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2008年11月

2008年11月30日 (日)

さらば夢の超特急

こだま1

はじめて出会ったのは、小学生の時だった。今でこそ「丸い鼻をもつ愛嬌のある姿の・・・」と形容される0系新幹線だが、登場時にはブルーと白のスマートな色使いや、航空機を思わせる流線型のフォルムがとても印象的だった。

最も乗っていたのは、学生の時だったろうか。長い休みの前と後、故郷と東京を結んでくれたのは0系新幹線だった。汽車の旅にはなんとなく駅弁が似合うが、新幹線だからということにして、貧乏学生のくせによく食堂車を使った。その食堂車で、必ずといっていいほど注文したのがビーフカレー。レストラン仕立てのカレーの辛さと、これも欠かさずオーダーしたトマトジュースの何ともいえない酸っぱさが今でも忘れられない。

現在走っているどの新幹線車両に乗っても、膝が窮屈に感じることはないだろう。だが、いくら自分の足が短いとはいえ、その頃の0系新幹線の座席は、窮屈そのものだった。新幹線に乗り始めた頃は、過ぎてゆく景色も珍しく、眠ることなど余りなかったが、そのうち、転寝などをするにつけ、膝頭やら腰やらが痛くなって目覚めるということもしばしばだったように思う。

座席のせいという訳ではないが、大学生活も後半になると、特に冬休みの帰省には、よくグリーン車を利用させてもらった。先程、「貧乏学生のくせに」と言っていたではないかと叱られそうなので、少しばかり補足をしておくと、今でこそ飛行機やら車やらいろいろな交通手段が選べるが、当時、帰省のための交通機関と言えば、やはり鉄道が主流だった。特に、年末年始の時期の切符を予約するのはなかなか大変だった。

普通車の切符が取れないので、やむを得ずグリーン車ででも帰るかぁという感じだった。別にやけっぱちということではない。もちろん当時も、グリーン車など庶民感覚からすると贅沢この上ないものであったが、なにせ自分の父親が国鉄職員だったせいで、「割引証」なるものを使うと、一般料金の3割で切符を購入することができた。このおかげで、グリーン車を使ったとしても、一般の方が普通車の切符を購入するよりも安く済んだのである。こうして、学生時代の冬の帰省は、たとえ自由席に、席のない乗客が溢れていたとしても、そんなことなどお構いなしで悠々としていられた。振り返ってみれば、なんとも贅沢な帰省であったことかと懐かしくも、また、申し訳なくもある。

こだま2

■新倉敷駅にすべり込む0系「こだま」638号。開業当時のボディカラーが懐かしい

昭和39年(1964)10月、東海道新幹線に登場した0系「ひかり」は、途中停車駅を名古屋と京都のみとして、東京-新大阪間を3時間10分で結んだ。この0系「ひかり」が登場するまでは、当時最速といわれた日本初の電車特急151系「こだま」でも6時間50分を要していた。そう思えば、この0系新幹線が「夢の超特急」と呼ばれたのもうなずける。

今でこそ、700系新幹線が時速285㎞/hで走るとか、500系新幹線の最高速度が、300㎞/hなどと普通に言われているが、当時の鉄道技術からすると時速200㎞の壁を超えることは、まさに画期的だった。開業当初(1964年)の営業最高速度は200㎞/h、翌年の路盤の安定を待って210㎞/h運転を開始した0系新幹線は、フランスのTGVが260㎞/hで営業運転を開始する1981年まで、世界最高速を誇った。

0系新幹線が製造されたのは1964年。東海道新幹線開業時には、12両編成30本が用意された。それ以来23年に亘って改良に改良を加え、老朽化した0系を0系で置き換えるという方法を取りながらも、延べ3216両も製造され続けた。これだけ長きに亘って活躍できたのは、当時の技術の粋を集めた堅実な設計あってのものだが、それ以外のネガティブな理由もあるとはいえ、やはり0系新幹線への信頼性の高さを物語るものと言えよう。

こだま3

■山陽路を走る0系「こだま」639号(新倉敷-福山間)

しかし、永く君臨した0系新幹線にも世代交代の時が訪れる。車両の老朽化と換気設備など機能面における陳腐化、そして何よりもコスト面での弱点が露になったことから、新しい車両に転換されることになる。この新車両が、かつて「ニュー新幹線」と呼ばれ、新幹線では初めて2階建て車両を組み込んで運用された100系新幹線である。(1986年10月運用開始)

