エッセイ

2009年4月27日 (月)

4度目の出雲

出雲駅

久しぶりに出雲に行った。多分、4度目だと思う。「多分」というのは、記憶を辿ればということで、正確には記録を見ないと分からない。これだけ出雲に来ているというのに、駅と目的地の往復だけという気もする。

神話の国のシンボル・出雲大社にも行ったことがない。出雲大社は縁結びの神様だそうだが、縁結び自体にもう縁がないので行ってもしょうがない・・・というのが、行かない理由ではない。それに、行かないのではなくて、行けないのである。兎に角、出雲に来たときには、何故か、遊んでいる暇がない。仕事して、昼メシ食って、移動。だいたいいつもこんなパターンになってしまう。

何にも、出雲らしいことが出来ないのもくやしいので、昼メシだけは「出雲そば」を食べることにした。どうせ食べるなら、少しは名の通ったお店で食べようかと調べてみた。老舗だという、創業220年の歴史を誇る「荒木屋」さんとか、おそばを皇室に献上したこともあるという「羽根屋」さんなどがいいねぇと同僚とのコンセンサスもばっちりだ。しかしというか、やはりというべきか、そんな時間はどこにもない。ということで、結局、出雲市駅内にある「出雲そば 黒崎」というそば屋に入った。多分、老舗ではないのだろうと思いつつ・・・。

ここで注文したのが「割子そば&しじみセット」。お代は900円也のメニュー。ところで、割子そばってどうやって食べるのか知ってます?割子そばというのは、わんこそばが3段になったような感じで、それに冷たいそばつゆをかけて食べるのだが、そばの上にお好みで薬味を乗せて、先ずは1段目のお椀にそばつゆを回しかける。

1段目を食べ終わったら、残ったつゆを次の段にかける。かつて松江にもいたことがあるという同僚がそうやっており、実際のところ「ホンマかいな」と思ったが、どうもこれが正式の流儀らしい。2段目が終ると3段目も同じ様にやる。ただ、3段目ともなると、さすがにつゆが足りなくなるので、こういう場合は、少しずつ足して良い。らしい。

さて、注文したのは、「割子そば&しじみセット」というセットメニューである。他に何がついてくるかといえば、「しじみ汁」だ。NHKの朝ドラで、この3月まで放映されていた「だんだん」の中で、よく登場した「アレ」である。勿論、マナカナがやっていたバンドのことではない。これは蛇足かな?

しじみと言えば、宍道湖の名産。宍道湖では、粒が大きく、身は肉厚のヤマトシジミが取れる。厳密に言えば、お隣の松江の名物ということになるかも知れないが、細かいことを言うのはよそう。因みに、このしじみの旬は春だそうで、「しじみ汁」を美味しくいただくには、絶好の季節であったようだ。たまたま。

「兎に角、出雲に来たときには、遊んでいる暇がない」とかなんとか言いながら、結構、楽しんでいるんじゃないの?と言われそうだが、本当に暇がない。出雲市駅に10時半に着き、それから段取り通り仕事をこなして、そのうえ食事まで取って、出雲市駅13時33分発の「やくも20号」で岡山へ。岡山で13分の待ち合わせの後、新幹線で新尾道に移動。

そうしないと、次の相手との約束の時間に間に合わない。そこまでしなくても・・・といわれそうなくらいギリギリのスケジュールで、今回のツアーは動くことになっている。そんな綱渡りをしながら、翌日の高知まで無事行けるかなと思いながら、接続と接続の合間を駆ける。今回はそんな日程になってしまった。だから、もう一度言っておこう。兎に角、出雲に来た時は遊ぶ暇もない。もし次があれば、今度こそ出雲大社くらい行ってみたい。

(写真は、出雲大社を模して作られたというJR出雲市駅)

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2008年7月 9日 (水)

美しき蒼き島から

伊良部島9

伊良部島8

ANAのプレミアムメンバー向けの季刊誌に、AZURE(アズール)というのがある。これは、ANAのプラチナメンバー以上のハイステータス会員向けのサービスの一つで、毎四半期末に会員の自宅に送られる。6月末に届いた2008年夏号をパラパラとめくっていたら、「世界で一番美しい空港」の正体って何?という記事が目に止まった。出だしにはこんな風に書いてある。

沖縄のはるか南方、宮古島の対岸にある下地島(しもじしま)は、珊瑚礁で囲まれたなんとも美しい島。リゾートとしては未開発で、観光客はほとんど見られず、海は極めて澄んでいる。が、そんな美しい海の上を、綺麗な弧を描いて頭上に迫るA320型機-。滑走路に着陸するも、再びフルスロットルでテイクオフ。いわゆる「タッチアンドゴーが繰り返される。

少し前までは、北海道で仕事をしていたのに、今度は石垣に行けという。最初に石垣島に行ったとき、石垣島など多分、これが最初で最後だろうと思っていたのに、ここ3年で3回目・・・。ということは、1年に一度は足を運んでいるという計算になる。これも巡り合わせというべきなのか、縁(えにし)とは、なんとも不思議なものである。

そのうえ、今回はその前に宮古島にも行くハメになった。このくそ暑い夏にである。「マリンスポーツを楽しむためにやってきました」という出で立ちなら、なんとなく馴染めそうな感じもするのだが、こちらの格好はスーツにネクタイ。仕事で来たのだから、当然と言えば当然なのだが、同じ飛行機の中をスミズミまで見渡したとしても、そんなヘンな格好をしている人間は、私と今回の相方以外誰もいなかった・・・ハズである。

こうして、宮古島までやってきた。天気は晴れ。気温33度。梅雨の明けた南国の空にはまばゆいばかりの日差しが溢れていた。ただ、日向を歩いていると確かに暑いが、日陰に入るとスッと涼しく感じられる。それに常時、風がそよそよと吹いているせいか不快感はさほどでもない。東京の夏の方がよほど不快だということを、こちらに来て強く思った。

伊良部島2

■だんだん離れていく平良港

宮古での仕事が思いの外早く片付いたので、街中から港まで歩いてみることにした。宮古島の拠点港は平良(ひらら)港という。てっきり宮古島港かと思ったら、そうではなかった。多分、昔の行政区画名を名乗っているんだろうと勝手に納得することにした。この平良港から対岸(?)の伊良部島にある佐良浜港に向けて、カーフェリーや高速船が20分から30分おきに出ている。港にある乗船券売場で聞いたところによると、高速船なら伊良部島まで10分くらいで行くらしい。しかしながら、私が港に来た時は、ちょうど高速船が出発したばかりで、次の高速船までは40分ほど待たねばならなかった。

さて、どうしたものかと思いあぐねていると、乗船券乗り場のご婦人から、急げばフェリーに乗れるからと促された。ちょうど13時50分発のカーフェリーが出港する間際で、「あの、フェリーは次の高速船より前に島に着くから」という。そんなことから、何だか追い立てられるようにカーフェリーに駆け込んだ。乗船の目的は特になし。エメラルドグリーンの海を船で島に渡りたかった。ただ、それだけ。時間にそれほどの余裕がないので、そのまま折り返して、宮古まで戻ってきてもよかった。

旧式の冷房機が室内をゆるく冷やすキャビンから、潮風に吹かれようとデッキに出てみる。南国の空は気まぐれだ。すごくいい天気のはずが、時折、急な雨が混じる。見上げると、真上から後方にかけて、今にもシャワーOKと言わんばかりの黒い雲がかかっていた。

伊良部島1

■フェリーから眺める伊良部島全景

しばらく、船の後ろ側から離れていく宮古島を眺めていたが、15分くらいして前方にポジションチェンジしてみたら、乗船前は彼方に見えていた伊良部島がもう間近に迫っていた。この段階では伊良部島に関しては知識ゼロ。「多分、そんなに大きな島ではないのだろう・・・」くらいのアバウトな感覚のまま、佐良浜港に接岸したフェリーから降りた。

まず、乗船券売り場に行ってから、帰りの便をチェックする。高速船なら、フェリー乗り場から500mくらい先にある伊良部離島振興総合センターに行けば乗れると教えられる。港にある観光案内ボードの前で、相方と「さぁ、これからどうする」と相談した。宮古島を発つ飛行機の時間から逆算して、滞在のリミットは午後4時くらいまでだろう。そうすると約1時間半くらいの持ち時間だな・・・という結論が導けた。しかし、ここは離島。何も考えずにやってきた旅行者に、安く便利に運んでくれる公共交通機関など容易に見つかる筈はなかった。

思案顔で立ち尽くしていたところ、こちらの動向を気にしている1台のタクシーがいることに気がついた。「どうせ、すぐ帰るから・・・」と思っていたので、タクシーに乗るつもりなどサラサラなかった。しばらく、伊良部島の観光案内ボードを眺めていたところ、そのタクシーの運転手さんは、こちらの思っていることを察したらしく、どこかに向けて車を出そうと動き出した。

伊良部島8

■港に設置されていた伊良部島観光案内ボード

タクシーに去られてしまうと、いよいよ宮古に帰るしかなくなってしまう。とはいえ、周りを見渡しても、どうもタクシーを使うしか手がなさそうだった。それに、どうせ小さな島だから、タクシーで動いても大したことはなかろうという計算も働いた。なので、動き始めたタクシーを制して、「島を一周するといくらくらい?」と運転手さんに聞いてみた。因みに、伊良部島では観光タクシーというものがないらしく、何時間コースでいくらという料金体系ではなく、全てメーターによるカウントでの支払いとなる。

運転手さんによれば、「一周だと6000円くらいかな」という。相方と割勘にすると比較的妥当なところかと思われた。では、時間はどうかと尋ねてみた。何故なら、島の案内ボードには、島一周には2時間半くらいかかると書いてあったからだ。「午後4時10分の船でどうしても帰りたい。それでも主だったところは行けるか?」と交渉してみたところ、大丈夫との返事だった。これにて、交渉成立。こうして、予期もしなかった伊良部島巡りが実現することになった。

運転手さんは、それはそれは饒舌な人で、言葉に気を遣いつつも、語尾はやっぱり「○○サ~」という沖縄訛りの混じる解説を、案内の最中ずっとしてくれた。伊良部島の人口は現在7000人くらいであること。他の池間島とか来馬島と違って、伊良部島は宮古島と橋で結ばれていないため、却って島の伝統や秩序が守られていること。だから、この島には泥棒はいない。他の(宮古と)陸続きになった島では、出かける時は鍵をかけるようになったそうだが、伊良部島では今でも大丈夫なんだということ等々。

民家がたくさん見渡せる集落にさしかかった時、どの家もみんな窓を開け放していることに気づいた。本土なら、この時間でも、窓を締め切ってエアコンでもないと・・・と思うのだが、島の人は、殆どエアコンなど持っていないという。実際、窓を開け放すだけで、海風が吹き抜けて十分過ごしやすいのだそうだ。前にも言及したかも知れないが、島では日向にいるのと日陰にいるのでは全く暑さが違う。本土のように蒸し暑いと感じることはなく、程よく涼しいと感じるのは、多分気のせいではあるまい。

伊良部島4

■フナウサギバナタの展望台。秋に飛来する「サシバ」をかたどって作られた。

伊良部島3

■フナウサギバナタ岬の断崖絶壁から眺める海。もう30cm前に出ると体が宙に舞う。

しばらくタクシーを走らせて、運転手さんは海の見渡せる高台で車を停めた。眼前には何やら鳥をかたどった展望台のようなものがある。運転手さんから、フナウサギバナタの岬だと教えてもらう。鳥の形をした展望台といい、ウサギがどうのこうのという岬の名前といい、鳥がウサギ狩をするような場所なのかと思ったら、そうではなく、土地のことばで「フナ」は船、「ウサギ」は見送る、「バナタ」は岬だと運転手さんが説明してくれた。今では見られなくなったそうだが、かつては、佐良浜の港からカツオ漁の大船団が出ていたのだそうだ。船は、一旦出港すると、半年は漁から戻れない。猟師の家族や親族は航海の無事を祈るために、この岬から、洋上に船の姿が見えなくなるまで見送ったという。そんな思いが込められた海だからなのか、大船団の進行方向にあたる東シナ海の海は、切なくそこはかとなく藍い。断崖絶壁の岬の突端から眺める海は、今まで見てきたどこの海よりも美しかったと言っても、過言ではないだろう。

この後、遠浅で静かな海に転がる大きな岩が特異な風景を見せてくれる佐和田の浜に立ち寄りつつ、伊良部島の隣に位置する下地島に入る。現在、下地島に住む島民の世帯数はゼロだそうだ。尚、下地島には昔から島民がいなかったかといえばそうではなく、空港を建設する際に、沖縄県が全ての島民の土地を収容したので、これに伴って島民は退去したらしい。運転手さんによれば、そのお金で別の場所に移った人もいれば、沖縄らしく(?)手にしたお金を全部使ってしまったという話もあるそうだ。

伊良部島6

■世界で一番美しいと言われる下地島空港のRwy17エンド。エメラルドグリーンの海に伸びる誘導灯

伊良部島5

■DHC-8-400によるタッチアンドゴーの風景。一枚の写真では到底表現はできないが・・・。

島の景勝地を訪ね歩きながら、こうして、雑誌の中でしか見たことのなかった「世界で一番美しい」という下地島空港にやってきた。何か出来すぎの感がしない訳でもないが、まるで運命が導いてくれたようにも思えた。珊瑚礁に囲まれたエメラルドグリーンの海の上から飛行機がスーっと降りてきて、着陸するかと思うと、グングンスピードを上げて、再び青い空に向かって急上昇してゆく。ちょうど、飛行場ではエアーニッポンのDHC-8-400型機が何度もタッチアンドゴーを繰り返していた。運転手さんによると、この訓練による人身事故はないとのことだが、飛行機事故はしょっちゅうだそうだ。着陸がうまくいかず、飛行機がダメになったという程度の事故は、一度や二度ではないらしい。パイロット達は多分、必死の思いで訓練を繰り返しているのだろう。遠い空で旋回する飛行機を目で追いながらそんなことを思う。まるで宝石のような景色が広がる穏やかな空間の中で、こんな厳しい訓練が行われているなんて・・・。そのギャップが何とも不思議に思えた。

伊良部島7

■通り池(海側)

下地島空港でのタッチアンドゴーも見られたことだし、もうそろそろ引き上げてもいいかなと思っていたが、タクシードライバーから現地の観光ガイドと化した運転手さんの薦めにより、もう2箇所ほど島巡りを続けることにした。

下地島空港を西側にぐるりと半周ほど回ると、深いコバルトブルーの海水をたたえている二つの池に行き着く。この池の名は「通り池」という。二つの池と書いたが、実際はひとつにつながっていて、天然の岩の橋によってセパレートされているので、池が二つ並んでいるように見えるだけだ。池だというので、外の世界とは隔絶しているのかと思いきや、底では洞窟で外海とつながっているという。外海が多少荒れていても、通り池の中は波静かだとか。水深も各々40mと50mほどあり、島内外のダイバー達からは、絶好のダイビングスポットとして人気があるらしい。

通り池から渡口の浜に回る。長さ800m、幅50mの真っ白な砂浜とエメラルドグリーンの海のコントラストが美しい。しばらく海でも見ながら寛いでいたいところではあったが、帰りの時間が迫ってきたので、佐良浜港に向かうことにした。普段はそんなにスピードは出さないのだが・・・と運転手さんが言うので、スピードメーターを覗き込んでみたら、時速60kmだった。島の感覚はあくまでも緩やかだった。

港まではまだ少しかかろうかという地点にさしかかった頃、料金メーターは5500円とカウントした。運転手さんが、「後はサービス」と独り言の様に呟いてメーターを倒してくれた。「観光コースを全て回っていないのに、6000円を超える料金は取れない・・・」きっと、そんな思いでメーターを止めたのだろう。こちらへの何気ない気遣いがちょっと嬉しかった。だから、港に着いたとき、「ガイド料がカウントされてなかった様だよ。では、これで丁度だよね・・・」と6000円を渡した。二人を見送るために車から出ていた運転手さんは、逆光の中で穏やかに笑った。1時間半で赤黒く焼けた二つの顔を見比べながら・・・。夕刻とはいえ、まだ日の高い南国の港には、心地よい海風がそよいでいた。

(写真先頭・上下:ANAの季刊誌AZUREとその記事)

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2008年6月14日 (土)

ホットスポット

海峡の湯2

久々に函館にやってきた。どのくらい久々なのかというと、2006年12月以来だから、だいたい1年半ぶりになる。1年半もご無沙汰していると、東京なんかでは景色が一変してしまうなんてことはよくある。ただ、地方都市となるとあまり変化がなく、それが却ってホっとさせてくれたりもする。

函館の街は、少し変化していた。それは、駅前の道路が整然となっていたり、若松町から松風町の交差点にかけての街並みも心なしか綺麗になっていたり、そんなことからもうかがえた。

久々に函館を訪ねるにあたり、馴染みの「常宿」か新規オープンの「異常宿(?)」にするかしばらく決めかねたものの、「温泉あり」という誘い文句に惹かれ、新参者の方になびいた。

海峡の湯3

2008年4月、函館のベイサイドにオープンしたリゾートホテル「ラビスタ函館ベイ」。このホテルは、旧安田倉庫の跡地にある。1階の外壁には創業当時の壁がそのまま使われ、また、全面レンガ色の外観も赤レンガ倉庫群と調和して、大正浪漫の香りさえ醸し出しているようにも思える。

この函館最高層のホテルからは、函館港の眺望が見渡せる。部屋から見下ろす景色もなかなかのものだが、このホテルの最大のセールスポイントは、最上階にある温泉「海峡の湯」にある。

