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2007年8月

2007年8月29日 (水)

出張先の鉄道アルバム 1

はまかぜ1

■姫路駅で出発を待つ特急「はまかぜ4号」(2004年4月9日 姫路駅にて)

日本全国を旅していると、鉄道のお世話になることは多いものです。レールファンならずとも、自分を運んで来てくれた列車を「記念に1枚・・・」なんて人も多いのではないでしょうか。

こうして、旅先で「とりあえず・・・」という感じで撮り貯めた写真もかなり多くなりました。改めて、見直してみると、その中には今ではもう見られなくなった車両や、その土地に行かないとお目にかかれないような列車たちの姿もありましたが、撮っても撮りっぱなしで放ったらかしにしていました。

こうして撮り貯めた写真を使って、アルバムでも整理するような感じで、夏休み特集(?)というか、そんな意味合いでいくつか原稿を作ってみることにしました。しかし、大半が出張先で、列車待ちをしている時に偶然見かけたものをホームで1枚だとか、そんな写真ばかりで、鉄道写真としてはそれほど価値があるとも思えないし、私としても、鉄道にそれほど詳しい訳でもなく、たいしたものが書けるとも思えませんが・・・。まぁ、そのあたりは大目に見ていただいて、ご覧いただければと思います。

題して「出張先の鉄道アルバム」

第1回目は、今では見られなくなった旧国鉄色のキハ181系特急を取り上げてみました。

はまかぜ2

■旧国鉄色の特急「はまかぜ」(2004年4月9日 姫路駅にて)

非電化区間の特急として、全国に配置されていたキハ80系のパワーアップと急勾配区間のスピードアップを目的として開発されたキハ181系気動車。1968年に登場した特急用気動車も経年し陳腐化したために、定期運用されているのは、播但線を経由して大阪と山陰線の鳥取を結ぶ「はまかぜ」だけになった。

現在、旧国鉄色で塗装されているキハ181系車両はなく、先頭の写真のように、全車両がJR西日本色に塗装されている。写真は、2004年に姫路駅で撮影したものだが、当時は、6両編成のうち大阪寄りの3両が旧国鉄色、鳥取寄りの3両がJR西日本色の混成となっていた。

いなば

■智頭急行線経由で鳥取まで走っていた特急「いなば」(2002年8月12日 岡山駅にて)

1994年12月に開業した第三セクター鉄道の智頭急行は、山陽本線の上郡駅と因美線の智頭駅でJR線と接続する陰陽連絡のバイパス線である。この第三セクター線に乗り入れて、岡山と鳥取を結んでいた特急「いなば」にも3両編成の181系が投入されていた。

特急「いなば」の181系による運用は2003年9月30日で終了し、10月1日からは、車種を187系気動車に置き換え、名称は「スーパーいなば」に変更されている。

2005年3月1日、山陰本線の下関と益田間で運用されていた「いそかぜ」が廃止されたことによって、現役で活躍する181系気動車は、JR西日本の京都総合運転所に所属する26両のみとなっている。気動車特急として全国で活躍したキハ181系の姿が見えなくなる日も、そう遠いことではないのだろう。

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2007年8月10日 (金)

滅びゆく橋

タウシュベツ川橋梁1

「幻の橋」と呼ばれている橋があるのをご存知だろうか?

ローマ遺跡を彷彿とさせるその橋は、東大雪の糠平湖という人里離れた人造湖に架かっている。

正式名をタウシュベツ川橋梁といい、旧国鉄士幌線のアーチ橋梁群のひとつである。

タウシュベツ川橋梁は、もともと旧国鉄士幌線が1939年に十勝三股まで開通した際、音更川支流のタウシュベツ川に架けられていたものだ。

1955年、糠平湖が造られるあたり、旧国鉄士幌線は湖を迂回する新線に置き換えられることになった。これが故に、タウシュベツ川橋梁は、鉄道橋としての使命を絶たれ、湖の中にしばし佇むことになった。

