2009年5月12日 (火)

お昼のB級グルメ(人吉編)

人吉9

「ところで、お昼はどうするの?」。帰り支度を整えて、「さて」と腰を上げようとしていた時である。水俣で知り合って、今は、人吉で仕事をしているY氏からそう言われた。さんざん大食いをした翌日のことである。昼くらい抜いてもいいか、くらいに思っていたのだが・・・。

「ラーメンでよければ、ウマいところがあるんだけど」という。Y氏によれば、そのお店は、テレビ番組か何かで優勝か準優勝かしたらしく、また、関東の「なんつっ亭」の店主が、その店で1年間修行をしたということで、全国的にも有名なのだそうだ。「昼時に行ったら、まず入れないよ」ということだし、熊本出張の時には、大体一緒に飲んでいる同期のK氏も、人吉に来たら間違いなく寄っていくらしい。

開店の時間は、午前11時45分(実際は、11時30分)だというし、ここ(中青井町)からだと、歩いて10分もかからないくらいだから、是非行った方がいいよと勧められた。それで、「悪いが、これからすぐ出かけなければいけないので、一緒に行けないのが残念だけど」とちょっとつれないY氏の声を背中に、訪問先を後にした。

そのお店の名は「好来」という。Y氏からは「コウライ」と教えられたが、厳密に言うなら「ハオライ」というのが正しい。Y氏曰く、「昨日泊まっていた人吉旅館の前の道をずっと行って、突き当たったあたりだよ」というかなりアバウトな説明を頼りに、取り敢えずは行ってみることに。どれどれ、人吉旅館前を過ぎてと・・・。確かに、その道がまっすぐに進めないぞと誰でも分かる地点まで来ると、1軒のラーメン屋があった。

11時43分である。しかし、店が開いていない。「おかしいな。人気の店なら、誰か待っていても良さそうなものだが・・・」と勘ぐる。それに、店の名前は確か『コウライ』とかなんとかでは・・・と思いながら、よく、そのラーメン屋の名前を確かめたところ、看板には「桃源」と書いてあった。このあたりで、ラーメン屋というとここしかなさそうだけどと、少し不安になってキョロキョロしたが、やはり、ラーメン屋はここ以外なさそうだった。もう、二度と来ることもないかも・・・と思うと、ちょっとしたプレッシャー(?)さえ感じる始末。

人吉10

■「好来ラーメン」の外観

ここで、新兵器登場。丁度、携帯を変えたばかりで、これに内蔵されていたGoogleマップに「好来」と入力し、検索してみたら、なんとヒットするではないか。場所は、ここではないとすぐに確認。すぐ近くのようだが、場所は明らかに違うみたいだ。時間を見る。11時50分。焦る。携帯に表示された地図を頼りに小走りに急ぐ。そして、見つけた。そのお店は、国道445号線沿いに佇む何の変哲も無いラーメン屋に見えた。

店の中を覗いてみる。小じんまりとしたお店には、テーブルが3つか4つほど。すでに、地元の人らしき方々で大盛況(?)である。「仕方ない。空くまで待つか」と外でウダウダしていたら、地元のツウらしき方が席を空けてくれ、すぐに席につくことはできた。壁に貼ってあるメニューには、「ラーメン 550円」とあるだけ。このお店の主人は凄く自信であるのか、やる気がないのかどっちなのだろうかと思った。

ラーメンを注文する。注文できるのはラーメンだけだから、当然、そうなる。ラーメンが目の前に登場すると、なんとスープは真っ黒。墨汁でも入っているのではないかと疑うほど黒い。この黒いスープの素はマー油だそうだ。このマー油こそ、好来ラーメンの個性というべきか。ニンニクと胡麻油、ラードを炊いて作ったベースがその色になるのだという。

これは、凄く濃厚なスープかなと思ったら、口にしてみると以外にあっさりとしている。味わうと、少し苦味があって、最初は「え?」という感じだが、そのちょっとした苦味が逆に食欲をそそる。このスープが絡むのが、たっぷりとした自家製麺。このコシの強い麺と黒いスープの相性はかなりイイ感じである。麺のボリュームも結構すごい。食べても食べても減らない感じがするくらい丼に盛られている。いや、詰め込まれていると言ったほうがいいかも知れない。

そのうえ、麺の上には茹でたモヤシがてんこ盛り。それに、柔らかいチャーシューが3枚。その他、見た感じはお茶漬け用の塩昆布をお湯でもどした様な野菜?茸?まさか本当に昆布ではあるまいとは思うが、何だろう?味はモヤシに近く、淡白な味わいの黒く長細い謎の食材も、モヤシと同量くらいたっぷりと入っていた。(これが何かご存知の方は、是非、教えていただきたい)

さて、「好来」というお店は、JR肥薩線人吉駅から歩いて10分くらいの人吉市下青井町というところにある。前にも触れたが、開店するやいなや、車や徒歩でひっきりなしにお客さんが訪れる。私が、訪ねた時は、殆どこの店の常連さん達で埋まっていたように思うが、遠くからわざわざこの個性的なラーメンを食べに来る人も後を絶たないという。

「好来」の営業時間は、昼11時30分から夜8時まで。定休日は、毎週月曜日。お昼前後は、ほぼ満席状態と思ったほうがよく、早めに行かれることをお勧めしたい。

(写真先頭は「好来」のラーメン)

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山よし、川よし、人も吉

人吉3

日中は30度近くにもなったというのに、朝は少し肌寒い。涼やかな空気とサラサラと流れる水の音で目覚めた。時間は朝の5時半。移動疲れと晩酌の球磨焼酎が効いて、昨晩は9時過ぎには前後不覚に陥ったようだ。電気もテレビも全部つけっ放し。おまけに酔っ払って暑かったせいか、ご丁寧に浴衣も脱ぎ捨てていた。勿論、くしゃくしゃ。そうしてみると、記憶を無くすくらい呑んでも、脱いだ衣類はキチンと畳んでいたという草なぎ剛はエライ。

清流の音に誘われて、つかの間の散策に・・・というのなら、少しは「大人だねぇ」と褒めてもらえそうだが、昨日の食べ過ぎを少しでも何とかしておこうというのが実のところ。しかし、旅館の夕食というのは、どうしてあんなにボリュームがあるのかな?今回お世話になった「人吉旅館」さんも例外ではなかった。だったら、そんなに食べなければ?と言われそうだが、普段、食べつけないものを眼前に並べられると、やっぱりねぇ・・・。そんな後だから、一夜明けての腹ごなしなんて無意味だろうとは思いながら、運動も兼ねて散歩に出ることにした。

人吉旅館から歩いて1~2分のところに、青井阿蘇神社という神社があった。やたらと「国宝」云々という幟が立っている。国宝だとすると有料かな?と思って近づいてみたが、チケット売り場らしきものは見当たらなかった。国宝がどうのこうのというのは、一体なんだと思い、境内で掃除をしていた人に尋ねてみたら、この青井阿蘇神社が昨年(平成20年)に国宝に指定されたそうで、それも熊本県では初めてのことだそうだ。

