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2009年5月12日 (火)

山よし、川よし、人も吉

人吉3

日中は30度近くにもなったというのに、朝は少し肌寒い。涼やかな空気とサラサラと流れる水の音で目覚めた。時間は朝の5時半。移動疲れと晩酌の球磨焼酎が効いて、昨晩は9時過ぎには前後不覚に陥ったようだ。電気もテレビも全部つけっ放し。おまけに酔っ払って暑かったせいか、ご丁寧に浴衣も脱ぎ捨てていた。勿論、くしゃくしゃ。そうしてみると、記憶を無くすくらい呑んでも、脱いだ衣類はキチンと畳んでいたという草なぎ剛はエライ。

清流の音に誘われて、つかの間の散策に・・・というのなら、少しは「大人だねぇ」と褒めてもらえそうだが、昨日の食べ過ぎを少しでも何とかしておこうというのが実のところ。しかし、旅館の夕食というのは、どうしてあんなにボリュームがあるのかな?今回お世話になった「人吉旅館」さんも例外ではなかった。だったら、そんなに食べなければ?と言われそうだが、普段、食べつけないものを眼前に並べられると、やっぱりねぇ・・・。そんな後だから、一夜明けての腹ごなしなんて無意味だろうとは思いながら、運動も兼ねて散歩に出ることにした。

人吉旅館から歩いて1~2分のところに、青井阿蘇神社という神社があった。やたらと「国宝」云々という幟が立っている。国宝だとすると有料かな?と思って近づいてみたが、チケット売り場らしきものは見当たらなかった。国宝がどうのこうのというのは、一体なんだと思い、境内で掃除をしていた人に尋ねてみたら、この青井阿蘇神社が昨年(平成20年)に国宝に指定されたそうで、それも熊本県では初めてのことだそうだ。

人吉市で配られているパンフレットによると、青井阿蘇神社は、大同元年(806)阿蘇三神を祭神に創建された。現存する建物は、江戸時代に再建されたものだという。中世人吉球磨地方の独自性の強い建築様式の中に、彫刻や彩色などにおいては華麗な桃山期の装飾性を入れているが特徴だそうだ。今回、国宝指定を受けたのは、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物五棟などである。

特に「桃山ぶりのエッセンス」が凝縮されたと言われる楼門はなかなか趣がある。急勾配の茅葺屋根に華麗な装飾。このように洗練された建物が、都から遠く離れた山深い里に残っていること自体興味深いものがある。また、境内には樹齢数百年にもなると言われる楠の大木が並び立ち、1円玉にデザインされている「招霊木(おがたまのき)」などがある。

人吉5

■駅前にある人吉城をイメージした「からくり時計」

それから、人吉駅の方に向かってみる。昨日、人吉駅に降り立って、最初に何だろうと思ったもののところに行ってみた。それは、駅前に立つ「お城のモニュメント」か何かと思いきや、からくり時計だった。写真にも小さく写っているが、からくり時計の脇に案内板があったので、それを紹介しておく。

人吉城をイメージした「からくり時計」。殿様、庄屋どん、相良乙女、臼太鼓踊りの一団など、計十七体の人形達が民謡「球磨の六調子」をアレンジしたメロディにのって登場します。作動時間3分10秒。

因みに、このからくり時計は、午前9時から18時まで正時毎にメロディーに載せて時を報せてくれるそうだ。

人吉9

■人吉駅構内にある「人吉駅石造車庫」

人吉駅の近くには、登録文化財・近代化産業遺産・九州遺産、近現代遺産編101・Bランク近代土木遺産など数々に指定された鉄道遺産がある。人吉駅石造車庫がそれである。歴史のテイストを醸し出すというか、なんとも懐かしい雰囲気のあるこの建造物について、傍らに立てられていた案内板から拝借して、少し紹介しておきたい。

肥薩線を行き交う列車たちを整備するための車庫。国内唯一の石造鉄道車庫とされ、現役である。球磨地方には地元産の石材を活かし、肥後の石工技術を駆使した石造建造物や石蔵がたくさん残されている。石造車庫はそれらの中で最も大きく、最も古い建物とされている。

建物の特徴としては、

・妻壁に開けられた3つのアーチが建物のシンボル
・柱形(はしらがた)と連続する窓が建物に威厳を与えている。
・火山性の石(凝灰岩)が建物を頑丈にし、重厚感を与えている。
・頑強な石造りの壁に軽い屋根をのせた西洋建築の手法である。
・SLの時代を思わせる煙抜きの「こし屋根」が頂部に見える。
・建物の輪郭や窓の上下に「蛇腹」と呼ばれる段飾りがある。

人吉6

■復元された隅櫓や多聞櫓など

人吉駅から市街を抜け、球磨川に架かる「人吉橋」に。橋上で暫し佇んでみた。川面を渡る風が心地よい。遠くにかすむ山並み。ただ、眺めているだけで癒されるという感じだ。ただ、人吉橋は歩道の幅が細すぎるせいか、人が佇むと邪魔なのである。こちらが通行妨害をしているのに、自転車で通りかかる人たちはみんな「ごめんなさ~い」と声をかけてくれる。人吉の人はなんていい人達なんだろうとそんなことでさえ感心してしまう。余り、お邪魔となっても申し訳ないので、さっさと渡り終えて、そこから左に折れて川沿いを進むことにした。少しばかり行くと、何やらお城のようなものが見えてきた。

現在は、人吉市役所となっているあたりが、人吉城の大手門があったあたり。その大手門脇から多聞櫓とそれに続く長塀と隅櫓が復元されている。隅櫓は胸川が球磨川と合流する人吉城北西隅の要所に立てられた一層の櫓で、江戸時代後期には漆の貯蔵庫として使われていたそうだ。

胸川が球磨川と合流するポイントから仰ぎ見る人吉城は、復元とはいえ長塀の白い壁と石垣や櫓の黒い壁のコントラストが鮮やかだ。少し急な階段を上り下りしなければならないが、河原まで下りて眺められることをお勧めしたい。

人吉7

■人吉城跡「水の手門」付近の石垣

そこから、人吉市役所、人吉城歴史館の脇を抜けて5分ほど歩くと、人吉城跡に着く。そもそも、人吉に来るまで、「人吉にお城なんてあったんだ・・・」というくらいで、知っていることなど皆無。だから、学習かたがた人吉城のプロフィールを人吉城跡に設置されていた案内版から抜粋して、ここで紹介しておくことにする。

人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江(とうとうみ)国相良(さがら)の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城(せんげつじょう)と言います。

室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて葦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡地方のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。

球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸と天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。

城内の建造物は、廃藩置県の後に取り壊されて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。

前回と今回で終了~と思っていたのに、もう十二分に原稿が長くなってしまったようだ。よって、人吉シリーズはもう1回延長としたい。では、次回。

(写真先頭は、青井阿蘇神社の楼門)

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