家があることかと思います。このため、広島市内で宿泊したことが殆どありませんでした。ということから、少し時間があるので、どこかに行って・・・という気にならなかったというのが正直なところかと思います。また、実家のある新倉敷から広島までは新幹線を使えば、40~50分くらいなので、首都圏の通勤時間などと比較しても、全然NO Problemですから、広島の時は日帰りで・・・となることが多いのです。さらに、実家から近いということは、いつでも来れるだろうという気持ちにさせ、じゃあ、また今度にしようということになっちゃうんですねぇ。

今回は、広島も今年最後だろうから・・・という気持ちと、今までなかなか行けそうで行けなかったので、ここいらで行ってみるかぁと、まぁそんなところです。空港への連絡バスの時間まで、約1時間半くらいありましたので、広島中区から平和大通り(先頭の写真)沿って、北に歩いていくことにしました。

白神社前という交差点を超えてすこし行くとと、大田川から別れた元安川にかかる平和大橋があります。平和大橋を渡ると、そこは平和記念公園でした。

広島は、世界で2つしかない原爆の被害を受けた都市です。昭和20年8月6日、アメリカ軍のB‐29によって投下された原始爆弾により、広島は壊滅的な被害を受けました。平和記念公園は、この人類の歴史にかつてない程の悲劇となったこの戦争の過ちを二度と繰り返さないことを訴えるためと、恒久の世界平和を祈るために、爆心地に近いこの地に作られました。

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平和祈念公園に入って、原爆死没者慰霊碑(写真)に行ってみました。アーチ型の屋根のある慰霊碑には、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」の有名な碑文がありました。ここに立つと、平和を願って合掌せずにはいられませんでした。

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平和記念公園には、この他に、原爆供養塔、平和の鐘、原爆の子の像などが設置され、南側に広島平和記念資料館、国際会議場、北東に原爆ドーム(写真)あります。

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その後、鯉城と呼ばれる広島城(写真)を訪ねました。何度か広島を訪れたときに、バスの車窓などから眺めていたのですが、機会があれば是非行ってみようと思っていたのが、やっと、実現したわけです。

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広島城は、大田川河口の三角州に毛利輝元が築いた典型的な平城で、天守閣の高さが、石垣も含めて39m。外堀・中堀の幅は、約20mで、内堀で一番広いところは、100mもありました。堀の深さは、内堀が約3.3mで、中堀・外堀は1.9mだそうです。

広島城の城主についてですが、最初の城主は、毛利輝元で、豊臣秀吉の下で五大老をつとめた最大級の大名でした。しかし、輝元は、関が原合戦の時に、負けた西軍の総大将であったために、徳川家康によって、萩に領地を移し替えられました。

次の城主は、賤ヶ岳の七本槍で名をはせた福島正則でした。正則は、広島城をもっと強固にするように、城の改修を行いました。また、城下町がもっと栄えるように、町の整備も行いました。こうして、広島発展の基礎を作った正則でしたが、元和5年広島城を無断で修理したことを幕府から咎められ、領地を没収され、広島から去りました。

その次の城主は、浅野長晟(あさのながあきあら)です。忠臣蔵で有名な播州赤穂藩の浅野家の所謂、本家にあたります。浅野家は、長晟が城主になってから、明治2年の版籍奉還までおよそ250年、12代にわたり城主をつとめました。

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なかなか広島城のことについて、詳しいでしょう。エヘン。これは、別にネットなんかで調べたものではなくて、大半が、広島城(財団法人広島市文化財団)が作っている小冊子「お城ってなあに」(写真)からの受け売りです。この冊子は、広島城を訪れる小学生や中学生向けに作られたものですが、大人が見ても充分な内容になっています。全部で14ページで、写真や図柄もふんだんに入っています。大きさは映画館なんかで売っている(映画の)パンフレットと同じくらいです。さて、お値段はいくらでしょう?それが、たったの100円なんです。広島城に来られたら、是非、これを買い求められて、お城を見学してください。持っていない方の2~3倍は楽しめること、請け合いです。

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2005年10月24日 (月)

佐賀ちゃんぽんに感激!

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日付が変わって、昨日のことになってしまいましたが、10月23日のことから続けて書きます。

ハウステンボスから帰ってきて食事した後に、天然温泉でひとっ風呂浴びたら、夜11時くらいになってしまいました。しばらくブログも書いていないこともあって、久々に執筆(というほどたいそうなことではないが・・・)やるかという気になりました。

しかし、ビジネスホテルと違い、リゾートホテルでは、インターネットに接続する環境が整っていないホテルはまだまだ多く、フロントに問い合わせたところ、このホテルでも客室ではネットへの接続はできませんでした。しかし、ホテル2階のフロントの斜向かいにある、ゲストリレーションズというコーナー(コーナーというより、どうもコンシェルジェが控えているテーブルを指すらしい)でなら、無料で有線のLANにて接続可能とのことでしたので、そこを借りることにしました。(夜も11時を過ぎたころになると、フロントの周りに人もおらず、これなら、だだっ広いフロアの真ん中あたりに一人だけポツンといたとしても、人目を気にすることなく作業できるかなと思いつつ・・・。)

蛇足ですが、夜11時過ぎにも拘わらず、フロントのお嬢さんが接続が完了するまで、付きっきりでお世話をしてくれました。(別に慣れているので、勝手にやるからと申し出たのですが、ホテルでの教育でそうするように指導されているのでしょう)その後、ブログが書きあがるまで、約4時間を要した(勿論書いている間は僕一人)のですが、こんなことなら、接続がうまくいかないようなフリでもして、フロント嬢とずっとお話していたほうが、よっぽど楽しくてよかったかなぁ・・・と不謹慎なことを思ったりして。いやいや。

ということで、眠りに落ちたのが午前3時過ぎ、起床は7時。仕事の時間に間に合わせるためには、8時過ぎにはホテルを出発しなければならず、朝飯抜き。でも、2,200円もする朝食なら、抜いたほうが逆に良かったかなとも思ったりしながら、今日のスタート地点であるハウステンボス駅に向かいました。

さて、この日の仕事は12時半頃に終わり、博多から次の目的地に向けて移動の支度をしていました。ただこの日は運よく、佐賀市の出先にいる元同僚も同じ場所で仕事をしていたということもあって、帰りは彼の車に同乗させてもらうことになりました。また、ちょうどお昼時でもあったので、佐賀近辺で一緒に昼飯を食べようということにしました。

国道34号線で佐賀に向かって、ちょうど北方町にさしかかった頃、元同僚の彼いわく、「ちゃんぽんがうまい店があるけどそこでいい?」とのこと。ちゃんぽんといえば、長崎だろうから、何かその系統のチェーン店でもあるのかなと思っていました。

連れて行ってくれたお店の名前は、井手ちゃんぽん。後で、教えてもらったのですが、佐賀ちゃんぽんというのも結構名が通っているらしい。有名なお店らしく、午後1時過ぎではありましたが、店内はすごく混んでいました。