人吉市で配られているパンフレットによると、青井阿蘇神社は、大同元年(806)阿蘇三神を祭神に創建された。現存する建物は、江戸時代に再建されたものだという。中世人吉球磨地方の独自性の強い建築様式の中に、彫刻や彩色などにおいては華麗な桃山期の装飾性を入れているが特徴だそうだ。今回、国宝指定を受けたのは、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物五棟などである。

特に「桃山ぶりのエッセンス」が凝縮されたと言われる楼門はなかなか趣がある。急勾配の茅葺屋根に華麗な装飾。このように洗練された建物が、都から遠く離れた山深い里に残っていること自体興味深いものがある。また、境内には樹齢数百年にもなると言われる楠の大木が並び立ち、1円玉にデザインされている「招霊木(おがたまのき)」などがある。

人吉5

■駅前にある人吉城をイメージした「からくり時計」

それから、人吉駅の方に向かってみる。昨日、人吉駅に降り立って、最初に何だろうと思ったもののところに行ってみた。それは、駅前に立つ「お城のモニュメント」か何かと思いきや、からくり時計だった。写真にも小さく写っているが、からくり時計の脇に案内板があったので、それを紹介しておく。

人吉城をイメージした「からくり時計」。殿様、庄屋どん、相良乙女、臼太鼓踊りの一団など、計十七体の人形達が民謡「球磨の六調子」をアレンジしたメロディにのって登場します。作動時間3分10秒。

因みに、このからくり時計は、午前9時から18時まで正時毎にメロディーに載せて時を報せてくれるそうだ。

人吉9

■人吉駅構内にある「人吉駅石造車庫」

人吉駅の近くには、登録文化財・近代化産業遺産・九州遺産、近現代遺産編101・Bランク近代土木遺産など数々に指定された鉄道遺産がある。人吉駅石造車庫がそれである。歴史のテイストを醸し出すというか、なんとも懐かしい雰囲気のあるこの建造物について、傍らに立てられていた案内板から拝借して、少し紹介しておきたい。

肥薩線を行き交う列車たちを整備するための車庫。国内唯一の石造鉄道車庫とされ、現役である。球磨地方には地元産の石材を活かし、肥後の石工技術を駆使した石造建造物や石蔵がたくさん残されている。石造車庫はそれらの中で最も大きく、最も古い建物とされている。

建物の特徴としては、

・妻壁に開けられた3つのアーチが建物のシンボル
・柱形(はしらがた)と連続する窓が建物に威厳を与えている。
・火山性の石(凝灰岩)が建物を頑丈にし、重厚感を与えている。
・頑強な石造りの壁に軽い屋根をのせた西洋建築の手法である。
・SLの時代を思わせる煙抜きの「こし屋根」が頂部に見える。
・建物の輪郭や窓の上下に「蛇腹」と呼ばれる段飾りがある。

人吉6

■復元された隅櫓や多聞櫓など

人吉駅から市街を抜け、球磨川に架かる「人吉橋」に。橋上で暫し佇んでみた。川面を渡る風が心地よい。遠くにかすむ山並み。ただ、眺めているだけで癒されるという感じだ。ただ、人吉橋は歩道の幅が細すぎるせいか、人が佇むと邪魔なのである。こちらが通行妨害をしているのに、自転車で通りかかる人たちはみんな「ごめんなさ~い」と声をかけてくれる。人吉の人はなんていい人達なんだろうとそんなことでさえ感心してしまう。余り、お邪魔となっても申し訳ないので、さっさと渡り終えて、そこから左に折れて川沿いを進むことにした。少しばかり行くと、何やらお城のようなものが見えてきた。

現在は、人吉市役所となっているあたりが、人吉城の大手門があったあたり。その大手門脇から多聞櫓とそれに続く長塀と隅櫓が復元されている。隅櫓は胸川が球磨川と合流する人吉城北西隅の要所に立てられた一層の櫓で、江戸時代後期には漆の貯蔵庫として使われていたそうだ。

胸川が球磨川と合流するポイントから仰ぎ見る人吉城は、復元とはいえ長塀の白い壁と石垣や櫓の黒い壁のコントラストが鮮やかだ。少し急な階段を上り下りしなければならないが、河原まで下りて眺められることをお勧めしたい。

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■人吉城跡「水の手門」付近の石垣

そこから、人吉市役所、人吉城歴史館の脇を抜けて5分ほど歩くと、人吉城跡に着く。そもそも、人吉に来るまで、「人吉にお城なんてあったんだ・・・」というくらいで、知っていることなど皆無。だから、学習かたがた人吉城のプロフィールを人吉城跡に設置されていた案内版から抜粋して、ここで紹介しておくことにする。

人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江(とうとうみ)国相良(さがら)の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城(せんげつじょう)と言います。

室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて葦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡地方のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。

球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸と天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。

城内の建造物は、廃藩置県の後に取り壊されて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。

前回と今回で終了~と思っていたのに、もう十二分に原稿が長くなってしまったようだ。よって、人吉シリーズはもう1回延長としたい。では、次回。

(写真先頭は、青井阿蘇神社の楼門)

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2009年5月11日 (月)

球磨川沿いを旅する

人吉1

久しぶりに列車で旅をした。行き先は人吉。九州山地に囲まれた清流と温泉の町である。人吉までどうやって行こうか、と考えてみた。熊本県だろう。だから、熊本空港で降りて、そこからバスで熊本に出て、JRに乗って・・・というのが普通のルートかなと思った。

鹿児島空港から高速バスでというルートもあるなと思った。地図でみる限りでは、熊本空港より鹿児島空港の方が人吉に近いのではないかと思う。だが、紙のうえと現実は違うようである。鹿児島方面からの鉄道ルートはビジネスユースには全く適さない。必然的に肥薩線と平行するように山間を縫う、九州道の方に目がいく。これを使えば楽勝かと思った。がしかし、高速バスの停留所である人吉ICから人吉市内までのアクセスが余りにも悪く、これも「使えねぇ」ときた。

人吉インターから人吉駅までは、歩けないような距離でもなさそうだったが(勿論、そんなつもりは毛頭なかったが)やはり、列車で行くことにした。久しぶりに車窓でも眺めながら、ゆっくり旅しようかなという気分になった。だから、ということではないが、起点を熊本にせず、福岡空港経由で博多から出発することにした。

博多発13時30分のリレーつばめ47号は、熊本駅に14時51分の到着。つばめとの接続を僅か4分でとって、真っ赤なボディの九州横断特急3号が人吉に向けて出発する。4分間のインターバルで済むのは、つばめの着く1番線ホームの八代寄りに切り込み式ホーム0番線(A・B)があり、九州横断特急は、ここで待機しているからだ。博多でチケットを買った時、「つばめを降りて4分で大丈夫かな」とちょっと気をもんだのだが、それは杞憂に終った。

真っ赤な2両編成の特急が熊本平野を疾走する。鹿児島本線は八代まで複線になっており、列車交換でスピードダウンを強いられる単線とは違って、ディーゼル特急の走りは快調だ。ギアチェンジによって、スピードアップ時には「グン」という衝撃をたまに受けるが、乗り心地もさほど悪くない。

人吉2

それにしても、九州の日差しは強い。いつ来てもそう思う。5月は1年の内でも最も紫外線の強い季節らしいが、そのせいだけではなさそうだ。鮮やかな新緑が目に眩い。改めて、列車の旅はいいなと思う。街や川、田園地帯の中をスピードを上げて突っ走る。後ろに飛び退いてゆく家並み、遠くにかすむ山々が旅の実感を豊かにしてくれる。