むろん、解体される予定もなかったわけではないが、地元の有志による保存活動によって、現在まで形をとどめている。

糠平湖は、電源開発のために造られた人造湖であるために、季節によりその水位は著しく変化する。

雪解け水が湖に注ぎ込む毎年6月頃から、糠平湖の水位は上がり、橋は湖の中に沈んでいく。9月頃には、その殆どが水没してしまうというという。

そして、湖面が凍結する12月から1月には、再びその姿を現す。これが「幻の橋」と呼ばれる所以だ。

タウシュベツ川橋梁は、厳しい自然環境と毎年のように水没を繰り返すことにより、後数年で朽ち果ててしまうと言われている。

しかし、補修をして保存をしようという動きはない。あるがままを受け入れて、いずれ訪れる滅びを受け入れるというのだ。

錆付いた時計が時を刻むことなどもうない。

だが、滅びがあるからこそ美しい。この橋をみているとそう思えてならない。

(写真は、糠平湖にかかるタウシュベツ川橋梁)

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2007年8月 3日 (金)

まつ山だ もん?

松山城天守閣

夏台風というのは、行く手を太平洋高気圧に阻まれ、日本本土に近づくことは少ないと言われています。今までの経験に基づくとそうなるのでしょうが、地球温暖化のせいなのか、最近の気象現象はどうも常識だけでは測れないようです。

それに、常識的にということなら、夏台風の大きさは小型から中型クラスが多く、余り大型の台風は来ない筈なのに、今年の台風5号は大型で強い勢力があるとのこと。それも、九州から四国に接近あるいは、上陸するかもしれないというニュースが流れる中、アポの関係とは言えまるで台風の渦中に飛び込むが如く松山に行くことになりました。

南九州を発着する飛行機が軒並み欠航となっていく中、松山への便は、幸か不幸か分らないけれど、一応、飛ぶようでした。ただ、出発間際となって天候調査が入り、松山に降りられない場合は、岡山か伊丹空港に降りるかも知れないという条件付でのフライトとなりました。そのうえ、位置関係からすると松山に近い山口宇部空港への便は全て欠航となっていたので、「大丈夫かよ・・・」と思いながら。

*)天候調査とは、出発地もしくは目的地の天候不良により、最新の気象状況や予報をもとに運航の判断をすることを言います。

しかし、ラッキー(?)なことに、予約しておいた8月2日のANA593便は飛んだのです。ですが、それ以降の松山行きのフライトは全てキャンセルになった模様。そんなギリギリの中を、台風に向かって飛んでいくものだから、必然的に飛行機は大きく揺れる。飛行機が大きく揺れると、「地に足がついていない」ということを如実に思い知らされる。なので、飛行機が苦手な人にとっては、肝を冷やす時間がかなり続いたのではないかと思われ、松山空港に降りた時、安堵の歓声が乗客の中から上がったほどです。

天気が良くなければ、おとなしく帰路に着くというが一般的ですが、雨、風が大分収まってきたので、8月3日、帰路に着く前に、松山城にでも行ってみようという気分になりました。松山城に行くのは、初めてではありませんでしたが、前回は、改装工事中だったので、普通の状態(?)で行くのは、初めてということになるでしょうか。

前置きが長くなりましたが(いつものことですが)、今回は松山城について書いてみようと思います。松山城については、ネットの中でも様々に紹介されているので、ここでは、松山城に行かないと見たり、聞いたりできない情報(場内にある案内板、お城で配布しているパンフレットなど)を主に取り上げようと思います。

「春や昔 十五万石の 城下かな」「松山や 秋より高し 天守閣」などと正岡子規が詠んだ松山城は、標高132mの勝山山頂に立ち、松山市内からなら、概ねどこからでも見えます。松山城は、大天守に小天守が連結する連立式天守を持つ日本を代表する平山城(ひらやまじろ)のひとつです。

松山城は、慶長7年(1602)正月15日、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明(1563~1631)によって起工されました。石材などは正木(松前)城や湯築城から運ばれたものも多かったようです。嘉明は足立重信を普請奉行として工事に着手。おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手繰り渡しで瓦を運ぶなど多くの人が工事に従事しました。翌慶長8年10月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。城全体の完成は、加藤嘉明が会津40万石に移封となった寛永4年(1627)頃と言われています。約26年の歳月をかけて築城されたことになります。

さて、松山城には、戦術的に重要な役割を果たすいろいろな「門」が備えられています。ここからは、主に、これらの「門」のこと取り上げてみたいと思います。尚、ここで取り上げた門や櫓が全てではありません。他にも多数あります。ここでは、大手方面から天守閣に上る間に通過し、また、案内板を容易に探し出せたものを中心に取り上げてみました。