僕たちが注文したのは、野菜大盛りちゃんぽん、値段は750円でした。出てきたお皿を見て、ちょっとびっくり。麺の上に野菜がてんこ盛りになっている。さらに、食べてみるとこりゃまたすごいボリュームなんです。たぶん他のお店だったら、2人前と言っても通るんじゃあないかと思います。味はどうかというと、確かにうまい。もやし、キャベツ、たまねぎなどはシャキシャキしているし、スープがまたいいんです。とんこつのダシで油もしっかりという感じなので、濃厚な味かなと思いきや、野菜との相性がいいのか意外にすっきりとしていました。

いやいや、侮ることなかれ、佐賀ちゃんぽん!といったところです。本来なら、その豪快なちゃんぽんの写真を1枚というところなんですが、余りに、食べるほうに夢中になってしまい、そんなことはどこかに飛んでいました。博多についてから、しまったぁ~と後悔するも、それはあとのお祭り?でした。

車でJR佐賀駅まで送ってもらい、そこからJR特急「みどり」で博多駅に。次の目的地は広島です。今週の旅はまだ終わりません。

(写真上は、ハウステンボス駅)

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2005年10月23日 (日)

ハウステンボスはたそがれて

ハウステンボスJR ANA<br />
 ホテル

秋が深まってきました。木々の彩りの移り変わりとともに、一人旅の身には、肌寒さと人恋しさが身にしみる季節ですね。先週、今週としばらく東京で過ごしていましたが、2週間ぶりに再起動し、今日は長崎空港からバスに乗って、ハウステンボスにやってきました。

とは言え、ハウステンボスに遊びに来た訳ではなくて、明日の佐賀県伊万里での仕事に行く途中なのです。先方の都合もあって、月曜日の朝10時頃には伊万里の出先に行かなければならず、今回は休日出発ということになりました。そんなこともあって、せっかくだから、ハウステンボスでちょっと遊んで、ついでに隣接したホテルで前泊しちゃえ!ってことにしました。

ハウステンボスは、長崎県佐世保市にある九州随一のテーマパーク(でなくて、リゾートだと地元では仰っていた)です。ハウステンボスとは、オランダ語で、「森の家」という意味だそうです。Huisが家、boschが森です。tenは前置詞になるとのこと。運河を走る「カナルクルーザー」の船上案内によると、ハウステンボスの名前の由来は、オランダのベアトリクス女王陛下が住んでいる宮殿「パレス ハウステンボス」を忠実に再現する許可をいただいたことによるらしい。

ハウステンボスの広さは152万平方メートルだそうで、これは、東京ディズニーランドの約2倍の広さがあるとのことです。ハウステンボスは17世紀オランダの街並みをそっくり再現したもので、建物一つひとつのモデルが、本国オランダに存在しているとのことです。入口の地区名であるブルーケレンを入ると(これを入国という)、風車とお花畑で彩られたキンデルダイクがあります。ここから、一番奥のパレスハウステンボスまで、全部で9つの地区というか街というか区分があります。

ハウステンボスに来た感想をひとことで言えといわれれば・・・。

ここは、カップルとか家族連れで来るのところで、男一人で来る場所ではないかな?というところでしょうか・・・。

確かに、エキゾチックな場所で、日本に居ながら異国情緒が味わえるとか、おいしいフレンチやイタリアンが食べられるとか、銘柄もののワインがどうとか、それはいろいろあるのでしょうがねぇ・・・。でも、男一人で歩いても、なんか空しいかなぁ。

な~んて、たそがれていてもしょうがないので、今回は、画像を多めにして、それで、雰囲気を味わっていただくことにしました。

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キンデルダイクの風車をマリーゴールド越しに。お花の黄色と空の青の中にたたずむ風車がオランダの風趣を運んでくれました。

ドムトールン

ドムトールンからの風景

ハウステンボスのシンボルタワーといわれるドムトールン。オランダ最古といわれるドム教会の鐘楼を模して作られました。このドムトールンには、地上80メートルの5階と65メートルの4階に展望室があります。この展望室からは、ハウステンボスの街並みや、大村湾を一望することができます。

帆船

スパーケンブルグのオレンジ広場の前にある帆船。オランダからの航海の末に、漂着した姿をモチーフにしたものなのでしょうか?

パレスハウステンボス

ハウステンボスの象徴ともいわれるパレスハウステンボス。現在、オランダの女王がお住まいになっている宮殿の外観を忠実に再現しているらしい。内部には、ハウステンボス美術館や壁画の間などがある。宮殿の後ろ側には、オランダ・バロック式庭園が広がり、訪れる人の目を楽しませてくれます。

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Art Gardenのダリアを1枚。ダリアはヨーロッパでは、秋の花の代名詞だそうです。秋のガーデンには、色とりどり、多種多様なダリアの花が満開で、その鮮やかさに目を奪われます。

ハウステンボスの風景

一番上にも掲げておきましたが、今回泊まったホテルは、ハウステンボスジェイアール全日空ホテルです。このホテルはアムステルダム中央駅を模して建てられた、所謂、リゾートホテルです。ハウステンボスでは、このホテルだけに天然温泉が出るとのことで、グランスパという(天然温泉の)大浴場を備えています。(泉質は、ナトリウムカルシウム塩化物泉です)それにしても、入浴料が高いです。宿泊客は、無料ですが、宿泊客以外では、大人1,575円とのこと。

また、朝食のバイキングが2,200円とのことで、これも高い。ビジネス客相手ではなくて、リゾートだから仕方がないのかなぁ~。

(写真:先頭は、ハウステンボスジェイアール全日空ホテル外観)

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2005年9月26日 (月)

Holiday in Kyoto

八坂神社の本堂

お彼岸を含む3連休の真ん中の土曜日に、京都で散策してきました。連休だから、普通は混雑していると見るのが妥当なのでしょうが、お隣の愛知県では「愛・地球博」がフィナーレに向けてかなりの盛り上がりを見せていることと、京都に最も人が押しかける季節が紅葉の季節であり、これにはまだ少し早いので、少しはましだろうと読んでいたのですが・・・。さにあらず、考えが甘かった。一般の観光客ももちろん数多くいらっしゃいましたが、修学旅行の中・高生がやたらと多かった。いってみれば、ちょうどそういう時期だったんですねぇ。

京都を見て歩く場合の鉄則をひとつ。せっかく京都にきたのだからと、余りあちらもこちらもと欲張るとだめですね。何度も来れないかもしれないので、できる限り有名なところを回りたいという気持ちは分からないでもないですが、そうしてしまうと、結局、ただ何処々々に行ったというだけ、観光地の上っ面だけ舐めてきただけということになりかねません。これでは、余りにももったいない。それだけ、京都は奥が深いのですから。

そのようなことから、1日で回るところをできるだけ絞りこんだほうがいい思います。まず、今回はどうしても行きたいというところを決めて、それがどのエリアにあたるのかを確認します。すなわち、その行きたいところが、洛北、洛東、洛中、洛西の各エリアのどこにあるのかを見て、例えば、それが洛東にあるのなら、少なくともその日はこのエリア内で他に回りたいところを決めるというようにしたほうがいいと思います。さらに、1日で見てまわるところは、5~6箇所くらいに絞るとさらにいいと思います。