八代を出るとそれまでの風景は一変する。旧鹿児島本線の肥薩おれんじ鉄道を右手に見ながら、赤い特急は山間に向けて大きくカーブを切ってゆく。しばらくすると、翡翠色の水面が右手に現れた。日本三大急流の一つ球磨川だ。これから暫くは、球磨川沿いの渓谷の風情を愉しもうかと、景観の良い方の車窓を求めて、空いた車内を右往左往(?)してみる。

途中の鎌瀬駅を過ぎると、鉄道好きには有名な球磨川第一橋梁を渡る。この橋は、明治時代にアメリカで作られたという。こんな骨董品のような橋がまだまだ現役で頑張っている。この他にも、肥薩線には開業当時そのままの風情を残す駅舎や、大正時代に作られたというレンガ造りの発電所などが残り、まるでアンティークの宝庫のようだ。

球磨川第一橋梁を渡ると、線路は球磨川の左岸に移る。必然的に車窓から見える球磨川は左手に移り、自分も進行方向に向かって左側の座席に移動した。穏やかに流れていた球磨川も、白石あたりからは早瀬が多くなり、球泉洞、一勝地付近ではこれぞ急流という顔を見せてくれる。ただ、ちょっと残念だったのは、線路に沿って張られた電線が、折角の風景を邪魔するのである。列車の車窓からは殆どが電線のある風景となるので、そういうことが気になる方にとっては、少し興ざめと映るかもしれない。

列車が終点のひとつ手前の駅、西人吉に近づくと、球磨川は線路から離れてゆく。それまでの山間の村という風景から、なんとなく町らしくなるというか、家並みという表現が許される車窓になる。人吉盆地に入ったようだ。車内に到着を告げるアナウンスが流れ出すと、人吉まであと僅かである。

(写真先頭・中間とも肥薩線の車窓から見える球磨川の風景)

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2009年4月27日 (月)

4度目の出雲

出雲駅

久しぶりに出雲に行った。多分、4度目だと思う。「多分」というのは、記憶を辿ればということで、正確には記憶を見ないと分からない。これだけ出雲に来ているというのに、駅と目的地の往復だけという気もする。

神話の国のシンボル・出雲大社にも行ったことがない。出雲大社は縁結びの神様だそうだが、縁結び自体にもう縁がないので行ってもしょうがない・・・というのが、行かない理由ではない。それに、行かないのではなくて、行けないのである。兎に角、出雲に来たときには、何故か、遊んでいる暇がない。仕事して、昼メシ食って、移動。だいたいいつもこんなパターンになってしまう。

何にも、出雲らしいことが出来ないのもくやしいので、昼メシだけは「出雲そば」を食べることにした。どうせ食べるなら、少しは名の通ったお店で食べようかと調べてみた。老舗だという、創業220年の歴史を誇る「荒木屋」さんとか、おそばを皇室に献上したこともあるという「羽根屋」さんなどがいいねぇと同僚とのコンセンサスもばっちりだ。しかしというか、やはりというべきか、そんな時間はどこにもない。ということで、結局、出雲市駅内にある「出雲そば 黒崎」というそば屋に入った。多分、老舗ではないのだろうと思いつつ・・・。

ここで注文したのが「割子そば&しじみセット」。お代は900円也のメニュー。ところで、割子そばってどうやって食べるのか知ってます?割子そばというのは、わんこそばが3段になったような感じで、それに冷たいそばつゆをかけて食べるのだが、そばの上にお好みで薬味を乗せて、先ずは1段目のお椀にそばつゆを回しかける。

1段目を食べ終わったら、残ったつゆを次の段にかける。かつて松江にもいたことがあるという同僚がそうやっており、実際のところ「ホンマかいな」と思ったが、どうもこれが正式の流儀らしい。2段目が終ると3段目も同じ様にやる。ただ、3段目ともなると、さすがにつゆが足りなくなるので、こういう場合は、少しずつ足して良い。らしい。

さて、注文したのは、「割子そば&しじみセット」というセットメニューである。他に何がついてくるかといえば、「しじみ汁」だ。NHKの朝ドラで、この3月まで放映されていた「だんだん」の中で、よく登場した「アレ」である。勿論、マナカナがやっていたバンドのことではない。これは蛇足かな?

しじみと言えば、宍道湖の名産。宍道湖では、粒が大きく、身は肉厚のヤマトシジミが取れる。厳密に言えば、お隣の松江の名物ということになるかも知れないが、細かいことを言うのはよそう。因みに、このしじみの旬は春だそうで、「しじみ汁」を美味しくいただくには、絶好の季節であったようだ。たまたま。

「兎に角、出雲に来たときには、遊んでいる暇がない」とかなんとか言いながら、結構、楽しんでいるんじゃないの?と言われそうだが、本当に暇がない。出雲市駅に10時半に着き、それから段取り通り仕事をこなして、そのうえ食事まで取って、出雲市駅13時33分発の「やくも20号」で岡山へ。岡山で13分の待ち合わせの後、新幹線で新尾道に移動。

そうしないと、次の相手との約束の時間に間に合わない。そこまでしなくても・・・といわれそうなくらいギリギリのスケジュールで、今回のツアーは動くことになっている。そんな綱渡りをしながら、翌日の高知まで無事行けるかなと思いながら、接続と接続の合間を駆ける。今回はそんな日程になってしまった。だから、もう一度言っておこう。兎に角、出雲に来た時は遊ぶ暇もない。もし次があれば、今度こそ出雲大社くらい行ってみたい。

(写真は、出雲大社を模して作られたというJR出雲市駅)

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2009年3月15日 (日)

「富士」「はやぶさ」長い旅路を終えて

富士・はやぶさ1

3月14日のダイヤ改正で、東京駅をターミナルとする九州行きブルートレインは全て姿を消してしまいました。半世紀に渡って、九州各地と東京を結んできたブルートレイン。廃止が決まったのは、昨年12月のことでした。

「はやぶさ」は、「あさかぜ」「さくら」に続く第三の九州ブルートレインとして、昭和35年(1960)に登場しました。登場当時の「はやぶさ」は、電源車も含めて20系客車14両編成で東京駅と西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)を結びました。当時、「はやぶさ」は日本最長距離を走る列車であり、その走行距離は1493㎞にも及びました。

しかし、「はやぶさ」の全ての編成が西鹿児島まで行っていたかといえばそうではなく、昭和43年(1968)9月30日までは、編成の半分は博多止まりでしたし、昭和43年10月1日以降、50年(1975)3月9日までは、長崎行きの編成と併結運転をしていました。昭和50年3月10日からは、再び、行き先が西鹿児島になりましたが、編成の半分は熊本止まりというものでした。

さくら・はやぶさ

■ありし日の「さくら」「はやぶさ」(2005年2月23日撮影)

その後、利用客の減少に伴って運転区間が短縮され、平成9年(1997)11月29日からは全ての編成が熊本発着に変更されました。平成11年までは、単独の編成として運転されていた「はやぶさ」も利用者減に伴う運転系統整理により、12月4日より鳥栖駅まで「さくら」との併結運転されることになります。併結運転に伴い、それまで最低でも13両を連結していた「はやぶさ」は、24系客車9両の短編成になりました。