これは、ホテルに置いてあるインフォメーションの受けウリだが、「ラビスタ」とは「眺め」という意味あいの言葉だそうだ。ホテルの最上階(13F)にある展望大浴場は、その「ラビスタ」というネーミングが示す通り、日本海の水平線と眼下に広がる函館のハーバービューを一望できる絶好のロケーションにある。

受け売りついでに、もう少し続けると「海峡の湯」には、源泉掛け流し(檜風呂)や、陶器風呂、樽風呂、岩風呂、タイル風呂など男女とも6つの浴槽がある。特に、港に面した露天風呂は、空と海の青さが視界いっぱいに広がる空中庭園のような爽快感があるという「ウリ」で、このホテルのお勧めのお風呂のようだ。

「海峡の湯」の源泉は、茶褐色に濁っている。多分・・・と思いながら、お湯を舐めてみると、やっぱりしょっぱかった。それもそのはず、ここのお湯は、ナトリウム-塩化物強塩泉だった。効能は、神経痛、筋肉痛、関節痛、冷え性など。入浴すると、塩分が皮膚に付着して入浴後の保温効果が高く、体の芯までよく暖まること請け合いだそうだ。

海峡の湯1

話は変わるが、何度も同じところに通う様になると、何となく馴染みというものができる。函館を訪ねた回数が、他の出張先と比べて格段に多かったせいか、飲み屋のレパートリーには事欠かなくなった。

2006年の夏頃だったと思うが、同僚と食事をしながら呑んだ後に「寝る前にもう1軒行こうか」と話がまとまり、ショットバーを探した。しかし、それらしいお店はなかなか見つからず、また、ほろ酔い加減も手伝って、街中をブラブラ、ふらふら彷徨っていた。

しばらくして、1件のバーらしきお店の看板を見つけた。ただ、知らない街で、知らないお店に入るのは少し勇気がいるもので、入ろうか入るまいか何度かお店の前を行ったり来たりしていた。

涼を取るためなのか、そのお店のドアが開け放しになっていたので、お店の様子を窺うことができた。幸いというべきかどうなのか、お店の中には、着物姿の女性二人と年配の男性客が一人だけ。こちらの方が多勢につき「まぁ、入るか」ということになった。探していたのがショットバーだとすると、とても似ても似つかない店ではあったが・・・。

そのお店は、どちらかというとスナック風のお店で、年配のママと従業員の(そこそこ)若い娘が二人でやっていた。ママが年配の先客のお相手をしていたからか、それとも、その先客に比して圧倒的にこちらが若かったからか理由は定かではないが、とにかく、その若い方の娘がこちらのお相手をしてくれた。彼女の名前は、「サユリ」ちゃんと言った。

サユリちゃんは、それほど美貌麗しき・・・という娘ではなかったが、中年の男どもの扱いは天才的だった。そのうえ、天然ボケがすごく、真面目なのか惚けているのか分らないままいつの間にか、彼女の術中に落ちてしまう。交わした会話の内容はもうよく覚えていないが、何となくほっとする・・・そんな感じの娘だった。

お店に行くたびに「初めてですか」とくる。しばらく顔を見せないと、すっかり顔を忘れるらしい。客商売のくせに・・・。だから、一度賭けをした。「今度来た時に顔を忘れていたら、もう、来ねぇ。今度、いつ来るかは知らないけど」そんな他愛もない賭けだった。

その年の冬、半年ぶりに何の予告もなく、そのお店を訪ねてみた。ちょっと意地悪して、初めてのお客らしく装いながら・・・。でも、その時はサユリちゃんは、僕たちのことを覚えていた(ようだ)。多少、自信なさげではあったが・・・。こうして、このお店は、函館における僕らのほっとスポットになった。

サユリちゃんが、僕たちのことを忘れずにいてくれる様になってから1年半の歳月が流れた。久しぶりの函館の夜、お店を訪ねてみた。彼女が僕達を「絶対忘れているだろう」と期待して・・・。

しかし、彼女はもうお店にいなかった。1年前に昼間の仕事が決まったということだった。それでも、いつものカウンター席に腰を落ち着けた。ただ、サユリちゃんのいない空間は、もう僕らの場所ではないように思えた。

函館に来るたび、彼女はどうしているかなと懐かしく思う。頑張れサユリちゃん。また、函館の街のどこかで、ばったり出会うかもよ。でも、キミはボクらのことなどすっかり忘れちゃってるんだろうねぇ・・・。やっぱり。

(写真上・中・下とも、「海峡の湯」から函館港を望む)

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2008年4月26日 (土)

桜吹雪、お見事!

弘前8

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平

桜の花が咲くと「花見がしたいよ~」なんてことを思ったり、花が散りだすと「花見がしたかったよ~」などと後悔してしまう。まこと桜の花とはやっかいなものじゃ。 筆者

朝夕の通勤時に愛でていた(かな?無意識に)望遠の桜を除けば、またもや、今年も近ばの桜には縁が無く、気がつけば、はらはらと風に舞う花びらを徒に見捨つるがごとし。こうして、3月下旬に盛りを迎えた東京の桜の季節はあえなく去っていった。

そう云えば「去年は京都で桜を見たんだよなぁ」と思い返すも、今年はどうもそういう「タナボタ」的なチャンスにも恵まれず、「例年のごとく、今年も余り桜には縁がなかったな」と殆ど諦めていたところ、偶然にも、4月25日に盛岡へ出張する機会が転がり込んできた。

北東北の桜なら、4月の終わりから大型連休までが盛りだと聞いていたこともあり、この千載一遇のチャンスを逃してなるものか(という程力が入っていた訳ではないが・・・)そもそも日帰り出張のところを、個人的に日程を追加して、一度、どうしてもこの季節に行ってみたかった弘前まで足を延ばすことにした。

弘前11

■ボリューム感のある見事な桜

昔の諺に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」というのがある。桜は切ると、そこから腐って枯れるので、切らない方が良いという昔からの教えで、そんなこともあって桜の剪定は避けられてきたそうだ。

ところで、弘前の桜はどこか違うのである。何故か?その秘密は、この地方の名物の一つである「林檎」にあった。

桜の樹の寿命は、手入れをしなければ60年くらいなのだそうだ。手入れを怠れば、樹齢が進むにつれて桜はだんだん弱り、病気などになって枯れてしまう。そこを何とかしなければと考えられた術が、収穫をあげるために林檎でやっていた剪定技術を応用できないかということだった。こうして、弘前の桜は、その試みを施されることになる。古くなった枝は躊躇なく落とし、若い枝を残すという賭けは見事に当たるのである。

世に桜の名所は数多あれど、弘前の桜は他とはちょっと違う。それは何か?答えは、花と花の間に余り隙間がなく、かなりボリューム感があるということ。剪定の結果、必然的に若い枝が多くなる。若い枝には枝の途中にも花が咲く。こうして、まるで毬のような花の塊ができるのだ。

普通、一つの枝に咲く花は、三つかせいぜい四つなのだそうだ。だが、弘前の桜には七つくらいの花が咲く。林檎の剪定を生かしたからなのか、その枝につく桜花の球体は、まるで林檎の実のようにも見える。

弘前4

■園内にはこのような枝垂桜があちこちにある

日本桜名所100選にも選ばれている弘前公園に咲き競う桜は、約50種2600本だという。樹齢100年を超える日本最古のソメイヨシノや、日本で最も太いと云われるソメイヨシノの他にも、それはそれは鮮やかな枝垂桜が目を楽しませてくれる。

弘前公園の桜を撮るなら、弘前城の天守閣は外せないだろう。天守閣をバックに咲き誇るピンクの渦は、お見事と言うほかはあるまい。その他にも、ポトマック河畔のようだと云われる西濠には、「桜のトンネル」があり、アーチ状に植えられた桜の木の下を散策したり、ボートに乗って水面に映る桜の姿を楽しむことができる。

弘前5

■お堀を埋め尽くす桜の花びら

今まで、散り際の桜は、はらはらと宙に舞うものと思っていた。が、弘前の桜は違った。弘前の桜は春風に煽られて、殆ど真横に流れるのである。それも、流れる量が多いので、あたると少し痛い。

桜吹雪なんてのは、遠山の金さんの世界だけかと思っていたが、実際、起こるのだ。ほんの一瞬のうちに、ザーッと大量の花びらが流れる様を目の当たりにすると、なんだろうか、形容しがたい感動を覚えていまう。

遠山の金さんは「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねぇぜ」と啖呵を切るのだが、目の前を横切る本物の桜吹雪は「この桜吹雪を見忘れたぁ言わせねぇぜ」と大見得を切っているようにも思えた。云われるまでもない。一生忘れることはない。たぶん。

(写真先頭は、弘前公園のベストアングル 天守閣と桜)

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2007年8月10日 (金)

滅びゆく橋

タウシュベツ川橋梁1

「幻の橋」と呼ばれている橋があるのをご存知だろうか?

ローマ遺跡を彷彿とさせるその橋は、東大雪の糠平湖という人里離れた人造湖に架かっている。

正式名をタウシュベツ川橋梁といい、旧国鉄士幌線のアーチ橋梁群のひとつである。

タウシュベツ川橋梁は、もともと旧国鉄士幌線が1939年に十勝三股まで開通した際、音更川支流のタウシュベツ川に架けられていたものだ。

1955年、糠平湖が造られるあたり、旧国鉄士幌線は湖を迂回する新線に置き換えられることになった。これが故に、タウシュベツ川橋梁は、鉄道橋としての使命を絶たれ、湖の中にしばし佇むことになった。

むろん、解体される予定もなかったわけではないが、地元の有志による保存活動によって、現在まで形をとどめている。

糠平湖は、電源開発のために造られた人造湖であるために、季節によりその水位は著しく変化する。

雪解け水が湖に注ぎ込む毎年6月頃から、糠平湖の水位は上がり、橋は湖の中に沈んでいく。9月頃には、その殆どが水没してしまうというという。

そして、湖面が凍結する12月から1月には、再びその姿を現す。これが「幻の橋」と呼ばれる所以だ。

タウシュベツ川橋梁は、厳しい自然環境と毎年のように水没を繰り返すことにより、後数年で朽ち果ててしまうと言われている。

しかし、補修をして保存をしようという動きはない。あるがままを受け入れて、いずれ訪れる滅びを受け入れるというのだ。

錆付いた時計が時を刻むことなどもうない。

だが、滅びがあるからこそ美しい。この橋をみているとそう思えてならない。

(写真は、糠平湖にかかるタウシュベツ川橋梁)

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2007年7月31日 (火)

いいえ、どういたしまして・・・

上野駅の高崎線ホームにて

最初の転勤を経験したのは、もうかなり昔の話になる。仕事についた年の夏、群馬県の高崎という街に生まれて初めてやってきた。

上州に昔から伝わる言葉として「かかぁ天下とからっ風」というのがある。ここ上州では、冬になると強く冷たい「からっ風」がしょっちゅう吹き荒れる。そんなこともあって、上州では「からっ風」が強いものの代表格のひとつとして数えられる。事実、「からっ風」の中、それに逆らって歩くのも辛い。だから、逆らっても無駄なものという意味合いもあるのかなとも思う。

さて、それと並び称される「かかぁ」とは、今時の表現を使うなら、もう「どんだけ~」という存在になるのだろうか。後に、この「かかぁ天下」というのが、実は群馬の女性は働き者だという誉め言葉であると分るまでは、所謂、「蚤の夫婦」のように、オスよりもメスの方が体がでかく、カマキリのオスとメスの如く交尾が済むと、メスがオスをムシャムシャと食べてしまう・・・。群馬では、そんな強~い女性ばかりなの?と迷える私は恐怖に慄いていた。

当時、他の多くもそうだったように、高崎の支店も管理職以外の主力は女性陣が担っていた。幸か不幸か、とにもかくにも、私は、この支店に配属された初めての独身男性であった。独身の男性が初めてこの支店に来るという画期的な出来事を、当時の若い(というと語弊があるかも知れないので、比較的ということで手を打とう)女子のメンバーたちは、きっと、期待に胸をときめかせながら、その日を待ち侘びていたに違いない。しかし、あの暑い夏の日を過ぎて、そのときめきがどうなったのか・・・。それは、私には分らない。ただ、こっちにも、サンキューの前に「No」をつけるくらいの権利はあるよねって・・・。

話は変わるが、高崎の支店に異動して、3ヶ月くらいして担当らしい仕事をもらった。この仕事は、支店におけるニュービジネスの成約などを管理する仕事で、1ヶ月に1度くらいは東京のオフィスに出張する機会があった。高崎から上野まで、当時は、まだ上越新幹線が開通しておらず、在来線を利用するしかなかった。それに偉くもない身分としては、規定上、特急電車にさえ乗ることも許されず、今なら45分程の道のりを約2時間もかけて「あかぎ」などの急行電車で行き帰りをした。

当時の急行電車の座席は、全てボックス席(2席ずつ向かい合わせの席)だったと思う。だから、大抵の場合は、誰かと同席になった。当時はそれが普通だったし、向かい合わせに座れば、しばしの旅の道連れと気軽にお喋りでも、ということは珍しくもなかった。

何回目かの出張の帰路、上野駅で電車の発車を待っていたところ、私の向かいに、図らずも外人の女性が座った。今のオフィスなら外人など珍しくもないのだが、当時、高崎にいた自分にとっては、1年に1度あるかないかの出来事だった。

とはいえ、別に困惑はしなかった。というのも、大学時代の語学の先生が、「1年間、私の授業では、日本語は使わない」とやってくれたものだから、単位を取るために、一時期、NHKのラジオ英会話やら、当時文化放送でやっていた「百万人の英語」などを懸命に聞いていたせいもあって、少し英語を聞く耳ができていたから(今はともかく)

しかし、「さわらぬ神に祟りなし」というか、「君子危うきに近寄らず」というか、日本人らしく、しばらくは目立たないように(?)していたのだが、生憎その席には、自分とその外人の彼女と二人しか座っていなかったこともあり、電車が上野を出てしばらくすると、彼女が私に話しかけてきた。

「宇都宮でゲットオフしたいが、このトレインは宇都宮に行くか?」どうも、乗る電車を間違えているようなので、「これは、高崎線なので、宇都宮には行かない」「ネクストの大宮ステイションで、東北線にチェンジしなさい」と教えてあげた。それをきっかけに、しばらく、彼女と雑談をした。

彼女の名前は、もう忘れてしまったが、何でも、オーストラリアの大学生で、日本は初めてだそうで、日本語は全然ダメとのこと。行ったところで、印象に残っているところは、浅草の雷門でとても気にいったと言っていた。日本に8日間ステイして、ファイアーワークスの勉強をするために来たという。

このファイアーワークスという言葉が何のことか分らなくて、彼女が一生懸命説明してくれるのだが、理解できない。そのうち、彼女が「ひゅー、ばーん」とかなんとか言って、手で何か広がるような仕草をしたので、そこで初めて「ああ、花火か」と分った。まぁ、言葉が違っても、お互いに理解しようという気持ちがあれば、大抵のことは通じるものだなと思った。

そうしている内に、もうすぐ大宮に着くというアナウンスが流れ出し、彼女が下車の仕度を始めた。最初は何となくイヤだなと思っていたが、親しくなると何か名残惜しい。彼女もきっとそう思ってくれたに違いない。

ここまでの展開から、最後にきっとお礼が来るだろうから、日本語では「どういたしまして」で締めくくれば、会話としては完璧だと準備していた。いよいよ別れ際、彼女が「親切にどうもありがとう。あなたが教えてくれなかったら、とても困ったわ」とお礼のことばが・・・。僕はよどみもなく、スマートに、そのうえ満面の笑みを湛えながら、彼女に告げた。万端の準備を整えながら、僕の口から吐き出されたスペルは、何故か「No thank you !」だった。

彼女の怪訝そうな顔が、ちょっと気にはなったものの、電車が大宮を出た後も、しばらくは彼女との会話の余韻に浸っていた。ただ、何か引っかかる。No thank・・・ 「あれ?」と思い出すにつけ変な汗が滲みでてきた。「うそっ・・・」と思ったが時すでに遅し。振り返ってみると、思い出に残る花火というのは、夏祭りの風物詩なんかじゃなく、後の祭りの苦笑い・・・だったりして。

(写真は、上野駅の高崎線ホームにて)

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2007年5月13日 (日)

キャンセル待ちとリトルレディ(ver.2007)

富士山

※本稿は、2005年8月23日に掲載したものを、再編集しリニューアルしたものです。本稿を2005年8月23日分として置き換える予定です。

8月も終わりに近づいていた。そのせいもあるのだろうか、週末の東京発福岡行きのANAはすごく混んでいた。おそらく、空いている席はひとつもなかったのではないだろうか。その上、この日は夕方から台風11号の接近が予想されていて、そんなアンラッキーも混みぐあいに拍車をかけているのだろう。

この木曜から金曜にかけて、福岡県直方市に出かけた。今回の仕事で会うクライアントの数は、いつもとは比較にならないくらい多く、何時に仕事が終わるのやらと憂鬱な気持ちが顔をもたげた。いろいろと考えた挙句、というか考えるのが億劫になったからというのが正しいのかも知れないが、ともかく、いつもなら事前に押さえておく、帰路の仮予約はせずにいた。まぁ、福岡には何度も来ているし、当日に予約を取ったり、予約より早い便に変更したりなどはしょっちゅうで、それで困ったこともなかったし、今回も大丈夫だろうと高をくくっていたのだと思う。

思いの外、仕事は順調に進み、13時半には京都に移動する同僚を見送った。僕は、福岡に戻るため、博多行きの電車に乗り込んだ。直方駅13時40分発、2両連結の電車の最後部の席を確保してから、携帯で飛行機の混み具合をチェックしてみた。空港着の予定から考えて、福岡16時30分発のANA260便が取れればベストだったので、早速、予約にかかった。しかし、希望の便は満席・・・。その他の便についても、片っ端からあたってみたが、Oh My GOD!なんと、当日は最終便まで全便満席になっていた。