そうしたほうが良いという理由は、たくさんありますが、まず、京都の市内は、道も人もとにかく混みます。エリアを超えて自由に動き廻ろうと思っても、渋滞がひどく(休日なんかは特に)思うにまかせません。欲張ったスケジュールを立てたとしても、それがこなせないとなるとストレスもたまるでしょうし、最初はゆっくりのペースがだんだん駆け足になって、ただ行くということだけが目的になってしまいかねません。

また、名所の中の交通渋滞というか観光客の数によってその場所を見る時間にかなり差が出るということも頭に入れておかなければダメですし、食事やお茶なんかでも名の知れたところで・・・と考えている場合は、予約を入れておかなければちょっと厳しいと思います。それと、観光する時間帯ですが、混雑が予想されるシーズンは朝早くから動いたほうがいいと思います。ちょうどいい時間帯というのは、自分だけじゃなく、だれにとってもということもありますし、また、名所特に社寺には拝観時間に制限があり、早いところは午後3時とか4時で終了となってしまいますから、こういう意味からも早めに動いたほうがいいでしょう。

能書きはともかく、自分としてもせっかく、それも久しぶりに京都に来たわけですし、東山あたりの趣のあるところを選んで、一人でゆっくり歩こうかと思いつつ、京都駅前のバスストップから祇園方面行きのバスに乗りました。結構、朝早くから動いたと自分では思っていたのですが、午前8時ちょうどくらいのバスにもかかわらず、車内はすし詰め状態でした。まぁ、この程度は想定の範囲内と思ってましたけれど。

バスは、三十三間堂前を経て五条坂に着き、ここで清水寺に向かう人がどっと降りたのでやっと混雑から開放されました。僕は、もう少し先の祇園まで行って、そこから歩いてみることにしようと思っていました。

知恩院の御影堂

■知恩院 御影堂

祇園でバスから降りて、まず目の前にある朱塗りの建物へ、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社です。ここで本殿などをみた後に円山公園の池周りをゆっくりと歩いて、その隣にある知恩院へ、ここは浄土宗の総本山ですが、御影堂の重厚な造りに圧倒されたり、節がごつごつした床の感触に歴史を感じたり、左甚五郎が残したという忘れがさを見上げたりしました。それから、祇園におりて花見小路から白川沿いをゆっくりと歩きました。

9月とはいえ、まだこの日は暑かった。すこし休憩でもとろうかと思って、喫茶店を探す。鴨川に沿って、三条京阪前まで歩くも喫茶店がみつからない。仕方なく、東山三条まで行く。喫茶店見つかる。しかし、コーヒー1杯750円には閉口。結局、近くにあったマック(関西風に言うとマクドか?)に。アイスコーヒーとフィレオフィッシュバーガーを注文する。両方で350円。喫茶店のコーヒーの1/2以下。うむ・・・。

高台寺

■高台寺 開山堂

高台寺の竹林

■高台寺境内の竹林

それから、東大路通を南に下って、高台寺に行きました。ここは、秀吉の妻であったねね(秀吉没後は北政所)にゆかりのあるお寺というくらいしか知らなかったし、ここまで、ゴルフでいえば1ラウンドくらい歩いていて、結構疲れたなと感じていたこともあって、もうパスしようかなと思っていたのですが、結構良かったですよ。一番、京都の休日らしく散策できたんじゃあないでしょうか。開山堂周りの庭園、千利休によって考案されたというか傘亭、時雨亭の風情、庭園の竹林に差し込む日の光と影、悠久の時の流れを感じながら、ゆっくりと過ごすことができました。

さて、それでは最後に清水寺でも行って帰ろうかと思って、高台寺を出たところ、坂本龍馬の墓がこの維新の道の坂道のさらに上にあるという。高台寺に上るまでも結構な坂道だったので、どうするべぇとしばし思案したのですが、ここまで来たら行くかぁと重い足を引きずりながら歩き出しました。

案内板にしたがって、上をめざして行きます。結構な坂道とまだ9月でもあり、日中はまだ暑いということもあって、かなり汗をかきました。こりゃ、足腰が弱くなったら来られないなぁとか思いながら登っていきました。坂道を登りきったところ霊山護国神社があり、ここに目的の坂本龍馬のお墓があると案内されていました。神社に着いて、それがどこにあるのか探しました。そうすると、案内板の矢印は、駅の自動改札のようなものの方を指していました。

ということは、そこを通ってさらに先に行けということなの?と思いながら・・・。ここまで来るのに、坂道をかなり登ってきましたので、さらに山を登るのかといささか閉口しましたが、せっかくここまで来て、引き返すのもしゃくだったので、とにかく登ってみることにしました。そうすると、お墓に行くのに300円となっている。300円の徴収のために、自動改札のようなものがあるのかと理解しましたが、いくら有名とは行っても、墓地に入るのに料金を取るのは如何なものかという感じはしますが・・・。

自動改札のようなものを抜けて、石段を150段くらい?(数えた訳ではないので・・・)とにかく登っていくと、坂本龍馬のお墓は、中岡慎太郎のお墓と並んでありました。幕末の世を駆け抜けて、新しい日本の夜明けを切望して止まなかったのに、志半ばにして凶刃に倒れた二人は・・・といって語りだすと長々となってしまうのでここではコメントするのはやめておきます。龍馬や慎太郎の功績は、彼らのことを語らせると止まらなくなる方々にまかせて。

龍馬と慎太郎のお墓にお参りして、振り返ると京都の町が一望できるほど高いところにいるのだと気づきます。まるで、二人が京都の町を見守りながら眠っているようだなと思いながら下山しました。それから、霊山護国神社を出て、幕末維新ミュージアムを横目に見ながら(本当はここも見たかったのだが予定の時間をかなり押していたのでやむを得ず通過)、またさらに坂を上りました。ここから、ニ年坂、三年坂とさらに越えて、本日最終目的地の清水寺へ行くために。

清水寺

■清水寺 本堂

さすがに、世界遺産!いや修学旅行のメインスポットだけあって、門前からすごい人波・・・。朱塗りの仁王門を抜けて、三重の塔をめぐり、工事中だった随求堂の横を抜け、300円の拝観料を払って本堂へ、清水の舞台に立って、修学旅行生に混じって、下を覗き込む。ここから飛び降りたら確実に死ぬなと思いながら・・・。とにかく余りの人の多さに、ゆっくり見ている状態じゃあなくなり、とにかく次に歩を進めて、阿弥陀堂から奥の院へ、ここで清水寺といえば・・・というアングルから写真を撮って退散しました。

これだけの行程で約5時間、それも殆ど歩きっぱなし、これ以上回っても雑になるだけかなと思ったので、これで今回はおしまいにして、また、次の機会にすることにしました。しかし、とにかく暑い、この日が暑かったのか京都だから暑かったのかよくわかりませんが、長時間の歩き詰めで、最後の方は熱中症っぽくなったかなという感じだったので、茶碗坂の和菓子やさんで、かき氷(宇治氷)を食べて、熱った体をクールダウンしました。この和菓子やさんの氷はとってもおいしかった。今回の京都の休日の中での最高の瞬間は、このかき氷にありついた時だったりして・・・。では、また。

(写真先頭は、八坂神社の本殿)

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2005年9月22日 (木)

SAGA佐賀はうれしの?