その後も、「はやぶさ」の流転は続きます。平成17年(2005)3月1日のダイヤ改正で、併結相手の「さくら」が廃止され、最後のランデブーの相手に「富士」が選ばれることになります。「富士」との併結運転に伴い、「はやぶさ」の編成は6両とさらに短くなり、使用車両も24系25形客車から、14系客車へと変更されました。

富士5

■深夜の岡山駅に到着した「富士」」(2004年8月16日撮影)

「富士」は、日本を象徴する伝統の列車愛称であるがゆえに、もっと早くネーミングされていても良さそうですが、いろいろな思惑から温存され、東京発九州行きブルートレインとしては、最後発の列車の愛称となりました。「富士」は、昭和38年(1963)に運転が開始された「みずほ」の大分行きの編成を引き継ぎ、昭和39年(1964)に日豊本線経由の寝台特急として登場します。発足当時の「富士」は、電源車も含めて20系客車14両編成で東京駅と大分駅を結びました。発足当時の「富士」の大分駅乗り入れ編成は従来の「みずほ」と同じく8両で、残りの6両は下関止まりでした。

その翌年の昭和40年(1965)10月1日のダイヤ改正で、「富士」の運行区間は、日豊本線経由で西鹿児島駅まで延長されます。これにより「富士」は「はやぶさ」を抜き、1574.2㎞を24時間以上かけて走る日本最長運転のブルートレインになりました。因みに、この記録は当時、同区間を運転されていた急行「高千穂」とならび、定期旅客列車の最長運転の日本記録になるそうで、昭和55年(1980)10月1日に「富士」が宮崎駅まで運転を短縮して以来も、破られていません。

先程、「富士」の運行区間は西鹿児島駅までといいましたが、全ての編成が西鹿児島駅まで行っていた訳ではありません。やはり、「はやぶさ」と同様に編成の半分は大分駅止まりとなっていました。平成2年(1990)3月に、ターミナル駅が宮崎駅から南宮崎駅へと一駅だけですが延長されます。しかし、運行区間の延長はそれが最後で、平成9年(1997)11月29日には、全ての編成が大分発着に短縮されました。

しかし、この年に「さくら」と併結運転となり、短編成化された「はやぶさ」とは異なり、「富士」はその後も電源車を加えて10両以上の堂々たる編成で運転が継続されました。「富士」は登場も最後でしたが、単独運行の九州ブルートレインとして、最後まで気を吐きつづけます。しかし、先程、「はやぶさ」のところでもふれたように、平成17年(2005)3月1日の「富士」「はやぶさ」の併結運転開始にともない、「富士」の編成も6両と短くされ、「はやぶさ」と同様に使用車両も24系25形客車から、14系客車へと変更されました。

富士・はやぶさ2

■長い編成を率いて東京駅に到着した「富士」「はやぶさ」

「富士」「はやぶさ」を牽いたのは、高速貨物機として製造されたEF66形で、東京~下関間の直流区間を担当しました。このEF66形がブルートレイン牽引機になったのは、昭和60(1985)年からで、どちらかと言えば、寝台特急の黄金期を過ぎた頃からでした。これに比して、ピーク時にその先頭に立っていたのは、EF65形500番台でした。

EF65形500番台は20系客車を牽引するために必要な装置・機器を搭載して、本来、貨物用として作られたEF65形を旅客用にしたものです。旅客用のEF65形は、初代のP形、重連総括制御用機器・装置を搭載したF形、F形を基本に貫通扉を付け耐雪耐寒装備を強化するなどの改良を加えた1000番台(PF形)が作られました。その他、直流区間以外では、関門トンネル専用機のEF81形が先頭に立ち、鹿児島本線や日豊本線ではED76形などの交流機が牽きました。

はやぶさ1

■熊本駅で発車を待つ「はやぶさ」(2008年2月22日撮影)

富士1

■東京駅で発車を待つ「富士」

ブルートレインの歴史は、昭和33年(1958)、東京と博多を結んだ「あさかぜ」に始まります。国鉄初の冷暖房完備の車両、豪華な食堂車が用意され「動くホテル」と呼ばれました。最盛期には、一晩に合わせて上下50本近い列車が、全国を行き交いました。集団就職にも使われ、日本の高度成長の一翼を担ってきたブルートレイン。進学、就職、結婚、ブルートレインは、人生の岐路に立った人たちを乗せて走り続けてきたのです。

しかし、時代の流れには抗うことは難しく、新幹線や飛行機、あるいは運賃の安い高速バスなどに押され、乗客の数は減り続けてきました。東京と九州各地を結んだブルートレインも、平成6年(1994)には、九州行きブルートレインの中でも名脇役的存在だった「みずほ」が廃止され、平成17年(2005)には、ブルートレインの代名詞ともいえる「あさかぜ」と「さくら」が廃止されました。こうして平成21年(2009)には「富士」「はやぶさ」も廃止され、東京駅を発着するブルートレインはついに姿を消してしまいました。

この3月のダイヤ改正後、全国に残る客車寝台特急は全部で6種類6編成になりました。それを列挙すると、日本海(大阪―青森)、トワイライトエキスプレス(大阪―札幌)、北陸(上野~金沢)、北斗星(上野―札幌)、あけぼの(上野―青森)、カシオペア(上野―札幌)ですが、残る列車たちの存在も磐石とは言えず、去就が注目されます。

(写真先頭は、長い旅路を終えて東京駅に着いた「ふじ」「はやぶさ」

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2009年3月11日 (水)

さらば九州ブルートレイン

富士・はやぶさ3

博多発7時56分発、「ひかり446号」に乗って小倉まで行き、そこから8時12分発の鹿児島本線準快速で門司に向かう。しかし、改めて思うに新幹線は速い。博多と小倉の間を僅か17分で結ぶのだから。同一区間の在来線を走る特急ソニックの最速列車で40分、ブルートレインに至っては、1時間以上もかかる。旅の意味にスピードを求めるなら、新幹線を選択するのは至極当然のこと。そんなことをつい思ってしまう。

今日は平日だからか、門司駅で「富士」「はやぶさ」を待つギャラリーはそれほど多くない。到着まで30分余りの門司駅4番線ホームには、約20名くらいの人たちが、思い々々のポジションに佇み、列車の到着を待っていた。人数もさほどでもなし。東京駅で待つファンの殺気に満ちたオーラに比べれば、至ってのん気なもの。最初はそんな具合だった。

しかし、列車到着の時間が迫ってくるにつれて、だんだんとギャラリーの数が増える、それに伴って、人々の動きも活発になる。少しでもいい撮影ポイントを求めるためだ。こうしている内に、8時46分が近づく。「間もなく列車が到着します。危ないですから、白線の内側まで下がってお待ちください」というアナウンスがホームに流れ出すと、それまでの空気とは一変し、それなりの緊張感に包まれた。

しばらくすると、関門トンネルの方角からローズピンクの機関車がまるでせり上がってくるように、近づくのが見えた。関門トンネル専用機のEF81だ。寝台特急であることを示すヘッドマークは掲げられていない。下関-門司の短区間においては、昭和59年2月から約2年間、やはり関門トンネルの特殊区間専用機であったEF30が、一時、ヘッドマークを掲げていたようだが、それ以来はないのである。