一瞬、「困った・・・」という三文字が頭の中を巡ったが、気を取りなおしてJALのサイトも確認してみた。だがやはり、こちらも全便満席という最悪の結果に。新幹線や他空港発のANA羽田便についても調べてみたが、最終的には、とにかく「面倒!」という身勝手な論理しか浮かばず、どうせ、他の予約なんか無理だろうと、スカイマークなどその他の航空会社の状況も調べようという気力さえなく、とにかく福岡空港に行ってから考えようという結論に達した。なんとかなるさ・・・」といつもの楽観論で・・・。

羽田空港にて

■テイクオフを待ちながら[イメージ画像]

福岡空港の発券カウンターに着いて、早速、東京行きで最も早い便は空いているかと聞いてみた。北原白秋作「待ちぼうけ」的な僥倖を期待しつつ・・・。しかし、カウンターのお姉さまからは、「あいにく、その便は満席でございます」と予想を裏切らないお答え。そうだろうとは思っていても、やはり少しガクッときた。しかし、そこでめげていても状況が変わるでなし、「その後はどう?」とすかさず聞いてみた。その返事は、「お客様、本日は最終便まで全て満席となっております」とのつれないお言葉・・・。やはりそうかと思った反面、なぜ帰りの便の仮押さえをしておかなかったかと自分の甘さを悔やんだ。

「どうされますか?」と聞かれたので、キャンセル待ちで乗れそうかと逆に聞いてみた。そうしたら、「既に多くの方がキャンセル待ちをされていますので、どの便になると確実にとは言えませんが・・・」とのこと。ということは、乗れたにしても相当空港で待つ覚悟がいるということ。明日は、朝から用事で出かけなければならず、こりゃきついな〜と思ったものの、それより他の選択肢はなく、キャンセル待ちに賭ける以外打つ手はなかったのである。

カウンターのお姉さまから、キャンセル待ちをするにしても航空券を買ってもらわないといけないという説明があり、便名と座席が空欄のチケットを取敢えず買った。その後で、キャンセル待ちに関する説明を受けている時に、「お客様は、プラチナとかブロンズサービスのカードをお持ちではありませんか?」と聞かれた。

忘れていたのだが、そのブロンズサービスのひとつに「空港空席待ち優先取扱」というのがあり、今回はこれが威力を発揮した。というのも、そのおかげで、空席待ち整理券の種別がAとなったのだから。因みに、空席待ちでの案内の順番は、1番目が種別A で、プラチナとかブロンズサービスなどを受けている客(他に、2〜3のサービスが該当)、2番目が種別S、これはスーパーシート希望で、既に一般席の搭乗券自体は持っている客が対象になる。3番目が種別Bで、これは一般の客に適用されるもの。とにかく、種別Aにランクアップしたおかげで、空席待ち客の順番が3人目に繰り上がり、まず、最悪の事態は脱したという安堵感から、ホッと一息つくことができた。

空席待ちの案内は、該当便の出発時刻の15分前からになるとのことで、その時間には案内するカウンターの前あたりにいるように説明があった。その間約45分のインターバルがあったので、ここでやっと遅い昼食をとって、25分くらい前に指定されたカウンター近くに行ってみた。そこでは、既に空席待ちをする人たちが、長い列を作っており、だいたい20分前になった頃に、空席待ちのお客に対するアナウンスが開始された。最初に種別Aのお客様からということで、僕は3番目に呼ばれた。空席待ち整理券の確認をするのでということで、仕切りのために設けられロープをくぐり、行列の前をすり抜けながら、すぐにカウンターの前に通された。その後ろには、少なくても、50〜60人くらいは一般の空席待ちをしている客がいたと思うが、この便の前あたりから、待っていた方もいたのではないかと思うと、何となく申し訳ないなぁとは思いつつ手続きに歩を進めたのである。

カウンターのお姉さまから、「今日は混みあっておりますので、3人掛けの真ん中のお席しかご用意ができません」との説明があったが、キャンセル待ちの身分では、贅沢などもっての外。ちょっと、窮屈だけど、1時間20〜30分の辛抱だと思いながら、受け取ったチケットには12Bと指定がされていた。それを確認して、急ぎ出発ロビーに向かったが、手荷物のチェックを受けて、搭乗口付近に辿り着いた時には、他の乗客の搭乗が開始されていた。

セントレア上空を飛ぶ

■セントレア上空を行く[イメージ画像]

12列A〜Cは、操縦席に向かって左側前方にあり、僕が着いた時は、12Aの座席にはもう小さな女の子が一人で座っていました。飛行機の中で、知らない人と会話をするなどという最近ではあり得ず、通常は、僕も新聞や雑誌を読んだり、携帯音楽プレーヤーで音楽を聴いたりしています。旅の楽しみの一つに、見知らぬ土地で見知らぬ人との触れあいを楽しむという、旧来、旅の中にあった人対人の温もりは何処へやらで、ちょっと寂しい気もするのですが、それも時代の流れということで、まぁ、今日も席で本でも読みながら・・・、席に着くまではそんなことを考えていたのです。

僕が12Bに着席したとき、その隣の12Cにはまだ誰も座っていなかったので、ひょっとして、「この子は親御さんと離れて座っているのかな?」と思ったのです。不安に思っているなら可哀想だし、旅なれた大人として、少しくらい親切心を発揮してやろうかと思い、座ってからすぐに声をかけてみました。すると、この小さな淑女は「ANAキッズらくのり」で、一人で東京まで帰るんだとのお返事・・・。これを契機として、羽田に着くまで機内でずっと相手をさせられる羽目に・・・もとい、お相手をさせていただく栄にあずからせていただくこととなりました。(ホントは、ちょっと疲れていたんですけど・・・)このとき、この小さな淑女とお話したことを少しご紹介しますと・・・

小さな淑女のお名前は、ユメカちゃんと言います。東京の南とか西の方の区に住んでいるという現在小学校2年生の女の子です。暖かい家庭ですくすくと育まれたからでしょうか、とても人懐こい笑顔の天真爛漫なお嬢様です。この夏休みに、福岡か佐賀(どちらかははっきり分からず)のおじいちゃんの所に9日間遊びに行っての帰りだそうです。夏休みも残すところ5日ほどになりますが、自由研究がまだ終わっていないとのこと。自由研究は、紙粘土で蛍を作るらしい。お尻に小さな電球を埋め込んで光るようにするみたいですよ。作業は3日を予定していると教えてくれました。

ユメカちゃんの名前の由来は、ユメカのカをガに変えてフルネームにすると、英語だとDreams come trueの意味になるそうです。親御さんもなかなかひねったね!それから、まだまだ小学校2年生なので、キャラクターのようなものが大好きで、今一番のお気に入りは「シナモン」なのだそうだ。ユメカちゃんは、今回の旅行のお供に、カナブンなのかカブトムシの雌なのかよく分からないが、昆虫のフィギアを持ってきていて、このおかげで、ユメカちゃん自作の即席RPGごっこに、フライトの間中、付き合わされるはめに・・・。羽田に着いた時、C.A.さんから「ユメカちゃん退屈しなくてよかったね」って声をかけられ、ユメカちゃんはご機嫌でしたけど、そのお相手をつとめているこちらが大変・・・。ということもあったのですが、飛行機に乗った際、真ん中の席なので窮屈で困った・・・と思っていたことなんか何処かに忘れて、羽田に着いた時は、退屈も窮屈も感じる暇もないフライトになっていました。

着陸間際には「もし、飛行機が落ちて遭難したら、キミと一緒に逃げよう」(おい、おい、キミ呼ばわりかよ!と思ったりもしましたが・・・)、ずいぶん打ち解けてくれたようでした。飛行機のドアが開いて、席を立とうとした瞬間、小さな淑女は、僕の腕にぎゅっと抱きついて別れを惜しんでくれました。出口に向かって乗客が動き出したので、ユメカちゃんに手を振りながら、「バイバイ、またね」と別れを告げました。出口のドアのところで、C.A.さんから、「ずっと、ユメカちゃんの相手をつとめていただいて、ありがとうございました」とお礼を言われました。「いいえ、私の方こそ、ユメカちゃんから楽しい旅の思い出をいただきました」と、心からそう思いました。

出口のドアのところで、もう一度振り返ると、ユメカちゃんが手を大きく振ってさよならをしてくれました。思いがけず、ちょっと目頭が熱くなってしまいました。「バイバイ、ユメカちゃん。自由研究早く終わるといいね」・・・。後ろ髪を引かれるというのは、こんな気持ちなのかなぁ・・・そんな気持ちを残したまま飛行機を降りました。「さよなら」の呟きは、乗客たちのノイズにかき消されたものの、感傷に浸る心だけは、12Bの座席に残してきました。歩きながら見上げると、同じフライトを終えた乗客たちが作る長い列の向こうには、いつもと同じ濃紺の空が広がっていました。

(写真先頭は、航空機から富士山を望む[イメージ画像])

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2007年4月 2日 (月)

春なのにあきを探して・・・(in Kyoto)

南禅寺山門裏

四季のなかで、京都が一番混み合う時期はいつなのかご存知でしょうか?この季節に、こんな問いかけをしているのだから、正解は春!」なんて考えたアナタ。その答えには「ブブー」と頭の中でブザーを鳴らしてあげます。

京都が最も混雑する時期、それは紅葉の季節「秋」なのです。実際、京の紅葉はすばらしい。洗玉澗(せんぎょくかん)を埋め尽くす真っ赤な楓が見事な東福寺、多宝塔から嵯峨野を一望にでき、季節には伊呂波紅葉(イロハモミジ)や大紅葉(オオモミジ)が鮮やかに色づく常寂光寺、断崖のせり出した「清水の舞台」が紅葉で燃え上がるように包まれる清水寺などなど数え上げればキリがありません。そう、春は秋に次いで二番目に混み合う季節。そのワケは言うまでもなく「桜があるから」ということでしょう。

ず〜っと、前に書いた「Holiday in Kyoto 」への投稿の中で「京都を見て歩く場合の鉄則」なんてのを書いた覚えがありますが、今回もひとつ追加しておきましょう。「直前に思い立っても、春と秋の京都には、宿の『あき』がない」。今回の京都も、もちろん直前に決まったものです。ですが、宿のランクにこだわらなければ、ひとつくらいは・・・なんて思っていましたら「甘い」。

結局、一つもヒットせず、相当探し回ったものの玉砕という憂き目に。仕方なく、大阪まで退却。そこから、翌日、再び京に攻め上る(なんて、別に、戦(いくさ)に来たわけではないんですが・・・)ことと相成りました。ついでに、鉄則がらみで言うなら「混雑が予想されるシーズンは朝早くから動いた方がいい」なんて前回、自分で言っておきながら、この鉄則を無視したために、後々えらい目にあう羽目に・・・。さて、前フリはこのくらいにして、3月31日のことを書きはじめましょうか。

大阪にとったホテルを11時前に出て、JR京都駅に着いたのがちょうど12時くらい。出張の途中なので仕事道具など観光をするには、全く邪魔な重〜い荷物、これをまず何とかしなければなりません。とりあえずコインロッカーを探すことに。

京都駅中央口の改札を出る前、改札から山陰線ホーム寄り、西跨線橋の下あたりから連なるいつもの(というほど利用している訳ではないが・・・)コインロッカーに行ってみた。いつもなら、少しくらいの『あき』はすぐ見つかるのに・・・、え!今日はひとつもない。

次に、京都駅ビル地下、「火の鳥のオブジェ」近くにある大コインロッカーのスペースに行ってみた。丹念に見て回るも、ここにも一つの『あき』も見当たらず。「クッソゥ〜〜〜」と頭に来て、何の根拠もないのに、駅の外のコインロッカーなら(?)と破れかぶれの暴挙にでた。

伊勢丹から京都中央郵便局方面に出て、それから線路に沿って西の方角に行けども行けども、コインロッカーの影さえなく、着いたところがハローワーク。仕方なく「このあたりから、八条口の方にでも回ってみるか」とその考え自体はよかった。だがしかし、ハローワークから先は行き止まりに・・・。ここから八条口に回るには、堀川通りに出るしかないようで、それでは、かなりの大回りになることは容易に分かった。なので、それは諦めて引き返すことに。ここまででも、大幅にロスタイム。あ〜、時間がないのに・・・」という声が脳裏を駆け巡る。

やむをえず、京都駅まで戻ってきたのだが、こういう徒労ってのは無性に疲れる。それに、時間がないと焦って冷静さも欠いていたからか、いつもなら、すぐに見つかる「南北自由通路」が見つからない。そして、何を思ったのか「ホテルグランヴィア京都」寄りの長〜いエスカレーターで、空中径路」とかいう渡り廊下に行った。これで京都駅横断を図ったのだが、これもあえなく失敗。というのは、ここも、京都駅を横断する構造にはなっていなかった。こんな散々な目に遭いながら、最後には、この「空中径路」から「南北自由通路」に出るというアホみたいな大回りをやっちまいました。

最終的に、南北自由通路」から八条口方面に出て、やっと空いているコインロッカーを見つけ、安堵のため息を吐いたのです。コインロッカーの『あき』を探すだけでこのありさまですから、「混雑が予想されるシーズンは朝早くから動いた方がいい」という鉄則を守らなかったしっぺ返しはかなりきっつ~いものになってしまいました。いやはやホントに参りました。で、思ったんです。あき』を探させるのは、季節だけにしてくれぃ・・・」では、次回。

(写真は、南禅寺の桜)

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2007年3月24日 (土)

リ・ゾ・ー・トしてる?

「うちなータイム」という言葉が沖縄にはあるそうで、「ゆるやか」というか、ネガティブに言うなら「ルーズ」ということなのでしょうか?だからというわけでもありませんが、今回の沖縄ツアー(?)は、日頃の累積疲労を一掃!癒しの旅にすべく「てーげー」に、まぁ「のんかー」にいこうか・・・と決めました。

今回は、相棒と一緒に出かけましたので、「さぁ、今夜も島酒かりーさびら」と、夜はやっぱり恒例の酒盛り。沖縄と言えば・・・ということで、泡盛の古酒に浸りました。泡盛は度数の高いお酒ですが、まろやかな口当たりがいいんですね。これが。なんて、グビグビ呑んでいたら、てきめんに酔っ払ってしまいました。沖縄最初の夜は、全室バルコニー付きオーシャンビューで、部屋も広く、リゾート気分満点のラグナガーデンホテルに泊まったのですが、夕食(?)から帰ってきて、気付いたら朝でした。「あぎじゃびよー。もったいねぇ~。」

3月22日朝、まだお酒が抜けきっていない頭をクリアにするために、バスルームでたっぷり(すぎるくらい)汗を流しました。ビジネスホテルなら、バスタブの中で体を洗い、シャワーで流して・・・というのが普通ですが、リゾートホテルのバスは、バスタブの外で体が洗えます。さすが。

さて、コザでの仕事を軽く切り上げて、那覇空港から飛行機で約1時間、430kmほど南西にある石垣島に昨年に引き続いてやって来ました。昨年の2月、初めて石垣島に来て、冬なのに気温が27度もあって驚いたといったことを書きましたが、実は、そう感じる前にもうひとつ驚いたことがありました。それは、飛行機の着陸です。

一年に何度も飛行機に乗っていると、いろんな着陸を経験します。勿論、操縦士のウデにもよりますが、つい「へたくそ・・・」と呟いてしまうような着陸にも遭遇するのですが、ここ石垣では、多分、誰が操縦してもそうなってしまうのでしょう。擬音で表わすなら「ドン」「グゥオー」「キッ」といった感じで、とにかく急ブレーキがかかったような降り方をします。これは、石垣空港の滑走路が1500mと短いためです。ジェット機が飛んでいて、滑走路が1500mしかないのは石垣空港だけのようで、このためこんな忙しない降り方になるみたいです。これには最初、驚きましたが、2度目ともなるとそれにも馴れます。

■玉取崎展望台から平久保崎方面を望む

ハイビスカスの花に囲まれる玉取崎展望台

さて、今回の沖縄ツアーのテーマは「てーげー」ですから、石垣島でも、観光スポットに行かない手はありません。やはり、私にとっては、2度目ということもあり、昨年とは違ったところを訪ねながら、島を一周してみることにしました。(とはいえ、平久保崎方面までは行けませんでしたが)

その途中で、玉取崎展望台に寄ってみました。ホテルでもらった「石垣島タウンガイド」によると、

玉取崎展望台は、石垣市街地から車で40分くらい。石垣島北部の見晴らしのよい高台にあり、左に伊原間湾、正面に平久保崎。右にはサンゴ礁群がみえる。周囲にはハイビスカスが生い茂り、赤と緑のコントラストも美しい。

と紹介されています。訪ねたとき、ハイビスカスはまだ、まばら(洒落にあらず)でしたが、さすがに眺望はすばらしく、特にリーフエッジに波が砕けるさまなどは、なかなかのものがあります。展望台に佇んでしばらく、「とぅるばやー」するのも、たまにはいいんじゃないでしょうか。

■(上下とも)日本百景に選ばれている川平湾

玉取崎展望台を出て、川平湾に再び行ってみました。川平湾のことは、昨年2月18日の記事「美ら島かけあし巡り」のところで紹介しましたので、今回は詳しく書きません。ただ、白い砂浜とエメラルドグリーンの海、湾内に浮かぶ小さな島々・・・ここまでは言う事なしだったのですが、やっぱり、今回も青空には恵まれませんでした。それが残念でした。良い天気のもとで光輝く海というシーンは、またの機会に期待するしかないようでした。