昭和62年(1987年)に国鉄が民営化され、JR東海に1339両、JR西日本に715両の0系新幹線が移管された。しかし、特に東海道新幹線では、1992年に登場する300系元祖のぞみ型新幹線や、1997年に登場の300㎞/hマシン・500系新幹線、そして、1999年に登場する現在のスタンダード700系新幹線に比べて、足の遅い0系新幹線は高速ダイヤ上のお荷物と化していった。こうした事情から0系新幹線の廃車に拍車がかかるようになり、1999年9月には故郷でもあり主戦場でもあった東海道路から姿を消すことになった。

その後、生き残った新幹線は、活躍の場を山陽路に移す。山陽新幹線の0系は、2×2シートに改造するなど、室内のリニューアルが行われたり、4両・6両などの短編成化が進められた。こうして、山陽新幹線では、1998年から2000年まで、ウエストひかりとして高速運用されていたが、それ以降は、こまめに全駅をつなぐ「こだま」として余生を過ごすことになった。

2008年11月30日は、初代0系新幹線の引退の日となった。電車であり、それも新幹線ではないか・・・と、ずっと思っていたのだが、引退という響きを耳にするとやはり寂しい。お疲れ様0系新幹線。ありがとう夢の超特急。同じ時代を生きた者として、僕たちはきっと忘れない。

(写真先頭は、岡山駅でカメラの放列をうける「こだま」638号)

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2008年11月10日 (月)

アフロブルーな夜

作本さん

一人の時はそうでもないのですが、相方がいると、夜は呑みに出かけることが多いです。この時も「ご多分に漏れず」でした。折角、旅先にいるので、できれば地のもので・・・と、だいたいそんな感じになりますね。なお、一応断っておきますが、旅先ではそれほど深酒はしません。翌日の仕事に差障りが出てはいけないので、一軒目で終えることも多いです。

この日は、「瓢六」という店に行きました。相方から「大田和彦氏の本に紹介されていたので是非行ってみたい」と言われたのがその理由です。元々おでん屋からスタートしたお店ということで、先ずはおでんをオーダーしてみる。因みに、おでんの種のお芋といえばジャガイモが主流かと思いますが、熊本ではサトイモになるらしい。まぁ、ここ出身の同期の話によればではありますが・・・。その他にも、熊本名物ともいえる馬刺しや辛子蓮根、変り種では「人文字ぐるぐる」というのを注文したのですが、何を食べても美味しかった。ただ、飲食は2時間くらいまでというルールがあるらしく、ここのお店で長居は難しいようです。

長居が出来なかったせいにして、この日はもう1軒行く?ということになった。それでは・・・・と普通ならここから物色開始となる訳ですが、相方によっては「もう少しバーで呑みたい」だとか、「おネェちゃんのいる店に行く?」とか大体の傾向がヨメます。この日の相方からは、「ラウンジなんかでジャズが聞きたい」なんてのが多いので、ホテルから出かける前に情報収集をしておいたのですが、今回は、それが役立ちました。

afroblue

こうして訪ねたのが、熊本市新市街にある「afroblueというラウンジ兼ライブハウスのお店。熊本市内で毎日演奏が聞けて、それもJazzが中心ということから、ここに行ってみるべぇということになったのです。お店にはラウンジスペースとミュージックスペースがありましたが、時間が早かったせいかミュージックスペースには、自分たちオンリー。(でも、夜も更けて、こちらが帰ろうとした頃には、周りはお客で溢れかえっていましたけど)

ライブは、21時くらいからというのが通常のようですが、この日は予定を早めて(?)か、1回目のステージは20時から開始してくれました。この日の演目はJazzではありませんでしたが、その代わりに、この店の支配人でいらっしゃる作本光弘さんがギターとボーカルで魅せてくれました。「え~、支配人?」と言うなかれ、この作本さん、世良公則&ツイストでギタリストとして参加していたということで、ウデはなかなかのもの。用意した楽曲だけでなく、リクエストにも応えてくれるということで、2曲ほどやってもらえましたが、いや~、彼の「Change the World」にはシビれました。

この「afroblue」というお店、ミュージックスペースならチャージは2000円とリーズナブル。スタイリッシュで素敵な熊本の夜を満喫したいなら「afroblue」いかがでしょう。

(写真上は当日のライブをつとめた作本さん、写真下はライブハウス afroblue

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