朝の嬉野温泉

9月21日は、八代から鹿児島本線のリレー特急「つばめ」で鳥栖まで移動し、そこから長崎本線を経由、さらに肥前山口から佐世保線に入って、JRの駅としては武雄温泉まで行くという旅程でした。寄り道をしようとすればその時間は充分にありましたが、それよりもまず、この日の宿である嬉野(うれしの)温泉に行ってみようという気持ちが勝り、まっすぐに目的地にむかいました。

武雄温泉駅からバスに揺られること約30分くらいで嬉野温泉に着きました。この温泉は日本3大美肌の湯と呼ばれているそうで、街にもこのキャッチフレーズが掲げられていました。(しかし、後の2大美肌温泉はどこかな?)また、嬉野温泉は九州屈指の名泉と呼ばれているそうで、泉源は17ヶ所、アルカリ性の豊富なお湯が湧き出ることで有名なのだそうです。

もともと嬉野温泉は長崎街道の宿場町だったそうです。公会堂前というバス停の待合室に嬉野温泉の交通についての解説が掲示してあり、それによると、九州鉄道会社(後の国鉄)が佐世保線の計画をしたとき、武雄温泉はもともと経路からは外れていて、長崎街道沿いの嬉野温泉~東彼杵(ひがしそのぎ)~佐世保のルートだったらしいのです。しかし、鉄道が開通すると、温泉客はここを素通りしてしまうに違いないと考えた当時の嬉野温泉の人たちは、鉄道の敷設に大反対をした。結果として、これが致命傷となって発展の機会を逸し、後世に禍根を残す結果を招いたとのことです。

今回、僕が宿泊した宿のお風呂はもちろん温泉ですが、屋内に男女別に2箇所、共用の露天風呂が1箇所といった構成でした。露天風呂についてですが、夕方の時間帯は男性が入浴する時間と女性の入浴する時間との区別がはっきりしているのですが、朝方は区別がなく、混浴のような状態になっていました。実際、僕も朝6時から1人で入浴していたら、女性の方も見えられました。狭い露天風呂でもあったので、さすがにバツが悪くなり、そうそうに退散しました。(しかしながら、おいでになったご婦人は、すべて年配の方ばかりでしたけどね・・・)

嬉野温泉の名物は嬉野茶と、温泉湯豆腐とのこと。そういえば、街の中でも、湯豆腐やってますといったのぼりが数箇所出ていましたね。ここの湯豆腐は、とろけることで有名らしい。仲居さんの説明によると、豆腐がある程度溶けてからがおいしいとのことで、実際に食べてもみました。湯豆腐というとポン酢で食べるというのが普通かなと思いますが、嬉野温泉では(それともこの宿だけかな?)、味噌だれでした。

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■シーボルトの足湯

嬉野温泉に着いた当日に、何処かいいところはないかと少し散策してみましたが、徒歩で行ける範囲内では、残念ながら見つかりませんでした。しいて言えば、温泉街の中の湯遊広場というところに、赤い屋根の岩風呂のようなものがあり、それは「シーボルトの足湯」というのだそうです。由来はシーボルトが長崎から江戸に向かう時に、嬉野温泉に泊まってここの温泉に入ったということだそうです。しかし、ここが地元の人や観光客が集まる唯一の名所なのでしょうかねぇ・・・。

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■有田駅の松浦鉄道ディーゼルカー

嬉野温泉で疲れを癒した翌日は、再び武雄温泉に戻り、佐世保線に乗って有田焼きで有名な有田を経由し、有田から松浦鉄道に乗り換えて、伊万里まで行きました。松浦鉄道は田舎のローカル線ですが、まだ地元の人達の足として、充分活躍しています。有田駅に停車中の1両のディーゼルカーには、20人以上のお客さんが乗って、発車の時間を待っていましたし、途中駅での乗降も比較的頻繁にありました。しかし、乗客を観察すると、圧倒的に多いのが年配のご婦人方でした。平日のそれも日中という時間帯もあるのでしょうが、高齢化の進んだ日本の現状を映し出しているのでしょうか・・・なんてことを考えているうちに、僅か20分ほどで終点MR伊万里駅に到着しました。伊万里の空は快晴。海が近いよなぁとは思いましたが、この日は仕事に手間どったこともあり、業務終了後すぐに帰路に着きました。いづれにしても、また伊万里にはお邪魔することになりそうですが・・・。

(写真先頭は、嬉野温泉の朝)

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2005年9月 5日 (月)

白市までの道すがら

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8月はニッパチと呼ばれて閑古鳥が鳴くはずなのに、8月の第3週の休み明けから、とても慌ただしく過ぎて行ったように思います。忙しさにかまけて、久しく原稿を書いていなかったのですが、月が替わったことでもあり、ちょっとがんばって再開したいと思います。

いつものことながら、この時期は、台風の影響で気を揉む事が多いです。今日も台風14号の動きを気にしながら、広島にやってきました。この原稿を書き始めた15時くらいの広島地方は、まだ雨風がそれほどでもなかったのですが、ニュースによると、この日は、東京や大阪と九州を結ぶ航空便や九州の各空港発着の離島便などで300便くらいが欠航になって2万2千人程に影響が出たらしい。今回の旅は、童謡の「とおりゃんせ」じゃあ無いけれど、行きはよいよい、帰りはこわいという具合にならないかちょっと心配。

話は変わりますが、今日は飛行機で広島空港に降りて、連絡バスでJR山陽本線の白市(しらいち)駅に行き、さらに山陽本線の電車に乗って大野浦というところまで行きました。広島空港を使う時は、連絡バスで広島市内に行ってというのが普通ですが、PCの経路探索ソフトが、白市に出てそこからJRで行くのが、もっとも合理的であるという結論を出したので、それに従うことにしました。

広島空港の4番バス停の前で待つこと約30分、広島行きのリムジンバスとは明らかに、格の違うバスがやってきました。全くの○ンボ×バスでしたが、まぁ、駅まで15分ということで、それは辛抱してということで、乗り込みました。そして、バスは雨の中を走り出しましたが、右に左に揺れるゆれる。小学校の遠足で、乗り物酔いになったときのことを、久々に思い出しました。広島空港~白市線は、空港の高台から蛇行しながら山道を下っていくというルートみたいです。

バスの乗客は合わせて6名。前方に向かって左側の一番前の席には、地元のおばちゃまがでんと座っておられました。少し眠そうなのかウトウトしていたおばちゃまの頭に、突然緑色の何かが飛びかかりました。私も、一瞬、なんだ?と思ったのですが、よく見ると1匹のカマキリが、おばちゃまの髪にしっかりとしがみついているではありませんか。

これが、東京など都市部であったら、大騒ぎになったんじゃあないでしょうか。まず、普通なら、「ぎゃ~」という叫び声から、一連の顛末はスタートするのでしょうが、さすがは、田舎のおばちゃま、うろたえもせず、カマキリをむんずと捕まえて床に放り出しました。そのカマキリは、斧をかまえて臨戦体制をとったので、おばちゃまも靴で踏み潰そうとするしぐさをみせましたが、途中でやめました。なぜ、踏み潰さなかったのか、それは、生き物を殺すのがかわいそうだと思ったのか、それとも、踏み潰して靴が汚れると思ったからか定かではありませんが。おばちゃまは、衝動的には行動せず、無益な殺生はしませんでした。