■See You Okinawa (那覇空港を飛び立った飛行機から)

3月23日、午後3時台の飛行機で石垣を離れ、那覇空港で飛行機を乗り継いで羽田へ向かいました。羽田に向かう飛行機から見下ろす沖縄の海は、やはりエメラルドグリーンに輝いていました。強い日差しとふわふわと穏やかな表情の雲、沖縄の空はもう夏でした。

日本の中で、「リゾートとは何処?」と聞かれれば、それはもう、沖縄が一番じゃないでしょうか。やっぱり、リゾートは暖かくて、海が似合って、夕日が映えて、そこに暮らす人たちが優しくて、ゆっくりとした時間が流れている・・・そんな条件を満たすのが、リゾートなんじゃないのかなぁ~、そうするとそんなところは、日本中でもここしかないよなぁ~なんて思いながら、再び窓の外を見遣ると、暮色だった空も、いつしか濃紺に装いを変えていたのです。

(写真先頭は、ラグナガーデンホテルのアトリウムラウンジ)

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2006年7月 2日 (日)

うふふ・・・

シグネット2

シグネット1

早いもので、今年も半分が過ぎてしまいました。

いつもの年とちょっと違って、2月から3月にかけては出かけるのがちょっとキビしい時期があったりして、去年と比べると、今年の旅の回数の方が少ないでしょう。たぶん・・・。しかしながら、オフィスワークの方が多忙を極めたので、仕事という面からだけみると、昨年より格段に忙しかったかな?という感慨に浸る今日この頃です。

ただ、この半年の間に飛行機には良く乗ったなというように思います。そこで、ちょっと勘定してみたところ、上半期の搭乗回数では、昨年の22回に比べて今年は33回と大幅に上回っていました。これは、遠方への出張が多かったからなのか、新幹線でも大丈夫なところを飛行機でということにしたからか、それとも、本来なら宿泊でというところをオフィスにおける日程の都合上、とんぼ返り出張を余儀なくされることが多かったから・・・等、いろいろな理由に思い当たりますが、他にインセンティブが働いたワケとして大きいのが、今年からANAのプラチナサービスが受けられるようになったということがあるように思います。

ANAプラチナサービスとは、ANAグループ便やスターアライアンス加盟航空会社を多く利用している顧客を対象に特典やいろいろなサービスを提供するプログラムのことです。プラチナサービスを受けるためには、ANAやスターアライアンスに加盟している航空会社の便に、マイル積算対象運賃で搭乗し、以下の2つの条件のうちいずれかをクリアしなければなりません。

一つ目の条件は、1年間(対象:1月~12月)のプラチナポイント(プラチナポイントとは、上述した便に搭乗することによって獲得したマイルがポイント換算されて、マイルとは別に登録されているもの)が、50,000ポイント以上になること。もう一つの条件とは、1年間の上述した便の利用回数が50回以上かつプラチナポイントが15,000ポイント以上に達することです。

因みに、ANAの最上級サービスプログラムにダイアモンドサービスと言うのがありますが、これは年間のプラチナポイントが100,000ポイント以上、あるいは年間搭乗回数が120回以上との条件であり、国内のみの航空便利用に限ればまず達成不可能かと思われ、搭乗回数だけで言うなら、1ヶ月平均で10回以上搭乗、言い換えれば、少なくてもどこかを拠点として、そこととどこかの空港を、毎週一往復以上飛行機で飛んでいるという計算になり、よほど特殊なお仕事をされている方以外、まずあり得ないと考えるべきでしょう。

さて、私はというと、昨年のANAの搭乗回数が50回でプラチナポイントが33,098ポイントという回数条件の方をクリアして、プラチナサービスにやっとたどり着いたのですが、これとて、1ヶ月平均4回以上は飛行機に乗らなければ達成できない訳で、普通に仕事をしている人からすれば、常軌を逸しているのかも知れません。

プラチナサービスの主な特典には、次のようなものがあります。

「ご搭乗マイルを100%アップ」・・・搭乗区間の基本マイレージがさらに100%積算されるというものです。例えば、羽田~福岡を株主優待割引で飛ぶと、通常積算されるマイルは424マイルですが、プラチナサービスによって積算されたマイル合計は、990マイルとなります。このため、私の様にしょっちゅう出張(シャレではありません)していると、あっという間に10,000マイルが貯まってしまいます。

「ANAアップグレード券プレゼント」・・・国内線ではスーパーシートプレミアム券として、国際線では国際線アップグレード券として、また、ANA国内線の利用前に空港内の国内線ラウンジ(signet)を、本人以外が利用する場合の利用券として、あるいは、国内線機内販売の支払い時の利用券として、以上3通りに利用できるアップグレード券が6枚もらえます。これによって、既に3回ほどスーパーシートプレミアムを利用しましたが、あまりスーパーシートばかり乗っていると、一般席が窮屈になって仕方がなくなってきますので、消費者金融のCMではありませんが、ご利用は計画的にしたほうがよいと思います。

その他に、スターアライアンスゴールドメンバーとして、優先搭乗サービスを利用して殆ど列に並ぶことなく飛行機に搭乗できたり、チェックインカウンターも別に設けられていて、一般の搭乗客とは違ったサービスを受けることができたりします。

さて、ちょっとお話を変えます。先ほどもチラッとお話ししましたが、最近は、空港内の国内線ラウンジ(signet)を良く使います。ただ、出発間際の数十分というところではあるのですけどね・・・。

ラウンジとは何ぞやという方に少しご説明しておきますと、飛行機を待つ時間を過ごすための休憩室あるいは談話室というところでしょうか。喫茶室というように思われている方も多いと思いますが、もちろんそのような機能も備えていますが、もうちょっといろいろな機能を備えています。

喫茶以外の機能としては、どんなものがあるかというと、羽田空港のシグネットを例にとれば、FAXやコピーなどのビジネス支援器具の設置、Edy利用による有料PCサービス、無線LANによるインターネット接続、インターネットプリントサービスなどのネット利用環境の提供、AV(アダルトの方に非ず)ルームの設置、マッサージチェア、リフレクソロジーサービスの提供(有料:マイルでの支払)、各種新聞、雑誌も取り揃えており、その上、ラウンジ利用客専用の清潔なトイレも用意されていて、至れり尽くせり(とまでいうとオーバーか?)といったところです。(羽田空港のシグネットと地方空港のシグネットでは規模・サービスが違っており、上記はあくまで羽田空港のシグネットのサービスなので誤解なき様・・・)

それでは、シグネットはどこにあるのかというと、新千歳、仙台、成田、羽田(2ヶ所)、小松、大阪伊丹、関西、広島、松山、福岡、鹿児島、沖縄の各空港の待合室内にあります。

全ての空港のシグネットを利用したわけではありませんが、羽田空港に設置されているシグネットに比べて、地方空港のシグネットはかなり小ぶりかと思います。室内に入ると、どの空港のシグネットでもビジネスエリアとラウンジエリアは必ずありますが、地方空港のシグネットは、利用客がちょっと多いと席がなくなるということもあります。

ラウンジエリアのドリンクサービスには、コーヒー、紅茶、日本茶(ヘルシア緑茶もあった)、ウーロン茶、ミネラルウオーター、オレンジ/グレープフルーツジュース、野菜ジュース、ミルク、などのソフトドリンクと生ビール(サーバー設置)が用意してあります。食べ物としては、ビールのおつまみとして小袋入りのスナック菓子程度しかありませんが、プラチナサービスホルダー以上の人には、これらは全て無料で提供されます。

シグネットはいわば会員制のラウンジのようなものなので、エントランスでチェックが入ります。プラチナサービスのご案内パンフによると、「ご利用の際には、受付で、搭乗券と一緒にプラチナサービス利用カードを提示するように」と記載されています。

コンプライアンス意識の高い私(?)としては、これまでずっと、大荷物を抱えていても、カードケースからプラチナサービス利用カードを引っ張り出し、搭乗券を添えて提示して入場していたのです。しかしながら、私がカードを探すためにモタモタしている間に、他の人たちは、搭乗券だけを見せてスーっと入場して行くではありませんか。

え?いいのかな~と思ったり、多分、いろいろなサービスがあるから、その人たちは、多分、搭乗券だけで分るような身分の人たちなのかなぁとか思いながら、ずっと半年くらい、シャイな私としては、誰にもそれを聞けずにいました。

ただ、この半年の観察の結果、どうも両方提示している人が少ないみたいだという結論に達し、この松山出張の折に確認してみようと意を決しました(というほど、力を込めるところではないですが)。しかし、羽田空港のシグネットでの受付では、後から後からどんどん利用客が入ってくるので、結局、切り出せず、人通りの少ない(?)松山空港のシグネットで確認してみることにしました。ただ、お断りしておきますが、羽田を出発する時から、このことをずっと思っていた訳ではありませんよ。もちろん。松山のシグネットに入る前に「あ、そうだ!」と思い出したに過ぎないというだけの話ですからね。なんか、ずっと、それだけを胸に秘めて行動していたのか・・・とか思われると、まるで偏執狂みたいですから・・・。

それで、松山空港のシグネットに入るとき、受付のお姉さまに搭乗券だけを見せたら、「どうぞ」と入場が許された・・・。そのまま入場しようかと思ったのですが、「どうして?」分るのかなとそのワケがどうしても聞きたくなり、ここで初めて聞いてみたのです。

「あの、これだけで分るんですか?」と尋ねたところ、受付のお姉さまは、搭乗券の半券の部分の「搭乗券」と記載された箇所の右斜め下、(マイルを事前登録している場合は、「マイル受付済」の下)にPLTと印字されている箇所を指さして、「ここに、PLTとなっているんですよ。うふふ・・・。」と満面の笑みをたたえながら教えてくれました。

「あ、これで・・・なの・・・」約半年の間、魚の小骨のように私の脳裏に引っかかっていたほんの些細な、それでも私にとって大きなナゾだったこの疑問は、松山空港のシグネットの受付のお姉さまの「うふふ・・・」で、ホットサンドに挟んだチーズのようにとろけてしまったのです。

(写真上は、羽田空港にシグネットの入口)

(写真下は、ビジネスラウンジエリアのようす)

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2006年3月31日 (金)

白木蓮が咲いたら

白木蓮が咲いたら

早いもので、今日で3月も終わりです。この週末を挟んで、翌週から新しい環境を迎える人も多いのではないかと思います。春は出会いと別れが交錯するスクランブル交差点のような季節でもあります。今週は送別の宴の最盛期ということなのか、街のあちこちで、花束を抱えた人たちを見かけました。花束が似合う妙齢の女性から普段はお花など殆ど縁がないであろうオジさんたちまでまちまちでしたが、旅立ちのシーンにお花はとても似合いますよね。

今から、15年くらい前のことになりますが、そのころ僕は、1階にお花やさんが入っていた原宿のオフィスに通っていました。そのオフィスには60人くらいの同僚や上司がいて、男女比はだいたい半々だったような覚えがあります。年齢層などをいえば、男性は30代が中心でほぼ全員が総合職、女性は20代が中心で大半が一般職だったと思います。

総合職である以上、いかなる理由があろうとも異動の辞令に逆らうことはできません。そのオフィスがどんなに居心地が良かろうと、その部署から自分がいなくなったら、そこは立ち行かなくなるぞ・・・なんて自惚れていたとしても、また、そこに別れがたい親密な女(ひと)の存在があろうとも。

まぁ、ですから、異動の内示が発令されてからの数週間は、送別会というタイトルの飲み会が公式、非公式と幾度となく催されていました。その時期には、今までは耳にすることのなかった「ここだけの話」がやたらとあちこちを巡ったり、愚痴や、懺悔や、告白やらをそこらじゅうから聞かされたり、今まで、それほどで仲良くもなかった人と急に(一時的に)仲良くなったり、ちょっと前までの関係はともかく、ひょっとしたら全然、哀しくもないのに別れという響きが醸し出すムードのせいなのか、それとも単にお酒に?なのか、とにかくみんなで酔っていたような気がします。

こんな、殆どアルコール依存症のような数週間を経て、異動していく人たちは、すっかりと身も心も清められ、すっきりとして(?)オフィスでの最終日を迎えるわけです。そして、最終日には、オフィスで全体朝礼があり、全員の前で恒例のお別れのスピーチをします。(それまでの数週間でも、うんざりするくらい別れの挨拶をしていたにもかかわらず)

お別れの挨拶と言えば、例えば、お世話になった上司、同僚にお礼を述べ、仕事上の失敗のこと(稀に成功談もあるが)、そのオフィスでの楽しかったことや哀しかったことなど印象に残ることを一通り述べて、残る人たちのことを気遣う言葉を一言添えて・・・というのが一般的なのですが、この原宿オフィスには、芸達者な人たちが大勢いたこともあって、毎年、そのスピーチの中で数々の名言や迷言が披露されていました。

残念なことに、その名言の数々も大半は忘れてしまいましたけれど、唯一、今でもこの季節になると、思い出してしまうスピーチがあるのです。僕より5年後輩だった彼は、5年間で2つのセクションを担当して、原宿のオフィスを離れることになりました。その彼は、仕事もできて、明るいし、スポーツもなんでもこなす、酒も強いし、歌もそこそこうまい、実家も世田谷だし、顔も小さいし、あまり誉めたくないが、面もまぁいいとくれば、当然、モテた。だから、女の噂は絶えなかった。ちょっと自信過剰ってのが玉に瑕ってところですけどね。

彼のスピーチも、定石どおりお世話になった人たちへのお礼に始まり、このオフィスでの思い出などを淡々と述べていきました。途中までは何の変哲も無いご挨拶だったと思いますが、ひととおりの挨拶を終えたあとで一呼吸おいて、彼は次のように話題を変えました。

「僕は花が好きで、人に花を贈ったり、また自分でも育てたりもしているんですね。ですから、お花がいっせいに咲き競う春は大好きな季節です。ところで、みなさんは東郷神社から明治通りに出たところに、白い花をたくさんつけている木があるのを知っていますか?」

こう云われたときに、僕は「そういえば、あの角っこにあるよなぁ。あれはなんて木なんだろう」なんて思っていました。そして、彼は続けました。

「あの木の名前は、白木蓮というんです。毎年、ちょうどこの季節になって、この白い花をみるたびに、ああ、春がきたんだなぁとそう思いながら、この原宿のオフィスに通ってきていました。そのささやかな楽しみも、今日で最後になってしまいました。」

「ほう~、普段の言動に似合わず、殊勝なことを云っているじゃん」と少し彼を見直しました。さらに、彼は続けました。

「次の春になって、またその次の春がきて、白木蓮の花を見るたびに、僕はこの原宿で過ごした5年間とみなさんのことをきっと思い出すことでしょう。本当にお世話になりました。」

そして、

「来年の春になって、白木蓮の白い花がまた咲いたら、こんなヤツがいたなと僕のことを思い出してくださいね。永遠に・・・とは言いませんけど。」

親密だった女性陣も含めて、彼と一緒に仕事した人たちの99%の人たちにとって、彼のそんな気障なセリフは忘却の彼方でとっくに消滅していることでしょう。でも、白木蓮の白い花が咲く頃、忘れようとして思い出したくもないのに、僕にはその記憶がよみがえってしまうのです。それも、毎年・・・困ったものです。

(写真は、白木蓮の花)

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2006年1月21日 (土)

左?右?

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えー、その乗り物は、アメリカで発明されてから1世紀が過ぎました。最初のお披露目は、1900年のパリの万博であったと言われています。日本で初めて登場したのは、1914年頃の百貨店だったそうです。今は、身近にあって珍しくもなんともありません。しかし、この乗り物、本当は便利で優しい乗り物なんですが、今ではそうではなくなっているように思えます。そのうえ、関東エリアと関西エリアでは「乗り方」が違っているんです。はい、今回は、そんな乗り物についてのお話をしたいと思います。ヒントは、「ハッとして」「ルールやマナー?」です。あなたは、右?左?それとも・・・。

僕は、関東エリアに住んでいるので、駅やオフィスのエスカレーターに乗るときは、何気なく左側に立ってしまいます。理由はと尋ねられると、すぐには思い浮かばないのですが、右側は急ぐ人のために、空けておくというのが一般的というのかルールとかマナーなのかなぁと思っていました。

ところが、関西エリアに入るとこれが、全く逆なんですね。大阪の地下鉄やデパートなどでエスカレーターに乗った時に、つい、うっかり、いつものように左側に寄って立ち止まったりすると、後ろからの殺気(?)にハッとして、左から右に瞬間移動してしまう事がよくあります。

では、同じエスカレーターに乗っても、関東エリアと関西でエリアはどうして立ち位置が違うのでしょうか。そして、それはどっちが正解なんでしょうか?