富士・はやぶさ4

■ホームの先端で行われる機関車の切離し作業を見ようと集まった人、人

4番線ホームの関門トンネル側で、EF81の到着を出迎えた後、小走りで前方に移動する。急いで前方に行くのは、ホームにいる人たちだけかと思ったら、全然違った。車両のドアが開くと、老若男女が入り乱れて、一斉に駆けてゆく。とにかく凄い人。それに迫力。こちらが、機関車のところに到着した頃には、もう人だかりで、機関車の切り離し作業など見られるような状況ではなかった。

そのうえ、機関車は、ホームの先端近くに設置されている金属製の柵の前方に停まるため、前面が見えないということが分かった。これでは、単独のヘッドマークが拝めないと考えて、向い側の5番線ホームから撮影をすることに決めた。向い側の5番線ホームは、4番線ホームから徐々に乖離してゆくようにカーブを描いているので、被写体は少しばかり小さくなるかも知れない。ただ、5番線ホームにはギャラリーが少なく、今、移動すればお好みのアングルで取れるかなと思った。

実際に、5番線に行ってみて、ギャラリーが少ない理由が分かった。信号機と大きな木が思いっきり邪魔をして、機関車の真ん中をぶった切ってくれたからである。「あちゃ~」とは思った。しかし、これから4番線ホームにリターンしても、良好なポジションを確保するなど、無理のまた無理。そんなことは、向い側のホームから見ていれば一目瞭然だった。

はやぶさ0

■熊本までの牽引機がしずしずと近づく

そうこうしている内に、前後両面にヘッドマークを掲げたED76が操車係に導かれて、しずしずと青い客車に接近し連結された。「これが、最後のはやぶさのショットかぁ・・・」。デジカメのディスプレイで確認した画像は、赤い電気機関車と青い客車が連結され、ヘッドマークは何とか見える。ただ、機関車の真ん中を信号機とでかい木で見事にちょん切られ、なんとも情けない出来栄えだった。しかし、どうしようもない時間は無情にも流れ、8時59分。寝台特急「はやぶさ」は熊本に向けてゆっくりと出て行った。

富士2

■「はやぶさ」を見送った後、発車を待つ6両編成の「富士」

「はやぶさ」が発車した後の、4番線ホームには6両の「富士」が取り残されていた。編成が半分になったので、撮影環境も多少改善するかと思ったが、相変わらず、結構な人数が待ち構えていたので、引き続き5番線ホームから「富士」を狙うことにした。

富士3

■大分までの牽引機が連結された「富士」。単独のヘッドマークが誇らしい

9時ちょっと過ぎに、ここから大分まで「富士」を牽くED76が、誘導されて14系15形の青い車体に近づく。「富士」の牽引機の連結は、4番線ホームのだいたい真ん中くらいで行われるので、撮影するポジションとしては、何の問題もなかった。ここで、数枚ほど「富士」をカメラに収めてから、ダメ元で4番線ホームに戻ってみた。「富士」については、機関車が連結されてから、発車まで少し余裕があることと、乗客として乗ってきたギャラリーを「はやぶさ」が半数くらい運んでくれたせいであろうか、発車間近の4番線ホームの込み具合は、全く機関車に近づけないというほどではなく、なんとかED76に近づいて、その姿をカメラに収めることが出来た。

9時10分、少し長めのホイッスルを鳴らし、大分に向けて「富士」は発車していった。こうして、自分にとって見納めになるであろう「富士」を見送った。しばらくすると、ブルートレインが発車するまでの喧騒はどこへやら、発車から5分も経つといつもの門司駅に戻っていた。

出張帰りを利用した「富士」「はやぶさ」見納めツアーは、そもそもこれで終るはずだった。というのも、博多~門司間の旅費は自腹につき、門司から博多までの帰路は普通列車を利用して、旅費の節約を図るつもりだった。だが、「はやぶさ」の撮影がうまくいかなかったこともあり、帰路に利用する予定だった9時17分発鳥栖行きの普通電車の中で「はやぶさ」の博多着の時間を探ってみた。「はやぶさ」の博多着は10時10分だった。

はやぶさ3

■博多駅2番線ホームに進入する「はやぶさ」

そこで、しばし考えた。新幹線を使えば、博多でひょっとして間に合うかも知れない・・・。再び路線探索サイトで検索したところ、小倉9時40分発の「こだま」で追いかけても、余裕で先回りできると分かった。であるなら、「まぁ、最後だから」と特急券代をケチるのはやめにして、「はやぶさ」を追っかけることにした。こうして、博多駅の2番線ホームに進入する「はやぶさ」をなんとか捉えることが出来た。そのうえ、博多駅の2番線ホームの前方にも回りこんで、ギャラリーでごった返す中、停車中の「はやぶさ」の面をなんとかカメラに収めることもできた。

さて、昨年の同じ時期、「なは」「あかつき」の見納めツアーを敢行した。そのときに比べて、時期が押詰っていたせいか、それとも、いよいよ九州でのブルートレインの見納めだからなのか、ギャラリーの数はその時の比ではなく、かなりのものだった。今後残るブルートレインは、北斗星(上野-札幌)をはじめ4編成のみ。ますます希少化するブルートレイン。そうすると、ギリギリになっての見納めツアーはこのあたりで終わラストせざるをえないかも・・・。

(写真先頭は、門司駅に侵入するEF81牽引の「富士」「はやぶさ」)

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2009年3月10日 (火)

さよなら『はやぶさ』

はやぶさ2

熊本駅

昨年の12月19日だったか?JRグループの3月ダイヤ改正に併せて、ブルートレイン「富士」「はやぶさ」が本当に廃止されるらしいというニュースを耳にしてガク然としたのは。時代の流れといえばそれまではあるが、昨年の「なは」「あかつき」に続き、こうも早く九州ブルートレインが姿を消してしまうのは寂しい限りだ。

これだけ旅に出ていれば、3月までには一度くらい九州に行く機会もあるだろうと思っていたら、あっと言う間に3月になった。廃止されるまでに、なんとか「富士」「はやぶさ」に乗り込むチャンスはないものかともがいてみたが、流石にそれは実現できなかった。

だったら、せめて最後の勇姿を見ておきたいと思い、3月10日の午後から急遽、熊本に飛ぶことにした。しかし、この週のスケジュールはタイトだった。9日の月曜日は丸1日錦糸町での仕事、12日の木曜日はオフィスで外せない会議。13日の金曜日は多分、横浜で丸1日拘束される・・・ハズ・・・だから、ここに日程をこじ入れるしか手がなかった。そんな窮屈な日程にも拘わらず熊本に来たのである。ちょっとばかり、先方に無理を聞いてもらうことにはなった・・・みたいだが。

午後8時半過ぎ、豊肥本線の2両編成の電車で熊本駅に着いた。新幹線工事の関係だろうか、改札などのレイアウトが以前より、ずいぶん変っているように感じられた。そして、コンコースに数多く吊るされた、さよなら『はやぶさ』のペナントがいやおうなしに目に入る。いよいよ九州最後の寝台特急にとっての、ラストウイークが来たことを告げるように。