ところで、このバスに真っ先に乗り込んだのは、何を隠そう私でした。(そこまで、気取る必要ありか?)それで、一旦は、かのおばちゃまが座っていた席に座ろうとしたのですが、一番前も何だなと思い、ポジションを変えたのです。このおかげで、このカマキリの難を免れることができました。いやはや、ラッキーでした。(こんなことで、喜んでいてもしょうがないか・・・)しかし、難を逃れたのは、カマキリも同じ。白市駅で乗客が全員降りたあとも、バスの中にとどまっていました。ということは、バスのなかで、他の誰かがおばちゃまと同じ目にあったかも知れません。そうであれば、おばちゃまが、あそこで正義の一撃をかましておいたほうが良かったんでしょうか?そんなことを考えながら、台風の夜は更けていきます。(結局、書き終えるまで半日くらいかかってしまった・・・)

(写真は、広島空港の接続駅?のJR山陽本線 白市駅)

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2005年8月18日 (木)

砂丘に靴アート?

鳥取砂丘

鳥取市にやってきました。今年は2度目になりますが、どちらかといえば、鳥取県はあまりご縁がある土地柄ではないのでしょうか?というのは、自分の地元は岡山県で、鳥取県は中国山地を挟んでのお隣りの県ということになりますが、記憶を辿ってみても、小さかった頃も含めて鳥取に行ったことがあったっけ?・・・っ感じで、どうも思い当たらない。ですが、そういえば、大昔に大山(だいせん)に行ったことがありましたねぇ。大山は確か鳥取県にありますから、そういうことからすると鳥取県にはお邪魔したことがあるけれど、鳥取市には、ひょっとして今年が生まれて初の訪問なのかも知れません。

いつもなら、一人で出張ということが多いのですが、今回の仕事はセクションの同僚数人とのコラボです。しかし、鳥取市に着いてからは、行かなければいけない地域が広範囲にわたるという事情もあって、レンタカーを利用して(レンタカーはたまにしか使わないと以前紹介しておきながら、最近多いなぁ)、それぞれの担当する地区まで個別に散りました。

私の担当する地区は、智頭町(ちずちょう)の近辺でした。智頭町は鳥取市から約35kmほど南に行ったところにある、中国山地の山あいの町です。車を運転していたら、看板があって、それに「杉のまち、智頭町」と書いてあった。いやぁ、この出張が春でなくて良かったですよ。もし、春だったら、くしゃみの連発で仕事にならなかったんじゃないかと思います。

東京にいると余り感じないのですが、こうして自然豊かな土地を車で走ったりすると、季節は少しずつ秋に舵を切っているんだなと感じます。道路から見える田んぼでは、稲穂がそろそろ頭を垂れつつあるのかなという感じだし、小高い丘に群生していたススキの穂なんかも銀色に輝いてましたね。思えば、あと十日余りもすれば、陰暦の長月、九月ですものね。

今回の鳥取出張の日程は2泊3日ですが、初日にできるだけスケジュールを詰め込んで、2日目、3日目には少し余裕がありました。なので、せっかく鳥取にいるのだからということから、「やっぱ、砂丘くらいみておかなくっちゃ」となって、訪問先への道すがら行ってみることにしました。砂丘は鳥取市北部の日本海沿いで、日本海に注ぐ千代川河口の東側に位置する国立公園です。広さは、南北が2.4km、東西が18km、最大高低差が90mとのことで、日本最大の砂場(?)です。

砂丘前の駐車場から木の階段を登っていくと、砂丘への入口があって砂一面の世界が眼の前に現れます。私の印象としては、結構でかいもんだなと思いましたが、中東とか本格的な砂漠を国内に持つ国の人たちがみれば、「ふ~ん」で終わってしまうかもしれませんけどね。砂丘入口から海に向かっては、山~谷~山となっていて、下りはともかく登りは足を取られるし踏ん張りもきかず、結構つらいものがあります。海側にある小高い丘は砂丘第二列というのだそうですが、ここに登ってみました。歩きながら、砂を手にとってみると、以外に肌理が細かく、白いきれいな砂でした。この白い砂とその向こうに広がる紺碧の海とのコントラストが鮮やかです。

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息を切って、丘の頂上に上ってみると、その先にある真っ青な日本海の水平線を眺めることができます。有名な風紋はどうかというと、確かに風が造形した痕跡を少しは、見て取ることができましたが、観光客の靴跡(靴アート?)が圧倒的に多く、ちょっとそれが、残念!という感じでした。ビジネスウエアで行ったために、普通の革靴で砂丘の頂上まで歩きました。このため、黒い革靴は砂で真っ白となり、このすぐ後に行ったお客様のところで靴を見られたときは、さすがにちょっとバツが悪かったですね。

2泊3日もいるため、砂丘以外でもいろいろな出来事などがあったのですが、鳥取の話題はこのあたりでとおしまいにしようと思いますが、最後にもう一つだけお話を・・・。鳥取空港の出口の所で、自民党の石破元防衛庁長官を見かけました。来る総選挙のために地元鳥取に帰ってきたものと思います。彼が空港から出てくるシーンをテレビカメラで撮影していましたが、メディアの要請にこたえて、2度ほど出口をくぐっていました。私は、ちょうど石破さんのすぐ後ろを歩いていたので、ひょっとして鳥取地方のニュースで自分の姿が流れたかも。

石破さんは、テレビだとかなりふっくらしているようにみえますが、実物はそんなにデブではなかった。むしろ、自分の方がデブか・・・と思ったりして。テレビは実物よりも横に広がっているように映るとか。石破さんで、あのくらいだから、今の自分ならと考えるだけでもおぞましい。さてと、少し体をしぼらなきゃ!(ん、すこし・・・?)

(写真は、鳥取砂丘)

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2005年8月 7日 (日)

花人街道:その2 中富良野

ファーム富田のラベンダー畑

ファーム富田から望む十勝岳連邦

美瑛のひまわり畑を出るときには、もう午後1時近くなっていました。美瑛から富良野までは約33kmなので、約30~40分はみなければいけない。またまた、逆算してみると、富良野地区に滞在できる時間は、Max約1時間だろうと見当がつきました。そうすると、あまりふらふらと多くの名所めぐりもできないないか・・・と思いました。国道237号線に出る前に、美瑛の観光所でもらったガイドマップを見ながら考えたことは、1箇所に絞るなら、「やっぱ、ファーム富田でしょう」ということで、花人街道(はなびとかいどう)と愛称がついている国道237号線を中富良野に向かいました。

美瑛から、国道237号線に沿って南にすこし行くと左手にラベンダーやサルビアなどの花々がいっせいに現れて目が奪われます。これは美馬牛(びばうし)峠にあるかんのファームの花畑です。時間があれば、是非にと思いつつも、何せ、時間と戦う弾丸ヴァケイションです。寄り道をしている寸暇はありません。さらに南下を続けて、深山峠を下っていくと、彼方に青く山なみがみえてきました。十勝岳連峰です。中富良野町ももうすぐです。