そんな疑問にまじめに考えている人が他にいるのかどうか、まず、ネットで調べてみましたら、これがまた、結構奇特な方もいらっしゃるようで、いろいろな意見が寄せられていたり、東海道新幹線で東上して、何処が境界線か・・・なんて、もの好き?ですねぇ~というような調査をされているサイトもありました。

エスカレーターはどっちを空けるか・・・なんて特集をしたサイトには、「追い越していく人は、車でいえば追い越し車線を走るのと同じだから、右側を通るべし。だから、立ち位置は左だろう」という道交法を根拠とする意見とか、「大阪万博の年に、世界のルールを調べたら左側を空けるというのが一般的だった。だから、立ち位置は右だ。」というグローバルスタンダード説があったり、その他にも、

「武家社会においては、武士が右側を歩くと刀の鞘が当たって喧嘩になってしまうので、日本では長い間左側通行であったが、昭和24年に道路交通法が改正されて、人は右側、車は左側に変更された。つまり、古い習慣を残しているのが関西で、関東は新しい習慣に従っている。」ことになる。(参考資料「関東と関西こんなに違う辞典」日本博学倶楽部、PHP文庫刊)

といった風土記のようなものを根拠とした説もありました。

いろいろな説や意見を拝見しましたが、どんな説も「なるほど」というほどの説得力はないと思いました。そうなんです。正解なんてありません。本来、エスカレーター上で人が歩くなんてことは、想定されてないと思います。エスカレータと言えども、乗り物であることにかわりはなく、急停止する可能性がある以上その上で歩行する事は危険が伴うのです。

つまり、エスカレーター上では立ち止まるのが正解で、その位置は右でも左でもないということだと思います。日本ではエスカレーターの横に、通常は階段を設けてありますので、急ぐ人はそれを駆け上がればよいと思いますし、エレベーターがあれば、それに乗ればばいいのです。

確かに、エスカレータは2人並んで通れるほどのスペースを設けています。しかし、それは、最近のバリアフリーの進展でも分かるように、ハンディキャップのある方が乗る場合に介添えの人がつくようなケースも考えておかなければいけないだろうし、親御さんが小さいお子さんの手を引くというようなこともあるでしょうから、そのような用途のために、一人分のスペースよりも広く作られているのであって、そうでもなければ、コスト面から考えても、エスカレーターは一人が立てるスペース程度のものが普及していったのではないでしょうか。

東京や大阪では仕事に忙しくて、一本でも早い電車に乗ってとか、人よりも早く目的地についてとか、そういう価値観の人が多いということはよく分かります。でも、エスカレーターは立っていても、目的地に向かって動いているんです。「狭い日本そんなに急いで何処に行く」といった標語が昔ありましたが、エスカレーターに乗ったときくらい、立ち止まる・・・それがルールやマナーになっている社会のほうが、よりベターな社会じゃあないのでしょうか。

Ima畑 hiro三郎でした。

今週のお出かけは、やめにしてオフィスワークに専念することにしたので、今週の記事はな~し・・・。と決め込もうと思っていたのですが、1本もないとがっかりされる方もいるのかなぁと思って(ま、そんなことはないでしょうけどね。自惚れすぎ!)、先週仕入れといた関西ネタでリレーすることにしました。

(写真は、北急千里中央駅でのエスカレーター乗客の様子)

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2006年1月15日 (日)

あの頃の未来に・・・

万博記念公園の太陽の塔

南の海で発生した低気圧がもたらした思いがけないポカポカ陽気に誘われて、千里から東京への帰り道にちょっと寄り道をしようかなという気分になりました。

ちょうど、今回訪ねてきたところが千里ということもあり、そういえば、大阪万博の跡地が確か公園か何かになって保存されていたはずというのを思い出しました。また、昨年は愛・地球博も開催されていた(ちょっと、こじつけっぽいですか・・・)ということもあって、大阪万博以来35年ぶりにちょっくら行ってみるかという気分になりました。大阪モノレールでたった2駅なのでということもあってですが。

大阪万博跡地は、現在は整備されて万博記念公園となっています。1970年当時にはなかった大阪モノレールの万博記念公園駅が最寄りの駅になります。広大な跡地には、自然文化園をはじめとした自然文化施設や、日本民芸館などの文化施設、その他多くのスポーツ施設、レジャー施設などがあります。

万博当時の施設としては、日本庭園、お祭り広場、鉄鋼館などが残されていましたが、季節が冬ということもあってか殆ど見物客もなく、公園の真ん中にぽつんと残された太陽の塔などを見るにつけ、往時の賑わいを知る身からするとなんとも哀れかな・・・という様子でした。ですが、公園には木々と花と水がうまく配置され、緑や花の季節には、きっと、見事な色彩を見せてくれるんだろうなぁと思いました。

ところで、みなさんは大阪万国博覧会をご存知でしょうか?大阪万博は、「人類の進歩と調和」をテーマに、1970年3月14日から9月13日まで吹田市の千里丘陵を会場として催された史上最大の国際博覧会なんです。大阪万博の会期中の入場者は、公式記録で6421万8770人にのぼり、つくば科学万博(1985年)の約2033万人や、愛・地球博(2005年)の2204万9千人を遥かに凌ぐ入場者数を記録しました。

まだ、子供だった僕は、親戚の家に泊まりこんで、春休みで10日くらい、夏休みは何日か忘れてしまいましたが、とにかく万博会場に入り浸っていました。アメリカ館の「月の石」をはじめとして、世界中の国々や国内の有名企業のパビリオンで目の当たりにしたアトラクションや映像は、全てが新鮮で驚きでした。僕たちの未来は、こんなに豊かで明るいんだとワクワクしたのを昨日のことのように思い出します。

さて、あれから.35年の歳月が過ぎました。

70年当時、カセットテープレコーダーは、まだ普及していませんでした。カラーテレビは、まだ贅沢とされていました。飛行機は、まだ普通の人が乗る乗り物ではありませんでした。テレビゲームが登場するのは、もう10年くらい後でしたので、子供たちは日が暮れるまで外で遊んでいました。

久しぶりに、70’EXPO跡地に立って、「あの頃の未来に、僕らは立っているのかなぁ。すべてが思うほど、うまくはいかなみたいだ・・・」と思わず口ずさんでいました。豊かさを追い求めて、たどり着いた未来がこれなのかな・・・と少し朽ちかけたモニュメントを前に、タメ息は少し白く残って、すぐに消えてしまいました。

(写真は、岡本太郎作「太陽の塔」)

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2006年1月 6日 (金)

記録的な冬によせて

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東日本と西日本の昨年12月の月平均気温が、1946年の統計開始以来、戦後の観測史上最低となり、全国的にも85年以来20年ぶりの低温の冬になったと新聞に載っていました。今年の冬は、記録的にも厳しい冬のようです。

ニュースでも、石川県では雪の重みで家が倒壊したとか、秋田新幹線が盛岡~秋田間で不通になったとか、記録的な豪雪の影響が各地に出ていると伝えていました。

雪のないところに住んでいて、仕事場もそこから通勤できる範囲にあるとしたら、その上、出張というものには殆ど縁がなく、仕事で出かけるにしても、遠隔地に行くことはまずないという方にとっては、日本海側で大雪が降ろうが、その影響で交通機関が止まろうが、さして、自らへの影響はないし、仮に大変そうだと思っても、多分実感はないのじゃあないかと思います。

しかし、僕はどうかというと、日本各地の天気がどんな塩梅なのかということは、いつも気にかけていますし、お天気の影響でどんなことが起こっているのかは、とても気になります。僕は首都圏に住んでいますので、もちろん、首都圏の天気予報を確認しますが、それ以外にも、札幌の週間天気予報はどうだろうかとか、新潟の雪の状況はどうだろうかとかやっぱり気になります。

それは、自分がニュースで取り上げられているようなところに行く可能性があるからというだけではなく、大雪のなかで悪戦苦闘してやっとのことで、出張から戻ってきた経験があったり、ニュースなどの映像で自分の良く知っているところなんかが出てきたりすると、とても他人事のようには思えなくなるものなんです。

ですから、豪雪や山形県庄内町の特急脱線転覆事故などの自然災害でお亡くなりになった方には、心からお悔やみを申し上げるとともに、現在でも、豪雪と戦っておられる方々には、是非頑張っていただきたいと思います。

自然の猛威の前では、人間の力は小さいものだし、誰もあらがうことはできません。旅に出れば、いいこともたくさんありますが、たまに、どんでもないことに巻き込まれたりすることもあります。運も味方してくれて、これまではなんとかやって来られていますが、これからも、ゆめゆめ油断することなく、できるだけ無事に旅を終えられるようにしたいと思っています。

(写真は、雪の会津若松駅)

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2005年11月20日 (日)

夜の函館なら・・・

北海道の南の玄関口、函館。

津軽海峡に臨むこの街には、どこかしら異国情緒が漂っています。数多くの坂道や時の流れのなかでひっそりと息づいているレトロな洋館たち、そして潮の香りを運ぶ海風でさえ、旅人たちに旅情と郷愁をくれるでしょう。

この街が、そのむかし日本の窓としての役割を与えられていたからでしょうか、外国からの文化、それも西洋だけでなく中国など東洋の国々からも影響を受け、それが融合して独特のテイストを醸し出しています。

陽の光の中で、歴史をひもときながら歩くのも、この街のひとつのたのし観方ですが、夜のこの街はまた別の顔を見せるのです。

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元町近辺にある3つの教会、一つは、司祭ニコライが伝えたとされる日本初のギリシャ正教会のハリスト正教会(写真上)、二つ目は、十字型をした造りと独特の形をした緑色の屋根が印象的な聖ヨハネ教会(写真中)、明治7年にイギリスの宣教師デニングが来函し伝道したプロテスタントの教会と言われています。そして、三つ目はローマカトリック教会の元町カトリック教会(写真下)です。この六角屋根の上に載った大きな風見鶏が目印のゴシック建築は、2度の焼失のあと大正12年に建築されたもので、祭壇はローマ法皇ベネディクト15世により贈られた珍しいものだそうです。

歴史を刻むこれらの教会群は、夜になるとライトアップされ、深く濃いブルーの中に佇んでいます。冬季の現在(いま)なら、夜になると人通りもまばらで、冴えた冷気のなか、荘厳な気持ちに一人で浸ることができるかもしれません。

それにもうひとつ。やはり、

函館の夜といえば、函館山(334m)からの夜景を思い浮かべる人は多いでしょう。

夜のとばりが街に下りる頃から、まるで無数の宝石が光を放つように、灯りたちが一斉に輝き出します。夜の街が放つとりどりの明りは、無数のイルミネーションの輝きとなって、日本海と太平洋に挟まれた扇形のこの街をまばゆいばかりに覆いつくすのです。

自然と人の作る光との融合は、まるで宇宙に浮かぶ銀河のごとく、これからも多くの旅人の目をみはらせ、そして楽しませてくれることでしょう。

(写真先頭は、函館山からの夜景)

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2005年11月17日 (木)

幸福のおまけ

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そのむかし、幸福という駅があったのをご存知でしょうか?

今から18年も前に廃止されていることから考えて、今どきの若い人(というと書いている自分がえらく年寄りのようだが・・・)は知らないと答えるでしょうかねぇ。

これに関連して、(全くの余談なのですが・・・)

ある方と電話でお話している際に、僕のメルアドをを教えることになった。その方は、携帯の操作が余り得意でないという理由で、娘さんに話してほしいといわれ電話を代わりました。その18歳の娘さんから、アルファベットの説明をしているときに、MかNかはっきり分からないので、何か例を出してくれと言われたことがありました。

その時に、例として「プリプリの曲に『M』ってあるでしょう?」と話したら、

「何それ?」

「え~、知らないの?」・・・とさらに突っ込んだら、

「ジェネレーションギャップですよ~」と言われてしまった。

今どきの18才になると、プリプリも古いのかぁ・・・と愕然としてしまいました。

時の流れは無常ですな・・・。はい、余談終わり。

まぁ、知っていようが知るまいが、それはそれとして・・・。

先週の帯広バージョンの出張の最後の訪問先に向かう途中、国道236号線をクルマで走っていたら、愛国駅入口という表示があるのに気がついた。

「へぇ~、まだあるんだ?」という半信半疑の気持ちと、懐かしさの一歩手前で、こみあげてくるものは特にはなかったのですが、広尾線が廃止されてからどうなったのだろうという好奇心と、ここから500m先という数字の誘惑から、ちょっと寄り道しても大勢に影響ないだろうと思って、急遽、ハンドルを切りました。

すぐに愛国駅のあるらしきところに到着しました。しかし、駅が見えません。

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何か、コンクリートの塀のようなもので囲まれていたので、塀のそばまで行って上から覗いてみたら、その中に愛国駅(写真)はありました。(しかし、何のためにそうなっていたのか、確認することはできませんでした。回りに誰もいなかったものですから・・・)

しかし、とにかく、以前見たことのある愛国駅がまだ残っていましたので、塀の上にカメラをかざしてとりあえず1枚・・・とシャッターを切りました。塀の横には、愛国から幸福までといういわゆる幸福行きの切符のモニュメントらしき碑が、塀からはみでていました。

愛国駅にはすぐ、おいとましたのですが、愛国駅が残っているのなら、きっと幸福駅も残っているだろうから、そちらにも寄ってみるかと考えました。

国道236号線を走りながら、幸福駅という表示を探しました。あとで勘違いしていたことに気づいたのですが、愛国駅の隣が幸福駅ではなかったのです。(大正駅を挟んでその次が幸福駅という順だった)だから、しばらく走ってなかなか案内板が見つからなかったときは、やっぱりなくなっちゃったのかな・・・とちょっと心配になりました。

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しかし、心配も束の間で、幸福駅という表示もそのあとすぐに見つかりました。幸福駅は、旧幸福駅交通公園(写真)として今も残っていました。

この日、愛国駅・幸福駅に行くこと自体、予定外でしたので、予備知識=ゼロでした。ですから、20数年以上前に一度だけ訪れたことのある、かつて一世を風靡した(というと言いすぎかな?)有名駅をまた訪れることができるとは思いもよらず、そういうことから考えると、ここを訪れることができたのは、今回の旅におけるラッキーなおまけみたいなものかなって思いました。

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旧広尾線の幸福駅(写真)が一般に広く有名になったのは、昭和48年3月、NHKの「新日本紀行」という番組の中で、紹介されてからです。今年、NHKの総合テレビでも再放送されたので、ご覧になった方もいらっしゃるのではないかと思います。

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昭和48年に、番組で紹介されてからは、縁起のいい名前をもつ駅として、観光客がたくさん訪れるようになったり、近隣の駅、特に愛国駅から幸福行きの切符は、記念に買い求める客が後をたたなかったそうです。この切符は、昭和48年からの4年間で1000万枚も売れたという話は有名で、その後の乗車券ビジネスの先導役となりました。そして、待合室の内外には、訪れた人たちの名刺、使用済みの定期券やメッセージカードなどが、大量に貼り付けられています。(写真)この駅に来た記念に残したり、何か願をかける意味合いで残していく方も多く、現在でも絶えることなく続いているようです。

一時のブームの時のようなことはありませんが、まだまだここを訪れる方は結構いらっしゃるようです。薄幸自慢のあなたや縁遠いあなた、ここに幸せをもとめて訪れてみては如何でしょう。ここは神社や仏閣ではないので、あなたに幸福をもたらしてくれるかどうかは分かりません。ですが、きっと最果ての地の旅情があなたをやさしく迎えてくれるでしょう。

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2005年10月25日 (火)

「ニホン3ケイ」って?

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このブログを訪ねてくれる皆さんは、にほんさんけいと言えば、何のことか分かりますよね?昔、友人とその話をしていたときに、にほんさんけいと言えば、「谷啓、すまけい、真梨邑ケイ」だろうと教えてもらったことがあります。もちろん、にほんさんけいとは、日本三景のことを言うのですが、僕の頭の中では、「谷啓、・・・」という方がプライオリティーが高いようなんです。困ったものですが・・・。すいません。いきなりダジャレで始まっちゃって。(写真は宮島にある日本三景の碑)

さて、お話を戻します。広島での仕事が終わり、広島空港に向かうバスの時間にまだ少し余裕があったので、市内の名所などを訪ねて歩いていました。(このあたりのことは、この週末にでもまとめて、後日アップします)この段階では、広島発午後3時10分のANAで東京に飛べば、自宅に6時半くらいには着けるだろうとか、重複予約していた午後4時50分の便でも夜の8時には自宅に着けるので、どちらかで引き上げようと思っていました。

しかし、市内を歩いていたら、突然「宮島に行ってみたい。」という思いが頭をよぎりました。時間は午後3時。広島も今年はこれが多分最後だろうと思うと、だんだん衝動が強くなってくる。しかし、今、広島の街中の八丁堀にいる。ここから、広電(路面電車)で、宮島口に向かうと多分1時間はかかるだろう。そうすると、予定していた飛行機に乗れない。どうしよう・・・。

やっぱ、そろそろ空港への連絡バスの時間だし、今回は諦めるかぁ~と思い直しました。しかし、諦めると思うと、また、衝動が頭をもたげてくる。「行きたい。それも、大河ドラマ『義経』が放映されている間に…。」と思うと、矢も楯も止まらずというのは、こういうことをいうのでしょうか、結局、もう、多少のことは、犠牲にしてでも宮島に行ってみようという気持ちになっていました。(明日は日帰りなるも、中部方面の出張が控えているのに・・・)

やはり、ここで一番大事なのは時間だということで、タクシーをJR広島駅まで飛ばし、そこから、JRで宮島口駅まで行きました。(だったら、タクシーで直行すればいいじゃんと思う方もいらっしゃるでしょうが、そこまでのめり込まなくてもと、自制が働きました。)

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宮島口に着いたら、そこから300mすこし歩いて、JR連絡船が発着する宮島口桟橋(写真)に行きました。連絡船の片道運賃は170円ですが、僕が広島駅で購入した切符は、JRの電車と連絡船の運賃がセットになったものでした。

宮島の大鳥居

宮島口から約10分、あの海の中の朱塗りの大鳥居(写真)の横を通り抜けて、連絡船は宮島港に到着します。平日のそれも夕方近いというのに、凄い人の数です。まるで、渋谷駅前の交差点のようです。(ここまで言うと、嘘になります。ハイ。)

宮島の街中には鹿がいます。頭数は奈良公園ほどではないと思いますが、街のそこらじゅうにいます。みなさん疑問に思うかも知れませんが、ここの鹿は、(いや、奈良公園もそうですから、ここもと云った方がいいかもしれない。)野生の鹿で、そもそもこの島に住みついていた鹿が、街中に住みついて、さらに繁殖しているんですね。観光客から食べ物をねだるのが、とても上手です。こりゃぁ繁殖していくはずだとホントそう思いますよ。見てると。