寝台特急「富士」(大分―東京)とともに「はやぶさ」(熊本―東京)が、3月14日のダイヤ改正で半世紀近い歴史に幕を下ろす。今週は、九州ブルートレインの最後に寄せて、いくつか投稿しようと思う。

(写真上は、さよなら『はやぶさ』のペナント)

(写真下は、熊本駅コンコースに吊るされた数多くのペナント)

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2009年1月14日 (水)

白い一日

鳥海山に向けて

んよりと曇った空に小雪が舞う。とっぷりと日の暮れた秋田空港は一面の銀世界だった。「まるで、スキー場にでも来たみたいだな」。秋田市内に向かうリムジンバスを待ちながら、誰かがそう呟いていたっけ。「今年は雪が多そうだ。明日が思いやられるな」時折、足下に訪れるスリルを味わいながら、一夜のねぐらに急ぐ。やっぱり普通の革靴はいかん。そんなことは、とっくに分かりきっているのだが・・・。

一夜明けて、朝を迎えてみれば、昨日とはうって変ってのピーカンデイ。予想は小幅ながら裏切られた。羽越本線の各駅停車に揺られながら、羽後本荘を目指す。途中、山々の木々という木々には着雪がみられ、今年初めての雪にまみえる者の目には、まるで幻想的なオブジェが立ち並んでいるように見える。がしかし、地元の人々にとっては、別に感激するほどのものでもなく、いつもの景色くらいにしか映らないのだろう。

羽後本荘駅は、秋田県内の羽越本線の中心都市、由利本荘市の代表駅。本年の初仕事はここからスタートすることになった。各駅停車を降りてから、時間調整のために、駅舎内にしばらく留まってぶらぶらしていたら、名産品だという大きな手毬がぶら下がっているのに出くわした。跨線橋にも小ぶりの手毬がいくつも吊るしてあった。その跨線橋に登ってみてはじめて気づいたのだが、白く美しい山が彼方に見えた。しばらく山並みを眺めていたら、眼下を一両のディーゼルカーが発車していった。

ここ羽後本荘は、矢島線を引き継いだ由利高原鉄道(鳥海山ろく線)の乗換駅でもある。鳥海山ろく線は、羽後本荘駅から矢島駅までの全長23kmを約45分で結ぶ第三セクターによるローカル線だ。この羽後本荘駅から、秋田県と山形県の県境にある名峰鳥海山(2,236m)に向かって田園風景の中をのんびりと走ってゆく。

のんびりと仕事したいなぁ。今年こそは余裕を持って仕事するぞ・・・と毎年のように思うのだが、どうもその夢は叶いそうにもない。北に南に、駆け回るどころか通り飛び回ることになるのだろう。ディーゼルカーはいいなぁ。地に足が着いていて・・・。本気でそんな風に思えるところが、チョットだけ哀しいかなぁ。

(写真は、羽後本荘駅を出てゆく鳥海山ろく線のディーゼルカー) 

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2008年12月31日 (水)

2008年総集編

八幡坂

恒例の・・・という訳でもないのですが、2008年版の総集編を作ってみました。

今年1年の投稿数は19本と、これまでにも増して一段と減ってしまいました。始めた頃に比べると、テンションが下がったんじゃないの?とか、書く内容にちょっと凝りすぎじゃないの?とか、いろいろ理由はあると思うのですが、何しろフットワークが重くなってしまったかなぁという点と、日本全国津々浦々まで行き尽くした・・・といえば、少しオーバーですが、旅が当たり前になりすぎて、「見るもの」「聞くもの」から余り感動が得られなくなっちゃったかな?という感もあります。

そのせいからか、だいたい一月に一作というのが当たり前になった様な気がします。記事の書き始めは、それほど遅いタイミングではないものの、書き上がりはかなり後になってしまうなど、遅れ遅れの更新がやっと・・・という有様でした。それでも、1ヶ月に1本くらいのアップは何とか・・・と粘ってみた。というのが率直な感想というところでしょうか・・・。

本当は、12月にもう1本くらいは投稿しようかなと準備はしていたのですが、何せ12月は師走ということで、とにかく何か気忙しく、落ち着いて原稿を書くという環境ではなかったもので、結局、総集編しかアップできませんでした。

まぁ、今年の反省も踏まえて、来年はもう少し何とかしたいなとは思っていますし、今年以下にペースを落とさない様に、頑張ってみたいとは思っています。ですから、もしも更新を楽しみにしていただいている方がいらっしゃる(?)ならば、気長に見守ってやってください。

それでは、前置きはこのくらいにして、2008年の旅を振り返ってみたいと思います。

それでは4年目の今年も Here We Go !

(1月)

1回目:期間=1月10日・目的地=千葉市

(2月)

2回目:期間=2月6日・目的地=西東京市、豊島区東池袋

3回目:期間=2月11日~12日・目的地=京都市、舞鶴市

4回目:期間=2月15日~17日・目的地=出雲市、松江市、倉敷市

5回目:期間=2月21日~23日・目的地=姫路市、八代市、鳥栖市

(3月)

6回目:期間=3月2日~3日・目的地=広島市

7回目:期間=3月9日~10日・目的地=釧路市

8回目:期間=3月14日・目的地=岩手県花巻市

9回目:期間=3月15日~17日・目的地=釧路市、札幌市

10 回目:期間=3月21日~22日・目的地=那覇市、沖縄県国頭郡本部町など

11回目:期間=3月31日・目的地=岩手県花巻市

(4月)

12回目:期間=4月3日~4日・目的地=盛岡市

13回目:期間=4月25日~26日・目的地=岩手県花巻市、秋田県鹿角市、弘前市など

十和田湖

〔コメント〕青森県と秋田県にまたがる十和田湖。深さなら3本の指に入るといわれる神秘の湖を訪れたのは、2004年の12月以来のことでした。前回は、十和田湖を目指してというよりは、奥入瀬渓流をちょっとだけでも見てみようかという感じで出かけたこともあり、湖畔まで行ったには行ったのですが、殆ど滞在時間はなかったような気がします。冬だったせい(?)か、とても風が強かった。そんな程度の記憶しかありません。それよりもその後に行った雪化粧の八甲田越え。冬季閉鎖ばかりの道路に翻弄されながら、ノーマルタイヤのレンタカーで恐る恐る走破(?)したことの方が記憶に残っています。

今回は、十和田湖はおろか青森県に入ったこともなかったという相方のリクエストに応えて、弘前からの帰り道、少しばかり遠回りをしてみました。4月ではありましたが、北国の春はいささか肌寒く、湖畔のレストハウスで食べた温かい稲庭うどんが超美味でした。写真は、発荷峠展望台から望む十和田湖)

(5月)

14回目:期間=5月2日・目的地=埼玉県飯能市

15回目:期間=5月7日~8日・目的地=広島市

16回目:期間=5月9日・目的地=岩手県花巻市

17回目:期間=5月19日~20日・目的地=埼玉県飯能市、岩手県花巻市

18回目:期間=5月28日~29日・目的地=大分市

(6月)