時間の関係で、ファーム富田に直行するかなとも思いましたが、一応、JR中富良野駅に出向いて、観光ガイドマップをゲットしました。それからすぐ折り返して、駅から1kmほどのところにあるファーム富田に向かい、到着したのは、午後1時半頃でした。道路の混雑はなかったものの、ファーム富田の駐車場は満杯ですぐに車を停めることができませんでした。時間がないし、どうしようかと思っていたら、たまたま1台車が出てくれて、そこに車を置くことができました。

ファーム富田は観光客でごったがえしていました。観光バスを仕立ててきたおじさんおばさんのツアーもかなり入っていたかと思いますが、観光客の会話を聞いていると、中国語だとか韓国語がとても多い。つまり、かなり近隣アジア諸国からの観光客も入っているようです。もっとも多かったのは中国からのツアー客ではなかったのでしょうか。さすがに近年、経済発展目覚しい中国の勢いってのをこんなところでも、目の当たりにしました。

とりあえずは、ラベンダーということで、倖の畑に。一面に紫色(というよりラベンダー色といったほうが適切かな?)に広がる、遅咲きのラベンダーが、香しく風に揺られていました。ラベンダーの花の見ごろは、6月の下旬から7月の上旬くらいと言われているので、本当ならもっと早い時期に来られればなぁという気持ちはあったのですが、まぁ、ここに来て、こうやって見ることができただけでも、良しとしなければいけませんか・・・。

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■ファーム富田 秋彩の畑のサルビアなど

ラベンダーやポピーやサルビアなど色とりどりの花畑を撮影していると、あっという間に、デジカメのメモリカードと時間がいっぱいになってしまいました。それでも、短い時間でファーム内を一巡してきました。タイムアップの時間間際なのですが、まだ、昼ごはんも食べていない。しかし、その時間を確保することは難しい。とはいえ、何も買わない食べないで帰路に着くというのも余りにもさびしいので、ショップでラベンダーソフトクリームを買って食べました。1個250円のラベンダー色をしたこのソフトクリームは、ラベンダーの淡い香りが漂う逸品です。ショップの前の木陰で、ソフトクリームを食べつつ、はるか十勝連峰を望みながら一息(約10分)だけついて、このPrivate Summer  Vacation もとい、弾丸ヴァケイションは札幌に戻る予定の時間を迎えました。

ファーム富田を出発したのは、予定の時間を少しオーバーした午後2時半過ぎ、カーナビで帰りの距離を試算すると、120kmでした。ちょっと山越えにはなりますが、道央道三笠インター経由で、午後4時30分頃には札幌に戻れるというのが、カーナビの予測でした。

出張から起算して、3泊4日の旅でしたが、何が一番疲れたかって、このブログの原稿を毎日書いたことでした。できれば、「シリーズっぽくやってみようか!」なんて気負っていたものですから、文章は長くなるし、「臨場感も盛り込めたらいいかな?」な~んて考えちゃったりしたものですから、何か目にとまった出来事があったりするとすぐ携帯に書き込むだの、列車での移動のときは、始発から終点までずっと携帯メールを使っての原稿書きに没頭していました。

これまでの旅のスタイルならば、移動時というのは、ぼぅ~っと遠くを眺めていたり、音楽を聴いたりとリラックスタイムだったのですが、今回の旅の最後の方はだんだんストレスが溜まってくるような感じでした。ですから、このブログをはじめるときに自分で書いたように、余り気負わない様にしなければ続かないということが、身にしみたような気がします。いやぁ、しんどかった。これからは、原稿の更新はペースダウンしなければ・・・。それでは、また、そのうちに。

追伸:札幌から美瑛・富良野を7~8時間で観光してこようという考え自体が間違っていました。北海道の広さをなめていました。申し訳ありませんでした。(誰に謝っているん?)いやいや、これも自分としての反省です。

(写真先頭は、ファーム富田 倖の畑のラベンダー)

(次の写真は、ファーム富田 秋彩の畑から十勝岳連峰を望む)

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花人街道:その1 美瑛

ケンとメリーの木

セブンスターの木

美瑛のひまわり畑

札幌の夜が明け、土曜日は快晴でした。眠い目をこすりながら、6時に起床。この日は今回の北海道行きが決まった時点で、Private Summer  Vacation にしようと決めていました。サマーバケーション?バケーションにしては1日と短いし、夏休みなら私的に決まっているだろう・・・と思われるかも知れませんが、まぁ、これは、家族サービスでもなく、純粋に自分のための休みにしようという計画で、個人的にレンタカーを借りて、富良野・美瑛あたりに行ってみようと考えていました。

この日は東京に戻り、それも翌日に余り影響を及ぼさない程度の時間に自宅に戻るという前提のもと、逆算していくと、午後9時台に自宅に戻るには、新千歳を少なくても午後6時30分の飛行機で発たねばならない。そのためには、札幌駅午後5時25分の快速エアポートが最終である。レンタカー店から札幌駅まで、荷物をしょっていると、20分くらいかかるだろうから、ぎりぎり午後5時には、レンタカー店に車を戻さねばならない。どうです、この緻密な読み。

ところが、肝心の富良野・美瑛までどのくらいかかるのかを計算していないのですから、ほんといい加減ですね。自分としては、1時間ちょいくらいで行くのかなとか思っていたのですが、前回登場した札幌の友人が、「ウチの会社の人がこの前、美瑛に行ってきたそうだけど、高速使って3時間くらいかかったとか言っていたよ」と言うのです。「ええっ!?、レンタカーを借りてる時間が8時間だから、現地に2時間しかいられないよ~」とちょっと困惑・・・。しかしまぁ、いまさら方向転換もできないし、とりあえず、がんばっていきまっしょい!ということにしました。

9時スタートの予定でしたが、ちょっと遅れて9時30分に札幌をスタートしました。まず、美瑛に行ってみようと思い、カーナビのセットをして距離を計算させたところ、約140kmくらいでした。到着予定は11時45分で、2時間15分はやっぱりかかるのかと思いつつ出発。現地でたいしたことはできそうもないなと思いましたが、まぁ、夏の北海道にドライブに来たと(ドライブに限定すると一人でというのが玉に瑕ですがね)思って、美瑛を目指して走りました。後で、思ったことですが、カーナビで最初の目的地を美瑛と設定したために、富良野から美瑛にというコース設定した場合より、高速料金を倍以上も払う羽目になりました。なぜなら、札幌から高速で旭川まで行って、そこから折り返して国道237号線で美瑛に行くというコース取りをカーナビがするものですから・・・(最近、機械のいう通り、鵜呑みにする癖がついているのか、事前にちょっと地図を確認すれば、不合理さは分かったはずなんですけどね・・・)でも、道央自動車道は全く渋滞もなく、気持ちよく車を飛ばすことができました。

JR富良野線美瑛駅に着いたのは、予定通り午前11時45分でした。まず、観光案内所に行って、観光マップをもらい、丘のまち美瑛をサイクリングでも・・・と思っては見たのですが、やはり時間がないので、目ぼしいところを車で回って、富良野に移動しようと軌道修正しました。