鹿も多かったのですが、修学旅行で来た中学生たち(なのかな?)も、やたらと多かった。

修学旅行の生徒達を見ていて、大変だなと同情するのは、団体行動なのでスケジュール管理が、厳格にされていることでしょうか。つまり、この場所には何分しか居られませんと決められていて、とにかく先生や添乗員さん達からせかされる。あれじゃあ、ちょっとかわいそうかなぁ。修学旅行の生徒達はまるで牧羊犬に追い立てられる羊の群れのように見えました。

まぁ、修学旅行生と一緒になるとうるさくて、ゆっくりとおちついて観賞しようとしても、先ずそれは無理ですが、ひとつだけいいことがあります。それは、タダでガイドさんの解説が聞けることです。ガイドブックにも出ていないような情報を結構聞かせてくれるんですよ。とはいえ、いつまでも、聞き耳を立てている訳にはいきませんがねぇ。

厳島神社


さて、実際に海に沿って、宮島の桟橋から厳島神社(写真)に行ってみました。厳島神社は、今から800年もの昔、平家の頭領であった平清盛が、海の神を祭るために、京都から多くの宮大工を連れてきて建立した大スペクタクルです。もちろん国宝で、世界遺産にも登録されています。

途中、一心不乱といえばオーバーですが、目ぼしいところで写真でも撮って、厳島神社の中を順路にそって歩いて帰って来るだけで、約1時間かかります。つまり、持ち時間1時間少し程度でこの名勝を見てくること自体が、無理があると良く分かりました。ですから、次回はちゃんと時間を取って行こうと反省しきりでした。

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宮島からの帰り道、JR連絡船(写真)が宮島口の桟橋に接岸しようとしていた時です、誰かが歌を歌っていることに気がつきました。それはそれは、とても澄んだきれいな声で、小さな声で歌っているにもかかわらず、甲板に響いていました。耳を澄ましてみるとこう聞こえました。

あした浜辺を さまよえば

昔のことぞ、しのばるる

風の音よ 雲のさまよ

よする波も かいの色も

映画「ローレライ」ではないのですが、船上で誰かが「浜辺の歌を歌っていたのです。それは、潮の香漂うこの雰囲気にとてもマッチしていたので、つい聞き入っていまいました。そこで、誰が歌っているのか探してみたのですが、連絡船のウイッチを見つけることはできませんでした。そうしているうちに、連絡船は接岸しました。甲板に流れていた歌は、いつのまにか夕暮れを迎えていた瀬戸の海に消えていました。

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2005年10月 7日 (金)

高速バスと自転車

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10月6日から7日にかけて、島根県は浜田市に行きました。山陰地方は、交通のアクセスが余り良いとはいえず、スケジュールを組むのにちょっと苦労します。今回の行程は、羽田からJALで出雲空港に行き、それから連絡バスでJR出雲市駅へ、そこから2両編成のディーゼル特急「スーパーおき」で、浜田駅までといったものでした。因みに、途中に立ち寄っただけですが、JR出雲市駅は出雲大社を模した、さすがに神話のふるさとの玄関口を思わせる外観の駅でした。

浜田市のある島根県西部の地方を石見(いわみ)地方というのですが、この石見地方に伝わる伝統芸能に石見神楽というものがあります。神楽とは何?というのは、なかなか難しいのですが、一般的に知られているのは、宮中儀式の御神楽でしょう。しかし、ここの石見神楽は里神楽で、民間の神社のお祭りに神を迎えて宴をなし、そこで神に奉じた演奏や舞が洗練されて伝承されたものかと思います。難しい話は置いておいて、要するに、お祭りの日に、村の民が歌ったり踊ったりしていたものが、洗練されて今日に伝わったものではないのでしょうか。

さて、ここに伝わる石見神楽は、日本書紀を題材として演目が作られているそうで、その演目の数は30いくつに及ぶとのこと、浜田をはじめ旭など5つの地区のお祭りの日に、夜を徹して演じられるということです。ところで、浜田駅の駅前の広場には「どんちっち神楽時計」というのがあって、午前8時から午後9時まで、正時がくるごとに舞台がせりあがり、からくりたちが神楽ばやしにあわせて、5分の間神楽の舞を舞ってくれます。

話は変わりますが、僕たちの仕事は相手方の都合によって、約束の時間まで空き時間ができて、その時間までどう過ごそうかという状況にはよくなります。こういう場合、人それぞれで時間の使い方はいろいろあるかと思います。喫茶店で時間つぶしをする人とか、遊技場なんかに入る人とかいろいろでしょう。僕の場合、駅なんかの観光センターに行って、周辺ガイドとか観光マップをよくもらいますが、そのときに自転車を貸してもらえるところはないか聞くようにしています。貸し自転車、即ちレンタサイクルについて経験上少し言及しておきますと、観光に力を入れているところの観光センターなどでは、センターが自転車を持っていて、無料で貸してくれるようなところもありますが、一般的には、貸してくれるお店などを紹介してくれるところが多いようです。

徒歩に比べて自転車を使うと行動範囲は格段に広がります。徒歩だと時速4~5kmくらいでしょうが、自転車なら時速20kmくらいならなんとかいけるでしょう。行動範囲が4~5倍になるわけですから、徒歩だと時間や距離の制約から諦めるしかない観光スポットにも足が延ばせるというわけです。さらに、車なんかでは見落としてしまうようなところなんかでも、自転車なら目にとまるでしょうし、肌に風を感じながら街を走り抜けたりするとかなりのリフレッシュになりますよ。しかし、調子にのって余りにも遠くに行ったり、標高を無視して山登りに挑戦したりすると、その後の仕事に差し障りがあったりしますので、そのあたりは自重が必要でしょう。すこし時間があったら、自転車を!これ、ちょっとおススメかな。

今回のスケジュールでも、2日目の朝からたっぷりと時間があったので、自転車を借りることにしました。観光センターで教えられた自転車屋さんに行ったら、半日500円で貸してくれるということでした。店主らしきおじいさんが出してきた自転車は、全体的に錆が目立つ、お世辞にもレンタル用として用意したとはいえないようなものでしたが、まぁ、これで半日過ごせれば、もっとも経済的でもあるし・・・と思い借りました。店のおじいさんからお願いされたことは、自転車を店まで持って帰ってきてほしいというその1点でした。とにかく、街のなかに置きっぱなしにしないでほしい、歳が歳なのでそれを引き取りに行けないのでとのことでした。それさえ、守ってくれればお金などどうでもいいという感じで、住所や名前なども聞かれることもなく、そのまま送り出してくれました。

山陰といえば、白砂青松の海岸というイメージなので、海のあたりをサイクリング気分で行こうかと思い出発しましたが、その途中で、浜田城址という表示を見つけたので、例のごとく、一応寄ってみることにしました。浜田城址は、現在、県立自然公園になっており、お城に関するものとしては、石垣の一部が残っているに過ぎませんでした。敷地内には、浜田護国神社や浜田勤労青少年ホームがあり、また、浜田が生んだ政治家の俵孫一の碑(岸信介元首相が建てたもの)や「人形の家」「復活」などの翻訳劇の上演・演出を手がけて、新劇の大衆化に貢献した島村抱月を讃えたものなど多くの石碑が建てられていました。それほど時間を費やす感じでもなかったので、城址はそこそこで切り上げて、さて海へと思っていたところ、携帯に連絡が入り、相手方の都合で予定が大幅に早まることになったとのこと・・・。残念ながら、山陰の海は諦めることにしました。

さて、再び話は変わります。今回の旅の帰路は、仕事の終了時間の関係もあって、そもそも利用できる飛行機が限られていたうえに予約状況を調べた段階で満席だと分かっていました。ですから、やむを得ず、JRを利用して帰路につくつもりでした。しかしながら、浜田発16時以降ということになると、当日に自宅までたどり着くのはちょっと厳しいということもあり、倉敷の実家に1泊して、その後に東京へ帰るという予定を組んでいました。

しかし、山陰から山陽となだらかな中国山地を挟んで反対側に行くだけなのですが、鉄道のアクセス面ではかなり厳しいものがあります。実際に10月7日で試算をしてみましょう。山陰本線から伯備線経由で、浜田駅を16時19分に出発すると、走行距離は303km、4時間38分で、経費が10,150円(指定席利用)かかる。もう一つは、浜田駅を16時36分に出発して、山陰本線から山口線を経由し、新山口から新幹線を利用する場合だと、走行距離は404km、4時間16分で、経費が11,720円となります。というように、かなり遠回りをして岡山に入るルートしかありません。直線距離だけをいえば、山越えをするローカル線があるにはありますが、列車の運行本数とスピード、乗り換え時間などから、全くお話になりません。

しかし、JRが走っていないところでは、それを代替する交通機関はないのでしょうか?実際、浜田市内の道路案内板なんかをみると、広島まで101kmとかという表示が結構目につきます。つまり、浜田市から中国山地を挟んで南に行けば広島市です。山口県とか鳥取県を経由しなくても、ストレートに広島市に出られれば、山陽方面に行くにはそれが一番合理的なわけです。この現地のニーズに応えているのが高速バスなのです。浜田~広島間を約2時間で結ぶ高速バスは、午前7時から午後9時の間に、1時間に約1本の割合で出発しています。浜田駅を出発すると浜田道~中国自動車道~広島道を通って、広島駅(正確に言えば広島駅の新幹線口)に向かいます。

さて、僕の乗った高速バスは、浜田市街から高速道路の浜田道に入り、ほどなく山越えになりました。中国山地は紅葉には少し早かったようですが、日暮のせまる山並みを見ながらバスの旅をするのも、たまにはいいものだなと思いました。途中の停留所では、用事で浜田まで来て、村まで帰るおばあちゃんたちが降りて行ったり、高校生たちがドヤドヤと乗り込んできたりと、この高速バスも、鉄道がない山間部の人たちにとっては、大事な足なんだなと実感しました。だからというわけでもないのでしょうが、50人乗りくらいの大きさのバスは終点まで結構混んでいました。

しかし、バスに長時間乗って、しかも途中でパーキングエリアなんかでトイレ休憩(寒曳山パーキングエリアで10分余り)を取りながらなんてことがあると、今は余り流行りませんが、慰安旅行なんかの雰囲気を思い出してしまうのは、僕だけなのでしょうか?古いのかなぁ?そのような思い出にふけっているうちに、バスは夕闇せまる中国山地を抜けていきました。2時間の行路が終わりに近づき、鯉城と呼ばれる広島城が左手に見える頃には、僕の乗った高速バスも、中国地方一の大都市広島の明かりの一つになっていました。

(写真上は、神話のふるさと玄関口の出雲市駅)

(写真中は、浜田駅前で神楽の様子を見せてくれるどんちっち神楽時計)

(写真下は、浜田駅で出発間際の高速バスと乗客)

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2005年10月 2日 (日)

さらば彗星

寝台特急彗星・あかつき

2005年10月のダイヤ改正で、ブルートレインがまたひとつ姿を消しました。寝台特急彗星です。この9月まで、京都から寝台特急あかつきと併結して、門司まで行きそこで分離して、彗星は南宮崎まで走っていました。これで、東海道・山陽本線から、九州に踏み入れる寝台特急は、東京~熊本・大分までのはやぶさ・富士と、京都から長崎・熊本までを走るあかつき・なはの2編成となってしまいました。時の流れとはいえ、寂しい限りです。

例えば、熊本から東京までを寝台特急と飛行機で比べると、値段は寝台特急のほうが若干高い。時間はと言えば、飛行機を使用した場合(モノレールなど他の交通機関の所要時間含む)は、4時間弱で、寝台特急は18時間半かかって、時間だけみれば勝負になりません。しかし、旅をしたという実感では、寝台特急の方が数段勝ると僕は思うのです。ですから、ビジネスのように先を急ぐ旅向きではありませんが、ゆっくりと旅を楽しみたいという人向きには、まだまだ、需要を掘り起こせると思うのですが。(そのためには、利用客のニーズに副った設備の充実を図らなければいけないでしょうし、サービスも見直す必要があるかなとは思いますが。)

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■小倉駅に着いた上り寝台特急あかつき

寝台特急彗星は、昭和43年(1968年)10月のいわゆるヨンサントオのダイヤ大改正により、関西発九州方面行きのブルートレインとしては、あかつきにつぐ次男坊として誕生しました。ブルトレとして誕生した当時は、20系客車の14両プラス電源車という編成で、新大阪をターミナルとしていました。(因みに、当初は581系寝台電車特急でした)牽引機は、東海道・山陽本線の直流区間がEF65の500番台、関門トンネルをEF30が担当し、九州に入っての交流区間を鹿児島本線はED73が、日豊本線はED74が担当していました。また、日豊本線の非電化区間では、日本で唯一DF50というディーゼル機が寝台特急を牽引していました。この彗星の最盛期はS49年で、新大阪と宮崎、都城、大分などを5往復も走っていたことがあるのです。また、彗星のヘッドマークは、ブルー地に大きく彗星の文字と流れ星のマークですが、(あかつきと併結運転をするようになってからは、九州内でしかこのマークは見られなくなっていたが)これが、なかなか格好よくて、少年の頃の僕の憧れでもありました。

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■小倉駅に着いた上り寝台特急彗星(後部)

全国に残る客車寝台特急をあげると、この10月からは、全部で11種類13編成になりました。それを列挙すると、はやぶさ(東京~熊本)、富士(東京~大分)、出雲(東京~出雲市)、あかつき(京都~長崎)、なは(京都~熊本)、日本海(大阪~青森、函館)、トワイライトエキスプレス(大阪~札幌)、北陸(上野~金沢)、北斗星(上野~札幌×2)、あけぼの(上野~青森)、カシオペア(上野~札幌)です。

寝台特急は、時間の短縮と言う面では、確かに非効率かも知れません。でも、効率だけが全てなのでしょうか。効率の反対語は非効率というのでは余りにも寂しいとは思いませんか。スピードを上げて目的地まで突っ走るのもいいでしょう。しかし、これでは、旅の目的は、目的地に着くことだけになってしまうのではないでしょうか。そのような旅ももちろんあるでしょう。しかし、せっかく旅をするなら、ゆっくりと、周りの景色を楽しみながら、いろいろな地域の人とふれあいながら、その土地のものを味わいながら、そして、旅の過程を楽しみながら・・・というように、それぞれを楽しみながらゆとりの旅を送りたいと僕は思うのです。その意味で、飛行機と比較して4倍も時間のかかるようなブルートレインですが、これからもずっとあり続けてほしいと思うのです。

(写真先頭は、京都駅に着いた寝台特急彗星・あかつき)

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2005年9月30日 (金)

蝉しぐれの里で

夏の鳥海山

ほんのつい数年前まで、庄内というとどこにあるのかピンと来なかった。しかし、今の仕事をするようになって、とても縁が深くなったというか、仕事とはいえ、出張での訪問回数と滞在日数はダントツです。主に庄内の商都である酒田市を中心に、そうですねぇ、回数ではたぶん15回は越えるでしょうし、通算の滞在日数も1ヶ月ではきかないと思います。これだけお邪魔することが多いと、だんだん庄内のことも頭に入ってきます。

庄内地方というのは、山形県の日本海側に位置し、先ほどの酒田市や城下町の鶴岡市、飽海郡(あくみぐん)や東田川郡、西田川郡からなっています。ちなみに、平成の大合併の影響で、飽海郡は酒田市に、東田川郡や西田川郡の大部分は鶴岡市になり、今年の11月からは地図の上では、変化があります。

庄内地方は、美しい名山たちに囲まれています。北に鳥海山(2236m)、東から南にかけては月山(1984m)を中心とする出羽三山です。僕は、山歩きや登山の愛好家ではありませんので、これらの山に登ったことはありません。せいぜい、月山の麓の朝日村というところに伺った程度ですが、でも、朝日村に行く途中で、車を止めてみた月山は、とてもなだらかな稜線を持った山ですが、気高く聳え立っていて、見るものに何か神聖な気持ちを抱かせるような感じの山でした。

一昨年の12月だったと思いますが、酒田にある出先のビルの4階くらいの部屋からふと外をみやると、蒼くかすんだシルエットに白いすじが雲のように見えた。なんだろうと思ってよくよく見ると、まるで富士山のような稜線をもつ結構高い山がありました。当時は何も知らなかったので、地元の人に「あれはなんという山ですか」と聞いたら、鳥海山だと教えてくれた。名前だけは知ってはいましたが、実際にはじめて見た鳥海山には、さすがに東北一の名山とも謳われるだけの風格というか気品のようなものを感じました。庄内に行くたび、冬、春、夏、秋と四季それぞれの季節の顔で、この山は僕たちを迎えてくれましたが、今ではこの山を仰ぐことが、庄内に着いたら最初にする仕事(?)です。

そのうえ、庄内平野は日本有数の米どころです。ここからとれる庄内米は全国的にも有名です。庄内米は、みずみずしく艶やかでとても美味しいお米です。今回は庄内空港から、バスで酒田市まで行ったのですが、ちょうど稲刈りの直前という状態で、一面に広がる田園は黄金色に輝いていました。

ところで、山形県の山形市や米沢市をはじめとする内陸部は豪雪地帯として知られていますが、庄内地方は余り雪が積もらないのだそうです。その証拠に、この街の民家の屋根は瓦葺きになっています。豪雪地帯なら、屋根に重みのかかる瓦は葺かないでしょうから。では、雪が降らないかと云うとそうでもないのです。