19回目:期間=6月2日・目的地=岩手県花巻市

20回目:期間=6月11日・目的地=埼玉県飯能市

21回目:期間=6月12日~13日・目的地=室蘭市、函館市

22回目:期間=6月17日・目的地=立川市

23回目:期間=6月19日~21日・目的地=埼玉県富士見市、苫小牧市、滝川市

24回目:期間=6月25日~27日・目的地=苫小牧市、室蘭市、旭川市、函館市など

(7月)

25回目:期間=7月8日~11日・目的地=那覇市、宮古島市、石垣市、八重山郡竹富町など

竹富島3

〔コメント〕7月の初っ端は南国の島巡りでした。沖縄本島からスタートして、宮古島、石垣島というコースは、観光に来たのならいうことはありません。しかし、目的が仕事ですからねぇ・・・。本稿の「美しき蒼き島から」にも書きましたが、移動の飛行機のなかで、スーツ姿は自分と相方だけ。そんな「のんかー」な世界にしばらくどっぷりと浸かりました。

ところで、島同士のアクセスはというと、沖縄本島と割合メジャーな島との行き来なら便はそこそこありますが、離島同士となると1日1便か2便という程度。おかげでというべきか、移動の合間には十分すぎる時間が取れ、これを利用して、宮古島にいるときは伊良部島に、石垣島にいる時には、竹富島に渡ることができました。

さて、石垣島から高速船で10分ほどのところにある竹富島は、木造赤瓦の民家と白砂を敷詰めた道という沖縄の昔ながらの街並みを保っています。島を散策してみると、とてものんびりした雰囲気に浸れます。途中で、集落の中を巡る水牛車に出くわしました。この水牛車は観光用で、ガイドさんと一緒に3~40分かけて集落を回るそうです。乗ってみようかなとも思ったのですが、グラスボートなどで持ち時間を費やしてしまい、また次回に(?)ということにしました。多分、次回は来ないでしょうけど・・・。写真は、竹富島名物水牛車観光)

26回目:期間=7月15日~16日・目的地=鹿児島県奄美市、鹿児島市、霧島市など

27回目:期間=7月17日~20日・目的地=広島市、倉敷市

28回目:期間=7月24日・目的地=立川市

(8月)

29回目:期間=8月5日~6日・目的地=佐賀市、佐賀県杵島郡白石町

30回目:期間=8月8日・目的地=埼玉県飯能市

31回目:期間=8月21日~22日・目的地=佐賀県杵島郡白石町、大分市など

(9月)

32回目:期間=9月3日・目的地=埼玉県飯能市

33回目:期間=9月7日~10日・目的地=福山市、広島県府中市、倉敷市

34回目:期間=9月17日~21日・目的地=熊本市、菊池郡大津町、愛媛県新居浜市、倉敷市

35回目:期間=9月25日~26日・目的地=北九州市、佐賀県杵島郡白石町

(10月)

36回目:期間=10月8日~9日・目的地=北海道日高郡新ひだか町、苫小牧市、

37回目:期間=10月16日~17日・目的地=熊本市、菊池郡大津町

38回目:期間=10月27日~29日・目的地=鹿児島市、水俣市

(11月)

39回目:期間=11月10日~12日・目的地=熊本市、水俣市

40回目:期間=11月19日~21日・目的地=秋田県横手市、札幌市

41回目:期間=11月23日~25日・目的地=倉敷市、長門市

42回目:期間=11月27日・目的地=埼玉県川越市

(12月)

43回目:期間=12月2日~4日・目的地=函館市

44回目:期間=12月7日~9日・目的地=秋田市

45回目:期間=12月10日~12日・目的地=尾道市、福山市

尾道

〔コメント〕文学の街、尾道。生まれ育った故郷からそう遠くないので、仕事以外でも何度かは訪れたことはありましたが、尾道を見下ろす千光山に登ったのは初めてでした。千光山公園から千光寺まで降りるルートの途上に文学の小道があり、有名な林芙美子の放浪記の一節が刻まれた石碑をはじめ、尾道をこよなく愛した文人たち25名の碑が連なっています。

坂の街そして路地の街、尾道。瀬戸内海を見下ろす家並みや坂道がレトロな風情を漂わせ、独特の風情を醸し出しています。家並みの背後には山がせまり、数多くの坂と路地が、特異な空間を演出しています。初めて来たのに懐かしい、尾道はそんな時間の流れる街です。

川のように見えるのが尾道水道。水道といっても川ではなく、こんなに細くてもれっきとした海。瀬戸内海の一部なのです。尾道水道を横ぎって右端に見えるのが向島。彼方に小さく見えるのが新尾道大橋で、瀬戸内しまなみ海道の入り口にあたります。

映画の街尾道。大林宣彦監督の尾道三部作を始め、数多くの映画の舞台となりました。古い街並みが古きよき時代の日本を彷彿とさせるからか、また、それが当たり前のように現存しているからか、街そのものが一つのオープンセットになっている様です。

いろいろな顔を併せ持つ街、尾道。どんな発見があるか、今度は仕事を離れて訪ねてみたい・・・ものです。写真は、千光山から望む尾道の街)

46回目:期間=12月15日~16日・目的地=函館市

47回目:期間=12月18日~19日・目的地=青森県三沢市

48回目(ラスト):期間=12月24日~25日・目的地=函館市

***注)上記リストは出張や帰省などこのブログに取り上げている旅に関するものです。社内旅行など一部のものは除いています。***

2008年の旅の回数は48回と、昨年の47回とほぼ同じくらいでした。2005年や2006年の回数から比べると、回数的には少なくなっていますが、ここ2年の傾向として、同じ場所に何度も出かけることが多くなっています。これは、扱う仕事の対象とか重さが変化しているからではないかと思います。

つまり、2005年から2006年にかけては、ライト級やミドル級の相手と戦うこともそこそこあった様に思いますが、それに比べてここ2年ばかりは、ヘビー級ばかりを相手にしなければならなかったというか、そんな感があります。そんなことから、なかなか仕事の決着がつかず、同じ場所に何度も足を運ぶということが増えました。この傾向は、来年以降も続くのではないかと思っています。

旅に費やした日数は延103日ほどで、旅回数は昨年と大差ないものの、昨年途切れていた旅日数100日超の状態に復帰しました。今年もやはり1年の1/3近くはどこかに旅に出ているという感じでした。飛行機への搭乗回数は、70回と昨年を14回も上回りました。内訳は、ANAが61回、JALが6回、JTA・RAC・JEXが各1回です。

ANAについては、4年連続でプラチナメンバーをキープしてきましたが、2008年度には、プラチナメンバーへの到達基準が変更され、2009年度以降も同様に資格が維持できるかどうか懸念されました。従来の基準は、「搭乗回数(50回)+プラチナポイント(15000ポイント)」というものであったので、基本的に回数基準をハズさなければ、行けるだろうとヨメたのですが、新基準のプレミアムポイント制では、単純に考えれば、できるだけ遠くに、できるだけ高い運賃で買えと言われているようなものです。

しかし、会社の経費を使用して旅している訳ですから、できるだけ安い経費で・・・と求められるのは当然のことです。そんなことから、2009年度のプラチナはちょっと厳しいだろうという結論に達し、旅の多い間くらいラウンジを利用する権利を確保しておくべぇという意図のもと、スーパーフライヤーズカード(以降、SFCと記す)に申し込みをしました。ただ、このカードの年間会費は、ゴールドカードでもないのに、10525円もするうえに、カードのポイントをマイルに移行するのに、6300円もかかる。(交換レート:1ポイント=10マイル)