やっぱり美瑛の丘の景観は見事です。まるで、絵画を見ているようだと言っても過言ではありません。この日は天候にも恵まれましたので、きりっと清涼感のある風景を満喫することができました。美瑛で訪れた名所は、ケンとメリーの木やセブンスターの木といったテレビコマーシャルで有名になった木たちと、ソフィア・ローレン主演の映画「ひまわり」でスクリーン一面に映し出されたひまわり畑のような・・・とまではいきませんが、余りにも鮮やかだったので、ここ美瑛のひまわり畑にも足を止めて、シャッターを切ってきました。本当は緩やかな癒しの時間に浸りながら、ゆったりとした時の流れを楽しむというのがベストなのでしょうが・・・。ここで、美瑛の時間はタイムアップとなりました。さあ、この弾丸ヴァケイション?の次の目的地は富良野です。

(写真上は、ケンとメリーの木)

(写真中は、セブンスターの木)

(写真下は、美瑛のひまわり畑にて)

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2005年8月 6日 (土)

友遠方より来る~札幌編

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札幌にやってきました。北海道に来た時は、直接、ここでの仕事がなくても、少し足を延ばせば行けるかなって時は、極力足を運ぶ様にしています。その訳は、まず、この街が好きだからということですかね。でも、一番大きな理由は、元同僚で現在は転職して札幌の会社で働いている旧友がいて、たまに、僕が北海道を訪れた時くらい旧交をあたためようじゃあないのという約束をしているやつがいるということですかねぇ。(札幌では、他の飲み友達がいないからという説もある)だから、少ない北海道への出張のタイミングで、お互いの都合の許す限りにおいて、ぶっちゃけて言えば、飲みに行ってま~す。今回も会社の都合で、行き帰りともに新千歳空港経由だったので、帰りにちょっと寄り道をすることにしました。(もちろん、寄り道にかかる一切の費用は自腹です。ウチの会社はそれほど気前良くありませんから…)

金曜日の札幌は気温が32℃にもなったそうで、僕が札幌駅に降り立った夕方6時過ぎでも27℃あって、ちょっと蒸し暑いかな?って感じでした。ですから、さっぽろ夏まつりの催しで、屋外大ビアガーデンと化した大通公園で、ビールでもと思っていたのですが、友人が到着した午後7時過ぎには、広い会場のどこも満杯で並んで順番を待つ人でごった返していました。友人によると、この日は特に人出が多いらしい。札幌は所謂、お盆の時期を過ぎると秋になるので、夏の終わりにむけて、観光客も結構入っているのでは…ということで、ビアガーデンは早々に諦め、友人おすすめのすすきののお店で旧交をあたためることにしました。

すすきのはさすが、北日本一の歓楽街だけあって、ありとあらゆるジャンルのお店がありますが、新宿歌舞伎町の様に殺気立っていないのがいいですね。まぁ、酒が飲めれば、理由はともかく・・・ということで、札幌の夜を久々に楽しむことができました。「友遠方より来る、亦楽しからずや」とは孔子様がおっしゃったことば、僕はきっと友人もそう思ってくれているに違いないと信じて・・・いますが、何件もはしごを重ねていっているうちに、「こいつ、うぜぇ、もう、来んな」と思われないように、旅先で余り羽目をはずしすぎてもいけませんね。しかし、結局今回も、友人を午前様にしてしまいました。

(写真上は、JR札幌駅)

(写真下は、大通り公園・ビアガーデン会場)

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2005年8月 5日 (金)

銀河鉄道

岡女堂駅の駅名板

岡女堂駅

ふるさと鉄道銀河線

たまに、仕事でレンタカーを使うことがあります。まぁ、コストと効率ってことを考えてのことですけどね。昨日もレンタカーを使ったのですが、北海道のそれも夏のシーズンのレンタカー料金は6時間でも12時間も同じなので、それならばと、返却する時間を遅くしておきました。
この日は、仕事を午後2時くらいにアップすることができたので、返却予定の午後5時までの3時間を使って近場でどこか、いいところはないものか一思案していました。しかし、観光地に行くとしても、とても3時間で堪能できるところは見当たりません。

そこで、以前、北海道に来た時に買った本(北海道」列車の旅 矢野直美著)に、帯広の近くにふるさと銀河線というのがあって、そこに会社のロゴマークが駅名板に使われている駅があると紹介されていたことを思い出し、そこを訪ねてみようかなと思ったのです。約1時間余り、車をとばして、たどり着いた岡女堂駅は原野の中にぽつんと佇んでいて、あたりは静寂が漂って…というのを期待していたのですが、実際はすぐ傍を国道242号線が走っていて、結構交通量も多く静かとは言えませんでした。

駅に併設して岡女堂の社屋があって(正確に言えば、駅が会社に併設されているといった方がよい)、観光客相手のお店やテーマ館のようなものがありましたが、それらには目もくれず、まとわりつくクモの巣なんかものともせず、駅に出てみました。岡女堂駅は無人駅で気が遠くなる程列車が来ません。ここでぼーっとしていても仕方がないので、帰りがてら、この鉄道のターミナルでもある池田駅に寄って、この路線を走っている気動車の写真でも撮るかってことにしました。

池田駅

■写真中段は、ふるさと鉄道銀河線のターミナルの池田駅ー端っこに小さくディーゼルカーが見える

ふるさと銀河線のホームは池田駅の端っこにあり、そこにぽつんと気動車が1両、静かに発車の時間を待っていました。中にはまだ誰も乗っていませんでしたが、外では大学生くらいの女の子(女の人って言わなきゃダメですね)が1人発車を待っていました。僕が撮影のために、近づいていったら、「こんにちは」と挨拶してくれました。

やっぱり北海道はいいなぁ。東京では、あり得ない世界がまだ残っているんだもの。一人旅だとこんなちょっとしたことでも嬉しいものです。挨拶をきっかけに少しお話しができました。荷物を一杯持っていたので内地からの旅行者かなって思っていたのですが、北海道の人で池田には友人のところに用事で来たのだとか。これからふるさと銀河線でまた次の場所に行くのだそうです。別れ際に、どちらからともなく「じゃあ、気をつけて」とにっこり。暑い夏の日でした。

(写真先頭:上は、岡女堂駅の駅名板)

(写真先頭:中は、岡女堂駅全景  -後ろに岡女堂の社屋が見える- )

(写真先頭:下は、池田駅に佇むふるさと銀河線の気動車)

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2005年8月 4日 (木)

モール温泉って?