では、雪はどうなるのかというと、強い季節風(海風)で吹き飛ばされてしまうのだそうです。だから、雪は降るが積もらないのです。実際に冬にお邪魔した時には、その地吹雪のすごさにたまげてしまったことがあります。雪が下から吹き付けてくるという感じです。とても、傘なんかさして歩けなかったという経験をしました。

また、風の強さが半端ではなく、まるで台風の真っ只中にいると思わせるくらい凄いのです。ホテルの部屋の中にいても、風の「ぐぅお~」という音が凄くて、なかなか寝付けなかったことを思い出します。

それに、庄内の人たちは、礼儀正しく、心やさしい穏やかな方々がとても多いと思います。初めてお目にかかる方も多かったのですが、こちらが恐縮してしまうようなおもてなしを申し出てくれた方もたくさんいらっしゃいました。

ですが、最初は言葉には苦労しました。

特に高齢の方の話す訛りの強い山形弁になると、さっぱりお手上げでした。それでも、細かい意味まではともかく、何回も話してみると、ふしぎなものでだんだん分かってくるものなんですね。相手は、標準語でしゃべる僕たちが何を話しているかは分かるようなのですが、僕たちは相手から何を言われているかよく分からない。しかし、だんだん場数が増えて、少し分かってくると、相手がこう言っているのではないかということを復唱できるようになってくる。それを聞いて、相手が「んだ」とOKをくれる。そうすると次の話に移る。そんな感じでコミュニケーションをとったりしました。

これによって、東北弁のヒアリングはだいぶ自信がついたと思ったのですが、別件で青森は弘前に行った時、おばあちゃんに津軽弁(多分)で話しかけられたのですが、何を言われているのかさっぱり理解できませんでした。まだ、まだ、修行が足りないなぁ・・・。(反省)

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■三居倉庫と欅並木

さて、庄内には去年までちょくちょく来ていたのですが、観光地なんかには余り行った事がありませんでした。というか、かなり有名な観光スポットがあると言うわけでもなかったので、行かなかったというのが正直なところでしょうか。これからは、あまり来ることもないかなぁと思ったので、酒田港に注ぐ新井田川の河口に残る山居倉庫にはじめて行きました。

山居倉庫は、明治26年酒田米穀取引所の付属倉庫として作られたそうです。昭和14年に米穀取引所は廃止されましたが、この倉庫は現在も現役で、JA庄内の米保管倉庫として使われています。僕たちが訪れたときも、トラックが横付けされて、フォークリフトでなにやら積み出しをやっていました。昔ながらの風情を今に残す山居倉庫では、NHK朝の連続テレビ小説で最高視聴率を取り、東南アジアや中近東の諸国でも大人気となったあの「おしん」のロケが行われたそうです。倉庫の一部が庄内米歴史資料館になっているのですが、そのときの様子がパネルで地味に残されていたり、当時NHKが製作した古ぼけたポスターがそのまま展示されていました。

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■庄内空港の天井にかかる映画「蝉しぐれ」のポスター

東京に向けて帰る9月30日は、大好きな酒田ラーメンを「満月」というお店に食べに行って(鶴岡の麦きりも捨てがたかったのですが)庄内空港に戻りました。一緒に行った同僚が連絡バスの時間を間違えるというしょうもないミスを犯しため、2時間もの余裕を残して空港に着きました。2時間も空港でどうやって時間をつぶすか思案をしていたところ、空港の3階でなにやら映画のパネル展をやっているという。藤沢周平(故人、1997年没)という作家が、書いた蝉しぐれという作品を映画化したと紹介していました。そういえば、庄内空港の天井から大きなタペストリーというのかポスターというのかよく分かりませんが、バーンと吊るされていました。

藤沢周平という作家の名前は、NHKの時代劇の原作者として幾度か見たことがありましたが、彼が庄内は鶴岡の人だとはこれまで知りませんでした。彼の最高傑作と言われる「蝉しぐれ」の原作を黒土三男監督が15年の歳月をかけて映画化したというのです。3階の会場に行ってみると、そこには映画のシーンをパネルにしたものとか、解説とか、撮影クルーの使った地図なのかガイドなのかよく分かりませんが手書きされたもの(これが一番多かったようですが・・・)なんかがありました。その映画を語る監督の言葉が熱いこと、ここだけを見ても黒土監督がこの映画にかける並々ならぬ気迫のようなものを感じました。

この映画「蝉しぐれ」はこの10月1日から東宝系で全国公開されます。キャストは、主人公牧 文四郎を市川染五郎(少年期は石田卓也)、文四郎が慕うおふくを木村佳乃(少女期は佐津川愛美)が演じている。脇役陣も文四郎の父を緒形拳、母を原田美枝子、その他柄本明や加藤武などなかなか重厚です。

主人公牧 文四郎の屋敷のオープンセットを東田川郡羽黒町に設けて、原作者藤沢周平の故郷でじっくりと撮影をしたり、また日本の原風景を求めて、ありとあらゆるところを歩いて、ロケして回ったということが紹介されていました。でも、それよりも鳥海山や湯の浜など庄内の四季や風景がこの映画を深く味わいあるのものにするだろうということは、容易に理解できます。

最初は、暇つぶしと思いつつ見ていたのですが、展示や会場のビデオによる予告編などを見ていたら、だんだん映画が見たくなってきました。それが、馴染みのある庄内を舞台とした映画だからか、主人公牧 文四郎の「忘れようと、忘れ果てようとしても、忘れられるものではございません」という台詞にしびれたからかわかりません。ひょっとして、おふくの少女期を演じている佐津川愛美(さつかわ あいみ)ちゃんのけなげな演技にしびれたからかも・・・。明日からの公開が楽しみです。

(写真先頭は、飽海郡(現酒田市)から望んだ鳥海山・・・2007年の夏に撮影

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2005年9月21日 (水)

不知火海を望む街で

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9月20日は、熊本空港から連絡バスでJR熊本駅に向かい、そこで列車に乗り換えて鹿児島本線の八代まで行きました。いつも思うのですが、熊本空港から熊本駅までは、経路探索ソフトなんかが想定しているよりも時間がかかるみたいです。熊本駅を経由して、八代やら水俣に行った事があるのですが、かなり余裕を見ていた1回目は、特段問題なかったものの、2回目くらいだったかなぁ?経路探索ソフトの時刻どおりのバスに乗ったにも関わらず、熊本駅で乗る予定としていた特急電車に間に合わず、先方と約束した時間ギリギリとなってしまった苦い思い出があります。そういう経験というか場数を踏んでますので、今はもう、そんなことでバタバタするようなことはありませんけどね。

熊本から「九州横断特急」という長いネーミングの特急に乗って、八代まで行きました。2004年3月に九州新幹線が開業してから、鹿児島本線は、八代と川内(せんだい)の間で分断されており、その間は第三セクターの肥薩おれんじ鉄道になっています。ですから、八代からJR線となると人吉方面に向かう肥薩線になるのですね。

九州新幹線が開業する前に、2度ほど現肥薩おれんじ鉄道のルート(旧鹿児島本線)で、水俣まで行ったことがあります。八代から水俣にかけては、九州本土と天草諸島に囲まれた不知火海沿いを走りますが、日奈久温泉駅から肥後田浦駅にかけて車窓からエメラルドグリーンの海を望むことが出来ます。しかし、この美しい不知火海にも(正確にいえば水俣湾でしょうか?)不幸な出来事がありました。

所謂、水俣病です。有機水銀中毒による末梢神経系の不具合を総称してこのように呼ぶのでしょうが、未だにこの病に苦しんでいる方も多いという様に聞きます。この原因を作ったのは、チッソという会社ですが、実際に水俣駅に降り立つと眼前に圧倒的な存在感で、立地しています。実際に町を歩いてみて思ったのですが、確かに公害を撒き散らした問題企業ですが、この地域の経済を牽引していた中心企業でもあったのだろうなと感じますし、また、チッソが設立した病院とか関連する企業とかチッソがあるから成り立っている所もかなり見受けられるとあって、良くも悪くもこの企業は水俣と切っても切れない関係にあるのだなと思いました。

そういえば、僕が水俣に一番最初に伺ったときのお客様は、国立水俣病総合研究センターの方でした。ある夏の夕方に、本来はご自宅に伺う予定であったものを、急遽予定を変更して水俣駅前の喫茶店でお話を伺ったのを思い出します。実験用の動物のお世話をするために、休日なんかも出ているとかということとか研究室のことなどのどちらかというと本題と違うお話でちょっと盛り上がったり・・・なんてことも懐かしく思い出されます。

再び、さて・・・、話が今回の旅とは違う方向に行ってしまいました。八代には2回目の訪問(泊まりだけを入れれば3回かな?)でしたが、仕事の合間に立ち寄れたのは、結局、八代城址のみでした。城址というとおり、ここにはお城は残っていません。お堀の周囲を歩くと軽く1.5kmくらいはあるのじゃないでしょうか?水俣駅から城址まで歩いて、さらにお堀を回るとそれだけで、結構、足に来たりして・・・でした。城址は、現在は公園となっています。それでも、お城の歴史なんかを書いた立て札なりあるかと思ったのですが、何にもありませんでした。資料を求めて、隣の市役所に出向いて見たのですが、どうもそれらしいものは見当たりませんでした。ということで沿革などはよく分りませんでしたが、今に伝わる石垣の姿は南国の強い光のなかでなかなか優美に見えました。

今回も、市内で見るところに困ったら、城に限るという自分なりの決め事を実践してみましたが、今回はもうちょっと・・・という感じでした。八代での予定を終えた後は、伊万里に向けて移動です。

(写真上は、JR熊本駅)

(写真中は、熊本駅の九州横断特急)

(写真下は、八代城址)

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2005年9月20日 (火)

空の日によせて

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今日は、空の日だということですが、ご存知でしたか?かく言う僕も初めて知りました。なんとかの日っていうのは、数字にかけて言う日が多いじゃあないですか。しかし、今日は、9月20日ですよね。どういう曰くがあるんでしょうかね?ご存知の方がいれば、教えていたいただけると有難いですね。ちなみに、空の日だということなので、僕の搭乗した熊本行のANA643便の機内では(今日は、ANA全便だとは思いますが)記念のポストカードが、配られていました。たぶん、これでハガキを出すことはないとは思いますが、一応、ゲットしておきました。図柄は搭乗したB777-200が描かれていました。

昨日のフジテレビSMAP×SMAPでは、宇宙飛行士の野口さんとの中継トークをやっていましたが、その中の質問で、「実際に地球を見た時に、どう思ったか?」というのに対して、野口さんが「地球は青かったというより、地球は丸かったというのが先でしたかねぇ」とかなんとかおっしゃっておられたように思います。宇宙ステーションから300km下にある地球を見ると、地球が宇宙に浮かぶ球体の惑星なんだということを実感できるんでしょうね。やっぱり、実体験に裏打ちされた言葉は凄みがありますね。

宇宙から地球を見るのとはスケールは違いますが、飛行機から見る景色は、水平線のそれとは違って、ちょっと宇宙から地球を眺めているような感じがしませんか?今日のフライトは、ずっと雲の絨毯の上でしたので、白い雲と青い空との境界が大きな円のカーブを描いているさまが、良く見えました。このまま、ずっと高度を上げていけば、野口さんが目の当たりにした世界にたどり着くのだろうかなんて思ったりもしましたが、ジェットエンジンでは、真空の中を飛行することは不可能だし、現在の装備なんかでは、この飛行機に乗っている殆どの人がフィジカル面において、宇宙環境への適応ができないんだろうなぁとかそんな妄想にふけっていました。

しかし、今から100年も前の人類にとって、飛行機がこのように普通に飛び交っていること自体、思いもよらなかったはず。ですから、後、何年かかるかは分かりませんが、宇宙空間への旅行なんてのも、今、僕たちが飛行機に乗るくらいの気軽さで、できるようになるかも知れませんね。そして、今、宇宙飛行士たちがやっているように、トレーニングを積んで、フィジカル面を鍛えなければいけなかったり、少しでも健康に問題がある場合は、宇宙飛行士になれなかったりなんてことは、きっと科学技術の進歩が克服してしまうんじゃあないでしょうか。

宇宙空間に出るための推進装置、今で言えばロケットエンジンですが、この部分は近い将来、飛躍的に進歩しそうですが、その反面、フィジカル面のサポートなのか克服なのか分かりませんが、この分野はどうでしょう?ここを克服するには、重力を自在にコントロールできるようにならないと、難しいような気がします。

だんだん物理の方に行きそうなので、2ブロックほど原稿を削除して、すこし違う方向に話を変えます。今から、10年以上昔になるのですが、テレビ東京で深夜に創竜伝というアニメをやっていました。竜族の血を引く竜堂4兄弟が、その背負った運命故にさまざまな権力と戦うといった物語だったと記憶していますが、確か、4兄弟は、長男が始、次男が続、三男が終、4男が余で、変身すると余が北海黒竜王、終が西海白竜王、続が南海紅竜王、始が東海青竜王だったと思います。

4兄弟が竜に変身すると、それぞれ自然界のパワーを操るようになるわけですが、北海黒竜王は水を司り、猛烈な雨を降らせたり、洪水を起こしたりします。西海白竜王は、風を司る竜で、猛烈な疾風を起こすことができます。南海紅竜王は、火炎を司る竜です。即ち、火と水と風。ここまでは、どちらかというと、まぁそんなものかなと思ったりするところですが、東海青竜王が、何を司るんだろうと考えたとき、自然界の3大パワー以外なんだろうと思っていたら、なんと重力ではありませんか。

いや、すごいですね。重力ときましたか・・・という感じです。火や水や風なら今の人間の力でも、大抵なものは克服できますが、重力を自由に操られたら、今の人類ではどうしようもないなと感服してしましました。重力の印象というのは、火や水や風に比べると地味という感じもしますが、この一番すごいパワーを長兄たる東海青竜王に持たせたところがすごいですよね。

SFの世界では、重力も自由に操ることができるみたいですから、実際も早く追いついてほしいものですね。重力コントロールマシンのようなものができれば、誰でも宇宙旅行にいけるでしょうから。え?その前に、もっと実用的な使い方?なになに、垂れ下がったヒップやバスとを反重力で・・・って?う~ん、頭が重くなってきた・・・。

(写真は、秋晴れの日に〔伊万里市からの帰り道〕)

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2005年9月13日 (火)

功名が辻とジャズ

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早いもので、9月ももう半ばを迎えようとしています。相変わらず小忙しく、各地を駆け回っておりますが、というか本業の方が、9月になって大忙しとなったことから、しばらくブログを書くのが億劫になってたかなという感もあります。まだまだ、本業はビジーですが、1週間に1回くらいアップしないと・・・ということで、やっと9月はこれで2回目です。

昨日から静岡県は掛川にやってきました。この9月12日から13日にかけて、掛川には今月2度目の訪問となります。今回の訪問は、仕事オンリーで、何処かめぼしいところがあって、そこを訪れたわけでもなく、何か話のネタがあったわけでもありません。ですから、前回訪問(9月2~3日)時のことと、併せて1本(柔道じゃあありませんが)でいきたいと思います。

さて、ホテルなんかに置いてあるパンフなどの資料をみると、その町の沿革などが分かります。それによると掛川というところは、

戦国時代には戦略上の重要な拠点であった掛川には、掛川城、高天神城、横須賀城の3つの城が置かれ、多くの武将たちの戦いの舞台になりました。また、東海道の掛川宿として栄えた町でもあり、城を中心に形成された城下町は、500 年余りに及ぶ歴史があるそうです。

今までの旅の知恵というか、行き場所に困り、時間のないときは、城に行くに限る(とまではいえないか・・・)ということで、とても暑い中ではありましたが、仕事の合間をみて、散策がてら掛川城まで行ってみました。掛川城は、来年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公である山内一豊(主人公は、その妻である千代か?)の舞台のひとつでもあって、ここで、ロケも行われるらしいのです。それにしては、まだ、盛り上げ方が足らないというのか、城には殆ど、大河ドラマに関するお知らせのようなものはなかったように思います。

掛川城には、9月2日の夕刻、6時半頃に行ってみましたが、既に閉館となっていました。しかし、お城がライトアップされていて、小ぶりながら端整な姿が夕闇の中に浮かび上がっていました。その日は外観だけでしたので、翌日、入館料300円を支払って、天守閣の中に入りました。掛川城は、他のお城に比べて、展示物が少ないように感じました。(ひょっとして、隣接している二の丸美術館にあるのかな?そのあたりは、定かではありませんが・・・)

天守閣の3階に上ると、掛川の町並みが一望できます。但し、小田原城のように、太平洋までは望めません。暑い夏の日にもかかわらず、天守閣の最上階を吹き抜ける風がとても気持ちよく、もう地上には降りたくないと思わせるほどでした。その3階にやっと、先ほどの大河ドラマ「功名が辻」に関するポスター(NHK作成かな?)が1枚貼ってありました。そのドラマの紹介によると、

愚直な槍働き一筋、真心一筋の不器用ゆえに、さしたる取り柄も功名もないと思われていた男が、土佐一国24万石の大名となった。山内一豊である。彼が、信長、秀吉、家康と主を代えながらも戦国を生き抜き、大功を成した陰に、妻・千代の卓抜した政治感覚と夫を信じぬく強い愛があったといわれている。それは、類まれなる「励ます力」でもあった。
信長、秀吉、家康という天才たちが引きずりまわした戦国の生死をかけた生存競争。その中で、中堅サラリーマンにも見立てられる一豊という夫を、妻の千代は、どのように励まし、生き抜く知恵と勇気を与えていったのか。

という物語のようであります。自分としては、山内一豊の妻=内助の功なんかが頭に浮かぶくらいで、残念ながら、司馬遼太郎原作「功名が辻」は、読んだことがありません。だから、コメントのひとつも出来ないのが、なんとも情けないですが、これを縁に是非近々読んでみようかなという気になりました。