戸無門

■戸無門

本丸大手の重要な固めである。慶長年間に建造された高麗であり、昭和10年に国宝に指定されたが、法の改正により重要文化財となった。昭和年代では、12年、25年、46年、59年、60年に修理された。

筒井門

■筒井門

この門は築城の際、正木城にあったものを移築されたと伝えられる。本丸大手の正面の固めを構成する重要な門である。

太鼓櫓

■太鼓櫓

太鼓門・同続櫓・太鼓櫓・巽櫓はひとつの防御単位を構成し、高さ6.9mの石垣の上に一線に構築され、筒井門からさらに進入してくる敵に対し、厳しい構えをみせている。また、石垣の西端には太鼓櫓があり、太鼓門との間に24.41mの渡塀があって鉄砲狭間16ヶ所、石落3ケ所が設けられていた。

太鼓門

■太鼓門

太鼓櫓から巽櫓まで一線上に構築され、大手からの進入に対する重要な防御施設である。太鼓門はその東端にある脇戸附の櫓門である。昭和10年に国宝に指定されたが、同27年4月、戦災で焼失したので、同47年2月に古い資料に基づいて復元された。

松山城の小天守

■小天守閣と紫竹門東塀

小天守閣は、大手方面を防衛し、搦手方面を側防し、二ノ丸・三ノ丸方面を監視することのできる位置にあり、城内の諸櫓の中で、天守閣に次いで重要な櫓である。小天守閣の大棟には両端に瓦の鯱が置かれ、城郭建築の威厳を示している。

紫竹門東塀は、乾門(搦手門)方面からの攻撃に備えたものである。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、寛永期の再建とみられる。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。同26年、46年、59年、60年、平成4年、5年に修理が行われた。

一ノ門

■一ノ門

脇戸附の高麗門で、本壇の入口になるのでこの名があり、木割りも豪放である。二ノ門南櫓、三ノ門南櫓、小天守閣から射撃される構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、天明6年(1786)に再建された。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。同25年、4ⅲ年、59年、60年に修理が行われた。

ニノ門

■二ノ門

本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つ。天守閣、三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。

三ノ門

■三ノ門

本壇における第三番目の門で、高麗門の形式を持つ。三ノ門南櫓、天守閣から射撃される構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。昭和10年に国宝に指定されたが、同25年、法の改正により重要文化財となった。

筋鉄門

■筋鉄門

脇戸附の櫓門で門の柱に鉄板が貼ってあるのでこの名がある。櫓は天守閣と小天守閣の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。天明4年(1784)雷火のために天守閣とともに焼失し、安政元年(1854)に再建された。昭和8年に放火により焼失したが、同43年に元の姿に復元された。

天神櫓

■天神櫓

本壇東北の隅は鬼門にあたるところから、城の安泰を祈るため、松平期の先祖である菅原道真(天満天神)の像を安置し祭ったのでこの名がある。本壇において、戦略的意味の少ない珍しい櫓である。昭和20年、戦災により焼失したので、同54年9月に古い資料に基づいて昔日の姿に復元された。

松山城の石垣

■美しい曲線を保つ扇勾配の石垣

松山城へは、松山市電の大街道電停から10分程歩いて、ロープウェイの山麓駅へ行き、そこから約3分で上るロープウェイか、平行して運行されているリフト(約6分)を利用して山頂駅である長者ヶ平(ちょうじゃがなる)まで上るのが一般的です。勿論、徒歩でも登って来れますが、登ってこられた方に伺うとだいたい30分くらいかかるとのこと。体力づくりに勤しんでいる人にはうってつけかも知れませんが、夏の間はちょっとどうでしょうねぇ。

松山城は、道後温泉と並ぶ松山の二大観光スポットといえるでしょう。天守閣からは松山市内や瀬戸内海が一望できます。市内からなら1時間半くらい見れば見学できるでしょうから、待ち時間でもあれば、山で待つってのは。待つ山・・・、松山・・・なんて、ちょっと苦しいか・・・。

*)各門や櫓に関する解説の一部を、パンフレット「重要文化財松山城」(松山市観光産業振興課作成)より引用させていただきました。

(写真先頭は、松山城天守閣)

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