出費増を覚悟して、新基準対策に取り組んだのですが、それは全くの杞憂に終りました。1年を締めてみると、プラチナポイントは81514ポイントで、プラチナメンバーの到達基準を遥かに越えて、ダイアモンドメンバーも窺えるのでは・・・というところにまでなりました。こんなことなら、わざわざSFCにしなくても・・・という事ではありましたが、SFCはANAカードであるため、ビジネスキップが使えて、それなりのメリットもあり、それに、6300円を払ってマイル移行したことにより、マイルが貯まる貯まる。まぁ、そんな感じで、今年は飛行機にはよく乗りました。だから、羽田空港に向かうと、通勤でもしているようなそんな錯覚さえ覚えました。さて、来年はどんな感じになるのでしょうか・・・。

アメリカ発の金融危機をきっかけに、今年の後半から景気は一気に悪くなりました。来年もしばらくは厳しい環境が続くのではないかと思います。よく言われるように、景気の気は、気分の気です。景気が悪い悪いと悲観ばかりしないで、前向きに歩んで行こうではありませんか。仕事もブログの更新もなかなか思うにまかせないことも多いと思いますが、なんとか来年も粘っていきたいと思いますので、応援よろしくお願いします。それでは、よいお年を。

(写真先頭は、八幡坂から望む冬の函館港)

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2008年11月30日 (日)

さらば夢の超特急

こだま1

はじめて出会ったのは、小学生の時だった。今でこそ「丸い鼻をもつ愛嬌のある姿の・・・」と形容される0系新幹線だが、登場時にはブルーと白のスマートな色使いや、航空機を思わせる流線型のフォルムがとても印象的だった。

最も乗っていたのは、学生の時だったろうか。長い休みの前と後、故郷と東京を結んでくれたのは0系新幹線だった。汽車の旅にはなんとなく駅弁が似合うが、新幹線だからということにして、貧乏学生のくせによく食堂車を使った。その食堂車で、必ずといっていいほど注文したのがビーフカレー。レストラン仕立てのカレーの辛さと、これも欠かさずオーダーしたトマトジュースの何ともいえない酸っぱさが今でも忘れられない。

現在走っているどの新幹線車両に乗っても、膝が窮屈に感じることはないだろう。だが、いくら自分の足が短いとはいえ、その頃の0系新幹線の座席は、窮屈そのものだった。新幹線に乗り始めた頃は、過ぎてゆく景色も珍しく、眠ることなど余りなかったが、そのうち、転寝などをするにつけ、膝頭やら腰やらが痛くなって目覚めるということもしばしばだったように思う。

座席のせいという訳ではないが、大学生活も後半になると、特に冬休みの帰省には、よくグリーン車を利用させてもらった。先程、「貧乏学生のくせに」と言っていたではないかと叱られそうなので、少しばかり補足をしておくと、今でこそ飛行機やら車やらいろいろな交通手段が選べるが、当時、帰省のための交通機関と言えば、やはり鉄道が主流だった。特に、年末年始の時期の切符を予約するのはなかなか大変だった。

普通車の切符が取れないので、やむを得ずグリーン車ででも帰るかぁという感じだった。別にやけっぱちということではない。もちろん当時も、グリーン車など庶民感覚からすると贅沢この上ないものであったが、なにせ自分の父親が国鉄職員だったせいで、「割引証」なるものを使うと、一般料金の3割で切符を購入することができた。このおかげで、グリーン車を使ったとしても、一般の方が普通車の切符を購入するよりも安く済んだのである。こうして、学生時代の冬の帰省は、たとえ自由席に、席のない乗客が溢れていたとしても、そんなことなどお構いなしで悠々としていられた。振り返ってみれば、なんとも贅沢な帰省であったことかと懐かしくも、また、申し訳なくもある。

こだま2

■新倉敷駅にすべり込む0系「こだま」638号。開業当時のボディカラーが懐かしい

昭和39年(1964)10月、東海道新幹線に登場した0系「ひかり」は、途中停車駅を名古屋と京都のみとして、東京-新大阪間を3時間10分で結んだ。この0系「ひかり」が登場するまでは、当時最速といわれた日本初の電車特急151系「こだま」でも6時間50分を要していた。そう思えば、この0系新幹線が「夢の超特急」と呼ばれたのもうなずける。

今でこそ、700系新幹線が時速285㎞/hで走るとか、500系新幹線の最高速度が、300㎞/hなどと普通に言われているが、当時の鉄道技術からすると時速200㎞の壁を超えることは、まさに画期的だった。開業当初(1964年)の営業最高速度は200㎞/h、翌年の路盤の安定を待って210㎞/h運転を開始した0系新幹線は、フランスのTGVが260㎞/hで営業運転を開始する1981年まで、世界最高速を誇った。

0系新幹線が製造されたのは1964年。東海道新幹線開業時には、12両編成30本が用意された。それ以来23年に亘って改良に改良を加え、老朽化した0系を0系で置き換えるという方法を取りながらも、延べ3216両も製造され続けた。これだけ長きに亘って活躍できたのは、当時の技術の粋を集めた堅実な設計あってのものだが、それ以外のネガティブな理由もあるとはいえ、やはり0系新幹線への信頼性の高さを物語るものと言えよう。

こだま3

■山陽路を走る0系「こだま」639号(新倉敷-福山間)

しかし、永く君臨した0系新幹線にも世代交代の時が訪れる。車両の老朽化と換気設備など機能面における陳腐化、そして何よりもコスト面での弱点が露になったことから、新しい車両に転換されることになる。この新車両が、かつて「ニュー新幹線」と呼ばれ、新幹線では初めて2階建て車両を組み込んで運用された100系新幹線である。(1986年10月運用開始)

昭和62年(1987年)に国鉄が民営化され、JR東海に1339両、JR西日本に715両の0系新幹線が移管された。しかし、特に東海道新幹線では、1992年に登場する300系元祖のぞみ型新幹線や、1997年に登場の300㎞/hマシン・500系新幹線、そして、1999年に登場する現在のスタンダード700系新幹線に比べて、足の遅い0系新幹線は高速ダイヤ上のお荷物と化していった。こうした事情から0系新幹線の廃車に拍車がかかるようになり、1999年9月には故郷でもあり主戦場でもあった東海道路から姿を消すことになった。

その後、生き残った新幹線は、活躍の場を山陽路に移す。山陽新幹線の0系は、2×2シートに改造するなど、室内のリニューアルが行われたり、4両・6両などの短編成化が進められた。こうして、山陽新幹線では、1998年から2000年まで、ウエストひかりとして高速運用されていたが、それ以降は、こまめに全駅をつなぐ「こだま」として余生を過ごすことになった。

2008年11月30日は、初代0系新幹線の引退の日となった。電車であり、それも新幹線ではないか・・・と、ずっと思っていたのだが、引退という響きを耳にするとやはり寂しい。お疲れ様0系新幹線。ありがとう夢の超特急。同じ時代を生きた者として、僕たちはきっと忘れない。

(写真先頭は、岡山駅でカメラの放列をうける「こだま」638号)

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