話は変りますが、今回も前回も、宿泊は掛川グランドホテルにしました。いつものように、宿泊関連サイトで予約したものですが、このあたりで宿泊するのであれば、おそらく最もいいホテルじゃないかと思います。(別に宣伝ではありませんので、念のため)

前回、掛川に来た時は同僚と2人でした。夕食は毎度のことながら流動食で済ませました。ほろ酔い気分でホテルに戻ったら、ホテルの最上階(10階)にThe Barというお店があって、そこではジャズの生演奏をやっているとの案内が目にとまりました。まだ、寝るには早い午後8時頃ということでもあり、スコッチかカクテルでももう少し引っ掛けるべぇ・・・と同僚と出かけました。

その店は、バーとスナックの中間のような感じのお店で、どちらかというと、1次会である程度呑んで、2次会に洋酒でもという方向きのお店かなというように見受けられました。僕たちがお店に行ったときも、2次会と思われるサラリーマンらしき一団が談笑しながら、呑んでいました。

しばらくしてから、バンドのメンバーが登場して演奏が始まりました。バンドの構成は、ピアノ、ウッドベース、ドラムス、パーカッションのカルテットで、いきなり、ジャズのスタンダードを何曲か演奏した後で、ボーカルが出てきて歌いだしました。

どうせ、田舎の物好きのアマチュアバンドだろうと思っていたのですが、どうしてどうして、結構ウマい。ボーカルも、ちょっと聞いただけで、こいつプロだなとすぐ分かりました。リクエストができるということで、渡されたレパートリー集は、まるでメニューと見間違えるような人を食ったデザインでしたが、他のお客さんのリクエストが余りないことをいいことに、「酒と薔薇の日々」」「ムーン・リバー」「A列車で行こう」「スターダスト」などのジャズのスタンダードをはじめ「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」「イパネマの娘」などのボサノバなんかをリクエストしまくりました。ですから、2回のステージの大半は、僕たちのリクエストがかかり、個人的に楽しませていただきました。

後で、教えてもらったりして分かったのですが、このThe Barというお店で演奏していたバンドは、チャーリー半田とハローワークスというまたこれも人を喰ったようなネーミングのバンドだそうです。チャーリーさんは、元ピンキーとキラーズに一時(恋の季節がヒットする前に)いらした、れっきとしたプロシンガー。掛川にお出かけの際は、ぜひ、掛川グランドホテルのThe Barで、彼らの生演奏に浸ってみてください。きっと、彼らは、あなたのため(だけ)に演奏してくれるハズです。(大概の場合、そんなにリクエストが殺到することはないでしょう。)さらに、プロのチャーリーがあなたのためにお酒まで運んできてくれるのです。だって、彼は、The Barの従業員でもあるのですから・・・。

(写真上は、ライトアップされた掛川城)

(写真下は、The Barでのライブ風景)

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2005年8月24日 (水)

秋葉から電車

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タイトルから、「電車男」をイメージしてここを訪ねられた方もおられるかと思いますが、今回のテーマはそれとは関係ありません。因みに、私も、中野独人著「電車男」読みました。掲示板に寄せられた書き込みだけで、構成されているのになぜかドキドキしたりホロリときたり不思議ですね。おそらく、いろんな人たちが本当の気持ちをストレートに書き込んでいるので、それが読者にもストレートに伝わってくるんでしょうか。とにかく、スレにはじまり本、映画、テレビ、舞台など次々に席巻してゆく「電車男」恐るべしというところでしょうか。

さて、アキバ系オタクの都、いやいや今やIT産業拠点と呼ばれる「秋葉原」から、国際的研究学園都市「つくば」に向けて、今日、1本の鉄道が開業を迎えました。いわゆる「つくばエクスプレス」(TX、常磐新線)です。つくばエクスプレスは、JR常磐線の混雑緩和のため、1985年に計画が動きはじめました。運営主体は、JRや首都圏の既存の私鉄ではなく、東京都や千葉県、埼玉県、茨城県など沿線の自治体が出資して設立した第三セクター「首都圏新都市鉄道」です。当初、2000年の開業を目指して着工されましたが、区画整理関係などいろいろな問題を解決するのに時間を要し、5年遅れでの開業となりました。つくばエクスプレスには、終点つくばをはじめ埼玉県の八潮市など、沿線は鉄道交通にどちらかといえば恵まれなかった地域が多く、この開業は地元にとって悲願でもありました。

この新線は総延長58.3kmで、この間に20駅が設けられています。駅名には、「流山おおたかの森」とか「研究学園」など個性豊かな名前の駅が数多く見られます。列車には、「快速」と「区間快速」の2種類の快速列車が設けられていて、最速45分で秋葉原~つくば間を結びます。気になる運賃は、初乗りが160円で、首都圏のJRの初乗り運賃より若干高いものの、東京メトロと同じ水準になっています。秋葉原から終点のつくばまでは、1150円で、新線が開通するまで、つくばからの足をつとめた高速バスよりも100円安い料金設定となりました。(しかし、高速バス側もすかさず、同じ料金への値下げを発表しました。)

つくばエクスプレスのウリは、最新技術により安全性と乗り心地を追求したことと、車両や駅舎は人や環境にやさしいユニバーサルデザインが数多く導入されている事です。例えば、乗降口は、車椅子での乗り降りに便利なように段差を極力小さくしていたり、目の不自由な方のために、全てのドアに点字で車両番号とドア番号が表示されていたりすることなどです。また、(JRなどでは窓に張ってある)優先席のマークなどは、シートに直接プリントされています。さらに、リサイクルのことを考慮して、車両はアルミニウムなどの素材が多用されています。

鉄道交通がほぼ整備を終えたと云われるこの時代に、身近なところで新しい路線が開業を迎えるという出来事は、一生のうちでもにそうはないと思います。さらに、開業当日に乗車できるというチャンスも滅多にないだろうと思い、早速、乗りに行ってみました。つくばエキスプレスの秋葉原駅は、地表からエスカレーターを3~4本乗り継いで下らなければいけません。後で、調べて分かったのですが、地下33mにホームがあるのだそうです。ですから、乗り継ぎには少し余裕をみないといけないかもしれません。

今日、乗車した区間は、秋葉原から南流山まででした。電車は秋葉原の地下ホームを出発して、南千住まで地下鉄ばりに走ります。北千住で地上に出ますが、荒川の鉄橋を渡ると再び地下に潜り、八潮で再び地上に顔を出します。つまり、秋葉原寄りは結構地下駅が多いみたいです。新しい駅名板(紅色がベースになっています)が新鮮に映ります。車両は結構広々としています。さすが新しい車両だぞという車の新車に近い臭いがありました。それと、新しいから揺れないのかと思ったのですが、揺れが少ない理由は、ロングレールを採用していることによるそうです。こんなところにも、配慮がされているんですね。

ということで、開業初日なので褒めちぎって終わりにしようかと思ったら、今日朝6時20分頃、北千住で30mのオーバーランを早速起したとのこと。確か、つくばエクスプレスは、自動列車運転装置(ATO)によって、自動停止する仕組みになっているはず。いきなり、勇み足とは・・・。交通機関によるミスが目立つ昨今、安全こそが使命であることを肝に銘じて、しっかりと運営してほしいものですね。

(写真上は、つくばエキスプレスの開業を祝うポスター〔秋葉原駅にて〕)

(写真下は、秋葉原駅に着いたTX)

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2005年8月20日 (土)

恋におちたら…

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ちょっと用事があって、東京は下町荒川区の某商店街にある「おもちゃ屋」に、行ってきました。出張などで地方に行った時に、地元の商店街なんかを歩いたりすることがありますが、印象としては概ね活気がなくて、ひどいところは、人通りもまばらで、昼間から殆どのお店がシャッターを閉め、まるでゴーストタウンのようになっているところもありますね。今日、お邪魔した某商店街は、活気に溢れているとまではいえませんが、近隣に郊外型の大規模ショッピングセンターが設置されていて、そこにお客さんを持っていかれてるという訳ではないし、商店街の中に大型スーパーがあって、お客様をごっそり抜かれている訳でもなく、そういう意味では、昔ながらという姿でまだ機能している商店街と言えるでしょう。

そんな昔ながらの商店街の佇まいの残るところは、東京で探してもありそうでないのか、この商店街ではよくテレビなどのロケが行われます。私が知っているだけでも、6回ほどはあったかと思います。最近では、フジテレビ系で1クール前の木曜10時枠(現在は「電車男」を放映している時間帯)でやっていた「恋におちたら~僕の成功の秘密~」の第2話のロケが、今年の3月23日(水)~24日(木)の2日間にかけて、この商店街というよりは、この「おもちゃ屋」で行われました。

「恋に落ちたら」(全11話)は、SMAPの草彅 剛が主演で、IT業界を舞台にしたドラマでした。天才プログラマーと呼ばれながら、父親のネジ工場を継いだために、ITビジネスとは無縁の世界にいた鈴木 島男(草彅 剛)は、倒産によってすべてを失ったが、IT企業大手のフロンティアへのサイバー攻撃を救ったことをきっかけとして、IT業界戻ってくる。目的は、「お金持ちになること」。鈴木自身は、財力や人脈など何も持っていなかったが、人を信じ、心を大切にするという信念だけで、数々の成功をおさめていく。

鈴木が成功を手にすればするほど、彼とは180度対極にいるフロンティア社長の高柳 徹(堤 真一)と、ビジネスに対する考え方で対立し、二人の間の距離は広がっていく。しかし、その一方で、高柳社長は、ビジネスにおける成功によって、社会から高い評価を得た鈴木を取締役に昇格させ、彼の人気を利用しようとした。それによって地位も得た鈴木は、さらにビジネスに対してアグレッシブとなっていく。ついには、ビジネスで勝ち続けることで得た快感が、鈴木の人間性を蝕み、彼の感性まで麻痺させていく。

鈴木の急速な進化におそれを抱きはじめた高柳社長と、鈴木はネット配信プロジェクトの件において、決定的な対立を起こし、鈴木を解任してしまう。フロンティアを追われた鈴木は、ロイドブラザーズの桜庭(鶴見 辰吾)の後ろ盾を得てフロンティアを買収するが、ほんの短い期間で社長を追われる。

社長を追われた鈴木と高柳は、失意の日々を過ごした後、お互いを認め合うようになり、彼らを支える白川 香織(松下 奈緒)や桐野 七海(和久井 映見)のはげましによって、再び挑戦の舞台に上る。鈴木と高柳や神谷 陸(谷原 章介)はじめフロンティアをやめて集まった7人が起こした「鈴木ネジnet」は、やがて大成功をおさめ、高柳はフロンティアの社長に復帰、鈴木は「鈴木ネジnet」で本当にやりたい仕事を続けていく。紆余曲折はあったものの、2人は人間的にも成長して、ビジネスも順風満帆。めでたし、めでたしという物語。

「恋におちたら」の第2話は、フロンティアに入社した鈴木 島男の最初の仕事に、高柳社長は、インターネットのショッピングモールに契約している「おもちゃの亀や」の契約打切を指示する。しかし、どうしても「おもちゃの亀や」を救いたいと考える鈴木は、ネットオークションを企画して、なんとかこの冴えないおもちゃ屋を救おうと懸命の頑張りをみせるというストーリーですが、この「おもちゃの亀や」のロケをしたのが、この荒川区の「おもちゃ屋」なのです。

もちろん本当の店名は、「亀や」ではありませんし、店長も田山諒成さんではありません。(本当の店長も何回もテレビに出てるからご存知かも?)本物の店長によりますと、ロケはまる2日間びっちりしたそうです。スタッフは総勢30名くらいで、タレントさんは草彅さんがまる2日で、松下奈緒さんや田山さん、唐木ちえみさん(店長の妻役)は1日くらいだったとのこと。丸2日びっちり撮影したけれど、オンエアされたシーンはかなりカットされているということでした。「おもちゃ屋」の売り場は終日撮影に使い、その隣で本来倉庫として使っている部屋は、ドラマで契約打切の交渉をするシーンに使った事務室として貸し出し、居間も撮影に使用するため明け渡したそうです。その上、タレントさんの控え室として、2階の客間を供出したので、ロケ中は開店休業のようなものだったそうです。(まぁ、なにもない普通の日でも開店休業みたいなものだともおっしゃっていましたが・・・)

居間には、掘り炬燵が切ってあるのですが、草彅さんはそれを結構気に入って「こういうのいいですね」と喜んでいたそうです。それで、店長の奥さん(本物の)が、草彅さんにサインを書いてとお願いしたところ、草彅さん本人は「いいですよ」と気軽に応じてくれたらしいのですが、すぐさまマネージャーが来て、SMAPはサインはしませんと拒否したそうです。しかし、流石、いい人草彅さん。それを制してちゃんとサインをしてくれたそうです。サインの話が出たので、松下さんのはもらいましたかと聞いてみました。そうしたら、あまり有名な人かも分からなかったので、もらわなかったとのこと。もったいない。こんなことなら、きっちり頼んどきゃよかった。(松下さん、このブログ見てたら、サイン送って・・・まぁ、そんなことはありえないでしょうけどね・・・)

ロケ2日目の夕方の撮影終了間際には、口コミで集まったファンが約100名ほど、店の周りを囲んでいたそうです。草彅さんの送迎用ワゴン車が店の前に横付けされた時には、近くで見ようとするファンが寄って来て大変だったらしい。

それで、これだけ有名になったのだから、商売にいい影響がありましたかと聞いてみたら、「全然ない」とのこと。「扱っているのが玩具だから、子供でもいなければ、買いにも来ないし、だいたいこんな商店街におもちゃを目的に来る人はいないだろう」と全く哀しいほど無欲なんです。ブログの読者のみなさん、恵まれない「おもちゃ屋」にどうぞ愛の手を差し伸べてください。売り上げアップにぜひ宜しくお願いします。お前は、「おもちゃ屋」の回し者かって?回し者のようで、回し者ではないが、そのように理解していただいても差し支えない(なんのこっちゃ!)。

(写真上は、荒川区のおもちゃ屋の外観)

(写真下は、荒川区のおもちゃ屋の店内)

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2005年8月14日 (日)

虫の居所

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1週間というのは、過ぎてしまえばあっという間ですね。今日、岡山発8時17分の「のぞみ46号」で東京に戻ってきました。お盆期間中の日曜日なので、混み具合はどうかなと思っていましたが、全くいらぬ心配でした。空席も結構あり、余裕の車内でした。お盆休みは16日までですから、明日、明後日あたりは結構混んだりするのでしょうか?

前回の北海道出張時に、移動車内でずっと原稿をおこしていて、ストレスが溜まったという経験に学び、今日は新聞1紙に目を通したくらいで、後はボケーっと流れ去る景色をながめながら、何をするでもなく、東京に輸送されていきました。(荷物じゃあないけど、そんな感じかな)

新聞を読んでいて、「クマゼミ北上、東京に出没」という記事が目に止まりました。それによると、

クマゼミは南方系のセミで、四十年ほど前までは関西ではそれほど多くなかった。だが、(関西では)最近その数が急増している。クマゼミは、最近、東京や神奈川県など関東でも見られるようになった。この原因については、科学的な証拠はまだ得られていないものの、温暖化が関係している可能性が高いらしい。

そういえば、岡山なんかでは、クマゼミは昔から珍しくもなかった。大型の羽根の透明なセミで高い木のそれも高いところにいたりして、捕まえるのはなかなか大変だった記憶はあるけれど、希少価値のあるセミではなかった気がします。しかし、クマゼミが、南方系のセミだというのは、初耳(いや初見?)でした。その他にも、ミナミアオカメムシやナガサキアゲハなどの生息域が北上しているらしい。これも、温暖化や都市のヒートアイランド現象の影響で、平均気温が上昇していることが原因のようです。さらに、

北海道にいないはずのゴキブリが札幌でも確認された。これも、都市のヒートアイランド現象で、札幌でも生息できるようになった。(従来の説によると、)本州と北海道の間の津軽海峡には、プラキストン線と呼ばれる、生物地理学的な境界線があり、この線を境にして、ゴキブリは北海道にはいないとされていた。

なるほど、北海道にはゴキブリはいなかったのか。しかし、どうやって、津軽海峡を越えていったのでしょうね?普通に考えれば、人間が持ち込んだ貨物に紛れて移動したということなんでしょうが。ゴキブリが飛んで津軽海峡を渡ったというロマンのある説はどうでしょうかね?(ロマンもないし、ゴキブリの航続距離が津軽海峡を超えられるかとお叱りを受けそうですが・・・)

そもそも、ゴキブリって飛ぶの?って思った方もいるでしょうね。ゴキブリって、飛ぶんですよ。床をそそくさと這い回るだけではないのです。立派な羽根もあります。(自分の記憶のなかで)昔は、よく電灯に向かって飛んできたりしていました。

何十年か昔、貧乏学生だった頃、東京は杉並区の安アパートに住んでいたことがありました。そこは、窓を開けていても蚊は入って来ませんでしたので、夏はいつも窓を開けっ放しにしていました。ある日の夜、勉強していたら(そういうことにしておいて下さい)ひとつしかない電灯に、何か飛んできて、光が遮られました。よく見ると、ゆうに10㎝は超えるゴキブリではありませんか。人の部屋に飛び込んできて、好き放題に飛び回っていたゴキブリを、新聞紙を丸めて作ったバットで窓の外にバシッとたたき出す。そんな感触が今でも手に残っています。北海道の方にもやっとこの醍醐味が味わえる時が来たのですね・・・。

(写真は、東京駅に着いたのぞみ46号)

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