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昨日は、羽田空港がどうしたとかスーパーシートがどうだとか、北海道に来たってだけで、いったいキミは何処にいるのって思ってくれていたアナタ。お待たせしました(って、もったいをつけなくてもいいですね。)現在、帯広のホテルにて、この原稿を書いてます。北海道の中では、プライベートも含めて(といっても0回だけど)この帯広に来て、泊まるのも2回目です。1回目の訪問も去年でしたから、たて続け的に2回ってとこでしょうか。

帯広って、「何が有名なの?」ってホテルの人に聞いたら、「豚丼」と教えてくれた。「豚丼って、牛丼の豚版かな?」って聞いたら、「そんな感じです」と。「食べるとすぐ分かりますよ」とおっしゃる。「そりゃ、そうですけど・・・」それで、「いいお店は?」との質問に、「この並びにある『ぱんちょう』さん有名ですよ」とのこと・・・。そういえば、さっき外に出た時、すぐあったお店に、確か豚丼って文字がおどっていましたね。それじゃ、今日は、試しに食ってみますか。

帯広で2泊するので、通常なら連泊とするところ、宿泊予約サイトで調べたら、帯広は温泉が出るらしい。だったら、温泉に入れるところがいいかなと思うのは人情。それで、1泊目は、ビジネスホテルながら、天然温泉大浴場ありのキャッチフレーズにつられて、帯広駅前の某十勝なんとかホテルを予約しました。

それで、このあたりの温泉は、植物モール温泉というらしい。モール温泉ってなに?ということで、先ほど登場のホテルの人に聞いてみた?「モール温泉って何ですか」と聞くと、「え、そうですねぇ・・・とちょっと困った様子」それで、「昔の植物が化石になって、それが出てきているようなんです。」とおっしゃる。なので、こちらから、「あぁ、その植物が堆積してできた地層を通って温泉が出るんだ?」と助け舟を出す始末。あのね、キミの地元だろう。頼むよ、ホテルの人!まぁ、心の中の愚痴はこのあたりにして・・・

帯広に湧出している温泉は、十勝川温泉と同じ成分をもつモール温泉とのことですが、地元の十勝川温泉・第一ホテル 和風館 豊洲亭さんのH.P.によると

モール温泉とは、熱水が太古の昔に地下へ沈み堆積してできた植物堆積層を通って湧出したものをいいます。お湯の色は淡い茶色で、お湯の中には沈殿物が見られます。このお湯の中には、植物成分や天然保湿成分が豊富に含まれていて、とても肌にやさしい温泉です。 そのため、モール温泉に入ると肌がすべすべになるので「美人の湯」とも呼ばれています。

だそうです。実際にお風呂に入ると、お湯は茶褐色で、すぐにお肌がすべすべしてきます。お風呂から出た後も、すべすべ感がずっとあります。お湯の香りもなんとなく、フルーティーで、いままで体験したことのないような温泉でした。

(写真上は、モール温泉の大浴場)

(写真下は、JR帯広駅)

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2005年8月 3日 (水)

ひさびさに…その2

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今日の飛行機は久々にスーパーシート(ANAのスーパーシートプレミアム)でした。通常は普通席ですよ、もちろん。今回は、特典でアップグレードした関係で、ちょっと、ゆったりしてきました。(アップグレードの件は、機会があればそのうちに・・・)今回の搭乗機は、B747-400(テクノジャンボ)でした。これの座席数は約570席とのことで、国内最大級の航空機のようです。スーパーシートは、1回の先頭部分にあります。テクノジャンボのスーパーシートの座席数は、目で数えてみたところ、左右に7列ずつで合計26席でした。真ん中の通路を挟んで、一対(即ち2席)×7列×2=28席となるところですが、一番前の席は左右1席ずつとなっており、このため、26席です。

スーパーシート利用時の特典は、まず、一般客より先に優先搭乗ができます。次に、夏なんかは室内では上着って不要ですよね。ですから、普通席の場合なんかは、荷物と一緒に頭上の物入に入れたりしますが、これ、場合によっては、上着がクシャクシャになったりして、後で、軽くヤバく・・・なったりしませんか?スーパーシートの場合は、上着をクローゼットに預かってくれます。(と、断定しましたが、今日までこのことは知りませんでした。着陸する前にC.A.が、預けたお客のところに持ってきてくれるんですね。教えてくれれば、預けたのに・・・例によって、今日も僕のスーツはクシャクシャになってしまいました。)

室内では、C.A.が2名(ひょっとして、もっと多いのかな?)専属で貼りつき、かいがいしく働いてくれます。特にリクエストをしなくても、おしぼり(ちょっと熱いけど)に始まり、ビール・ワインが無料で好きなだけ(良識にまかせますが)飲めます。その後、お菓子(便によっては、食事)が出て、飲み物が出て(これも普通席の紙コップ扱いと違い、アクリルで作られたような透明の容器に、透明なロックアイス〔無論、冷たい飲み物の場合だが・・・〕が浮かべてあってと、こういう点でも庶民とセレブの隔たりが・・・というわけでもないですね。)さらに、配る人数が少ないので、しばらくするとお代わりはどうかと来ます。ここで調子にのって飲みすぎてはいけません。(降機するときにお腹ガバガバになりますよ)それで、最後にキャンディーやマウスウオッシュを配って終了ってところでしょうか。約1時間余りの内にこれくらいですから、サービスとしては結構よろしんじゃあないでしょうか。

たまには、フンパツしてこういうのもいいなと思う反面、普通席がすいているときなんかに、自分の存在を薄くしてただひたすら眠りこける・・・出張って、体だけでなく気疲れもありますから、ただひたすら眠りたいって時は、「あまり、かまわないで・・・」って、これが最高の贅沢かも知れませんよ。

(写真は、スーパーシート席)

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ひさびさに…その1

夏休み出混み合う羽田空港

久々の北海道に来て、久々にブログの更新をしています。朝の東京は晴れ、天気予報によると7時頃にはもう気温30度近くに達しているとの事。羽田発10時のANA59便に乗るために、ラッシュアワーの電車で人混みに揉まれながら、大きな荷物を抱えて、汗だくで空港にやってきました。

着いて驚いたこと(というほどでもないか?)は、さすが夏休み!空港は人であふれかえっていました。いつもは、空港の手荷物検査のところに、自分的には、だいたい25分前に着くというパターンなのです。でも、今日はめずらしく40分前には空港に着いていたとです。ところが、混雑と、手続きに慣れていないから(?)なのか、やたらと時間のかかる人ばかりだったせい(被害妄想?)のために、普通に並んでいて、チケットが買えませんでした・・・ (ヒロシです)。

とはいえ、チケットカウンターのお姉様が、そんな状態の人向けに優先して手続きしてくれましたので、大丈夫でしたけど。てなことで、夏休み中はとにかく余裕を持って行動しましょう!  これ、教訓ってところですかね。

(写真は、夏休で混み合う羽田空港第二ターミナル)
■2007.8.13写真イメージ変更

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2005年7月27日 (水)

日田にて

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台風7号が夜半には本土を直撃するかも知れないとのニュースに少し気を揉みつつも、羽田から福岡空港を経由して、昨日、大分県は日田に行ってきました。東京を出発した時は大雨でビショビショになりましたが、九州に着いたら雲ひとつない(というとオーバーか?)快晴でした。一仕事終えて、今回のねぐらの博多へ戻る時にJR九州の特急「ゆふいんの森号」に乗りました。このリゾート特急の中では、地ビール(500円)とか由布院で作られたとの生ハム(450円)とか地鶏のモモ肉の薫製(450円)なんかが、ビュッフェで販売されています。なので、試しにいただいてみたのですが、これがなかなかの美味なのです。ついついビールが進んでしまい、この後の中洲での食事(?)に、はずみがついてしまいました。

(写真は、日田駅の特急「ゆふいんの森」)

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