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2007年11月11日 (日)

最果て紀行 その4

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稚内の市街地を抜けると、後はもう一本道のようなもの。車の鼻先を宗谷岬に向けて、ただひたすら国道238号線を走る。稚内空港を横目に通り過ぎると、進行方向の左手には、ダークブルーの宗谷湾の海が広がり、右手には原野なのか原生花園なのかよく分からないが、言うならば手付かずの風景が広がる。そのうえ、強い風のせいなのか、植物としての北限のためなのかこれも不明だが、背の高い樹木が殆どないことに気づく。

富磯漁港に近づく頃から、数多くの巨大な風車が回る丘陵の景色に出会う。稚内は、南部以外の三方を海に囲まれ、また、その風を遮る山脈もないので、海からの強風にさらされる。このため「風の街」と呼ばれる稚内は、この特性を生かそうと風力発電も盛んだ。風力発電は、クリーンエネルギーとして、また、この地区の電力需要を賄うインフラとして有用なのは理解できるが、景観との調和ということも十分考慮して設置をしてほしいと思う。

富磯漁港を過ぎると、右手に宗谷中学校が見える。宗谷中学校は、日本最北の学校なのかと思ったら、日本最北の中学校なのだという。因みに、日本最北の学校は、稚内市立大岬小学校なのだそうだ。

あと少し走れば、宗谷岬に着く。

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■宗谷海峡から遠くサハリン(旧樺太)の島影を望む

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■宗谷海峡付近の地理を示す石板

2007年11月9日 午前10時頃、ついに日本最北の地、宗谷岬の地を踏んだ。先ずは、日本最北端の地の碑に行ってみる。こんなに早い時間なので、余り観光客もいないだろうと思っていたら、さにあらず。前回の記事にも書いた通り、このあたりに来た人たちは朝早くから動くし、観光バスも既に数台着いていてまずまずの賑わいを見せていた。

日本最北端の地の碑は、宗谷岬の先端、北緯45度31分14秒にあり、文字通り日本最北端の地に建てられている。三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしていて、塔の中央にあるNの字は北を、台座の円形は平和と協調を表現しているそうだ。毎日、日没から夜明けまでライトアップがされていて、幻想的な風情を見せるというが、夜までいられる程の時間はないので、それは断念。

日本最北端の地の碑から遥か海の彼方を眺めたら、サハリンの島影を望むことができた。この日本最北端の地とサハリンの間には、どう目を凝らしても海しか見えなかった。しかし、宗谷岬と対岸の僅か43km、サハリンとの間には国境という見えないラインがしっかり引かれている。ここから先に日本の領土はなく、ここが国境の街なのだということを実感させられる。

日本最北端到着証明書

蛇足だが、宗谷岬の土産店には「日本最北端到達証明書」なるものを売っている。日本最北端の地に立った記念に買い求めてみた。名刺サイズのこの証明書は、一通、100円で、ここを訪れた人でなければ、買うことはできない。証明書には日付が押され、稚内市観光協会の協会印が入る。ちょっとした記念にはなるだろう。

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■間宮林蔵の立像

話は変わるが、1809年に間宮林蔵が、樺太(サハリン)とユーラシア大陸の間にある海峡を発見するまで、欧米では樺太は半島ではないかと考えられていた。このとき、林蔵が発見した海峡は、「間宮海峡」と名づけられ、現在でもその名を残している。世界地図に名前の載った日本人は、後にも先にも間宮林蔵ただ一人である。

間宮林蔵は、江戸で測量と製図を学び、幕府普請工事に従事した。1800年頃、ロシアの南下政策を警戒して北方警備の重要性が幕府にも認識されはじめたが、当時は、蝦夷地の地理もまだよく知られていなかったために、林蔵は幕府の役人として調査に同行するように命じられた。

林蔵は、蝦夷地で測量調査をする一方で、伊能忠敬に測量技術を学んでいる。こうした実績を認められて樺太探検を命じられたのは、1808年のことである。このときに樺太が島であることを推測した林蔵は、翌年にも探検を行い、大陸に渡るなどして島であることを確証したのである。

間宮林蔵は、常陸の国(現在の茨城県)の人だが、蝦夷や樺太に縁が深いということから、この宗谷岬にも、林蔵の偉大な業績を称えたモニュメントは多い。立像は、林蔵の生誕200年を記念して、1980年に建てられたものだという。

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■間宮林蔵渡樺の地を示す案内版

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■間宮林蔵が樺太に発った地をしるした碑と林蔵が持参したという墓石

宗谷岬から稚内に向かって、西へ3kmほど戻ったところにある第2清浜地区に「間宮林蔵渡樺出港の地」がある。林蔵が、樺太に向けてどこから出発したのかは、彼の著書「東撻(とうだつ)紀行」でも、ただ、宗谷とあるだけではっきりしないのだという。しかし、現在では、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第2清浜地区が林蔵渡樺の地と考えられているそうだ。尚、碑の横には、渡樺にあたり、死を覚悟した林蔵自らが稚内に持参したと伝えられる墓石が奉られている。

さて、4回に亘った「最果て紀行」も今回で終わります。第一回で稚内の魅力を余すことなくと予告していましたが、いかがでしたでしょうか。とかく、暗い、寒いなどのイメージがつきまとう最果ての街ですが、今回の投稿をご覧になって興味を覚えた方など、一度くらいは足を運んでみるのも如何でしょう。

まぁ、でも、わっかないか・・・。

(写真先頭は、日本最北端の地の碑)

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コメント

ご無沙汰しております。
年賀状にURLがありましたので
久々に拝見しました。水戸黄門もびっくりの諸国廻りぶりで。。。
みなさんの年賀状に「たまには飲みましょう」的なのがありましたが、ホントに開催されるようであればお誘いいただければ。。。です。(基本的に受け身でスイマセンですが)
では。では。またそのうち。

投稿: Hirose.Yasuyuki | 2008年1月 2日 (水) 18時16分

ご無沙汰しています。2008年の全般は、大半がオフィスワークになりそうな感じなので、時間は取れそうです。久しぶりに、一献!しますか?そのうち連絡しますのでヨロシク。でも、飲み会の誘いにコメントを使わんでちょうだい。そのあたりもヨロシク!

投稿: Imahiro | 2008年1月 7日 (月) 14時43分

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